今週のおすすめ本 |
ブック名 | 渋沢家三代 |
著者 | 佐野眞一 |
発行元 | 文芸春秋 | 価格 | 882円 |
チャプタ | プロローグ:「財なき財閥の誇り」 @藍玉の家 Aパリの栄一 B家法の制定 C畏怖と放蕩 D壮年閑居 E巨星墜つ エピローグ:深谷のブッデンブローク家 |
キーワード | 三代、人間の本質、やりたいこと、運命、継承 |
本の帯 | 渋沢家から数多く輩出したのは、実業家や皇室につながる 血統ではなくむしろ、学者や芸術家たちだった。 |
気になるワード ・フレーズ | ・栄一は本来、高崎城乗っとりに象徴されるような破壊主義者ではなく、新しいものの創造に参加 できることを歓ぶ建設主義者だった。 ・栄一は「不倒翁」といわれる。栄一は幕末、明治、大正、昭和と生き抜き、数々の危機に遭遇 しながら常に蹉跌することなく社会活動をつづけてきた。 ・山本七平は渋沢栄一を論じた「近代の創造」のなかで、栄一のこの強靭な精神は、「不易」 と「流行」を二つながら見すえつづけたところから生まれた、と述べている。 ・栄一はそもそも慶喜が大政奉還したことに疑問をもっていた。そして政権を返上したにもかかわらず、 慶喜は鳥羽伏見で戦端を開いた。これは栄一にはどうしても理解できないことだった。「なんとか手 のうちようはなかったのでしょうか」栄一の率直な質問に、慶喜は直接答えず、静かにいった。 「いまさら過ぎ去ったことをとやかく申しても詮方ない。・・・」・・・ 栄一が実に25年という歳月をかけ「徳川慶喜伝」8冊をつくったのは、このときの疑問に自分なりの 解答を与え、慶喜の正確な人間像を世間に知らしめるためだった。 ・栄一の余人に真似できないところは、単に耳学問にとどまるのではなく、それがよいと思ったら すぐに実践してみせるところである。 ・日本で最初の「会社」は、坂本龍馬のつくった「海援隊」だといわれる。しかし、まがりなりにも 出資を一般公募したのは、栄一の「商法会所」が最初である。 ・常に歴史の流れの先端に立ち、身をもってこの国をひっぱっていった栄一の業績には、個人の 能力をこえて、時を得た革命家のみがもつ無限の可能性がひめられていた。 これに対し息子の篤二の目の前にあるのは、あらかじめ栄一によって摘みとられた可能性だけだった。 ・75歳の栄一は羽織袴の正装で19歳の敬三に対座し、頭を畳にすりつけんばかりにして懇請した。 「どうか私のいうこと聞いてくれ、この通りお頼みする」強制するわけではなく、ただただ頭を 下げるだけの栄一をみて、敬三はふいに涙があふれた。経済的には何不自由なく育った敬三にとって、 祖父も父も将来の夢を閉ざす存在でしかなかった。 ・学者の道を志しながら、栄一によって断念を余儀なくされた敬三は、せめてものアイデンティティー を学問発展の限りない援助へ求めた。 ・敬三の決断には、戦時中の行動への自己処罰的ニュアンス以上に、平気で没落できる男の強い 自負が感じられる。 ・「ニコニコしながら没落していけばいい。いざとなったら元の深谷の百姓に戻ればいい」(敬三) |
かってに感想 | 佐野眞一の作品を精力的に書店で買い求めた。その一冊である。 渋沢栄一に続く三代の話。 世の中では、いくら栄えていても、三代で没落するということが言われている。 その典型的な家系である。 また、それは、企業の栄枯盛衰にも似ている。 しかし、渋沢家三代、それぞれの歩み方、生き方は極端に違う。 不倒王渋沢栄一、渋沢家初代が、子孫に残そうとしたもの、継承しようとしたものはなんだったのか。 二代目篤二の放蕩三昧、財なき財閥解体をし、その後民俗学者としてパトロネージュ精神で 多くの人材を支援していた三代目敬三。 本文にはやたらと親戚関係の名称が出てきて、結局だれがどういう関係になるのかは、最後にまとめられた 渋沢家関係略系図「東ノ家」「中ノ家」を見ないとわからない。 ルーツを求め、整理したい人には、その探索の仕方として大いに参考になる本である。 電話帳からの探索や日記帳からの探索、現存する人からの話。 この本の中で、筆者が渋沢家三代の歴史をそれぞれ一言で表せばというところがある。 「家父長制、放蕩、そして学問への没頭」という表現なのだが、さらに、エピローグには同じように、 「栄一は近代的企業の創設に命を燃やした。篤二は廃嫡すら覚悟して放蕩の世界に耽溺した。そして、 敬三は学問発展に尽瘁して、ついに家までつぶした」 このフレーズを読んで、人間の一生なんて、どんなに活躍した人でもこんなものなのかと思い、 さらに、みんな生まれ出でたときから、やることやれることは「遺伝、環境、運命」によって 左右されるという、芥川龍之介の侏儒の言葉にあったフレーズを思い出させるものでもあった。 もう一言いうならば、それなりにみんな悩みを抱えて生きているのだということだろうか。 ただ、凡人からしてみれば、三人三様の偉大さがある。少し書き出してみよう。 初代栄一は、傑出した人物であることに間違いない。 時代の大きなうねりの中で、見事に転身を続けても、自分のやるべきことを見失わない不撓不屈の精神、 多くの事業を起業し、1909年身を引いた時には、東京瓦斯、帝国ホテル、東京海上火災保険等々、59社を数えた。 将軍の座を潔く去った主君徳川慶喜を敬慕し、「徳川慶喜公伝8巻」を編纂した。 さらに、家法・家訓なるものもあったのだから。 二代篤二は、初代と三代の間に完全に埋もれ、歴史上からは抹殺されていたが、筆者がおもてに ひきだしたということになろうか。 放蕩三昧とはいえ、世が世なら、芸能界で活躍できた人材のようである。 義太夫、常盤津、清元、小唄、謡曲、写真、記録映画等々多趣味ぶり、それも玄人はだしというのだから・・・。 三代目は、初代生前まではその言いつけを守ってきたが、戦後に自分がやるべきことは、民俗学と 決めてからのパトロンとしての人材育成は、その残された七千通の書簡と人物−柳田国男、宮本常一、金田一京助、 梅棹忠夫等々−からしてもすごいのだ。 ただ、読みながら、これは小説にすればきっとさらに面白いのだろうと思ってしまった。 終わりに、この作品を書く立場からすれば、見落としてならないのは、栄一の娘、歌子が 残した「穂積歌子日記」ではなかろうか。これがあったからこそ、この作品が生まれたのである。 だからといって、素人が日記を残したとしても後代に文芸作品が生まれるとは限らないことは、言うまでもないことである。 |
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