• 林望作:リンボウ先生の遠めがね
不思議だが、暑いからとか、なんだかんだと理由をつけて本屋に行かなくなると、本を読む、活字を見るのがおっくうになる。
つい気楽なテレビを見てしまうのである。当然読まないから、感想も書けない。
そんな時、どのページから読んでも、読み飛ばしてもいいエッセーはいい。

この筆者の作品は、二冊目である。
大きくチャプタは「彼方を望む」「四方を眺める」の二編で、「彼方を望む」では、イギリスでのトラブル対策等の話や沖縄・八戸・台湾・香港の食べ歩きの話である。
「四方を眺める」では、哀しい夏を想い、沖縄の唄に涙し、消えていく古き屋敷をしのび、生家跡を訪ねてみる。

そして、筆者の建物に関するノウハウを活用した機能的な家の建て方、下戸から見た酒飲みのつまらなさ、骨董市の楽しみ、ミスターチルドレンがなぜ若者に受けるのかを分析する。
さらに、自らの喘息の防御策、寿司食い、薪能の話である。

やはり旅先での食べ歩きは、食通のなせるわざか。
こんなやり方で食べ歩きをすれば面白いのだと、ノウハウがところどころにおさめられている。
それは、街道筋はつまらない、裏道に入る・・・。
酒飲みの話は、自分が楽しむために飲むのはいいが、飲めないものに飲め飲めと進めるのはいかがなものか、さらに路上でへどをはいたり、人にからんだりといった酔いたんぼはいただけないというものだ。酒飲みにとってはかにり耳が痛いものである。
ただ、前半のエッセーは旅先でのことばかりだか、意外や筆者は、「あとがきに代えて」にあるように「よく誤解されて困るのだが、私は元来ひどく『ものぐさ』で旅などは決して好きではない。
行かずに済むなら正直言うと行きたくない」というから面白い。

「書誌学」−日本全国津々浦々を経巡りつつ、各地に所蔵されている古い文献を、実地に調査する−という学問のため、そういった仕事のために各地を歩いたと言うことらしいのだ。



  • 遠藤周作作:沈黙


面白いエッセイをいくつでも書く「狐狸庵先生」とはまったく違う。
芥川賞を受賞した遠藤周作その人なのだ。
人間の本性を氷のごとく冷静な目で見つめ続ける。
江戸時代、島原の乱が治まったころ(1638年)、はるかポルトガルからパードレ(司祭)三人がキリシタン弾圧の続く日本に渡ろうとするところから始まる。
すでに日本では布教活動を続ける司祭はことごとく捕まり、強制的に帰国させされたり、拷問により棄教させられていた。
日本に渡ろうとした三人の司祭は、日本で長年布教活動に貢献のあったフェレイラ司祭がなぜ棄教したのか、あるいはいまだ生きているのか、それを確かめるため、命を省みず渡日する。
物語は、マカオからキリシタンであることをひたすら隠す「キチジロー」を案内役に島原に上陸をこころみるのだ。
そして、上陸に成功しその後、こころの弱者である「キチジロー」というより、信仰に命まで捨て切れない人間と、こころ強き主人公ロドリゴ司祭とのこころの動きとかっとうを最後まで描き続けるのだ。
強き心、強き信仰心、司祭であることの自尊心、おのれの前で次々と処刑される信者を助けられない自分、殉教する司祭仲間の死。
そういったシーンを何度も見せられながら、神に救いを求めるが、何も言わず、沈黙を続ける神に強きこころもたえず揺れるのだ。
最強のキリシタン弾圧者、井上筑後守との出会いは、そのあまりにもゆとりのある態度にこころはさらに揺れる。
さらに、棄教したフェレイラ司祭との再開と司祭から耐えられぬ拷問と棄教をすすめられるのだ。
そして、迫りくる自分への拷問、絶えず聞こえる囚われし信者の苦悶の声、どのシーンにも登場し、いつも告悔(コンヒサン)・許しを請う「キチジロー」にユダのような裏切るを感じる主人公。
やがて、銅板のキリストからの声が聞こえる「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かったため十字架を背負ったのだ」
ついに主人公は転んだ。
転んだ司祭は日本での隔離された生活でこんなことをつぶやく「迫害と拷問の嵐が吹きすさばぬ場所でぬくぬくと布教しているマカオの上司にはわからぬ」と。
ひとのこころを二区分して、簡単に強い弱いで割り切れぬ揺れるこころの動きを見事に描いていると思う。
信仰するこころはここを超越して初めて得られるのだ。私のような中途半端な人間にはとても耐えられないようである。
簡単に神頼みをしたり、ただ単に仏さまに手を合わせるだけしかしない私、多くの日本人には殉教の精神を理解することはむつかしい。
だが、かつて神の国と言われた日本、この国で言う「神への信仰」とはいったいなんだろうかと考えさせられてしまう。


  • 吉村昭作:アメリカ彦蔵


私の大好きな長編歴史小説である。
吉村昭の作品は、歴史上ほとんど表に登場しない人物の過去を追い、年表テーブルを設定して、小説の始まりを決定するのだ。
この作品は、1850年主人公の彦太郎13歳(後あらため彦蔵)が、母の死を経て炊(かしき)として「永力丸」に乗船するところから始まる。
この小説を読んで、ひとことゆうならば「波瀾万丈の人生」であり、「人間悪いことばかり続くこともないし、といっていいことばかりも続かない」この二つである。

漂流体験をした主人公の人生は大きく変わった、だがこの作品を読むかぎり、この人は国と国と緩衝材としての役割、漂流民たちを救うために用意された人生であったような気がする。
それは読み手の私が思うだけで、この人生を送った彦蔵がどう思っていたのかは定かではないが、筆者がその心境を内なる言葉としてところどころにちりばめているようだ。
13歳という若さとなんでも受け入れる柔軟で明晰な頭脳を持っていたからこそ、次々と起こる変化や激動する時代にも関わらず生きてこられたのだろうと思わざるを得ない。

若き時代の反動から40歳で結婚してからの主人公が61歳で死ぬまでの20年間は小説のネタに乏しいものだったのか、最後のチャプタで一気に書きあげられている。
人はだれしも大なり小なりの変化を経験する、場合によってはその波に押しつぶされるものもいるかもしれないが、人それぞれそれなりに均等にあるものだ。
ただ、小説やドラマになるほどの人生はなかなかないだろうことも推測されるようである。

その他、この小説を読んで感じたことを書くならば、戦争のような切羽つまったときの時代には人は心の余裕をなくすこと。
アメリカ人は恵まれない境遇の人への援助は惜しまないこと、この時代から日本人は情報は「ただ」だと思っていたフシがある。
珍しい体験を多くしている三代のアメリカ大統領とのご対面、日本で初めての新聞紙の発行、文明の利器−電話・蒸気船・蒸気車−との驚きの出会い、アメリカ国籍の取得などがあること。
アメリカ人は定職に就くというより、常に向上心を持って新しい仕事にチャレンジすることが当たり前であるということ。
世が世なら主人公は外交官として八面六臂の活躍をしていたのではなかろうか、いまの日本外務省に欲しい逸材である。

たくさん筆者の作品を読んでいるが、今回の作品で特にすごいなと思うのは、主人公に起こった歴史上のでぎごとをどのようにつなげたかということだった。
それは、いままで読んだ作品と違い、多くの日本の船名だけでなく外国船名や都市名、香港、澳門、上海、サンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントン、ボルチモア、ハワイの数々地名との多くの漂流者の名も出てくることだ。
そして、漂流者がどうやって救助されて、どうやって日本国まで帰ったか、さらに一生はどうだったかなのだ。
「あとがき」その苦労話の一面を覗くことができる。



  • 関川夏央作:中年シングル生活


なぜこの本を買ったのだろうか、「中年シングル」私は「中年単身赴任」。
何か楽しく面白く生活できるヒントがないか、そんな気持で買ったような気がする。
文庫の裏には「不幸でもなく幸せでもなく、同時につまらなくなくもない中年的シングル生活の実情を、 自信と痩せがまん半々に記した、これはユーモア読物なのである」とある。
でも読み進めながら、最後まで中途半端で気分が重い、ユーモアというが、何か笑うに笑えない。
終わりに、文庫本化にあたって、阿川佐和子さんとの対談もあるが、どうも盛り上がらないというか、佐和子さんが「知的なピリッとしたユーモア」 というが、そのようなことも感じないまま読み終ってしまったようだ。

買ったときの期待していたことからは、遠く離れてしまっていた。
「人生は重荷を背負って生きるがごとし」とそんな感じになってしまった。
私の場合、ネアカなのか、単純なのか、なんとかなるというか、 筆者のように考え込まずに生きてしまったから、引き続き生きていくだろうから、 ホントに軽い人生だから、余計に重苦しく感じられたのだろうか。
61編のエッセイ(筆者はノンフィクションでもないエッセイでもない、短い小説、物語のない小説) のすべてにシングルのぼやきというか、辛さというか、面白きことはないというか、そんなフレーズがかならずある。
一葉、鴎外、漱石、向田邦子等過去の作家の作品の引用個所も、人生の辛さばかりだからかもしれない。

もう少し言うならば、そういったフレーズを評論するという立場で、短文エッセイが構成されているから、筆者のほんとの考えが見えてこない から余計に感じるようである。

山田風太郎のようなはっきりした「半身棺桶」等のブラックユーモア作品でもなく、海老坂武著「新シングルライフ」のような「老い」「孤独」を楽しく生きたいような作品でもない。
人生はいつも霧がかかって見通しが悪く、ぼやっとして面白くない。
さらに言うならば、結婚していた男が妻を亡くした後の心境というか暮らしぶりを表現しているように思える。
それは、「南洲残影」の作者江藤淳が奥さんを亡くしてから、その後を追うように自殺していった心境によく似ている。
ああ人生ってほんとうに辛いのだ。おわり。



  • 神一行作:「楽しみ」なこと


世の中ここ十年景気低迷、おまけにリストラで完全失業率5%。40代・50代の再就職率は、特に厳しい状況にある。
人気先行の小泉首相は、構造改革だ、がまんしてくれ、耐えてくれと連呼している。
こういった中で、生活を楽しく送るにはと質問を発したら、どんな回答が返ってくるだろうか。
清貧・清廉なんて吹っ飛んでとにかく「仕事が欲しい」「金が欲しい」だろうか。
金の魅力と物欲に取り付かれた先進国の現代人にとって、こころの豊かさを持つなんてのはどだい無理な話なのではなかろうか。
でも、それなりに社会欲・出世欲・金欲・物欲に満足した人たちは、何か物足りなさを感じているのも事実である。
たった600円で、250ページの文庫本にほんの数時間の時間をさけば、「たのしみ」が見つかるのだ。

この本で取り上げられているのは、江戸時代の歌人橘曙覧の清貧生活の中での「たのしみ」のみつけ方なのだ。
そして、その生き方に魅了された筆者は、自身の生活まで一変させてしまっている。

読み進めるに従い、やがて橘曙覧の生き方が筆者自身のものになってしまっていることに読み手は気づくだろう。
過去、私は、筆者の別名、岬龍一郎で発刊されている「お金持ちより時間持ち」の作品を読んだが、筆者は、橘曙覧と良寛の生き方を紹介し、その中でも一度しかない人生で大切なものは何か、を問うている。
読み手は、まず入り口で「独楽吟」という短歌集を目にすることになる。
日常生活をあるがままに詠む、それもすべて「たのしみ」として詠むのだ。

日頃から際限のない欲望を求めて、なんだかんだ不平不満言っている輩には、それがどうしたということになるかもしれない。
日常ただ当たり前のごとく、なんの感動もなく過ごしている人間にとっては、見過ごしてしまうほんのちょっとしたネタばかりなのである。
こんなところにもあんなところにもあるんだ「たのしみ」は、ず〜っと刺激されっぱなしの本だった。
何か変だ。この感想を書きながら、たのしくてしかたがない。そんな気分にさせてくれる本だった。
おわりに<<独楽吟>>の中で自分の「たのしみ」と一致する短歌を三つあげてみました。
『たのしみは 百日ひねれど 成らぬ歌の ふとおもしろく 出できぬる時』
『たのしみは 意(こころ)にかなふ 山水の あたりしづかに 見てありくとき』
『たのしみは そぞろ読みゆく 書の中に 我とひとしき 人をみし時』




  • 日野啓三作:断崖の年


NHKの夜の教育番組に「にんげんゆうゆう」というのがある。
がんと闘い、生き抜いている著名人にインタビューをする番組である。
その時の心境というか、心の動き、がんと知らされたとき、手術前、手術後、再発と・・・。聞いていくのである。
その番組に登場した作家の本である。長く作品を描いていないため、どの本屋にいってもみつからなかった。
やっと見つかり、筆者の作品、二冊の文庫本を求めたその一冊である。

ストーリーは、筆者が気になっていた胆石のことを思い出し、診療所で健康診断を受け、 それ以外の腎臓が肥大し大きな影があるというところから始まる。
こころあたりの手術の前の心境を描いている部分は、それなりに文字を追えば理解できる。
次に死に対する準備期間の落ち着かないこころの動きである。これもだれしもありそうなことなのでそれなりに理解できる。
そして、次のステップが難解なのである。 麻酔のかかった意識のない状態から醒めるまでの間の、意識があるようなないような ある別の世界に入り込み、意識のない世界をできるだけリアルに表現しようとする筆者。
入り込めば入り込むほど娑婆の世界しか知らぬ私にとっては、実に難しく意味不明なフレーズになってしまう。

理解しよう理解しようとすればするほど逃げていく、でも筆者はその世界を「自由にリアル」にとらえたいのだ。
とてもわたくしの知識と理解力では手が届かなかった。
いずれも筆者自身の魂から出てくる感性の言葉・フレーズなのだ。
というより、こころの動きは「死の世界」は自分には遠いのだと思い込ませ、逃げているようにも見える。
5つのチャプタの中で、無意識の世界でみたゴーストも含め、現実の世界で似たものをみたりするのだが、やはり違うことを知るのだ。
無意識の世界でとらえたもの、断崖のむこうにあるものを現実の世界で探す筆者の旅のようである。

実に思い・想い・重いたび・・・。
手術前の奥多摩渓谷のたびで過去の人間の死の迎え方を思い、自然の中の不易流行に無常を感じその中に融け込む自分、 この旅先で見つけた教会に親しみを感じて恐怖と不安だらけの自分を牧師にさらけ出そうとするのだ。実際そうしたのかどうかはわからない・・・。
次は手術後の自分を見つめていた、見えていたゴーストは何かをリアルにとらえようとこころみるのだ。
そして、テレビのルポルタージュ番組で紹介された断崖に残された「掌の群の形」に意識の深層の光景を見るのだ。

最終章では、講演のために搭乗した飛行機の上から雲の裂け目とその裂け目から出てくる光の色に、それを垣間見るのだ。
残念ながら、私の理解力ではどうにもならなかった。
そして、視界の中に東京タワーを筆者が見出したとき、読者・私も現実にもどれたのだとやっと理解できたのだ。

死後の世界はだれもわからない。では肉体がなくなったとき、 人間はどうなるのか・・・。それもだれもわからない。想像の域を出ないのである。
麻酔状態や睡眠薬を服用したときの状態、無意識の世界・ちゅうぶらりんを意識する世界。
生と死のはざ間には断崖があるという、断崖をこえて、こころのうごきをとらえることはどうにもならないようである。
おわりに、筆者のように私も死に対する恐怖や不安を感じた時、癒してくれるのは自然であり、 植物を手に触れて感じることであるという、その気持はまさに同感であると。




  • 日野啓三作:遥かなるものの呼ぶ声


前週に続いて、日野啓三の文庫本である。
探し求めていた本の隣に同じ筆者のものが有り、同時に購入したものである。
つながりのない紀行文、いけどもいけども人家の全くない荒涼としたオーストラリア中南部にあるエアーズ・ロック、 1世紀頃からキリスト教信者が洞窟生活をしていたというカッパドキア岩窟群、 ただ砂、砂の大地、中国北西部ウィグル自治区にあるタクラマカン砂漠、 かつての中国支配者・毛沢東が文化大革命の戦略を練るために利用したという中国杭州にある西湖・湖心亭、 そうかと思えばカラスも飛び交う・人の生死を扱う慶応義塾大学病院、 秋田県にある自然石で作られたストーンサークル、そして火星探査機バイキングや太陽系惑星探査機ボイジャーから送られてくる火星や宇宙の画像。
まあいずれの場所もわたくしには無縁でもちろん訪れたことなどある訳がない。

筆者は、懐の深い自然の中で、おのれの意識、いまある現実の自分を感じながら、宇宙意識を感じようとしているようだ。
それらは、捉えることのできない幻想の世界なのだ。
ときには古代人になり、あるいはキリスト教信者になり、さらには原住民になり、はたまた権力者になり、 わが身を思い病の人となり、そしてはるか宇宙に気持を馳せる宇宙飛行士となって、タイムカプセル化させた遺跡・建造物内の古き時代に意識を同化させようとするのだ。
訪ねる場所に行くまで、いろいろなアクシデントが起こる、しかしそんなことは目的地に着くときれいに忘れている。

目的地に着くと筆者は遠き昔に意識を馳せ、宇宙と自然の中に、生きてそして死んだ人間たちの気持を 計るため、自身の意識をフル出動させるのだ。
いずこも「不安を鎮めるための新しい精神的な試みが、 何よりも自分たち自身の生存のために行われる」ということを知るのである。
前作と同じでかなり意識レベルが高く、残念ながら程度の低い私の頭脳では何を表現しようとしているのか。十分には理解できないのだ。
筆者は自然や生死の繰り返されて場所から精神的な世界に入り込み、何かをつかもうとするが、結局は幻想なのだということを知るのだが・・・。

ただ思うに、己の心の不安を癒すには、いつの時代でも自然に身をおくことがよかったようである。
宇宙や自然の中に一人の人間が身をおいた時、おのれの生死など実に取るに足らないことだが、過去の多くの人間たちは、生死以外の何かを残そうとしてきたのだ。
だからこそ、自然は、効率化とかスピードにストレスを感じ、人間同志のコミュニケーションに躓いている現代人にとって、 唯一自分が取り戻せるところのように思うがどうだろうか。




  • 三好春樹作:男と女の老い方講座


ひさしぶりの単行本。
最近読む本のキーワードに「老い」がある。まさにそれをテーマにした本なのだ。
帯に「男たち、読むべし」に引かれ、私たち団塊世代が、仕事優先主義で生きてきて、いままさにその老いの域に入ろうとしている、その男たちに「男たちは老いへの適応がへたである」という。
それはホームページを開設している私自身のテーマにある、「セカンドライフへの軟着陸」がへたな男に対して支援ができないかという考えからも、まさしく同じ考えなのだと読んでみたくなったのだ。
この本自体は、長年企業戦士として活躍し、地位も名誉も獲得した人たちにとっては、まず目に留まらないような気がする。

企業戦士として疲れ、あるいは50代として組織の中でこれから活躍を考えていた人たちが、病に倒れたり、あるいは仕事と家族とのはざ間に立って、 たちどまり、家族とは、仕事とは、自分の組織での役割にふと疑問を持ちはじめた時、親の介護をせざるを得ない立場になった時、読んでみると、 迷っていた、ホンネの服に沢山のタテマエの服を着ていた自分に気づかせてくれるのではなかろうか。

元気でいきいきと働き、会社に、組織に尽くしていた自分、そこに見つけていた価値観とは、まったく違うものへの転換が、「老い」を迎える男たちに必要であるとせつせつと説いているのである。
それも、筆者が、長年老人介護に携わってきた(26年以上)、現場からの生々しい報告なのだ。
積み重ねの体験からきている、だから説得力がある。

いま筆者の言う「老い」に入ろうとしている私自身が、同世代の男たちで一番気になることは、 老いを避けよう避けようとしているように見えて仕方がない、それもほとんどの男の中にそれが見えるのである。
老い方は百人百様だが、だれしもくる。
筆者は、くり返し「老いに適応できない男」たちに向って、声高に女をみよ、女を見習えと言っている。
そして、老いに適応しやすい条件として、三つあげている。
@金、地位、名誉に縁がないこと、A進歩主義を信奉していないこと、B「自立した個人」にこだわらないこと、 いずれも企業社会で活躍してきた男たちにとっては耳の痛いことばかり。思わず眼をふさぎたくなるのではなかろうか。

この中で一番以外に思ったのは、Bである。自立しろとか、自立せよと、最近は特に女性にうるさい。
団塊世代の男たちは、放任主義で子供と接してきた。会社という組織の中でも転勤転勤で、 人間関係を希薄にし、家庭においても親子関係を希薄にしてきたのである。
その一方で、男親が言うことは、経済的に自立せよというのである。
残念ながら、この団塊世代の子供たちがフリーターになっているのが現実なのだ。

老いを生きるには、自立し希薄となった人間関係をもとにもどし、お互いに依存し合って、排他主義と孤立から脱出することなのだ。
そういう事からいえば、2年単位で職場を変わっていた私が、希薄になった人間関係を取り戻すため、 10年前から転勤後も密に付き合いたい仲間たちとは、引き続きネットを張ってやってきたことは、「老い」を生きるうえではまんざら悪いことではなかったようだ。
よく考えてみれば、人間は一人では生きられないし、常にだれかに依存して生きているのである。

おわりに、今年母を見送り、地域での役割を担い、第二の会社に入り、そして三年後に定年をひかえた私、意味深な言葉、「自然と老いと女に勝とうなんて思ってはいけない」をいままさにしみじみと噛み締めているのである。


  • 石原慎太郎作:亡国の徒に問う


5年前に発刊された単行本の文庫本化。
実際の論考は、それ以前に「正論」「諸君」等に発表されたものである。
したがって、日本の世相とか、国際情勢とかは古くなっているが、独特の小気味よさに変わりはない。

筆者は、自民党の国会議員として、不燃焼のまま国会議員を引退後、東京都知事として政治の場にもどり、 東京から日本を変えるべく多くの改革と情報発信をしている。
この本ももちろん政治の話がほとんどであるが、少しだけ内容を異にした 「この不可知なるもの」「現代の性愛」では、人間の不思議な力への畏敬の念と性の自由化への警告を 論じ、政治論から一休みというところである。

いずれにしても、平和ボケし、アメリカナイズされ、自己主張とか国家観が薄く、 政治にも関心が薄い日本人にとっては、いずれの論考もかなり過激に聞こえてくるのではなかろうか。
一方で、国内政策とか外交政策にいつもはがゆさを感じている行動的人間にとっては 後押しをしたくなるようなところが沢山有るのではなかろうか。
いわゆる言いにくい相手に躊躇なく、それもはっきりと物申すところに、 選挙の際にかならず彼に投票するシンパは多いと思う。

もちろんそこまで言わなくてもという過激な部分は、逆に敵も多くいることには間違いない。
私がこの筆者の好きなところは、単なる評論ではなく、いずれの論考も論ずる相手を明確にし、正々堂々と 異論があればいつでもお受けするという、デベイト形式で受けて立とうというものだ。 議論好きにはたまらない一冊である。
議論の相手はアメリカ等の諸外国であり、日本の政治家であり、官僚であり、メディアであり、そして国民なのだ。

つまらなかった首相の権化として登場するのは、宮沢・細川であり、どうも尊敬する人は中曽根元首相のようである。
現代の政治を論じ、その政治をつまらなくしている政治家に議論をふっかけるが、その政治家のレベルが低いのか、 かみ合うところはなかったようだ。
筆者の政治的な命題は、外交、環境、教育であり、それを論ずる主なキーワードは、国家意識、歴史認識、下意識等のようである。 そして、日本の政治に決定的に欠けているものは、国家の第一義としての国民の生命と財産を守る意識も意思表示もないことである。




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