• 玄侑宗久作:中陰の花
芥川賞だ何々賞をもらうとやたら本が出る。
それはいままで賞に無縁の人だと、単行本化されていない過去の作品が発刊されるのだ。
そのてのものは、私はあまり好きではないから、ほとんど買求めたことがなかった。
ただ、この本を買ったのは、僧侶が死後の世界、「おがみや」に見えるあちらの世界について、 描こうとしているところと、長年寝たきりだった母が最近死を迎え、あちらの世界へ行ったこと、 そして、「おがみや」や禅僧自身が死後の世界をどのように解き明かしていくのか少し興味が あったからだ。

題名の「中陰」がわからず、辞書をひき「中有」(ちゅうう)と同じと知り、母の49日法要で の僧侶の説教を思い出していた。
「魂があちらとこちらの世界の間にいる状態をいいます」と。
さらにくわしく、インターネットで検索してみた。− 人は生前の業(ごう)によって、 次の生へと輪廻すると言う考え、これを輪廻転生(りんねてんしょう)といいますが、 人が死を向かえ又次の生として新しく生まれ変わるまでの間を中陰とする、これが中有の思想です。 今私達が生をえている世界、 これを本有といい、次の本有までの間ですから、この間が中有(中陰)となるわけです。− ということらしい。もっとも私には「輪廻転生」もわからないのである。

ストーリーは、「おがみや」ウメさんが、死の予言をし一度は生還、二度目の死の予言で そのとおりに死を迎えるシーンから入る。
生に精一杯、生を楽しんでいる人たちにとっては、無縁である。
でもだれしも、老いたり、家族や親しい人の臨終に立ち会ったりすると、素直に 思うことがある。それは死後どうなるのかなのだ。

筆者は、死後の世界に素朴な疑問を持ち、霊感のある主人公の妻に不思議を問いただす役割を演じさせ、 主人公がそれに答える。あるいは不思議体験者や「おがみや」を 訪ねその種明かしを試みようとしている。しかしながら、実体験の ほとんどない主人公には、それ以上に答えられるものがないのだ。

そう思いながら、妻から意外な告白を受ける。
数年前に流産で子を失った時、ウメさんにいろいろと相談に乗ってもらっていたのだと。
それ以来、妻は包装紙で紙縒り折り、こっそりその日を待っていたのだ。
ウメさんの49日にあわせ、成仏してあの世に行っているのか気になっていたわが水子の霊を 供養してもらおうと。
そして、主人公は、その供養の場で不思議な体感をするのである。

読みを終えて思うことは、ウメさんの病院での臨終のシーンに母を思い出しながら中陰の世界を感じ、 子種の検査のためにエロ本でマスターベーションをする部分に現実的な生と性を感じる。
インターネット検索で「おがみや」「霊能者」から何か糸口を探り、実際に その「おがみや」を訪ねて、死後の世界・霊についての解を求めようとする筆者に、 現実と中陰の世界と此岸、ひとつの世界しか知らない人間には、 結局のところ、他のふたつの世界をクリアに理解する理屈は、 簡単に見つかるものではないことを教えられたような気がする。

死んだ人が成仏したかなんてことは、現実世界に住む人間のこころの持ち方でしかないように思えた。
そして、気になったことは、紙縒りで作られた「まるでステンドグラスのように朝日を色分けして輝いていた」 幻想的なものを是非見てみたい気がしたのだが・・・。
おわりに、参考までに、多くの仏教用語が出てくるので、羅列してみたい。
霊障、霊法、施餓鬼、般若心経、消災呪、塔婆、憑依、引導香語、餓鬼道地獄、出頭念球。


チャプタ2.<<朝顔の音>>
主人公はトラック運転手に恋するコンビの女店員、二度レイプされ、一度身ごもって、死産。
その遺体を遺棄し、警察に自首した経歴を持つ。
主人公はトラック運転手から朝顔の種をもらい、自分の住まいに植えた。その成長を見ながら、
男がそんな経験を持つ自分を救ってくれると思っていたのだ。

同じ店員仲間に過去を打ち明け、水子の霊の供養−霊おろし−をすすめられるがまま、
”おがみや”に足を運ぶ。ふんぎりがついたところで、男に自分の過去を打ち明けた。
ところが、男には妻がいたのだ。女は、成長のたびに音が聞こえていた朝顔を、
これ以上成長させたらとりかえしがつかないと、つるごと引き抜いた。
女は、レイプで産んだ水子を思い出していたのだ。

今風俗、社会規範は、
不倫だ、援助交際だ、熟年離婚だ、過去のものさしで計れないほど、性の自由化は進んでいる。
このストーリーのように、女が素直に引き下がるような時代ではない。
ある意味、結婚ということに関してとても純粋すぎるような気がする。
こんな世の中だからせめて結婚に対してはという、筆者の気持が入っているようだ。



  • 石川恭三作:医者の目に涙ふたたび
19編からなるお医者さんが書いたエッセイである。
かつて読んだ、鳥取赤十字病院の先生:徳永進著「やさしさ病棟」を思い出している。
多くの人は最期の時を病院で迎える。
必然、お医者さんは多くの人の死を看取ることになる。

仕事とは言え辛いことばかり、病院には明るい話題というのが少ないのもいたしかたがない。
そんなハードな仕事を離れたところに、ささやかな楽しみを見つけている3つのエッセイ。
それは、趣味で始めたエアロビクス教室での話、通勤電車の中でのおばさんたちの会話、 そして、帰りのバスの中でのそれぞれのお客の会話と行動。

人間年を取ればいろいろな病気を患う。
そこにはいろいろなドラマがある。
突然倒れて言葉が不自由になる脳卒中・脳出血、 身体の不調を訴えて病院を訪れ、精密検査をし癌が発見される。
その癌を告知するかどうかの医者の迷い、家族との相談・判断、そして筆者からの宣告、 インフォームド・コンセント、手術を選択するのは患者であり、家族。
予命を知らされ、戸惑う患者、その所作を見て、励ます筆者。

予命に自分のやりたいことを成し遂げる患者たち。
再起が難しい患者、限られた生命を精一杯生きようとする患者の中には、 社長業を妻に教育する人、倒れる前の自分の仕事に見事復帰する人、 どの話も涙をさそうが、妙に心は温かいものに包まれてしまうのだ。

とはいえやがて、心がみたされた患者に死が近づき、臨死に立ち会う筆者。
一般の人たちの死とは別に、お医者さん達の死も描かれている。
大腸ガンの専門医でありながら、自分の大腸ガン発見が遅く、死に対する 恐怖心を告白する医師、若くして志し半ばで癌の宣告を受け、余命の の少ない期間で博士課程論文を仕上げる医師等、 「医者の不養生」と言えばそうなのかもしれないが、筆者が死はだれしもやってくるという 言葉に重みが感じられてくる。

そんな中でも、死の恐怖を訴える医師に筆者が、話したフレーズが印象深い。
「人間、誰しも死ぬんだよ。それが少々早いか遅いかの違いがあるだけだよ。誰だって 死ぬのは怖いんだ。君だって沢山の人が死ぬのを見てきただろう。でも最後はみんな、穏やかに 死を迎えていたのを君も知っているよな。死に損った人はこれまで誰もいないんだよ。 みんな、穏やかに死を迎えるものなんだよ。死ぬことは心配するほど難しくないんだよ」

話は変わって、人の心はなかなか変わらないものと私常に思っていたが、 こんなこともあるんだというエッセイ。
それは、「小さな神様との出会い」、狭心症を心配して訪れた患者が話しはじめた過去の自分から 立ち直った話。人間やはりいつでも変われるきっかけはあるのだと思う。 ただそれをそうだと思えるかどうかなのだろう。
一方で、選択誤り?命を短くして終わった人。

そして、実に重苦しかったのは、「母を残しては死ねない」 で、いつも母に振り回されてきた娘が、お互いが年をとり、 母の退院に際して、母(83歳)娘(65歳)が心情を吐露するフレーズ、 特に娘のフレーズ「正直申し上げて、今度ばかりは母に死んでもらいたいと思いました。 もし、私が先に死ぬようなことになりましたら、母はどんなに悲しい思いをすることでしょう。・・・ 何としても私が死ぬ前には死んでほしいんです」
過去の縁談はことごとく母のために破談されてきた娘の、せめての願いがこの「何としても」の言葉に表れているのだ。

いろいろなドラマを眼で仮想体験し、おのれはどんな死に方をするのだろうか、いまだにイメージはできていないが、 この7月、長い寝たきりの生活に終止符をうった母は、そんな私に、 「死ぬことは心配するほど難しくないんだよ」と死に方を実演してくれたかのようでもある。



  • 稲垣武作:新聞・テレビはどこまで病んでいるのか
この本を買い求めたのは、歴史教科書問題と首相の靖国神社参拝問題について、あまりにも 中国・韓国に偏った報道がなされていることに疑問を持ったこと、石原都知事の「第三国人」発言問題、 久米宏による野菜のダイオキシン報道、北朝鮮による拉致問題等においても事実はどうなんだ。
この事実について、私たちは感想を報道に求めているわけではないのに、最近特に何かおかしいと 感じていたからだ。
テレビのワイドニュースを見ていても、かならず わけのわからぬコメンテーターなるものがコメントする。
複数の違う意見の人が議論するのならわかるが、極めて一方的なコメントなのだ。
一般のニュースにおいても、解説者は事実分析を述べるならいいのだが、 極めて一方向の話をするものがある。

筆者は、全国紙四紙の実際の報道記事を比較しながら、偏向報道を分析している。
とりあげられた記事は、まだ記憶の新しい事件ばかりである。
主なものを取り上げて見ると「池田小学校児童殺傷事件の犯人の取り扱い」「教科書報道」 「中国・北朝鮮報道」「靖国神社公式参拝」「ダイオキシン」「都議選」等々である。
読んでまず感じたことのひとつは、この本の第一章にある「事無かれ主義」「横並び主義」である。
これはかつての日本の大企業でよく聞かれた言葉で、いわゆる大企業病なのだ。
これを解決するには、メディア産業も競争という世界に入らないかぎり、変わりはしない。

いまだ記者クラブで待機していれば、それなりに情報が入る仕組みではどうにもならない。
やっと田中長野県知事が言っていたことがよくわかってくる。
まさにこの業界は情報を独占的に収集でき、競争のない世界なのだと思わざるをえない。
テレビの場合、情報の比較はできても、日本のテレビはどのチャンネルを 見ても、同じようなことしかやってないことに気づく。
さらに最近では、衛星放送による多チャンネル方式 で競争は激化しており、選択権は見る側に変わった。

新聞の場合、読者側から言えば、個人的に何紙も読む人はいない。
ならば、筆者がいうように読者自身が情報リテラシー(能力)を高め、情報を自分で 判断する以外にないということなのだ。
リテラシーなるものを高めるためには、複数のメディア情報に接すること、 記事自身の持つ矛盾を発見すること、メディアの姿勢、信条、イデオロギーを知っておくこと、 ということになるのだが。
すでに世界情勢は冷戦時代が終わり、何年も過ぎた。
いまは東西融合から、テロの時代に移り、それも民族とか宗教戦争の様相なのだ。
情報を察知するのに敏感なはずのメディアが、いまだにイデオロギーをたよりしているなんて、 いかに日本のメディアが古い頭の持ち主か、 55年体制をいまだに崩せない政治家となんらかわらないように思う。

やっと競争力のなかった新聞にも、思わぬ強敵情報ツールの時代がやってきたのだ。 それは、インターネットである。
旧来の宅配方式から、企業・個人による情報発信、電子新聞、 インターネットチラシと様変わりしそうである。



  • 土屋賢二作:ツチヤの軽はずみ
爆笑エッセイなんていう本の帯につられ、軽はずみにも買ってしまった。
文庫ならいいかと、ほんとに軽いはずみである。
重い気分を少しでも癒してくれるかな〜って買ったのだ。

読めば読むほどツボにはまってしまうからいただけない。
このままでは、また筆者の本を買ってしまいそうである。
いつも思うがエッセイはいい、軽いのはいい、笑えればなおいい、さらに安ければ申し分ない。
面白くない人生を、約束だらけ、決め事だらけのがちがちの世の中をどう楽しく生きていくか。
そのヒントがあるようだ。といって決して役立つと思ってはいけない。

ムダな時間がなんとなく過ごせたと思えばいいのだ。
そこに価値が見つけられたと思えれば、読んだかいがあるというもの。
それで喜んでくれれば、筆者は草葉の陰で泣いているかもしれない。
いやまだ亡くなられていないからどう言えばいいのだろうか?

筆者には公式のHP掲示板があるから、そのへんを書いてあげればいいのかなあ。
http://www04.u-page.so-net.ne.jp/gb3/kenji-ts/
ついでにアドレスを記載しておこう。
とはいうものの、「直喩・隠喩・意味不明な日本語の羅列」 (解説者:エッセイスト中井貴恵氏による)をその羅列をまじめにとらえ、 感想を書いてみよう。
この本を読んでまずわかることは、筆者が絵が好きだと言うこと、 それもピカソのような絵を描く、すべてのエッセイのおわりにある。見逃せない重要なポイントである。 これは絵描きに臆している人には間違いのない勇気を与えてくれるのだ。
次に筆者は、ジャズピアノが好きだということだ。これ、ほんとにライブを続けているらしい。
私は確かめていないが、解説者が中年女性6人で確かめたから間違いはないようだ。

そして、推理小説を読むのが好きなようだ。でもそれらしき片鱗、逆鱗は見られない。
忘れていた、本のコメントになっていない。
少しまじめにいこう。私が選びたい最高のエッセイと言えば。
「革命的整理法である」これは読めば読むほど納得できる。人生・仕事なんて無駄の連続なのである。

情報整理で悩んでいる方は是非お勧めの方法である。
ちょっと内緒でお教えしよう。まずダンボール箱二箱(なぜ二箱か?)を用意する。
ひもを十字に中に入れ、二本とも外にたらしておく、そこに資料を重ねていくのだ。
それだけのことである。
賢明な読者なら、このひもがなぜあるのかすぐに分かるだろう。

情報なんてものは、結局、時が経てばたいていのものは、いらなくなるのだ。情報整理法なんて世の中でもてはやされているが、 人間頭で覚えられるものだけでいい。もっとも年と共にそれさえも思い出せないのが老いと言うものなのだが。
あえて素晴らしいエッセイの中からもう一作品厳正かついい加減に選ぶなら、「特別な存在」である。

この項を読んで私はやっと自分が勘違いしていたことに気付いた。でもわかるまでに 長くかかりすぎた。もう5年速くこの本に出会えていたらと思うこと、いままさに歯ぎしりをしている。
ただ、単行本も2年前だから、無理と言うことか、筆者も気付くのが遅かったようだ。

そのフレーズをお裾分けしよう。「多くの人が抱いている最大の不満は、『だれも自分を正当に評価 してくれない』というものではないだろうか。他人と接触しているうちに、『特別な人間に対するにし ては、扱いがズサンではないか』と疑う機会が増えてくる。こういう場合もっとも自然な結論は、 『ゆえにわたしは特別ではない』というものであるが、ほとんどの人はこれとは違う結論を導き、 『ゆえにわたしは正しく評価されていない』と考える。 ここに『正当に評価されていない』という不満が発生する」

ということなのだが、ご理解いただけただろうか。人生やはり誤解の連続と言うことらしい。
まだまだいくらでも感想は書けるが、蛇足になるので、是非現物を読んでいただきたい本である。
たった470円で楽しみの極致を知ることにできるからである。
くれぐれも言っておきたいことがある、決して期待してはいけない。でも期待できる。
やはり期待できない、いや少しだけ期待できる。ああやっぽりドツボにはまったみたいだ。
読み終えて、切に感じたことは、なんでも答えはひとつではない、その裏返しもあるし、 真ん中もある、理屈なんてどうにでもつけられるということだ。
別にこだわる必要はない、何か仏教の教えのようでもあった。
読み終えた私の背中には後光が・・・。そんな感じなのだ。大変な本を読んでしまったようだ。



  • 石原慎太郎作:国家なる幻影(上)
題名の「国家なる幻影」、企業組織もそうだが、その組織の中に埋没していると、 あたかも組織が実態としてあるような錯覚をしている。
その組織を去って初めて、組織とは幻影なのだと思うようなのだ。 いい題名を付けるものだとつくづく思う。

この本はかなりのボリュームである。過ぎ去った政治の舞台裏が垣間見える。
長年政治の中枢にいながら(実質25年、延べ28年)、大臣経験もしながら、次期首相候補人気 NO.1でありながら、突然に政界を引退した鮮烈な印象の記憶が新しい。 その引退後から、都知事選で再び政界へ。 その間に過去の政治への関わりを整理したものである。

意味深なのは、副題の反回想である。
回想とは過ぎ去ったことを振り返り、思いをめぐらすことであるが、 つまりある世界を引退した人が書く、そこに少し筆者のひねりが見える。
決して政治への関わりが終わったわけではない。 国政から日本が変えられないなら、地方から変えてやろうとする筆者の 思いなのだろう。決しておセンチに また、自慢話をしているわけではない。

暴露的なあっと驚く部分があるが、かなり遠慮している部分もある。
政治を志したきっかけ1966年「ベトナムのクリスマス停戦取材」から始まり、決断させた「三島由紀夫の手紙」へと。
上巻のおわりの政治場面は、時の総理福田赳夫が「人命は地球より重い」という名言?を残し、 超法規的措置をとった、1977年「日航機(よど号)ハイジャック事件」で締めくくられている。
もう少しくわしく、この本に出てくる政治の動きをタイムテーブル化してみよう。

ベトナムのクリスマス停戦、参院選初出馬、創価学会とのトラブル、非核三原則と沖縄返還、
参院議長選、三島由紀夫の自衛隊での割腹自殺、衆議院への立候補、石油ショック、ルバング島から小野田少尉帰還、 青嵐会、日中国交回復、ロッキード事件、美濃部都政、都知事選敗北、水俣病と環境庁長官、よど号事件。
どうだろう記憶のすみに残っていたものがあっただろうか。

まずはそのころの政情を思い出していただく。
そして、それぞれの大きな政治的なうねりの中で、筆者自身がどんな立場にいて、どんな行動をし、 また、他の政治家はどんな発言と行動をしたかという展開になっている。

決して、成功談ばかりではない、筆者のテレビでの発言でもあるように、 つい腹蔵なく・ホンネをしゃべってしまうために、刺激的なものとなって、尾鰭がついた結果、思わぬ しっぺ返しを受けたり、トラブルになったりする話もあるのだ。
このような回想は、ほとんどの場合、自分にとってはいいことばかり描いて、悪いことは描かない のが通例だが、そうでないところに面白さがある。

一番面白かったのは、「参院議長選でのミニクーデタ」である。
人心掌握・撹乱術というか、人はどうすれば動くか、どんなことに弱いのか、キーマンは誰か、おどしたりすかしたり、
政治家にも器量の差が歴然とあるということがわかる。
最終のシーンを想定して、シナリオを作り、登場人物を決めていく、その中にはマスコミを使って演技もしてみせるのだ。
それがものの見事に功を奏し、筆者が押す参院議長が当選したのだから、これぐらい面白いことはない。

次が「殿様候補の登場」だ。
あのかっこよさそうに見えた細川首相の話である。
人の褌で相撲をとる、政治家としての信念もなかったから、はいさいならと政治の世界を 去っていけたのだとわかりすぎるぐらいわかる話なのだ。
日本新党を作って、あれよあれよという間に首相になった。
踊らされた裏切られたと思った人は沢山いるだろう。

その後、新党ラッシュ、政党の離合集散、政党不信は如実に現われ、 さらに、羽田氏、村山氏、橋本氏、小渕氏、森氏と 短命政権で政治が空転している間、すべき改革はすべて先送りになっていったのである。
やっと本気で改革しようとする小泉首相が登場してきたものの、いまだに政治への閉塞感は強いのではなかろうか。

確かに政治にも日本人独特のウラとオモテがあるということが十分にわかっただけでも、よしとしたいが、 一国民としては、ホンネでぶつかり合う政策論議が表に出てくるようになれば、自然と政治への関心は高まっていくように思われてならない。

そして今一つは、「三島由紀夫氏からの公開状」の中にあった。意外な事実である。
それは三島氏の最期の場を見届けていた川端氏のことである。「体から離れて転がっている三島氏の血だらけの 首に眺め入ったのだろうかと思った。その後の川端氏の言動が時折奇態なものとなり、閉じている扉の 向こうに三島氏が来ているとか、その場にいもしない三島氏に語りかけたり・・・」

紙上に掲載された生々しい生首らしきものがある三島氏の自決後の写真は、同世代であれば鮮明に記憶に残っているだろう。
間接的に見た私でさえ、強烈だったわけだから、直接その場に入って眺めた川端氏の心の動揺は想像を絶する激しいものであったろう。
この事件後1年ほどして、川端氏は突然に自殺したのだ。当時ノーベル賞までもらった作家がなぜ自殺をしなければと思ったものだった。



  • 加藤諦三作:死ぬことが人生の終わりではない
    インディアンの生きかた

店頭にベストセラーとして「アメリカインディアンの教え」という本は、かなり前からあった。
ベストセラーになると、二匹目のドジョウということで、続編、さらに続々編が出ている。
この本もセオリーどおり続々編まで出ていたようだ。ベストセラーは流行を追うようであまり読まないようにしている。
私の場合、自分の人生のキーワードにより本の購入をしているからだ。

今現在の「老い」「死生観」というキーワードからいうと、購入に該当する本ではあるが、なぜ買わなかったのだろうか?
いまさら「教え」という教訓じみた本は、ということで敬遠したのかもしれない。
今回のこの本は「死とか人生」が、私のざるのような網の目に引っかかったようだ。
インディアンも日本人も基本的に先祖を大事にする生き方をしてきたことでは同じようである。

読みながら、ほんの少し出てくるが、親鸞の「悪人正機説」、宇宙意識とか、輪廻とか、禅とか。
自然の中に生きているというか、生かされている人間もその一部に過ぎないと思うように なれば、ということのようだ。
あとがきにもあるように「私達は技術の進歩と社会の変化の中で人生の本質的な問題を見失い、右往 左往しています。このような時代だからこそ、安んじて生き、安んじて死んでいくためにアメリカ インディアンの死生観を考えることの意味があるのではないでしょうか」ということなのである。

「安んじて生き、安んじて死んでいく」、それを阻害するものとして、いろいろなことぱが出てくる。
「誰も分かってくれない」「利己主義」「憎しみ」「妬み」「なぜわたしだけが」「物欲」 「優越」「上昇志向」「仕事中毒」「執着性格者」

競争社会に生きている現代人にとっては、いずれのことばも思いあたるフシがあると思う。
私自身でもう少し加えるなら、「何かを残したい」「目立ちたい」「肉体的に若くありたい」 「優越感にしたりたい」「自己主張をしたい」等々
これらの言葉に煩わされている限り、神経症になったりうつになったりする、 その結果、人間として生きる場所も死ぬ場所も分からないで不幸な一生で終わるということなのだ。
「死ぬことが人生の終わりではないインディアンの生きかた」7カ条の教えのひとつで言うならば。

「あなたがうまれたときに、あなたは泣いていて周りは笑っていたでしょう。 だから、死ぬときは周りが泣いていてあなたが笑っているような人生を歩みなさい」という人生であって欲しいということなのだ。
そのためには、「仲間」と「自然」が人間の幸せのキーワードになるという。この二つに対する 愛や興味が人を幸せにするということ。

最近ふたつの事実から特にそう思っている自分がある。
ひとつは、ウォーキングを兼ねて、なんの気なしに始めた駄句作りである。
不思議なのは、朝田んぼ道の散歩コースを40分程度歩くと、人工的な都市の中にいるとほとんど感じなかった 錆びていた五感が蘇ってくる。季節に応じた虫、鳥、雲、太陽、魚、草、花、木が忙しない 私にいろいろ語りかけてくれる。
すらすらと、駄句が出てくるからほんとに不思議なのだ。

もう一点は、インターネットを通じての人との付き合い、 ご縁があった人との小さなネットの付き合いを通じて、しみじみと感じている。
45歳をすぎて、一過性の仕事仲間ではなく、ご縁があれば続けられる仲間とのネットワーク 作りを始めた。まさにこの教えの通りなのである。
まだまだ自然体での付き合いにはほど遠いのが気になるが、自分の中に自分が自分がという気持が なくなればさらに調和のとれたネツトワークになるような気がする。

自然がエネルギーをくれているなと感じているのはネット付き合いでもう一つある。
メルトモの中にいる登山をしたり、ウォーキングをして直接自然と接している人は、いつメールをもらって も元気なフレーズを分けてくれるのだ。
そして、あえてもう一つ言うならば「少欲知足」で「こだわり」が捨てられるかということのようである。
おわりに、欲望の渦巻く中で生きている現代人にとって、この書で言うように、 素朴にとか、簡素に生き、そしてひっそりと、死ぬなんてのはとても耐えられないこ とのような気がするが、 そんな人におすすめしたいのは、まずは一度自然の中に自分を置いてみて欲しい。そうすればきっと何かが見えてくるはずである。



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