• 信太一高作:快適田舎暮らしのすすめ
都会生活に慣れてしまい,スピードと時間に追われる忙しさが当たり前のように体の中にしみこんでいる現代人。
 50代を迎える前から,いままでの自分の人生は何だったのかと,忙しさの中でポッカリ空いた時間にふと考えるようになった私に,これからどんなことを考えておく必要があるのか,そのヒントを与えてくれた本である。
 まず,田舎暮らしを選んだ人たち9名が登場し,実体験の報告から始まる。それぞれ選んだ第二の人生の場所,その暮らしへの入り方,きっかけはいずれも違うが,「自然の時間」「土に溶けこむ」人間の姿がそこにはある。
 まえがきで「大きな空間の中で,新鮮で美味しい食物と空気で健康を保ち,自然の中で自由に自分のために生きていくことは,素晴らしいことだと思う」と筆者が言うように,「自然の時間」で土いじりをしながらの生活がどんなものかは,このフレーズで十分すぎるほどわかる。
 特に土いじりをしながらの野菜作りは,私自身も楽しくてしようがないからまさしくそのとおりだと思う。
 このおすすめ本には田舎生活をする上でのキーワードがある。「助走期間」「野菜作り」「運転免許証」。また,田舎暮らしのための趣味の選び方というのもある。野外で楽しめるもの,室内で楽しめるもの,個人で楽しめるもの,そして多人数で楽しめるもの,ただこの条件を満足する趣味となると,3つぐらい考えておかないと無理である。どっぷり浸かった無趣味の会社人間にとっては,180度ものの考え方を変える必要があろう。
 さらに田舎暮らしの愉しみとして「土をいじる」「自然の恵みを食べる」「自然の中で趣味を楽しむ」の3つの世界から,より具体的な楽しみの紹介がされている。一度にはとても無理だが,自分なりの助走期間を設け,まずは好きなことから始めればよいのではと私は思う。
 田舎生活は,「心を癒してくれる」「心地好いと感じる」「至福」「幸福」「ゆとり」「ゆったり」そんな言葉が多く出てくることからも,新世紀にふさわしい古いようで新しい生活,「心の豊かさを求める21世紀」のフレーズどおりの生活ということではないだろうか。
 


  • 横田順彌作:明治不可思議堂
 鎖国政策で自国の独特の文化が花開き、そして衰退していった江戸時代から、他国に占領される事もなく西洋文明を受け入れていった明治の日本。
 明治という時代に表に出た話の裏話の面白い話が62篇、見出しで興味があるものから気楽にページを開いて読めばいい。
 明治は、変化と新しい物好きそして冒険好きにはたまらない時代ではなかったろうか。
〇〇第一号という話が結構ある。プロレスラー、野球、軍神、柔道、サンタクロース、アメリカ移民、自動車、美人コンテスト、飛行機・・・
 その中で興味を持ったのがいくつかある。まず、空飛ぶ鳥を夢見た男、二宮忠八という人物の話
 あのライト兄弟よりも早く飛行機を考え作ろうとしたが、資金もなく賛同者もなく残念ながら、夢と終わった。二宮はアイデアを何度となく仕えてきた上司たちに進言するが受け入れられなかった。その上司の一人に、日清戦争で活躍した長岡外史中将がいる。進言を聞いた長岡は「こんな玩具みたいなもので、空を飛ぶことが出来るか」と、これを一蹴したとある。
 いつの時代も新しいものへのチャレンジはむつかしい。金余りのこの時代でも金融体制の崩壊から、起業しようとする人に対する投資がなかなかされないところは、昔も今も日本人・日本の本質は変わっていないようだ。その点では、長年自由と平等を掲げてきたアメリカという国は少し違うようだが。
 また、すでに今の時代にはなく、興味を覚えた話がある。最後の仇討ち、鯨作業所襲撃事件、千里眼と念写、女相撲盛衰史、新橋芸者・欧州を行く、それぞれの内容は見出しで推測できよう。
さらに、この時代、世界に名をはせた人たちもいる。世界に柔道を広めた柔道家、前田光世、ヨーロッパを渡った芸者、特にとんでもないことを考え、実行する人もいた。徒歩で渡米しようとした男の話は実に面白い、それ以上に人間やろうという強い意志があれば何とかなるものだ。ただ、その強い意志は凡人にはむつかしいが・・。
歴史に「もし」は存在しないとはいうが、そんな話はここで紹介された以上に多くあるのだろう。歴史上の人物の消息をたずねて、それを論文でまとめた人物もいる。それは徒歩で渡米しようとした人物と同一で「成吉思汗は源義経」を書いている。 いずれにしても、明治時代にはラジオもテレビもないから情報伝達もクチコミが一番で次に新聞や雑誌ということになる。
今の時代は伝達手段が多いし、それも知ろうと思えば世界中のニュースがはいってくるようになっている。
近所のニュースでもインターネットにのって全世界に流れても不思議ではないし、大新聞のペンの力はいまもまだ強いが、一個人のペンでも太刀打ちできる時代、情報のスピードが早いため、ニュースの後始末や裏側を知られぬまま、時がどんどん過ぎている。
この時代のニュースのエピソードについては、いずれ次の世代が調査して公開される事になるのだろうか。先ばかりを見て、時代を懐かしむ余裕も少なくなっていくのだろう。
 


  • 吉村昭作:破獄
筆者の作品は、まず「史実を歩く」という随筆を読んで、歴史の裏づけのための緻密な調査、当時の登場人物の親戚縁者を探しての面接調査、各地の図書館に出向き当時の資料探しと事実を知るために粘り強くその事実を追う姿に感動していた。
 そして、新作が出ればと思い、文庫本で江戸幕末を生き抜いた人物、ロシアとの外交交渉を行った勘定奉行川路聖謨を扱った「落日の宴」が発刊され、さっそく読んだ。
 その感想をふりかえってみてみると「私は歴史小説が好きである。かねてから歴史小説は,筆者がどんなところからテーマを探し,どのように取材して描いていくのか,大変興味があった。その願いに叶う,筆者の『史実を歩く』という本を見つけ読んだことがある。筆者は歴史上の人物でも裏舞台で活躍した人にスポットをあて,過去の資料収集と綿密な関係者への取材,そしてあたかもその時代のその場面に生きていたがごとくの描写に感心していた。筆者の新作品が出版されたときには,是非読んでみたいという気持ちがあった。」などと書いている。
そして、今回はその「史実を歩く」の中で「破獄の史実調査」というチャプタで紹介されていた刑務所脱獄4回後なぜ府中刑務所では模範囚として刑期を勤めおえたのかその辺りに興味があり、筆者の作品としては三冊目の「破獄」を読んだのである。
 社会情勢は当然のことながら,当時の天気や風俗まで調査結果の事実として、筆者があたかもその時代、その場所にいたのではないかという錯覚におちいるから不思議である。
 この作品では,太平洋戦争に至るまでの社会情勢も巧みにおり混ぜながら、主人公の刑務所への収監、脱獄するまでの生活ぶりそして脱獄後の行動、再逮捕状況、脱獄方法の分析、次の刑務所では過去の脱獄を反省しながらの対策等々よく調査したものだと思う。
 この辺りの事実は,当時の刑務官たちから調査しないとわからないことばかりであり、脱獄されて厳重処分を受けたと思われる刑務官たちが,取材によく応じてくれたものだと感心してしまう。筆者の粘り強い熱意の成果なのだろう。誠意と熱意は人を動かすのである。
 主人公は、ルール違反ではあっても,執拗な同じ動作をし続ければいつかは当たり前のこととして人は許し、冷酷になりきれない人間の心理を巧みに利用して、脱獄の計画を綿密に練る。
 そして、刑務所の建物の中にはかならずや破獄できる場所が有ることも突きとめるのだから、現状分析の鋭さと何事も人間がやる以上完璧なものはないということもおのずと分かってくる。主人公のその方面の能力には驚嘆せざるを得ない。
 しかし、5回目の府中刑務所では刑務官の温情に触れ、破獄の常習者も,生まれ育った暗い過去から、人の温かい心に飢えていたことがわかる。人間関係はちょっとしたことで,もつれていた糸がほどけ,解決の途(?)が見えてくるものだと妙に納得してしまった。
 


  • 重兼芳子作:いのちに生きる
 最近,書店へ行くと,どうしても死生観とか,人生論を書いた本に目がゆく。この作品は,テレビで筆者のことが紹介されていたことと,題名にひかれ是非読んでみたいと思った本である。
 人は生について,ほとんど意識することなく此岸にやってくる。
 また,それぞれに寿命というものがあり,死は突然であったり,徐々にであったり,だれもその選択はできないが,かならずやってくる。
 平和な今の時代,人は死を意識すればできるはずなのに,自分には未だ関係ないことのように,振る舞っている。ましてや日常生活の中で考える人は少ない。
 そんな中で,ある一定の年齢を超えた女性たちには,できるかぎり長生きをし,嫁の世話にならず,苦しまず,大往生による彼岸への道を期待する人は多くいる。
 筆者は,長年ホスピス医療をすすめるボランティア活動の責任者をつとめ,日ごろから末期癌の人や癌で家族をなくした人たちの話を聞く立場にあった。その筆者でさえ,自らの癌宣告を受け,戸惑う自分をおさえきれず,その状況を夫に話す。夫はその話にうろたえどう対処していいかわからない。そんなドタバタの見苦しいとも思える話が,包み隠さず描写されている。
 妻の癌宣告に戸惑っていた夫,死を筆者以上に怖れ,日ごろから健康に気を遣いすぎるほど気を遣っていた夫,手術入院を元気に見送った夫は,筆者の手術中に急病で入院し,妻に看取られることなく突然に彼岸へ逝ってしまう。
 「いいことは段々やってくるが,悪いことは突然にやってくる」と言っていた人がいるが,本当に運命とは全くわからない。
 私のようにいまだ死というものの恐怖感がぬぐえないものにとって,筆者とその夫が死と生の間でもがく姿を見せられると少しほっとしてくる。
 もがく姿を見せるその一方で,同じ病院内にいる病名を知らされない患者の生の姿が描写され,その患者を冷静な眼で見つめている筆者がいる。
 癌宣告そして大手術,更に夫の急死,こころの準備のないまま,たじろぐ筆者。これだけ続けばだれしもすぐには立ち上がれないのが当然だと思うのだが。
 夫の死を,看取ることができなかった筆者は,44年間という夫との生活はなんだったのかと自分を責め,夫の死が受容できず,この心理的な圧迫が術後の快復を遅らせてしまう。
 このような逆境にありながら,筆者が再起を果たす感動的なシーン−そんな母を見かねた長女は,看護婦と相談のうえ,医者の反対を押し切って母を自宅に連れ帰り,父の葬式写真のアルバムを見せ,夫の死の受容を自宅でさせ,見事に「生きよう」という気持ちを蘇らせる−と蘇った筆者は世話になった人たちへの手紙を一気に書き上げ,車椅子での一時退院から自分の足で病院に帰り,医師や看護婦たちからの温かい歓迎のシーンは,思わず涙がこみ上げてきた。
 生きようという自らのこだわりがないかぎり、いのちは細く消え入るだけなのだ。「いのちを生きる」というのは自ら生をかちとるそういうことなのだと知った。
 


  • 竹下節子作:さよならノストラダムス
 ノストラダムスという名を聞くと終末論とかオカルトまがいのいかがわしい人物ではないかという先入観がある。
 ノストラダムスの予言(?)である「1999年7の月・・・」で始まる終末予言は,幸いなのか?世界各地で地震,風水害等があったものの地球滅亡もなく過ぎてしまった。
 日本では,1980年代と今年,ノストラダムスの出生国フランス以上に,多くの本の出版や各種メディアがとりあげ,終末論を煽るような形になっていた。
 さらに1990年代はオウム真理教がその波に乗って宗教の名のもとに,一般大衆が犠牲になる事件まで起こし,いまだにその余波が続いている。
この本は,筆者がノストラダムスの生れ育った街,人物等について綿密に現地調査し,「さよならノストラダムス」というテーマで著したものである。
各チャプタは,穏やかな南仏旅行記,謎に包まれていたと錯覚していたノストラダムスという人物の意外な面とその周辺の人物,書き残した書籍等から推測できる人物評,そしてメインの終末論で構成されている。
 はっきりいって終末論の肯定的な解釈を期待する向きには当てが外れるものである。
 次のフレーズ「堅実な生活感覚にあふれた男だった。星も眺めるだろうし『予言書』も書いた,でも,占いの依頼に答える時は,相手の自尊心をくすぐり,安心感と希望をもたせるのを忘れていない。妻や子供に対して心くばりを忘れなかったし,ネットワーク作りや仕事上の根回しも周到で,住んでいる町の公共事業にも協力した。何よりもペストに襲われた町に乗り込んで,身の危険をかえりみず,次々と病人の世話をしたのだ」からノストラダムスという人物は,今風でいえば悩み多き人間の精神的アドバイザーということになるのではなかろうか。
 この本のメインである終末予言詩について,私自身1980年代に発刊された五島勉著のノストラダムス大予言シリーズをすべて読んでいるが,結果1999年7の月に何が起るのかさっぱりわからなかった。人を楽しませてくれる大衆書と思えばどうということではないのであるが。
 筆者によれば「1999年7の月・・・」で始まる予言詩はノストラダムス自身のものではなく,後世の人間が加えたのではないかともいわれている。
 さらに続けて,この詩は決して悲観的なものではなく「幸福に統治する」という点からもポジティブなものであり,ノストラダムスは基本的にはベストセラーを見込んで大衆読み物として「予言書」を書いた。それもフランス人とヨーロッパの人に向けてである。
 この予言について,地元フランスでは,右往左往する日本人の滑稽さだけが伝わっているようである。それは今年バレンタインデーで放送された番組でも明らかにされているとか。
 平和な世界にどっぷり浸かっている日本人はオウム真理教の事件があまりにもショックであり,彼が信者に常に言っていたハルマゲドンはこのノストラダムスの予言を悪用したもので,単に麻原教祖に躍らされていたにすぎない。
 じたばたする日本人の姿から,筆者は最終章のまとめとして,日本人の死生観にふれ,「日本では戦争や疫病や飢饉はおろか,老いや病や死という観念すらも日常から姿を消してしまった。老いや病や死は避けたり,隠したり,克服したりすべきものとした,管理され隔離されたので,普通の若者の目に入らなくなってしまった。」と生老病死といった場面に接する機会が少なくなったことが,死を今生きている人間とは別のものとしてとらえてしまっているという。やはり「終末=死=パニック=アクション(他者へ自分への攻撃)というパターンが悪いのであって,『成熟,充実』の方向にいけば,死も生命のサイクルの一部にすぎない。」そうすれば自然に死も受け入れられ,いかがわしい宗教などに惑わされることもないということではないか。
 死生観について考えることの大切さを感じさせてくれる書でありました。
 
 


  • 井上やすしほか作:木炭日和
気軽に読める随筆は,小説やノンフィクションよりも好きである。書店で構えなくてもすぐ立ち読みできるのも随筆である。また,素人が,気軽に書けたらと思うのが,随筆ではなかろうか。そんなヒントがないか,買ってみた。
 この作品は,1998年中に発表されたエッセイから,さらにベストエッセイとして選考された62篇で構成されている。
 私が面白いと思ったものの10篇の題名をチャプタとして紹介した。意図したわけではないが,結果として,男性の作品が3篇で女性の作品が7篇となった。一般応募者の作品は1篇。
 そして,それぞれのキーワードは,生まれる苦しみ,執筆の方法,死と生,母の恋,先祖の顔,子規の妹,配給長靴の想い出,女性への差別語,備長炭であり,本の題名は,最後の作品の題名「木炭日和」となっている。
 自分の頭の中に知らぬ間に選考基準なるものができあがっているようだ。
 それはなんだろうと考えたが,うまく表現できない。
 ただ62篇の作品を読んで感じたことは,いずれの作品も過去を思い出しながら,書かれているにもかかわらず,会話が実に新鮮でその言葉が出てきた情景の描写が微細なのである。
それが記憶力なのか,表現力なのかはしらないが,ただ感心するばかりである。
 さらに,このエッセイを書くための材料の収集とテーマの見つけ方が,素人では思いつかない。
 またまた感心するのは,書くためのキーワードとまとめとテーマがうまく組み合わせられているということである。
 私なりに学びたいこと,まずは,書いてみたいという気持ちと,いつも起った事象に興味をもつこと,不思議だと思ったこと,知りたいという好奇心が大切なような気がする。
 小学6年生の人の作品の場合,髄膜炎を患った筆者が,おばあさんの次の言葉「子規記念博物館も改築中,佳与も,休養中。休むことことも大事なこと・・・」から子規の妹の話を思い出しながら,書いている。
こうなれば,自分の頭の中にある蓄積データから,「ひらめき」がわかないと話は展開しない。今の世の中では,兄のために献身的な看護をして自分の人生を犠牲にすることなど,あまり考えられないところに病を患った筆者ならではの新鮮なひらめきがある。
 一番気に入った作品は,「長靴」である。いまでも残る小学校1年生の時,「長靴」をもらった想い出とその時の情景。「家から学校までの中間に大きな欅が三本あり,その下には守られているようにお地蔵様があった。
ここにしっかりと長靴を抱え,先に帰ったはずの修ちゃんがつまらなそうな顔をしてお地蔵様に寄りかかっていた。『これ,ときちゃんにやる。俺,男だから』」
 この表現を読んだとき,自分の小学校時代によく遊んだ神社の情景までは思い出せるが,そのともだちの表情まではとても思い出せない。これは感性の問題か。
 そして,その思い出が,新聞記事として掲載された「・・・今井修さんが作った米と,梨を宅配します」から思い出されたのである。
 はっきり言って私の場合,この年ごろの話はほとんど憶えていない。ただ,何かのきっかけで筆者のように思い出せばいいが,これもやはり好奇心と「ひらめき」の差なのだろうか。
 いずれにしても,まずは,何事にも好奇心をもつことだろうか。そして,へたなりに筆を取ってみることだろうか。
 


  • 林えり子作:田舎暮らしをしてみれば
「田舎」最近気になる言葉である。広島での生活は、あしかけ14年になるが、便利さや活気のある街から得るものもたくさんある一方で、昔から都会の雑踏はあまり好きではなかった。
 何かしら「田舎」という独特の暖かみがある言葉に、年老いたらその暖かみのある中で暮らしてみたいという願望が常にあった。しかし、現実の生活は、どんどんとかけ離れていき、実際住居をかまえたところは、都会と田舎の中間どころという実に中途半端な状態である。
 そして、田舎という言葉を気にかけながら、「快適田舎暮らしのすすめ」という本から、その暮らしを求めようとするならば、かなり前からの助走が大切なこと、「土いじりは心の癒し」「太陽とともに」「自然のきびしさ」「近所付き合い」といったキーワードがあることを学んだ。
 今回の本は、 筆者の長年にわたる「田舎」へのあこがれ−テレビか何かで盆暮れに手荷物いっぱいで新幹線へ乗り込む人の群とか、高速道路の数珠つなぎの車の列とかを、見るとああも大変な思いをしてまでも帰る「田舎」とはどんなところなのか、さぞかしすばらしいところだろうと、指をくわえる気持ちになった−から「田舎」に第二の家探しを求めるところから始まる。
 昭和30年代、私たちの少年時代のごく普通の小さな町にも、この本の最初にある次の童謡詩にあるような「兎追いし、かの山、小鮒釣りし・・・」といった「田舎」はごく普通の町にもあった。
 それは、自分がどんなことをして遊んでいたかが、いくらでも思い出させるぐらいだから、面白くないことやけんかやいろいろあったが、ほのぼのとした楽しい毎日であった。
 その遊びも自分たちで考え、自分たちで作ったり工夫したり、新しいルールを作り出して遊ぶ、お仕着せのものでない、単純で金もかからない、もっとも金もなかったが。
 この本の中には、筆者が実体験しながら、ネットワーク作り、クチコミ情報の入手の仕方、いろいろな場面でのたよるべき人の選別、といった田舎生活でのノウハウが披露されている。
 さらに、季節の変化とともにおとずれる自然の移り変わりが、筆者の巧みな文章に表現され、その季節の自然色が鮮やかにイメージできる、少しその表現を紹介してみよう。
 「コスモス街道にふちどられた田んぼは、たわわに実った稲の穂が鮮やかな黄金色を放っていた」「わが村荘の白樺も翡翠色に透き通った葉をひらめかせはじめた」「野沢菜畑だけ常夏のいぶきをまきちらしていた。その葉の色はハイビスカスの葉に似た濃緑色・・・」「ちいさな原っぱに出た。すすきが白金の穂をくじゃくの羽みたいに広げていた、赤紫のアザミが・・・野性のオミナエシは黄色い房を可憐に振っていた」
 いかがだろう総天然色の自然の情景がイメージできただろうか。
 「田舎」は、日本人が昭和30年代以前に忘れたきたいろいろなものを思い出させてくれる。団塊世代以上は、だれしもあの懐かしい少年・少女時代にもどりたいと思っている。陽が昇るとともに行動を開始し、陽が沈むとともに一日の生活が終わる。
 果して定年後の生活で、そんな生活ができるのだろうか・・・・と思いつつ。
 


  • 石川英輔:田中優子作:大江戸ボランティア事情
江戸時代といえば思い出すのは人物・制度それともなんだろうか。私の場合,徳川家康,封建制度(士農工商の身分制度),鎖国,寛政・享保・天保の三代改革等といったところだろうか。
 一方で,戦国時代という殺戮の繰り返しから,250年という平和な時代と鎖国による日本独自の文化を作り上げたことは以外と忘れられている。
 21世紀高齢化社会を迎えようとしている日本にとって,心の豊かさを求めようとしている現代人にとって,江戸時代にはその見本が多くあるようである。今の状態に拙いことが多いのであれば,「歴史に学ぶ」と言われるように,江戸時代のいいものを吸収すればいいのではないか
 江戸に「お」をつけても似合うが東京に「お」をつけても似合わない。いまだに「江戸っ子」という言葉があるように「東京っ子」といってもピンとこない。大江戸はおおえど大東京はおおとうきょうとは言わない。といった具合に、江戸という言葉には独特の響きがある。
 本の帯にもあるように「お上を頼らず金かけず幸せに生きる江戸の知恵」,金に固執する私たち,お上に頼りすぎる現代人にとって,21世紀を迎えるにあたって古くて新しい方向性が,江戸という時代には何かいい知恵が溢れているような気がして読んでみた。
 それぞれのチャプタごとに,長屋,お師匠さん,火消し,旅,村,大家さん,連,ご隠居のキーワードで話は展開していく。
 どの言葉の内容・仕組みも,人間同士のきずなに頼らず,ツールに頼りすぎる効率・スピードをよしとする管理社会に住む私たちは,もう忘れかけたものばかりである。
 島国根性といわれるかもしれないが,日本の独自性は,なにかしらこの時代のこのキーワードにあり,21世紀の指針がこの中で見出せるのではと思えるのは私だけだろうか。
 では現代のいろいろな分野でのてずまり状態をあげ,チャプタごとにある学ぶべきフレーズ等を少しここで紹介し,あとは気になるフレーズに載せたい。まずは,「隣は何をする人ぞ」といわれる現代,これには「長屋」から,「向こう三軒両隣」といわれた時代の人間のきずな,相互扶助,依存しない,そして決してお上を頼りにしていなかったことが浮かび上がる。
 いじめがはびこり授業が成り立たず学級崩壊という言葉まで生み出している現代の教育制度,これには「寺子屋」から,「ボランティア的な教師と多種多様な教科書を作り上げ,世界一の識字率を達成していたという」今は先生と言われながら、その権威さえ自分の職務の誇りさえ失いかけているが、江戸時代の教師には日本的ボランティアの本質がうかがえる。
 もうひとつあげるならば,高学歴者で社会的に地位の高い人たちの不正がなくならない現代,これには「隠居」から,私が知らない多くの活躍した人の名−野田泉光院,夏目成美,佐原鞠塢、亀田鵬斎、大窪詩仏、伊能忠敬、…−が出てくるが,いずれもいつまでも権力にしがみつかない,その「引き際」のきれいさに感銘する。
 タイムスリップして一度はいってみたい大江戸と言ったところでありましょうか。

 


  • 遠藤周作作:周作塾
すでに亡くなられた芥川賞作家,この人の作品は一冊も読んだことがない。本を選択するとき,はやりのものを読もうと思えば,単行本となるが,値段が高くなる。2年ぐらい我慢すると,ベストセラー本は,文庫本になる。その単行本も雑誌等に継続して発表された本も結構あり,未発表のものをみつけるのはなかなかむつかしい。
 余談はさておき,筆者については一時期テレビにレギュラー出演していたころ,ユーモアのある人だという印象が残っている。
 今回の文庫本は,過去「ペントハウス」という男性雑誌に1984年〜87年かけて掲載されたエッセイである。
 最近エッセイ本が気になり,副題で「読んでもタメにならないエッセイ」ということが気になり,気分転換に買ってみた。
 40編からなるエッセイだから,自分の好きな編を適当に読めばよい。実に気楽である。内容も男性誌に掲載されたものだから異性に関することが多くさらにユーモアがあちらこちらに顔を覗かせてくれる。
 ためになるかためにならないかは,やはり読んでみないとわからないが,生活術としてのちょっとしたコツが筆者の蘊蓄から披露されている。。
 なるほどと思ったキーワードは「好奇心,名前,第一印象,女友だち」である。
 さらに詳しく言うならば,好奇心が第二の人生を豊かに楽しくし,「どんなツマらなく見える環境でも生活でも,ひょっとするとあなたを楽しくさせる宝物がかくれているかも知れぬということである」ということである。
 次に名前は,誰しも表に出ている自分と違う自分がもう一人いるように思っている人は多いし,その自分を表に出してみたいとも思っている,もちろん多重人格やジキルとハイドとも違う。
 できれば日常生活の輪とは違う輪を作ってみたいと思っている。サラリーマンの多くは定年後,新たにその輪が作れるか,輪に入れるかで第二の人生の楽しさが変ってくる。
 インターネットというネット上の世界では,すでにその世界が広がりつつある,それは「ハンドルネーム」というものである。私自身にもハンドルネームがある(アミーゴ(阿弥語))ぐらいだからだれでも2つの以上の名前を持つことはごく普通に可能になったようである。
 次に人に会ったときの第一印象,新入社員のころよく聞かされた言葉である。いまだに妻は私の第一印象のことを面白可笑しくいう。まあご縁があったのだから,私の第一印象はよしということだろうか。最近は,むつかしいおじさんになりつつあるから,たぶん第一印象の悪いおじさんになっていると自分でも思う。
 おわりに女友だち,「友人でいたい女友だちとはセクスをするな」つい異性とえば,セクスの対象と考えてしまう,あさましい煩悩がある。昨今は,セクハラになりかねない。このフレーズは,年老いてつくづく重みのあるもののようだ。男の世界は仕事でつながり,定年後も続くことは少ないのではなかろうか。
 そういった点からすれば,セクスのない女性関係は,長く続くが大切なことはお互いの趣味が同じと言う共通点がないとむつかしいと思う。
 この本は最後まで,肩が凝らない話題の本でした。
 


  • 遠藤周作作:ぐうたら人間学
先週に続き狐狸庵先生の作品を文庫で読む。
 ぐうたら人間学とぐうたら生活入門の二部構成,前者は27年前に「夕刊フジ」に掲載されたエッセイ,後者は34年前に「宝石」に掲載されたエッセイである。
 前作品と同様,肩の凝らない,ちょっと空いた時間にすぐ読める作品である。
 「ぐうたら」という言葉で凡人は,筆者がどんな作品を書いているのか読みたくなってくる。
 ほとんどの作品が落語の小話のようにオチがある。読むエッセイごとにどんなおちがあるのか,そのオチがでるまで一気に読んでしまえる。抱腹絶倒までいかないが,かならずクスッと笑えるネタはある。場合によっては,顔にしわができるほど,大笑いできるかもしれない。
 ただ,大衆の場でニタニタと笑っていると,変な人と思われかねないので要注意である。いずれにしても筆者のするどい人間観察からいろいろな人間模様を知ることができる。
 ふとこれは自分のことを書いているのではないかと思ってしまうエッセイもあり,思わず失笑してしまう。
 「うんこ,チンチン,オナラ,トイレ」の話等(気になるフレーズに一文あり),下品さを好まない方には,うけない作品かもしれない。私はこの本で気分転換ができるのだから,下品の部類に入るのだろう。
 といいながらすべてがそんな話ばかりでもない,真剣に人生を考えるものもところどころにちりばめられている。
 特に老いと死について語る,「狂った秀吉」「死について」の作品の中では,次のようなフレーズが気になり「老い」「死」を考える機会を与えてくれる。ちょっとフレーズを書き出してみると。
 「人間の一生で一番,生きるのがムツかしいのは老年です。若いときや壮年時代は失敗しても社会が許してくれます。・・・顔も体も醜くなった老年には世間は許してくれません」
「たしかに我々が死んだって,社会や世界は,昨日と同じ営みをつづけていくにちがいないのだが,それを思うとやはり何だか辛く悲しいのは人情なのである」
 おわりに退屈したときとか,無力感にとらわれているときとか,何もしたくないとか,本に読み疲れているときとかに読んで,ニタニタかクスクスかゲラゲラかわからないが大いに笑える気分転換の本として是非おすすめしたい。
 
 


  • 遠藤周作作:生き上手死に上手
 またまた狐狸庵先生の作品を文庫で読む。
 同一人物の作品を三冊読めば,だいたいの流れがわかってきてどちらかといえば飽きてくる。狐狸庵先生は「好奇心を持て」とおっしゃるが,人間とは始末の悪いものでどうにもならないものだと感じてしまう。
 二つある名前を使い分ける先生の今回の作品は,内容的に言うと狐狸庵先生というより,まじめな遠藤周作先生の作品といったところである。
 1・2チャプタは,古人がのたまった格言とか俳句とかのフレーズを基に,話が展開されていく。すでに読んだ「ぐうたら人間学」「周作塾」と重複する内容がほとんどである。したがって,このチャプタはすーっと流し読みをした。
 私自身が最近気になるキーワードとして「死」「老い」「ムダなもの」「愛」「縁」を材料に全体の話が構成されている。
 若い世代には少し縁遠いテーマのようである。
 特に死に対する心境を率直に吐露している筆者がとても好きである。だれしも死は恐い,達人はみるかぎりその恐さが表に出ない。でもその内面は,実のところわからない。そこをあえて筆者はその内面を吐露しているのである。
 今回の作品で思わずなるほどとおもったことと,老いに対し,ただ朽ちるだけと思っていた自分がいい意味での再認識させられる部分があった。
 まず一つは,「愛することの第一原則は『捨てぬこと』」「自殺は愛の欠如」である。日本人は「愛とか愛している」とかといった言葉をすぐに口には出さない。さらに団塊世代は酔っても冗談でも妻にはもうさない。クリスチャンゆえの筆者の言葉か,もっともほとんどクリスチャンのアメリカでさえも離婚により妻や夫やこどもを簡単に捨てている。ただ単に性格の不一致だけだろうか。一応それになりに,ほれてかはれてか納得して結婚しても現実は厳しい。最近は熟年世代で多くの人たちが子供の自立を機会に,長年の結婚生活にピリオドをうち,捨てる行為をいとも簡単にやっている。もっとも捨てる神あれば拾う神ありで,適当にバランスがとれているが。
 現実は,家庭をかえりみず会社に尽くしすぎて疲れ果てた男たち,愛をうまく表現できない団塊世代の男たちが捨てられているのである。
 恋と愛の違いについて,気になるフレーズに載せているが,これは明快であり納得できる。
 次に老いに関し,「次なる世界への媒介感覚」という言葉がある。これは次の世界があると信じている人には,まことに響きのある言葉である。そうなってくると老いとは喜ばしきものに見えてくる。つまり考え方次第なのである。ただ「此岸」での生を失いたくないのが凡人であり,次の世界があると言っても自分で確認できたわけではないので,やはり凡人には死は恐いのである。
 そして,一番なるほどと思ったのは「縁の神秘」をテーマにしたところである。
 「縁などという言葉を口にすると,おそらく若い人たちには笑われる」といいながら,わたしたち団塊世代になるとまちがいなくやはり「縁があって」という言葉をつい言ってしまう。それは年を重ね,経験を積んだ結果としてのたまう言葉で,いましみじみとその言葉に納得している。
 
 


・メニューへ(ここをクリックしてください)