• 遠藤順子作:夫の宿題
狐狸庵先生は,その作品の中で「愛の第一原則は捨てぬこと」「恋なんて誰でもできるもの。愛こそ創りだすもの」と言っていた。
 また,「階下の茶の間では家族たちが談笑している。その声が書斎まで聞こえてくるのだが,下におりて皆と話す気持に毛頭ならない。それに私が茶の間に入ると,今まで話をしていた家族が一瞬,口をつぐみ,白けた表情をするのもよくわかるからだ」といった家族の風景も描かれていた。
 あるいは,老いとか死について多くのエッセイも書いている。
 そんなことから,先生の奥さんがどんな人で先生をどうみていたのかということと,死を迎えるにあたって狐狸庵先生はどうだったのかを知りたいという願望があった。
 本屋を巡回の際,記憶の隅にあったこの本「夫からの宿題」を急に読んでみたくなったのである。
 たぶん狐狸庵先生の文庫本を読まなかったら,読むこともなかっただろうと思う。
 チャプタ1は,狐狸庵先生が,移植しない限り治らない腎不全を患ってから臨終を迎えるまでの医者の治療について,チャプタ2は遠藤周作の人物像と筆者との関わり,チャプタ3は筆者と共に体験した旅行先等でのもらった宝物,チャプタ4は心あたたかな病院運動,そして夫との別れと次なる世界での出会いを待ってで構成されている。
 まず,狐狸庵先生は死線をなんども超える手術を体験していることを知る。肺結核で3度の手術,そして癌の手術,さらに肝機能と糖尿病改善薬の影響で腎不全を起こし,腹膜透析のための手術,結局これが命取りとなったとあるが,この手術に際し,他の病院での検査をしてダブルチェックすべきであったことが,残された筆者として未練を残している。
 誰もが家族が入院手術をする際,医者から示された内容でその時は,最善の選択をしたと思っていても,亡くなった後で,ああすればよかったと思うことがやはりあるものだと痛感させられる。事実癌でなくなったわが父の場合もそうであった。
 ただ,私たち素人は医者に全幅の信頼をおいている。だが,筆者が言うように医者が専門職化し,ある薬が特定の臓器には効いても他の臓器へ悪影響がでるかどうかは,全く知らん顔であるということ,要は神聖化された医者においても横のネットワークができる人が少ない,これは一般の企業と全く同じなのである。一つの診断が全て正しいと思わず,ダブルチェックを進めているこの本に共感した。
 チャプタ1と2で二人の縁と絆,3と4で夫の探しものと妻の探しものが同一化していることを知り,チャプタ5でふたりで創り上げた愛の深さを感じ,「あとがきにかえて」でさらに次なる世界でも二人は間違いなく結ばれるだろうと思える。
 ただ私は,次なる世界があるという確信はもちたいと思うが,いまだにわからないというのが,本音である。
 内容全体は遠藤周作氏に関わることで占められているが,日本人としてカトリックの日本での布教活動が実らないことについて触れ,日本人にあったカトリックになっていないのではと,指摘している部分は内部告発とは言え,するどい指摘ではなかろうか。
 結婚式,クリスマス,初詣等,神仏両方を自分が必要なときにだけ愛する日本人にとって,休日に毎週やってくるクリスチャンの布教活動は,「自分たちが信じる宗教だけが絶対普遍的なものであるはずだと考える」その考えがベースにあり,布教活動者が話す言葉もいつもそういったトーンでしか言わないと思っているのは私だけだろうか。さらにいまだに馴染めない親しみがもてないのも私だけだろうか。
 


  • 隆慶一郎作:時代小説の愉しみ
時代小説・・・・という表題につられて買ってみた。
 内容はすべてが時代小説に関するエッセイではない。作品自体も10年前に単行本化されたものを再版したものである。筆者も10年ほど前に亡くなられている。
 筆者はシナリオライターを30年間経験し,戦国期から江戸初期を題材に多くの時代小説を描いている。残念ながら私は一冊も読んでいない。ただ「影武者徳川家康」などの作品からすれば,歴史の事実を忠実に描きながら,適当に筆者独特の虚構をと織り交ぜ,読者を引きつけるという手法のようである。
 この本の中にもあるが,「叡山逃亡」では,景山春樹氏の作品を読みながら「僕が勝手に描いた妄想であり,白日夢である」というように,時代小説家というものは,いくつかの事実があればそこからその情景が浮かび,登場人物の会話が聞こえてくるものらしい。
 また,史実を調査するとき,その種を古本屋にも求めるらしい。この本の最初に「時代小説の愉しみ」というエッセーがあるが,その中には,少年のような心を持つ筆者が見えてくる。「店へ入る前からちょっぴり鼓動が速くなる」なんてフレーズは,時々古本屋に足を運ぶ私には少なくともない。
 いまではなくなったが,社会人になったころ本屋でエロ本を読んでレジに持っていき,包んでくれるまでの間,そんな気持ちにはよくなっていた。そこには嫌らしい気持ちだけで,探求心旺盛な少年のこころはない。
 「ぱちぱちと電気がはじける」「目次を見るだけで・・・イメージと観念が,頭の中をとび交いはじめる」「・・・そんなことを考えていると,妙に高揚し,はりつめたいい気分に・・・」といったフレーズに時代小説家としてふさわしい職業病が出ている。
 では自分には,いま夢中になれるものがあるだろうか,強いて上げれば自作のホームページの材料を考えているときだろうか。特に夢中になっているのは,動画であるが。
 歴史小説を読んでいると,かならずへーっと感心させられるものに出会う。それはいままで知らなかった事実を知ることである。この本の中では七道往来人:明智光秀に関することであった。筆者は題材の視点として,農業定置民の視点ではなく,きまった土地も家も持たず,全国を放浪して一生を終えた人々,自由人・非農業民(海人,山人,輸送業者)の視点で小説を書き,その自由人の一人が明智光秀である。
 現代のサラリーマンは,この自由人に似てきている。かってに名をつけるなら,さしずめ不自由人だろうか,終身雇用制がくずれそれは顕著になっている。雇用を維持するため,企業組織を流れていく。
 「叡山逃亡」「織田信長」では,信長がなぜ一向一揆を徹底的につぶし,比叡山の僧侶たちをジェノバ(皆殺し)したのかという推理はなかなか面白い。
 ただ一つ気になるエッセーがあった「気になるフレーズ」の中にも入れてあるが,筆者の死生観はいいとして,女性から申し出る熟年離婚が多くなった時代をとらえ,専業主婦には,「自分の人生が間違いじゃなかったよ,と仏様に告げられたように思える人が,今の世に何人いるのだろうか。特に専業主婦の中に,である。」というように,あたかも自分の人生は間違いだったと思う専業主婦が多いことを指摘している。
 なぜ専業主婦の生き方に賛成できないのだろうかと思う。専業主婦を作り出したのは,他ならぬ「男社会」という男優先の考え方に他ならない。そして,組織の中に埋没して家庭を省みなかった男たちへのリベンジでしかないと思うのだが。
 さらに誠に申しわけないが,自分の人生に自信が持てない人は,専業主婦以外にも沢山いる。人生について凡人は,どちらかと言えば「まあこんなものか」という妥協の産物でしかないと思うのだが。
 


  • 河合隼雄作:生と死の接点
人の一生−ライフサイクル−のうち,特に老いについては,あまり心理学的に分析されていないという。ユング派を継承する筆者にとって,ユング自身も壮年の次のステップとしての老いを自分自身の老いと照らしながら,分析を試みてきたが結果として成し遂げられなかった。
 この本は,その老いについて分析しながら,生と死のバランスをとることの大切さを説いている。内容的には哲学的なところが多いため,凡人にはかなり難しいが,昔話や児童文学作品に登場する人間関係,実際の心理療法例を通してわかりやすいものにしている。
 むつかしい専門的な言葉のある大きなチャプタ−昔話と現代,現代社会と境界性−については,思いきって飛ばし読みした。したがって,「生と死の間」について読んだことになる。
 自分の人生を考える上で,大切なものは何かを考えさせてくれる本であった。特に老いるに従い,関わりのあるキーワード「死の受容」「老いと無駄」「内面的成熟」「趣味と遊び」「夫婦」について,教えられるものが沢山あり気になるフレーズにも載せたが,大切な本として取っておきたい一冊になった。
 では二三のキーワードについて,教えられたことを少し書いてみよう。まず,「死の受容」については−死後生があるかないかを議論するよりも,死の後に続く異なる生への入口として受けとめる方が,はるかに老いや死を受容しやすくなる。あるいは死後の生命についてのイメージを創り出すことによって,われわれの人生はより豊かになり,より全体的な姿をとることになるのである。−という考え方で,吹っ切れた感じを単純な私は持てたのであるが,色々な種類の悩める人間と沢山接してきた筆者は,「現代人は,死後生を単純に信じられない」ということになるのか。
 そして,老いるに従い凡人は,自分が社会に役だっていたのかどうかを意識し始めるが,その時に気になるのが「老いと無駄」ということになる。これについては,「人生の後半において大切なことは内面的成熟であり,能率をよくするとか無駄を省くとかで科学的に弱いものとされた老人にその価値はないと決めてしまっている。」その結果,無駄のなくなった社会は,人間同士の関わりも無駄をなくそうとし,なぜかぎすぎすした人間関係だけが残っているように私には思える。
 さらに,筆者はそういった社会で育ってきた子供たちは,創造性に乏しい人間が育っていくともいう。
 「何か価値あること,意味のあることをしなくてはならぬ,と人々が忙しくしているとき,老人は何もしないでそこにいること,あるいは,ただ夢見ることが,人間の本質といかに深くかかわるものであるかを示してくれるのである」この意味を理解し老人に対する畏敬の念が思い醒まされればと思うのは私だけだろうか。
 朽ち果てていくものの見苦しさだけが,クローズアップされたり,若さだけがすべてとされる現代への警告ともいえる本である。朽ち果てていく自分たちに光を沢山あててくれるフレーズ−『「無駄をなくそう」と皆が努力している。これに対して「無駄を大切にしよう」と老人の知恵は語るのである。』『単純な発想によって現代において「邪魔者」扱いされる老人たちの存在は,現代のもつ弱点に対して,それをカバーし,反省をうながす知恵をそなえたものとしてみることができるのである』−との出会いは,50代にしてやっと探しているものを見つけたような気分が味わえたと思っている。
 


  • 南木佳士作:臆病な医者
 気分が滅入っていたり,病を担いでいたりする人には,あまりおすすめできるできる本ではない。
 とにかく前向きに,明るく生きている人にもおすすめできない。死とか老いとかは私には関係ないと思っている人にもおすすめではない。
 さらにいま現在,人生の頂点にあり,向かうところ敵なしで有頂天になっている人にもおすすめではない。
 ただなんとなく自分も死ぬんだと思い始めた人,老いていく自分はどうすればいいのか,いつ死んでもおかしくない年になって少し死について考え始めた人,自分が何かにつけて何のために生きているのかと,五木寛之作ではないが,「人生の目的」について考え始めた人に是非一読をおすすめしたい。
 すでに発表されたエッセイ,ミニ小説,書評が集約されている。エッセイの場合,こういった形で単行本になるのが多いようである。
 この本を読んでいると,医者が患者とのコミュニケーションを通じて,老いとか病とか死に対する人間の本性,宗教に対する考え方,生きているということについて,学んできたものを多様な人間像の表現という形で教えられる。
 たいていの人は,日頃,人の生死にあまり関わらない。だから,医者という立場の人は,この本を読むまでは,精神的にタフな人,すごく器量の大きな人,生死にとてもクールな人,冷徹な人,と思っていたのであるが,医者も人の子,生身の人間,うつ病になり弱い立場になった人間としてほとんどが表現されているところに自分のものとして取り込める要素が実に多い。
 また,筆者は作家と医者という2つの仕事をこなしながら,うつ病にもなって,得たものはなんだったのか,300人以上の死を看取ってきたればこその,本音の臆病な自分をそのまま表現したエッセイ・小説には,とても人間臭くて落ち着くものを感じる。
 さらに,ある裕福な家庭に生まれた女性の一生と,その病人の担当医との両側の感情を描写した2つのミニ小説は,とても印象的である。特に筆者の本音の部分をその女性に語らせる小説にテーマの「臆病な医者」が見事に描かれている。
 この本から多くのいいフレーズをいただいた。生きているということ,死で失う平等な現在,価値観,宗教観,ほとんどのものは,気になるフレーズで紹介するが,50代を生きていくのにとても大切なものを少し紹介したい。
 まず第一に,過去と未来そして現在,過去は現在思い出さないかぎりは存在しない,未来は現在頭の中で考えているだけで保証はない,つまり生は現在そのものであり,「生きていればなんでもありかも知れないよね」と語るミニ小説の医者のセリフのとおり,人がかろうじて持てるのはいま生きている瞬間なのである。
 次に,老いから死にいたる段階でも,多くの自分勝手な価値の衣を着たまま迎えている人間の多いことを教えられ,それが実につまらないことかも知らされる。にもかかわらず 90年代は,地位とか名誉とか金に翻弄されるエリート老年の集大成のような年ではなかったろうか。
 年をとればあるがままでいいのである,過去取得した価値観など老いとか死とかには全く関係ないのだ。
 おわりに,人間の本性−死に必要のない価値の衣を着ている,楽を選ぶ,ない未来に怯えている,真の人生の伴侶−についても教えられ,「ただ人としてあるだけ」「名もなき老人患者」「意味のある死などというものは存在しない」という言葉に筆者の達観した人生観を感じた。
 


  • 田辺聖子作:楽老抄
「生と死の接点」「臆病な医者」等と人生論の基本に関わる事について書かれた 本を最近は読んできた。
どちらかといえば,若い時にはほとんど考えたこともなく,ただぼんやりと何と なく,あるいは触れたくないテーマであった。
だから,読む側も少し構えて,うち向き,深刻になり,暗くなるようなテーマが 続いたように思う。
別に意識して買ったわけではない。今回は少し意識して人生を楽しく老いる,そ んな話題の本を選んだ。
本の題名は後でつけたものだろうが,この作品もすでに91年から97年にわた って発表されたエッセイが集大成されたものである。
率直な印象は,第二の人生における女性は「力強い」という一言である。
さほどわくわくしたとか言ったものでもない。大阪弁(私たちは関西弁と言って いるが)の「まんにゃ」「ちゃうんちゃう」「しよる」「まへんか」「おまっ せ」といった方言の言い回しにとても温かみを感じ,さらに少年時代を思い出さ せる,映画,南京虫,将棋の駒立て,ブロマイド,おまけなどの話に時を急がな い,セピア色の世界を連想しながら読み進んだ。
読みながら,少し困ったのは漢字の読み方がわからないのが,ポロポロッと出てく ることである。また,読み方も少し違い余韻が残るようなこんな読み方もあるの かと感心しながら,言葉を知らないことをしみじみと感じた。
 特に印象的な言葉として,大阪独特の人物評・モノの表現で「はんなり」とい う言葉である。そこにあるだけでまわりの空気が暖くおかしくにじみ出すことを いうらしい。関西弁と同様になんともいえぬ,笑みが思わず湧いてくるような感 じなのだ。
実にいい表現だと思う。私の周囲でそんな「はんなり」が一人だけいる。あなた の周囲はどうだろうか。
 もうひとついい言葉がある。仮に妻に先立たれたとして生き残った男が世渡り をする術が「男の自立」として記されている。一般的には,「男やもめにウジが わく」と言われたり,男はなかなか立ち直れないとも言われている。
 「唯一,何とか生き延びる道は2つ。これを教えてやろうと思う。1つは『あ りがとう』というコトバ。1つはにっこり笑った顔のいいこと」だそうである。  私の場合,ありがとうという言葉はごく普通に言えるようになっているが,笑 顔を作るのは実にむつかしいと思うのだが。ちょっと鏡を見るとき意識して笑顔 を作る練習でもしてみようか・・・・。
 


 
  • 吉村昭作:街のはなし
月刊誌「クレア」に連載されたエッセイ79編である。と言っても私は「クレア」なるものを知らない。
この文庫本の構成は、ちょっといやな気分になった話といい話、女性の本性をみた話、日常の家庭での出来事、小料理店やらうまいものやうまいもの店やの話の四部構成である。
いつものごとく、エッセイは気が楽だ。どこから読んでもいいし。読んでて面白くなければ飛ばせばいいのだ。
日常生活の中で、ちょっと注意深く見ていると人間って本人が気づかないところで、その人の地が出ている。
その動作に関心があるかないか、おやと思ったときにメモリーに入れておくだけで、こんなにたくさんのエッセイのネタがある。描ける能力は別として。
読んでてクスッと笑えるものが結構ある。
また、女性の力強さのようなものを感じるものも結構ある。さらにいいのはちょっとした楽しみを見つけるント、酒肴や食べ物に興味のある方はその店の探しかたまである。
「街のはなし」という題名より、男が人生を楽しく生きるヒントという副題がピッタリなのである。
いつものように、気に入ったところを少し紹介しよう。
 ひとつは50代の男には身につまされる話である。「結婚して年を追うにつれ、夫が妻の前で弱々しい眼をするようになり、その原因が、家庭の食事にあることに、私は気づいた。
 妻がととのえた食物を夫が食べる。それが繰返されているうちに、自然に夫の眼は次第に弱々しいものに変化する」いかがだろう、思い当たるところはないだろうか。
妻がいなければ、自分の身の回りのことさえできない男は沢山いる。もっとも最近は単身赴任が増えたり、かならずしも専業主婦ではなく共働きで家事分担になっているから変わりつつあるのだろうが。
「名人」という話がある、なんの話かというと鼠取り名人?の話なのであるが、嫁夫婦の家に鼠が出るのでその鼠を筆者が駆除するという話。
昭和30年代ではごく普通の話なのであるが、鼠捕り器(最近はほとんど売られていない)とえさにさつま揚げを使って見事捕獲駆除という微笑ましい話である。
最後に小料理店の見つけかたを紹介しよう。「店がまえでまず見当をつけ、念のため店の戸を細目にあけて中をうかがう。調理人、仲居さん、そして大切なのはカウンターに坐っている客の風態で、それらが3拍子そろっていると入る」
仕事柄各地方に講演会や取材に出かけ、その地方で食事を取る筆者ならではの話である。
バスや電車での移動時間等のちょっと空いた時間に読むのにピッタリの本でした。


  • 吉村昭作:メロンと鳩
暗い話ではあるが、生まれた限り考えなくてはいけないテーマでもある。
解説にもあるが、すべて「死」をテーマにした10編の短編小説である。すでに20年以上前に書かれたものであるが、文体が古いわけでもなく、テーマは人類共通のものだからいつ読んでも全く新鮮である。
@メロンと鳩A鳳仙花は死刑囚の話、B苺は刑務所内で小説を描いた作品が入選した男が刑期を終えて出所して、小説の選者の家を訪ねてくる話。
C島の春は、水死体の流れてくる島と自殺志願者の老人と島の子どもとの交流の話、D毬藻は、漁村での過去の沈没船と久しぶりに網にかかった赤ん坊の水死体の話。
E凧は、難病を患っている男の趣味の話、F高架線は、17・8才で父母を失い兄の家に寄宿生活をしていた男の話 。
G少年の夏は、幼児が鯉を飼っていた池で水死した話、H赤い月は、50代半ばで両親を癌で失った兄の還暦祝いとわが娘の初潮の儀式の話。
I破魔矢は、鼠取りと鼠の死・義姉の娘との初詣の話。
たぶんこの作品は、死を考える年にならないとあまり読まない作品といえるのではないだろうか。
いつも思うのだが、推理小説や短編小説の場合、題名がどこからついたのかに興味が動く、そのフレーズが出てくると、うっと頷く自分に、また読んだという満ち足りた顔を見てしまう。
いつものように、気になったところを紹介してみよう。
死刑囚の話の第1編の「メロンと鳩」は、とてもいい作品だが、すでに帯の中で書かれているので省略する。
2編も同じく死刑囚の話。
この2作品を読んで考えたことは、人間いずれは死ぬ。
しかし、健康な体でありながら、他力によって死を迎える人間たち。
当然のことながら、彼らによって生命を奪われた人間がいる。他人の命を奪った人間の心を描いた作品ではない。
刑務所の職員、面接委員、俳句の先生という、死刑囚に関わった第三者の眼からみた他人の死に対する人間の心の動きと死刑囚の心の動きが描かれている。
凡人の場合、若くして特別な病気をしない限り、平均寿命の自然死を迎える。
とはいえ、凡人は死刑囚のように、こころの準備をしているだろうか、多くの人の場合、生の後の老・病・死はなすがままで、どちらかといえばいきあたりばったりではなかろうか。
信仰、俳句、書道等を習わせてこころを落ち着かせ、死に臨ませると言っても、「その眼は死に対するおびえから生じた不安定な明るさ」というフレーズで語られるように、決して高邁な僧侶のように死は迎えられないのである。
そうであるなら、自然死を迎える人間たちがほとんどのこの此岸では、いくら精神的な修業を積んでもそんなに変わらないのであるまいか。やはり死は恐いのである。
・一休禅師言葉:ふたたび 「よの中はくふて糞してねて起きてさてその後は死ぬるばかりよ。生まれ来てその前生を知らざれば死にゆく先はなほ知らぬなり、生は仮の宿であり、死も空、死後は知らぬという。」ということなのではと思うがどうだろうか。
 
 


  • 島田裕巳作:戒名無用
 まず、本の装丁を見て、読みたい気持ちが、ためらいに変わるかもしれない。
「戒名無用」という題名が、位牌の真ん中にどーんとあり、副題が死に方を変えてみませんかとある。
さらに、ページを開くと俗人戒名作成チャートがあり、流れにしたがって自分で戒名がつけられるのである。
人は、だれしも本名以外に別の名を持ちたいという願望がある。そんなエッセーを遠藤周作の本で読んだことがある。
その周作先生も「狐里庵」(コリヤン)という別名を持っていた。そういう私もよく考えてみれば、インターネットの世界で「ハンドル名」なるものを使用している。
しかし、戒名とは自分が仏になってから、その人間の人生も知らぬ坊主がかってに暗号のようにつけるのである。
この本は、自分の家族や親戚で葬式を体験した人で、葬式費用が高いとか,そろそろ死を意識し葬式や墓のこと考えている人なら、素直に手が伸びるアドバイス本といえる。
私の場合,自分の中でわだかまっていたものが、ふっきれた感じがしたのである。
無宗教で、自分の葬式を簡素に、墓もできればいらない、もちろん戒名も、骨も適当にといろいろ考えている人ならきっと何か得られるだろう。
でも現実には,簡単に割り切れない気持ちを持っている人が多いのではないだろうか。
また,いかがわしい宗教が幅を利かせているいま,戒名の由来、歴史、意味、他国の葬式・値段、寺と檀家をわかりやすく解説してくれているのも安心できる。
おわりに「戒名」に関して指針となるフレーズを気になるフレーズの中に沢山紹介しているが,一番決定的なフレーズをここであげるならば,「寺の墓地に墓を求めなければ,戒名をもらう必要もないし,戒名料も支払う必要もないのである。」

 いかがだろう。戒名とは檀家と寺という関わりが深かった時代の遺物だと考えれば物事は簡単に割り切れるのであるが・・・。
いずれにしても俗人戒名作成チャートは、自分史HPの中に入れるつもりである。


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