定年を迎えた人たちは、団地内の行動でそれなりにわかるものらしい。 主な登場人物は、主人公の元銀行員、広告代理店の営業部長だった町内会長、デパートの物産展好きの長年単身生活をしてきた元運輸会社員、このニュータウンの開発仕掛人だった元開発課長である。 そして、このニュータウンにおきる出来事、登場人物自身に起きる出来事・回想、そしてその家族に起きる出来事、極めて日常的な話である。 笑えたり、怒りたくなったり、なんとなくさみしくなったり、思わず自分の家族は、妻はとかと考えながら、大いに共感できるのだ。 運輸会社員は、長年の単身生活からいろいろな地方の言葉で話したり、土産物を仲間におすそ分けしたりする。 その中には、岡山弁、きびだんご、祭り寿司、大手まんじゅう、ままかり等が出てきたので、私は簡単にストーリーの中に溶け込んでしまった。 長年それぞれの企業で中心となって働いてきた人たちは、なかなか地域の輪の中には入り込めないものだ。 このストーリーのようにうまい具合に出会いがあればいいがと思ってしまう。 主人公の娘が妻子ある男性との結婚を妻とはすでに相談していたが、父親として許すまでの話もないとは限らない話だろう。 町内会長がニユータウンの実態調査をマスコミに許して大騒ぎとなる話、大学の社会人講座で居眠りをしてしまう運輸会社員の話、孫とそのともだちの会話で「ぶらぶらしてるの!」に傷つく町内会長の話、団地から北海道へ移転を決意する元開発課長の話。 そして、2年後を描いた「帰ってきた定年ゴジラ」では、無趣味の主人公がパソコンに取り組む話は、自分も経験してきた話だけに特に興味深く読んだ。 プロキシサーバー、アカウント、マウス、ポインター、フリーズ、メールソフト等。フリーズして思わず電源を切ってしまう場面や送信したメールの返信がないので届いていないのだと思ってしまうところには、思わず苦笑してしまった。 やがてはこんな言葉をはくだろうと、定年後の自分を想像してしまった、次のフレーズを紹介してみよう。「三十代や四十代の頃は、老後など遠い彼方の日々だった。二十代に比べれば切実なリアリティーがあったのは確かだが、まだまだ『こんな感じかなあ』という想像の範囲だったのだ。甘かった。なめていた。一日24時間がこんなにながいものだとは知らなかった。この街がこんなにも退屈だとは知らなかった」 |
私が過去読んだものに、男脳と女脳の違いに関するものがある。なるほどと自分なりに納得しながら読ませてもらった。 今回の作品は、55歳という年齢を境にした脳の活用法だから、当然定年を迎える男脳を意識したものである。 セカンドライフというのは、長年企業のために尽くしてき、付き合いゴルフ・マージャン・飲み程度で無趣味を通してきた男たちにとって、なかなか手強いものである。 特にこれから定年を迎える団塊世代は、そろそろ助走期間に入ったといえるのではないだろうか。 どんなことを始めようか、まだまだいいや、俺には関係ない、それぞれ心の中では考えが違うだろうが、この本は大変参考になることは間違いない。 筆者自身73歳にもかかわらず、元気にセカンドライフを楽しみ、この本の中で自分でやっているいろいろな趣味も紹介しているぐらいだから、その公開されているノウハウをいただけばいいのだ。 チャプタのキーワードには、「角回」「未使用脳」「脳内時間」「他人の脳」「頭頂葉」といった脳博士ならではの脳活用法が満載なのである。 小見出しをみただけで、やってみようかと思わせるものも多い。少しだけ紹介してみよう。「人の輪はそのまま勉強の輪になる」「若い人の話は、脳の柔軟剤になる」「男の頭を刺激する井戸端会議」「五十代の特技は、持続させる脳力」「脳の生理が証明する早起きは三文の得」 そして、脳だけのことを考えると180歳まで使用できて、さらに90%の脳は未使用なのだ。だから、年をとっても使える脳はいくらでもある。ちょっと異質な情報を与えると活性化するらしいのである。 一般的には、年をとれば保守的になり、新しいことをしなくなる。ただ、脳のことを考えればどんどん好奇心を持って使えばいくらでも受け入れてくれる、まずは動いてみなさいということなのだ。 |
佐藤愛子先生の作品は、人の沢山いる場所で読むものではない。 なぜなら、思わず笑いが吹き出してしまうのだ。読むにしたがいその面白さに夢中になってしまう。 さらに、書店に出かけるとならず次なる作品を求めてしまうのだ。 この本には、8編の短編小説がおさめられている。男の願望として強くある腹上死・不倫願望を女の側から書いた2作品。 筆者の家庭やその周辺に起きた実話をもとに描いたもの、6編。この中には強盗事件、夫の会社の倒産、芝居への出演、お手伝いさんの話、きつね付きの話。 愛子先生は、漫才で言えばボケではなくまちがいなく突っ込みである。ひたすら突っ込みすぎて、そこまでしなくていいのにいきかがかり上、結局は自分で最後まで面倒をみてしまうという男気があるのだ。 いまどき男の中でも男気のあるものがいない時代、読んでてそこまでしなくてもほっとけばいいのにと思う人が大半であろう。 でも、愛子先生は違うのだ。ひたすら面倒見がいいのだ、断わらないのだ。 特に、面白かったのは、「大黒柱の孤独」である。 これは、愛子先生宅に覆面強盗が入った話が描かれている。甥夫婦の対応、何もとらずに何の目的で来たのかわからない犯人の一目散に逃げた行動も面白いが、何といっても愛子先生の素早い対応である。 自分の背丈以上もある塀を二個所も一気に越えて、近所の奥さんが警察への連絡をもたついている代わりに自分が電話までするという離れ業をやってのけたのだから。 若者顔負けの俊敏な行動と刃物を突き付けられても動じない肝っ玉にだれしも驚いてしまうのだ。抱腹絶倒というのがピッタシだろう。 さらに言うなら、この本の帯にあるように「私は元気に生きつづけるために悲劇を喜劇にしてきた」ではなかろうか。まちがいなく読めば読むほど元気がもらえる本である。 |
日本人はこころの問題を人の目というのを気にして、できるだけ人に隠そうと長年やってきた。 だから、十年前はほとんど表に出ることはなかった。 科学が発達し、核家族化が進み、学校ではいじめの問題や社会では中年の自殺者が増加するに従い、いままでのやり方では解決できない「こころの問題」が急激に出てきたのである。 また、阪神淡路大震災のとき、あらためて人のこころの問題がクローズアップされ、心理療法というものが話題になったのも記憶に新しい。 だれしも組織に属すれば、それなりに人との関係が生じ、その関係がうまくいけば問題ないのだが、しらずしらずのうちにストレスを感じこころがむしばまれ肉体が変調をきたすのが現代社会なのだ。 24時間体制だ、効率化だと遊びのない現代、少し止まって違った面を考えてみてはと筆者は提言する。 悩める現代人にとって、この本には、考えるための多くのヒントがあることは確かである。 一方、仕事中毒で家族に全く眼が向いていない人、病や仕事の挫折感を味わったことのない人たちは、「俺には関係ない」と言う人がいるかもしれない。 逆にそういった人たちこそ読むべき本のような気がする。 ヒントのフレーズはいつものように「気になるフレーズ」で紹介するとして、中年だからというわけではないが、「人生の後半」を強調したユングの話の中で次のような特に気になるところがあった。 「その自分は死ぬわけですから、いままで夢中で生きてきたけれども、自分はいったい何のために生きているのだろう。これからどうなるのだろう。いったいどこへ行くのか、といった問いかけに対して答える仕事が、われわれの人生の後半にあるのではないか、ということです」 そして、「われわれは中年になって、価値の転換が必要であり、いままで自分のもっていた価値と違う見方を取りいれなければならないわけです」 つまり、スピード、効率化、出世することを離れてものを考えてみると、きっといままで見えていなかったものが見えてくると思う。 平和な時代で長寿の時代だから、俺たちにはまだまだ関係ないと思っている人が大半の団塊世代、もう準備段階だと意識すべきではなかろうかと思うのは私だけだろうか。 |
ネームバリューからすればもっと高くていい本の価格なのだが、999円とは実にうれしい。 題名にある「リセット」という言葉は、何か自分でも変われそうという雰囲気があるから不思議だ。 でも書いている内容は、革新的なことなのである。 未来学者アルビントフラーは「第三の波」の著書の中において、農業革命・産業革命の次にくる情報革命について、アメリカではすでに1956年から始まっていると言っていた。 そして、アメリカでは15年前から新しい波に乗り遅れない様に、強いリーダーシップをもった大統領によるIT景気により、この10年間、安定した経済成長を続けたのである。 いまその波が日本に押し寄せている。変革とか革命でなく、古い考えを「リセット」すればいいのだ。そして、新しいものを取り入れていく。 確かに最初は苦しいだろう。古い利権にさばりついている人間たちの抵抗がまだまだ続いているからである。 変われねばと思っているのは、政治世界の政党支持率の低さと無党派層の多さに如実に表れている。 この本で得たもの、その一つは、IT革命にステップがあるということだ。いま、第一ステップがすんだところなのだ。 第二ステップは、従来型のオールドエコノミーの逆襲だそうだ。 そして、第三ステップが、インターネットのブロードバンド化により、「通信と放送の融合」「オールドエコノミーとニューエコノミーの融合」なのだ。 融合といえば、日本人の得意科目のような気もするが、第二ステップで本当に逆襲があるかどうかを注視していたい、興味津々である。 この段階になれば、むら社会とかグループの中でしか生きられなかった日本人の体質は大幅に変わってくるのだろう。個人の資質が大きく影響してくるのである。 そして、、ネットの世界では商品価格の決定が様変わりしてきている。 いままでは大雑把な価格決定だったものが、ネットの世界では店頭でのコストがかからない分だけ、大幅な値下げになっているようだ。それも個人が価格を誘導するようになっているのである。 さらに、産業界では、筆者のいう「個人のスキル」自体がものをいうようになるのだろう。そして、「アナログ革命」が起り、人間には直観力・構想力・ひらめきが求められるというのだが・・・。 終わりに、2001年を「明治維新」のような年にというのが筆者の切なる希望なのだ。そのためには、政治家に任せていても何も始まらない、ひとりひとりの意識改革が肝要のようである。 |
今年、「新しい歴史教科書」つくる会の扶桑社編集による歴史教科書検定が話題になっている。 どういうわけか、検定前に漏れるはずがないのに、その内容が中国・韓国に漏れ、例のごとく大新聞が毎日のように攻撃する記事を載せている。 10年以上前ならそのまま押し切られてしまったのだろうが、今年はどうも違うようだ。 インターネット上には「新しい歴史教科書」をつくる会のHPが、昨年の12月から開設されたが、そのHPも4月に入ってまったくアクセスできなくなった。 そんなことを考えながら、文庫本の中にこの本を見つけ出したのだ。 戦争の敗者として50年以上たっても、いまだに日本が独立国家として確固たる意見が諸外国に対していえない状況は実に寂しい限りである。 ただ、この新しい教科書が検定に出され、修正を受けながらも検定に合格し、少し何かが変わろうとしている。次のステップとして実際市区町村の教育委員会がこの本を採用するかどうかになる。 この話題をいち早くとりあげ、テレビの中で論争を試みたのが、日曜日の朝の竹村健一の番組であった。聞いていて実に面白かった。 この本を読みながら、戦後は左傾化しすぎた日本の思想も、ソ連・東欧の共産主義国家の倒産からやっと今年になって普通の国として意見が言えるようになってきたようだ。 いずれにしてもどちらに傾きすぎてもいいことではないが、いまはごく普通に受け入れられる本のような気がする。 もともと単行本は、あとがきによればさる顧問から「政治や社会、言論界の進歩的風潮に対し、一人の自由主義者が言ひたいだけ言ってみるかたちで、『国を愛して何が悪い』とでも題する憤慨録を出したらベストセラーになるかも知れんよ」で発行されたものらしい。 チャプタの中には教科書問題、時の宰相、ペンクラブの文士の表と裏、文士のユーモア、日本人論とかをそれこそ歯に衣着せぬ本音で語っているのだ。 この本の単行本は13年前に発行されたものだから、その当時は相当にたたかれたらしいのだ。 昭和天皇をお会いしたり、話をしたりして、涙が出てくる部分は人それぞれとして、日本人論として読めばとても面白いものである。 |
村上龍の作品は初めてである。 この作品は、30のエッセイで構成され、チャプタごとのテーマからして、こんな捉え方から何を言おうとしているのか私にはつかめない。 もともとメル友から村上龍が編集長を務めるジャパンメールメディア(JMM)というメールマガジンを紹介されたことから一度何か読んでみたいと思っていた。 そのメールマガジンを毎週読みながら、いつも思っていることは、なかなか自分の考えをみせないように見えてしまうことだ。 まずは、現代の次から次へと起こる社会的な現象や世相や風俗について、それを右から左からともんでいき、核心のあるところへたどり着くまで少し時間がかかる。 この核心が、我々が考えていることとは違うのである。 たとえばこれからは競争社会と言われ、意識の変革をしなければと言われているが、じゃどのように意識を変えればいいのかは何もないし、だれも言わない。 また「自分の娘が援助交際をしているがわかったらどうすればいいか」、それを判定するマニュアルはあっても、どう対応すればいいのかのマニュアルはない。 筆者が発する質問に対して、その質問から求められている解答を推測することは、私は困難だ。 ただ筆者は、質問の返答をするどく分析し、解答の到達レベルから現代人のモノサシをあててしまうのだ。 ではどうすればいいのかは、筆者もその解答を用意しているわけでもないし、それを求めるマスメディアの滑稽さを指摘している。 日本人のここがおかしいと思うのは、全体の問題・国家的な問題として考えると曖昧な抽象的な答えになってしまう、なぜ自分の問題として考えないのかということらしい。 親子の問題・教育の問題・男性のライフスタイル等々いろいろ発生している問題、それぞれみな核心の認識が違うのだ。 筆者には独特の言い回しがある。・・・わけではない。・・・わけではない。と言いながら、物事の本質に迫っていくのだ。 その行き着く先には、現代人たちが間違った方向で物事に対処する姿が浮き彫りにされる。 |
竹村健一が、番組で紹介していた本である。 21世紀にはいり教科書問題が、いまだにくすぶる中、日本人が日本の歴史に少し関心を持ち始めている。 私自身は戦後生れで、小学校時代の思い出としていまだに覚えているのが、日の丸を手にかかげて振っていた自分である。 それは天皇の行幸だったのだ。 私が、この本を読みたい最大の理由は、戦後50周年時に、社会党党首村山首相が誕生し、にわかに天皇の戦争責任が持ち上がったことがあった。 それから、5年は過ぎただろう。でもなぜかずっと気になっていた。 それは昭和天皇の戦争責任である。というより、この戦前戦後の一番むつかしい時代、昭和天皇がどんな発言をなされいたのかを知りたかったのだ。 内容を読みながら、この人こそ国民の立場に立った真の政治家であると確信できた。 戦前の陸軍の暴走を止めるため、一早い平和条約締結に心を砕き、その「無私」の心にマッカーサーが心酔し、戦後は強行軍の行幸で力強い復興に国民を奮い立たせた人なのだ。 それは、初めてマッカーサーを訪れた時のお言葉とポツダム宣言受諾時のお言葉にある。 「こんなことで本土決戦になったらどうなるだろう。・・・日本民族はみんな死んでしまうことになるかもしれない。そうなれば、この日本という国を子孫に伝えることができるのか。私の務めは祖先から受けついだ、この国を子孫に伝えることである。・・・自分のことはどうなってもかまわない。堪えがたきこと忍びがたきことであるが、戦争をやめる決心をしたしだいである」 「それでよいではないかたとえ連合軍が天皇が治めることを認めてきても、国民の心が離れたのではしょうがない。国民の自由意思によって決めてもらって、少しもかまわない」 「私は、国民が戦争をなしとげるにあたって、政治軍事両面でおこなったすべての決定と行動に対する、全責任をおう者として、私自身をあなたの代表する諸国のさばきにゆだねるためにおたずねした」 昭和天皇は、戦前の戦争ばかりの時代、そして第二次大戦の敗戦処理、力強い戦後復興時代と高度成長時代、過去のどの天皇よりも天皇の地位とともにめまぐるしく変わる激動の時代を生きてこられたのではなかろうか。 歴史は人を生み、人は歴史を作るのだ。 |
50歳を過ぎて思うことは、おやじやじいさんはこの世代になったときにどんなことを考えていただろうかということだ。 生きた時代が違うから、当然世の中の状況も違う。戦争時代と平和な時代では死に対する考え方も全く違ったのだろう。 その年が自分にもやってきたということだ。死に対してもっとも意識のうすい世代ではなかろうか。 生への執着心が、死に方とか死んだ後のことにまで心配をしないといけない部分におっくうさを感じてしまう。 戦争時代であれば死が隣り合わせだったから、いつ死んでもいいという心の準備・死に支度がごく普通にできていたのだろうが。 本の題名にあるように「遺言状を書いてみる」とあるように、軽い気持ちで試作品をということなのだ。 当然筆者は弁護士だから、遺言状としての要件等法律的なアドバイスもするが、序章にあるように「僕が遺言状を書いたのは・・・書き終わったときにムチャクチャ爽快な気分となった。 肚がスワッたというんだろうか。不安がふっと軽くなり、なんだか勇気がわいてきたんである」これである。 この本がいいのは、筆者の友人に試作品を投稿してもらい、その遺言状を解説してくれているところである。 たいていの人は、書くほどの財産はない、自分が死んだら関係ないというところだろうが。もちろん私もその部類である。 「キムラ式遺言状」(自分史、我が家の歴史、私はこのような人物、自分史年表、自分の死、相続、メッセージ)にあるように自分の一生を整理してみるのが大切なことのように思える。 そして、私の場合、お世話になった妻に感謝の気持ちを表し、子供たちにメッセージを送ることだ。 ではその(書く)気にさせるには終章にあるように、「自ら締め切りをつくる」ということらしい。 早速は、私の締め切り日は55歳の誕生日とし、「自筆証書遺言」を書いてみることとした。 なんかそう書いただけで、気持ちが半分楽になったような気がする?実に単純な自分がいた。 |
いままで買った本の中で価格が一番安くて、分が薄い文庫本である。 筆者自身が父の死や友人の死、霊魂との出会いなどの体験を通して人の死に対する考え方をまとめた実に内容の濃いものである。 最近読んだ老年を生きる筆者のユーモアたっぷりの作品からはとても想像できない。 まずは、父の死から死の受容を学んだが、「私はまだ若く、死は遠方にあった」死を身近に意識するまでには至っていないのだ。 次のチャプタでは、昭和50年に北海道に家を建て住むようになってからの話になるのだが、霊体験など無縁の私を含めた読者には「ラップ音」「天井の足音」などの話しには考えが及ばない。 読み進めるに従い、取材先の宿泊ホテルでの霊体験の内容は身体の変調をきたしたり、次から次へと起こる不思議な現象、内容はさらに濃くなってくる。 この不思議な体験を解決するため「霊能者、美輪明宏」氏に電話で相談、その時に出てくるのは「先祖霊」「前世」の話しになってくるのだが、読みながら筆者の先祖のことを知らない美輪氏になぜ見えてくるのか。 筆者の家には、たまたま先祖にどんな人物がいていつ死んだかなどの情報がある、それらをすべて当てるのだから、それも電話を通じてである。 聞き入るというより、読み込んで、入りこんで、ただただ不思議だと思う。さらに、前世はアイヌの女酋長の生まれ変わりだとなるともう仏教で言うところの因縁を感じざるを得ないのだ。それは霊魂は不滅であり、死後の世界・意識の世界はあると考えれば、不思議さは解決できるのだが、私には体験できない以上、ある域を超えてということにはならないのだ。 人間のすべてがまだ分かっていない、死後の世界もだれもわかっていない以上、ただだれしもそれなりにあるのだが、鈍感なために気づいていないのかもしれないが、私にはない霊感の強いひとには死後の世界との何らかの交信はあるのだと思っている。 筆者はこういった体験を通じて、自分の死生観を形成していっているが、家族の死から自分自身の死を考える機会しかない、霊体験を経験できない人間たちは、どうやって死を受容し、死生観を形成すればいいのか。 いま私は、老いとか死とか仏教に関する多くの本を読んだりしているが、まだまだ死を隣に座らせるだけの覚悟ができていないのだ。 もうひとつの不思議は、第三チャプタ「佐藤家の過激な血脈」のフレーズであり、なぜかというと、それは最近筆者が出した本の題名が「血脈」なのだ。これも因縁か・・・。 |