• 中野孝次作:風の良寛
「良寛」という名で思い出すのは,童と一緒に毬つきをする心やさしい人物像だ。
この本は良寛が詠んだ漢詩・長歌・施頭歌・短歌を解説し,現代人にない貧乏(托鉢)をベースにした良寛の生活ぶり,人生哲学を紹介しながら,反省を促す書といえる。
ただ私の場合,漢文や文語体を見ると頭が痛くなる,果てしなき欲望を追い求める現代人にとって,いい教訓が一杯なのだろうが。
したがって,読み終えるまで,かなり苦しんだ。筆者が「現代はおよそ苦しむことを絶対悪のように見なし,苦の原因はたちまち排除されるがその代償として,自然の与えるよろこびを享受する感性は,便利・快適になった分だけ薄くなっている」というように,そういった意味からすれば非常に意義のある読書であったと思う。
先人に学ぶことの大切さを改めて知ることができたことも事実であるが,私の場合,まちがいなく良寛さんのようにすべてを棄て,その日が暮せればいいという心境にはとてもならない。
これは中流意識の強い日本人にとっても,いまさら冷暖房なしの貧乏な生活には戻れないし,老後や将来設計に備えて貯蓄をすることをやめることはできないのと一緒である。
日本人はそんなに贅沢三昧のできる国民ではない,たいていの人が年をとるに従い,不便さ不快適さも大切なことであることもわかってくると私は思っているのだが・・・甘いのかな。
ただ,最初のチャプタで筆者が「真の幸福は悟道とむすびついているのなら,貧乏にならぬ現代人はついに真の幸福と無縁であるのか」の疑問を発していたが,その答えは自然に眼を向け,死生観を体験せよということのようであった。
仮にこの時代に良寛さんが生きていたならどうしたであろうか,当然のことながら宗教の世界の坊主たちに嘆くだろうが,同じようにすべてを棄て托鉢で生きていくのだろうか,ある意味で,ホームレスの人たちは真の幸福を享受しているのかもわからない。
少し気になることがある,それは筆者がインターネットにかなりの嫌悪感を覚えているということだ。
死への体験を説きながら,インターネットなるものを体験したことがあるのだろうか気になる,「人種・年齢・性別・国・貧富・体の自由・不自由」の差を超えて新しいものが見えてくるのではと私は期待しているのだが・・・特に障害を持つ人にとってはITそのものが支援のツールとなるのは間違いない。
ただ,日本では21世紀は「心の豊かさ」が求められると言われながら,外圧に左右されすぎて,日本としての21世紀へのグランドデザインが描けないまま,とうとう21世紀になってしまったところが気になるところだ。
20世紀末には不可解な新興宗教がはやって終ってしまい,既存の宗教は精神的に荒んだ現代人に何ら示唆する力もなく終ったように思える。
筆者は「ではなぜ,そのゆたかになった社会に生きる自分たちに真の幸福感が薄いのか」と言っているが,中流意識の強い日本人にとってかなり幸福感では満足しているのではないかと私は思っている。それはこんなに政治家や政治が腐敗していても,不景気でリストラが行われても,それなりに多くの人が堪えている姿があるからだ。
現実に消費が伸びなかったり,少しでも安価な商品・店舗に足を運ぶ日本人をみれば,それなりに節約意識が強くなっているのは事実である。
ただいまだに成長率だけを追い求め・既得権にしがみついて金を使うことに意義があるとする古い体質の政治家たちの愚かさだけが浮き出ているような気がするのは私だけだろうか。
では,私がこの本で何を学んだかというと,際限のない欲望を追い求めるのではなく「少欲知足」ということになるだろうか。
さらに自分に厳しい良寛さんでも少しほっとするのが,晩年の「貞心尼」との心の触れ合いと自分の弱さを常にさらけ出しているところが大大好きである。


  • 佐藤愛子作:我が老後

普通一人暮らしのおばあさんにはあまりばたばたと事件は,起こらないはずと思うのだが,著者の家はいささか趣が違うようで,毎日おこるさまざまな出来事のエッセーなのである。
それも何か,ドタバタ喜劇を見ているようである。
登場する人間は筆者ご本人と娘と孫の桃子とお手伝いさんと娘婿が少し。
主役はペットであるはずの犬のチビとタローとグー,いんこのピーとプー,そして孫の桃子だ。
なにせ相手は人間の言葉がわからないのだ。もちろん孫も生まれたばかりの時からと一才ぐらいだから言葉が通じない。
それにしても普通のおばあさんなら,こんなに行動的にはなれない。
また,それぞれのチャプタを読みながら実に観察力がするどい。
特に長年同居している犬・チビとの格闘場面とチビの行動を知り尽くしているはずが,敵もさるもので,その裏をかいたりお手伝いさんを味方に入れたりと。
チビのすることが気に入らないことばかり,タローのめしを食べたり,戸をかってに開けて家の中に入ったり,いつも食べてばかり,いい年をしてタローに発情し,セックスを強要する。
ペットと言えば癒し系なのだろうが,どうも日常のけんか相手ということなのだ。
二匹の犬で十分なのに,娘がピーとプーの 同性のインコを連れてきたからまたまた大変。
プーがピーを籠の中で頭をつつき回しいじめるのだ,先生いたたまれずピーを籠から出して部屋の中で遊ばせ,プーを一匹に。
そして,さらに犬のグーがやってくるのだから。
執筆をしながらその合間に,遊んでいる,遊ばれている,いや癒されている,おちょくっている,からかわれている,それとも動物虐待か。
まあどう判断するかは,読んでから判断されればいい。
誰に煩わされることなくひとりでゆったりと執筆活動をしたいように思えるのだが,どうもほんとのところよくわからない。
読み続けるとどうも楽しんでいるようにも思えるのだ。間違いなくエッセーになっているのだから。
一人での寂しい生活が好きでない人には,けんかのできるペットをおすすめしますといっているようなものなのだ。
日常の犬・鳥・孫とのやりとりがイメージでき,思わずニタニタと笑いながら,最後まで読んで・・・。
最後のチャプタ「いつもと同じ朝」では,心臓の疼痛から死期を悟る部分と突然死んだ自分がどんな状態で発見されるのかその時の周囲の人間の表情等。
そして,知ってるつもりでの兄サトウハチローの話が小綺麗に感傷的にまとめられていることが気に入らないこと。なんだかんだと思いながら,疼痛も治まり眠りに落ちた。
そして,なにごともない朝が,チビとタローとお手伝いさんのいるいつもの朝が・・・



  • 吉村昭作:法師蝉

吉村昭作品といってもいつもの歴史小説ではない。
9編の短編小説である。
男のセカンドライフをテーマにしたものばかりである。
筆者がエッセーとか短編小説を描くとき,かならず二十歳の頃の肺結核の闘病生活がでてくる。
今回の作品のなかには,人の死の儚さ,さみしい男のセカンドライフ,運命というか宿命のようなものが感じられた。
男は定年近くなると,同窓生の訃報が届き始め,元気だった同級生の死に自分の死が近づいていることに気付く。
それと同時に妻の元気な姿ばかりが目に付くようになり,なにもすることがない,時間を持てあますおのれに惨めさを感じるようだ。
少し紹介してみよう。
肺結核の闘病生活で余命も少ないと思っていた自分が生き残り,その時見舞いに来てくれていた同窓生が,定年後妻から離婚を要求されて離婚後一年で他界するという「手鏡」。
定年後,「まぶしくて起きてしまうじゃないの」「新聞紙をひろげる音がうるさくて,たまらないわ」等,妻の何気ない言葉に「探すな」と書き置きを残し旅に出る男,それでも港町に住む夫を妻が迎えに来る「海猫」。
定年後,妻から性生活を拒否されたり,「これからは自分の思う通りにして楽しまなくちゃ」と言われたり,息子や娘からも見放されている自分が空気のような存在に思え,空気が流れ出るように書き置きもせず旅に出る男。妻が迎えにくるといった場面はないのでどういう結末かは見えない「秋の旅」
隣近所の夫婦同志が不倫後,心中,残された家族の表情と葬式シーンがある「或る町の出来事」
勤務先に「悠々自適」と書いていた友人の死の前の同窓会での姿が,羽化する法師蝉とダブル,葬式を終えて自宅に帰ると,「私の方が先に死ぬ。平均寿命も男の方が短い」「いえ,死ぬのは私の方が先です」と会話を交わしていた妻が,突然,死を迎えていた,「法師蝉」。
いずれも,死の儚さと何ともつまらない男のセカンドライフが浮き彫りにされている。
それにしても家庭に戻った男のふがいなさというかもろさというか,自分が建てた家なのだろうが,プイと旅に出ていく。実に侘びしい。
人間の死を法師蝉の羽化にたとえる部分は,実に儚さを感じさせるに十分だ。
とはいえ,それに比較し女性の力強さだけが目立つのが気になるのだが。ぐさりと男の心をえぐるフレーズと男のグチ・ひがみフレーズは「気になるフレーズ」に載せておこう。
世の奥さんたちへ,こんなフレーズひょっと口走っていませんか,男はすっといなくなりますよ。せいせいしてちょうどいい失礼しました。


  • 佐藤愛子作:なんでこうなるの

テレビの画面でいえば,主人公の愛子ばあさんが, 右から出てきたかと思えば,左へ消え,左から出てきたかと思えば右に消える。
その繰り返しも生半可ではない。とにかく忙しく駆け回り,あっちに文句言っているとこっちが気になり,こっちに文句を言ってるとあっちが気になる。
そのあっちとこっちにいろいな出来事が起こるのである。
昼の時間,文庫本を読みながら,大きな声で笑えないので,ひとりニタニタとしていたのだが,気付かれたかな。
特に最高だったのは,愛子ばあさんが裸で風呂から出てきて電話口に出て,風呂場で急いで返り,転倒,不謹慎にも思わず70才のおばあさんのとどの姿を想像してしまった。
さらに同じ家に住む,甥との退去トラブルでいきがかり上から,「70才にして建つ」家を建て替えるという,暴挙ともいえる行動に出るのだからすごいバイタリティである。
さらにさらに引っ越しの荷物の片付け中に,人生相談の電話が入る。不治の病になった娘の夫がホストクラブに,そこで月百万円を出すという64才のおばさんとの性交渉で35才の娘婿のムスコが立つだ立たないだという下りは,はしたなくも単身寮で大声で笑ってしまったのだ。
その後が少し気になったのは,20数年前に保険屋に同情して掛け,すっかり忘れていた保険契約の満期通知 が来たが,その証書がない事件。余計なお世話だが満期金は受け取ったのだろうか?
それからラップ音を出したり,トイレットペーパーのいたずらをする狐霊は,チビが死んでからどうなったのだろうか。
大物の気配が漂い,ダサい幼稚園服を着て,セーラームーンを演じる,孫の桃子のその後が気になるのだが・・・。
つぎの連載を是非早く読みたい。こんなに面白いエッセーは,一人だけで楽しんではもったいないと思う。是非妻に読ませてあげよう。
終わりの解説が面白い。この人どうもSF作家みたいである。
少しフレーズを紹介しよう。「『こらっ』と怒られた気分でした。本の中から声が聞こえてくる。活字が刺々しく紙に刺さっている」という表現は,まさにその通りでこのエッセーにぴっ足しなのだ。


  • 佐橋慶女作:あなたは老後,誰と,どこで暮らしますか

お国の老人医療の恩恵を受けられるのは70才から。といっても自分がそこまで生きられるかどうかはわからない。
ほとんど病気というものを体験していないから,体験すると重いものになりそうなことだけは予感できる。
この文庫本には,60才前後を中心にそれぞれが夢と現実のはざまでのメッセージを発信している。
編者のネットワークが募集,応募総数千通足らず,男性三割弱。この本への,掲載エッセー数200弱。
読みながら,女性の力強さだけが目立つ。どの生き方を参考にするかは,それぞれの配偶者やその仕事,子供とその仕事・仕事先,住環境に左右されよう。
ただ,老後を充実したものにするためには,団塊世代の男たちにとってかなりの決意が必要であろう。
それは男優位の男社会にどっぷりとつかってきたからである。
編者が冒頭で言う「定年を境に家庭内離婚や定年離婚あるいは定年妻休職があることをうかがい知ることができます。余白に追伸にそうした実情を吐露している女性が意外に多かったことです」が一番気になるところだった。
団塊世代の男たちは,これから老後の滑走路に入ろうとしている。
しかし,そのこと自体を避けようとしている人が目立つように思う。
肉体的な若さだけが世の中で生きられる大切なポイントように見えるから,老若男女ともそのことに狂奔し,金で外見を取り繕おうとしいるように見えるからだ。
エッセーの中で,夫婦の老後がうまくいっているものいきそうに思えるものは,男たちが妻を思い,家族を思い,お互いを理解し合っていることにあるように思う。
気になるフレーズは,男に対するものを中心に抜粋した。鈍感な男たちが気付くかどうかは,5年後,十年後の熟年離婚の増加を見ればわかるだろう。


  • 佐藤愛子作:なんでこうなるの

第一弾・第二弾に比べて,この第三弾はかけずりまわる愛子先生の姿はない。
愛子先生が少し年をとったのか,いじめが楽しみだった犬のチビがいなくなったためか,あまり事件がおこらなかったからか,比較的穏やかである。
とはいっても,普通人に比べるといろいろあるものだ。
百万円の金をいとも簡単に他人に渡す,それも口約束だけで,剛毅なのか人がよすぎるのか。
あるいは自分の車も簡単に渡す。愛子先生の周囲は人がよすぎると思っているが。
第三弾はこの百万円事件とそれにからんだ車譲渡事件から始まり,無言電話の話,孫とのやりとり,そして死にそうで死なない忠犬タローとの話である。
けたけたと笑ってしまったのは,「ゴミ虫」の話である。
やはり愛子先生は,好奇心旺盛なのである。通常この年では考えられないぐらい好奇心を持っているようだ。
たまごっちのにせものの話なのだが,とにかく白内障で目が見えないだ,なんだかんだと言いながら・・・。
たまごっちがいつウンコをするのか,まばたきもせずにあの小さな画面を何時間も食い入るように見ているのである。
それはまさしく,子供の目なのだ。巻きウンコが出現して思わず「出たァ,バンザイ!」,この声で娘と孫が駆けつけ,このウンコを箒で払うためにたまごっちの取り合いとなるのである。
そして,娘と孫が砂浜に出ているときに,テーブルに置かれたたまごっちが,「ピュルルル」と鳴いたから大変。愛子先生の活躍が始まる。
不覚にも文庫本を持つ私はけたけたと一人単身寮で大笑いしてしまった。
もう一編 気に入ったものがある。 それは「退屈なし」の話である。愛子さんのエッセーにはかならず出てくる自然と人間の関わりである。
私のようにただ漫然と生きているのではなく,いつも何かに興味を持っていれば思わぬ発見があるということだ。そのフレーズを紹介しよう。
「裏隣りの庇の上に小さな鳥が飛んで来て止まった。口に何かをくわえている。見ているとポロッと落した。何の実か,黄色いまん丸の実だ。嘴からこぼれた実は庇の上から地面へと落下して行くーと見るや件の鳥はサーッと飛んで落ちて行く実の下に回り込み,一瞬キャッチした。そのままくわえて庇に戻る。」
こんな遊びを繰り返す小鳥,人間側に小鳥を見てこころを遊ばせる気持ちがない限り,面白い発見はないし,このようなものは書けないのだ。
第四弾「そしてこうなった」があるみたいなので,早速書店へ行かなければ,ああとうとう私は愛子ワールドにはまってしまったのだ。


  • 林秀彦作:「みだらの」構造

題名からするとかなりきわどい読み物のように感じてしまう。
そう感じる人は,まだ日本人独特の想像力・創造力と感性の豊かさが一部でも残っているということではなかろうか。
とにかくまだ残っているだろう感性の遺伝子を刺激してくれる本であり,日本国だけ太陽神が女性であることを知り,改めて女性の偉大さをも知ることになるだろう。
「みだら」から日本論・日本人論を展開するのだが,まずは助走が長いことに驚くことになる。
この本は,「はじめに」で書き始めのふんぎりをつけようとする作者の苦悩が実に長く26ページ。
やっと本論に入ると思いきや,次に序章で「なぜ,いま日本のみだらを論じるのか」でさらに28ページもさいているのだ。
合理的な英語を言語として使用するキリスト文化の他律的な規範を,せっかちに,また無批判に鵜呑みすることによって,日本人共通の価値・道徳が失われているというのである。
さらにいうなら伝統的な日本の性文化,世界にも類を見ない日本独特な性文化が完全にくずれ,いわゆる味も素っ気もないものになってしまっているというのだ。
本論では,みだらな日本人は感性豊かな人間観,語感が素晴らしい摩訶不思議な日本語論,感情のないアングロサクソンとみだらの本質は「情」である,そして最終章では英語に訳せない日本のSM小説からみだらの構造をとき,白人が「量の文明」を求めたのに対し,日本人は「質の文明」を求めたのだと。
この本には,××××の四字の伏せ字がある。
あとがきにこんなふうに書かれている。「文中の××××は,勿論ンンンンのことである。この本を声を出して朗読するときは(そんなことはあろうはずもないが),ちゃんとその日本語を発音していただきたいものである。また別の味が出る」
さらにあとがきには松田征士「源氏物語」恋歌ポルノの解釈がのせられている。これがズバリ「みだら」だという。
ひとつだけ紹介しよう。「君し来ば手馴れの駒に刈り飼はん さかり過ぎたる下葉なりとも」
国文学の先生たちの現代訳では「あなた様が興になられたら,お召しの馬に飼い葉を与えましょう。いささか盛りを過ぎた下葉ですが」
しかし本当は次のような意味だった。「あなた様の元気のよい肉棒を私に貸して下さい。老いの身とはいえ,見事下のお口でくわえてみせましょうぞ」いかがでしょう。
「みだら」から連想する言葉が文中に並べられいてる。実に豊富であり,とめどもなく出てくるのだ。
おわりに,その言葉を紹介してみよう。
なまめかしい,若々しく,初々しく,しっとりとし,上品で,優雅で,情趣があり,奥ゆかしく,しみじみとしていて,ほのめかしがあり,あでやかで,色っぽく,ウブで,しとやかで・・・。
このくらいでやめておこう。あとはじっくり読んでみてください。最近ほとんど聞いたことのない言葉であり,こんな言葉を使っていたら,子ギャルから「チョーださい」と言われそうである。そんな情緒のない日本になってしまったのだ。
余談だか,そういえばこんなシーンを思い出した。吉村昭「落日の宴」の中に主人公の勘定奉行川路聖謨が家族との間でおおらかに猥談を楽しむところが出てくる。江戸時代にはまさに「みだら」は家族の中にも浸透していたのである。


  • 中野孝次作:老年の愉しみ

老人は老人なりに生きる。それは筆者の「今さら自分を変える気にはなれない」の言葉に表れている。私はそれは時代が変わっても変わりがないのだと思う。
いろいろな人からいろいろ言われながらも,結局は自分なりにそれなりに生きている人がほとんどではないか。結果の良し悪しは別として。
ただ,「今の日本は若者に媚びる風が強く,テレビはむろんのこと店でも風俗でも若者調になっているから,老人がそんな風潮に自分を合わせるのは不可能なことが多いのである」,
というように若いとき流行を追うのはいつの時代も変わりはないから,いたしかたないとして,四十代・五十代が同じように,「若さ」を追い求める姿はあまりいただけない。
日本・日本人のよさは,若者文化を認めながら,古き良きものも大切にする。
若者文化に迎合するのではなく,老いたものは老いたなりの人生に自信を持って生きている姿があったのだ。
それが,筆者にとっては,やたらと若さだけが目立つ今の社会,何か管理社会からやっと抜け出し,あるいはぬけだそうとしている多くのサラリーマンに,年なりの自信が失われているように見えるのだと思う。
このエッセイを読みながら,きれいで心がある日本語にお目にかかり,不思議にゆったりとした気持ちを味わうことができた。
少しあげてみよう。形見のスタンド,紙縒(こより),無上の時間,味読,貧とみやび,機縁,蟇は春を告げる使者,天が生命を仮してくれる,天与の一時,いかがだろう。
さらにこの本には,老いを生きるヒントがいろいろある。
特に印象的なのは,「少年時代の隠れ読みの悦楽」が高じて「書物こそ生の指標」となった筆者,ここに充実した生き方・人生が垣間見える。
やはり,少年時代に愉しかったことは,老いてもかならず愉しいことになるのだということ。第二の人生のキーワードのひとつは「少年時代」と私はつくづく思った。
そして,もう一つは,自然と生き物たちとの共生なのだと・・・・。



  • 藤岡信勝作:自虐史観の病理

この本の題名を見て,まず「 自虐史観」ってなんのことだろうと思うだろう。
そして,帯を見て,「自分の国がそんなに嫌いですか」と問われている。
熱烈な愛国心はなくても,自分の国が嫌いかと問われて,嫌いだと答える人は少ないと思う。
筆者の定義による「自虐史観」とは,自国民を人類史に例のない残虐非道な人間集団に仕立て上げ,自国史を悪魔の所業の連続のように描き出す。
自国にムチ打ち,呪い,ののしり糾弾する。こういう歴史の見方,精神的態度をいう。
特に戦後50年以上も平和が続いている日本人にとって,治安は少し悪くなり,平和ボケはしているものの居心地はいいはずだ。
日本の歴史と言われても,あらためて考えたり,深く掘り下げて考えた人は少ないと思われる。
歴史と言っても,近現代史である。この本でスポットがあてられているのが,「従軍慰安婦」「南京大虐殺」等なのだ。
読み進めるに従い,何かしら天下の大新聞が情報操作をしているとしか思えない,部分にぶちあたる。
ポイントは少ないのだが,実に執拗だ。誤った事実を大きく記事として取り上げていながら,一切誤りを認めない。
政治家が汚職をしていながら,逮捕されながら,裁判で負けるまで過ちを認めないのとあまりにも似かよりすぎている。
裁判になれば長期戦だ,そうなれば人々の記憶は薄れ当然関心も薄れる。ただそれを待っているようでもある。
事実は,大切なことだ。ましてや外交問題に発展するようなことは,ところが,今の時代に生きている日本人が,過去の日本人のしてもいないことを 創作し,それをさらにマスコミを使って拡大,日本だけでなく世界に向かって発信しているのだ。どういっていいのかわからない。
なんのために,自分の本を売りたいがためだけなのか。さみしいかぎりだ。
日本人とはなんだ。愛国心とはなんだ。過去の人がしてもいない残酷なことをなぜあたかもしたように言わないといけないのか理解できない。
戦争は まちがいなくいけないと思っている人はほとんどである。また,その戦争中に男の性欲を処理するために慰安婦を商売とせざるを得なかった女性たちにはだれもが同情するだろう。
大切なことは問題をすり替えているとしか思えない大新聞の報道姿勢にある。何を守ろうとしているのかと考えざるをえない。
筆者は,「新しい歴史教科書を作る会」を平成9年に立ち上げ,そこで策定された歴史教科書が文部省に昨年検定申請された。今年2月末に合否が確定するのだ。注視していたいものだ。




  • 吉村昭作:遠い幻影

本屋に行くとまず探すのは,吉村作品の文庫本でまだ読んでいないものがないかである。
吉村作品はかなり読んできたつもりだが,戦史小説については全く読んでいない。
意識的にはずしている。短編小説,エッセイ,歴史小説,取材ノートの公開を読んできた。
今回の作品は短編小説である。過去読んだものに比較すると少しものたりない感じがした。
だから,気になるフレーズは,今回は少なくなってしまった。
なぜだろうか。自分がいま求めているテーマでないからかもしれない。
とはいっても,十二編のうち,心がほのぼのとした一編が妙に印象に残っている。
それは「梅の蕾」である。
無医村になった村に,一流の医科大学を卒業し,癌センターで枢要な地位についている医師がやってくるまでの村長の心の動き。
白血病に冒された医師婦人,日常生活を通じてその人柄を慕う村人,そしてその婦人の死,葬式への村人の参列。
その村人の行動に心打たれた医師は,子どもを妻の実家に預け,単身赴任で診療業務を続けるというストーリーである。
テレビの発達した時代こんな話は、ニュースにもならないのかもしれない。
人の不幸を野次馬的に追いかけ、他人のプライバシーを徹底的に表にさらすことをニュースとして楽しんでいるのだから。
品性なんて関係ないのである。心の中は暖かい人のぬくもりを求めながら、表は自分には関係ないと他人の不幸を楽しむのが現代人なのである。


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