• 佐藤愛子作:死ぬための生き方

筆者は、いつからこんな笑えるエッセイを書き始めたのだろうか。
前回読んだ「こんなふうに死にたい」という本には、そのような前兆すらももなかった。
霊魂の音・声が聞こえて、死後の世界を感じるようになって、自分につきまとう霊の供養を8年にわたりやってきてその後からだろうか。
この本は5つのチャプタと33編にわたるエッセイが収められている。
ズバズバと率直な物言いは、最初から最後までかわらない。
筆者の作品を読むと、いつも思うのだが、痛快で読んだ後が実に爽やかなのである。
そして、読み進めると思わず笑っている自分がいるのだ。
気分が滅入ったり、面白くないことがあった時、是非読んでいただきたい作品である。
筆者のものの見方や考え方、知恵がふんだんに出てくる。
多くはいつものように「気になるフレーズ」に収めたいが、特に気になるものを二三あげてみよう。
「健康法をやりながらポックリ寺へお詣りする。酒に酔わぬ薬を飲みながら、酒場通いをする。いったい何を考えているんだと私はいいたい。小心翼々として生きても、死ぬ時は死ぬのだ」
「なぜあなたは自分の健康に対して無頓着なのかとよく訊かれる。私は答えに詰る。私にいわせるとなぜあなたはそんなに血圧やコレステロールを気にするのですか、と訊きたい。」
「現代医学は人間を「物」として考える。そう考えることによって進歩したー。・・・「物」であるから簡単に切ったり取ったり、管を通したりするのだ」
ポンポン飛び出すいろいろなフレーズ・物言いは、昔の男の気風のよさを感じる。もっとも昨今はそういった気風のいい男性は希少価値となってしまったが・・・。



  • 林望作:くりやのくりごと

なぜこの本を買ったのか、それは29のエッセイの題名が気に入ったからである。
実にウィットに富むものである。二例をあげよう。包丁のココロ、せせらぎに洗え。いかがだろう。
まず最初のエッセイの題からして、次の話しもさぞ面白かろうと思ってしまえるのだ。
それは「鍋を叱る」である。その最初のフレーズが「ステンレスの無水鍋なんてものを、私は調理道具として喜ばしいものとは認めない」
という部分からして、高い金をはたいて買った無水鍋を睨み付ける女性、そんなことありはしないとこの本を投げてしまう女性がいるかもしれない。
と、台所用品あるいは炊事・洗濯等の家事について、リンボウ流に固定観念をすぱすぱと違った観点から実に小気味よく裁いていくのである。
そして、男が「くりや」、この言葉がよくわからなかったが、厨房を論じていること。
さらに、最初のページにはアイロン台の前に立つ筆者の姿を見ると、私のダサさに比べ、わが年齢と同じなのにひげを生やして、髪は黒くて服装もスタイルも格好いいのだ。
単身赴任の私には、いろいろと参考になることが多い。
まずもって、ワイシャツのアイロンのかけ方では、立ってするべしとか、えりさえきっちりあてればあとは適当にである。
写真入りで、そのフローまである念の入れ用に頭がさがる思い。
次に皿の洗い方も実に効率的である、これについても「スピーディー食器洗い」とあり、写真入リのフローがのっているのだ。
男の私でさえ読んで納得できる家事論なのである。
ただ、女性からは途中途中で筆者が「百も承知・・・」と言うように、何かが飛んでくる気配は十分にあるようだ。
この先生の考え方の原点は、「服装という思想」の中にある男女差別論にある。
それは「女性は芋が好きだからなぁ」という芋談義に始まり、甘辛談義、息子と飲みたい親父の酒談義、そして良妻賢母・内助の功談義への展開。
終わりに「男も自立しようじゃないか。・・・自分の服装には自分に責任を持つように・・・『意識における平等』も、まず隗より始めよということである」なのだ、ピ〜ンと背筋が通っているのである。
家事における手間で面倒な作業に課題を見つけて、その極意を考える、まさしく企業で取り組むところのQC手法と同じなのだ。また、その問題を抽出する着眼点が実に鋭い。その一部を気になるフレーズで紹介したい。
これは、家事論だからといって、決して女性のためのエッセイではない、男が読むべき本なのである。



  • リック・レバイン他作:これまでのビジネスのやり方は終わりだ

翻訳本である。その話題がインターネットについてである、表題に引き込まれ購入してみた。
ただ翻訳本には当たりはずれがある。
比喩が多く読み辛い部分が結構ある。ビジネスのうえでの市場の変化について多く語られているようである。
比喩の部分で考えてよくわからないところ、読み辛いところはどんどん飛ばしてエキスだけ読み取ればよいのだ。
インターネットが普及し、そのネットがそれもWeb状になり、社内外のいろいろな人から生の声が情報として届くようになった。
インターネットの特徴を的確に捉え、またどう変わっていくかが、十分に織り込まれているのだ。
ただ「まえがき」にもあるように、ハウツー本でもないし、これからどういったビジネスを展開すればいいかのアドバイス本でもない。
ネットから必要な情報がだれでもとれる、一方、Web戦略はどんどん陳腐化する。
この本から何を吸収できるかは、人間としての生き方と自分の肉声で語ることだ大切だということ。
だれも、いつでも、どこでも話ができる場所が提供されたし、市場調査も社内の情報も簡単にとれるようになったのだ。
それも制約なしにである。
いままで企業はとかく、従業員ひとりひとりの声とか、お客さま一人一人との対話をあまり重視してこなかった。
従業員の場合は、縦系列ですませ、トップが中間管理職と対話することなどほとんどなかったのだ。
また、情報も部門ごととか、限定されたグループ内とかというように企業内にオープン化されていなかったのだ。
ましてや悪い情報なら、なおさら出てこない。
お客さまからの情報もマスでとらえる傾向があった。
企業も自らを語り、お客さまとの生の声を大切にする対話がキーワードのようである。
さらに、人と人との結びつきが、Webと同様多様化する。それに合せて意思決定も多様化するのである。
これは、企業でいえば効率化を理由にどんどん切り捨ててきたところではないか。
地域社会では、流動するサラリーマン層の増加により、近所付き合いをおろそかにした結果なのである。
日本の近所付き合いの輪がもっと拡大されたということなのではなかろうか。いかがだろう。




  • 前野徹作:第四の国難

竹村健一が、推薦していた本である。
「新世紀が到来しても、私の気持ちは一向に弾まなかった。この国を巡る様々な状況や条件を改めて眺め直してみると、悲観的にならざるを得ない」という石原慎太郎の言葉から始まる。
筆者は、日本の歴史の3つの国難をかかげ、蒙古襲来の場合、北条時宗を中心に朝廷と幕府が一致協力して切り抜けた。
次に黒船来航の場合、若者たちが我が身を顧みず、日本の将来を憂い決起して明治維新を実現した。
そして、敗戦は、経済新生で切り抜けた。
いま第4の国難を迎えているが、「経済も政治も、もはやアメリカに自在に操られる日本は、アメリカの下僕と化し、リーダーすらその事実に気づいていない。しかも、悪いことに、肝心要の国民に国を救おうという気概がない」といずれも期待できず、「日本崩壊の地鳴りが聞こえる」と言っているのだ。
そのそもそもの原因は、マッカーサーも後日告白したように、国際法を無視した東京裁判に始まる。
さらに、憲法改正の好機を逃した吉田茂、侵略戦争と明言した細川元首相の大罪、植民地支配と侵略行為を「戦後50年に当たっての首相談話」として詫びた村山元首相。
橋本元首相の根も葉もない従軍慰安婦へに宛てたおわびの手紙へと展開するのである。
これらの謝罪の名目でむしり取られるODAという名の金のバラマキ、国際連合の資金源、アメリカでは日系企業を狙い撃ち等不甲斐ない政府の対応が目立つばかりなのだ。
読み終えて、腹立たしいことばかりである以前に、これはマッカーサーが数年にわたって行なった占領施策が、見事日本人の改造に成功したのであるとしかいいようがない。
そういった意味からも「自虐史観」から脱しようとする「新しい歴史教科書を作る会」の活動は、日本人としてのアイデンティティを取り戻そうとする、独立国の人間として当たり前のことなのだと言うことがわかる。
ただ、日本人には独立という言葉が、あまりにも馴染まないように思えてしまう。このことが、自立できない日本人を作るマッカーサーからの大きな贈り物だったのだ。
日本人以上に、一部のアメリカ人、ロシア人、アジア人が日本の歴史の真実に目を向けていることを注視すべきである。。
そして、私たち日本人が他国に惑わされることなく、歴史の真実を正しく見つめ、自立すること、そして国益を主張できる国・国民になることではなかろうか。




  • 佐藤愛子作:こんな生き方もある

愛子さんの作品は、「わが老後シリーズ」を読んでから、俄然ファンになってしまった。
とにかくドタバタと事件がよく起き、思わず笑ってしまうエッセイなのである。
それに比べると、この作品は20年前のものであり、当時の世相から極めてまじめに、男女の行動を見ながら、あり方論を展開している。
ユーモア・ウィットに富んだフレーズはまだ見えないが、エッセイの表題になかなかうならせるものが、結構あるのだ。
「愛がわかったころに、人は死んでいく」「結婚、その城の幻影がくずれるとき」「へんな言葉『夫と妻の話し合い』」「女性よおおいに遊ぶべし」「ゴキブリ亭主」
崩れていく男社会になにをする術もなく、ただ押し黙って無抵抗を貫こうとする男たちの姿が、愛子さんには見えていたようだ。
対象世代は当時の中年だから、いまはまさに私たちがその中年になっている。愛子さんにはどう映っているのだろう。
さらにふがいなく、父権がますます権威を失っていることに、言葉を失っているのではなかろうか。
当時の男の不甲斐なさを、愛子さんはこのようにおっしゃっている。
「どうしてこのごろの男は、こう泣きごとをいうのが好きなのだろう」
「実際に『強くなった女』に苦しめられているはずの中年以下の男性のなかには、そうした憤慨をしめしている人は案外見当たらないのである」
「男がいくじなしになったから、女が強くなったのか、女が強くなって来たから、男が弱くなっていったのか」
読みつづけながら、思うこと、このエッセイは不甲斐ない男に対する応援歌のように思えるのだ。
女は図に乗って際限なく求める、女もたいしたことはないのだから、いい加減には無抵抗主義を拝して、亭主の座を広げるため憤慨する・立ち上がる時期ではとおっしゃっているのだ。いかがだろう。
もう遅いか、20年経ってみて、ますます悪化の一途・・・。寂しいかぎりではなかろうか。逆に女性が男社会に入り、結婚しない・できない症候群に苦しんでいるようにも思える。




  • 横尾忠則作:インドヘ

インド、メル友にこの地に旅行へ行かれた人がいる。書店で文庫本を漁っていたらこの書「インドへ」があり、頭の隅にあったのだろう、なんとなく読みたくなった。
インドと言えば思い出すのは何だろう。ガンジス川(ガンガーというらしい)、無抵抗主義者ガンジー、タジ・マハール、カースト制度、牛、最近ではIT技術者の供給国。
表紙には、筆者が描いた眉が濃くて目が大きくてふっくらとした顔のインド女性、そして巻頭にはこの旅行記のネタの写真・画像・イラスト等々。
もともと旅行というものはその地を訪れているご本人しか、なかななその感懐に、思い出に浸れないものである。
だからせめて、インド旅行記なのだから、現地の景色と文章が一体になっていれば、少しでも旅行気分が味わえるかもしれなかったのだが。
当時(1977年)の「週刊プレイボーイ誌」掲載された頃は、多分簡単なコメント入りの写真等が同時に掲載されていたのだろう。
もしかしたら、男の悩み相談室に今東光坊主や柴田錬三郎が登場したり、ヌード掲載のプレイボーイ誌は、当時よく買っていたから、読んでいたかもしれない。
二十年以上前だから、いまとなっては残念ながら、記憶の引き出しからは何も出てこない。
筆者は当時幻想的なイラストを描く有名なイラストレーターとして活躍していた。確か同時期筆者による作品で曹洞宗永平寺での修業を描いた「わが座禅修業記」を読んだ記憶がある。
筆者は当時特に、自分とは何かとか死生観に正面から取り組んでいたような気がする。
さらに「死の向こうへ」という作品も読んだ。筆者は死とか生という区分ではなく死は生の単なる延長でしかない。死後の世界、精神世界を説いていた。
自然の中に人間も動物も違和感なく共存する光景や到るところで出合うさまざまな死の光景、インドは人間の根源的な問題−人間はなぜ生まれて、そしてなぜ死んでいかなければならないのか−を投げかけてくる、これに尽きるようだ。
そういえば、メル友の旅行記にも遺体が道路に無頓着に置かれている、とかというフレーズがあった、死は生の隣り合わせにあるのだが、ただ現代の日本・日本人は死を忌み嫌う傾向があり、かなり遠ざけてしまっているのではなかろうか。
おなじはずなのだが、ゆったりと動くインドの時空間、忙しくスピード・効率を求める日本人にはすでに死語となりつつある、こんな言葉でうまく表現されている。「悠々」「感覚世界」「五感が心から離れ」「悠久の流れ」いかがでしょう。そろそろ急ぎ足を時々休めてみてはどうでしょうかいね、お互い。




  • 中村良夫作:風景学・実践篇

風景学、このような学問があるとは知らなかった。
表題で、田園風景が思い出され、買ったのだ。
学問だからというわけだかどうかは知らないが、入り口の部分の序章に「風景とは」なんぞやにかなりのページが割かれている。
頭が痛くなる理論は適当に読み飛ばして、筆者が好む実際の風景の描写と700語以上の風景を読み解くキーワードに、ゆったりとした暖かみを感じている。
凡人は風景というと、感性でいうところの視覚現象しか思い浮かばないが、どうも言語現象の側面もあるらしい。
筆者によれば前者を「見分けの風景」後者を「言分けの風景」という。
旅によく出られる方は、より具体的に書かれた味のある風景の紹介に興味が行くだろう。
この本に実際に出てくる場所、少し書き出してみよう。
京都祇園・白川、東京神田川と妙正寺川が落ち合うあたり、江戸名所図会の鶴見川、カンヌの南にできたポールグリモ、コペンハーゲンの運河沿い。
まあ、外国については、ちょっと行くというわけには行かないだろうが、日本国内であれば、どんなところなのか旅に出たときに立寄るのも一計かもしれない。
そこで、いいなあという一文を抜き出してみると。「旅先の街をすずろ歩く道すがら、民家の軒先や店構えの一隅に気のきいた意匠を見つけるのは楽しい。
ぱらぱらめくる一冊の詩集の片隅の、ふとした言葉じりに心ひかれるように街角に刻まれたささやかな細工に目がとまる」こうなるいかがだろうか。
この本で私が得たものは、貧弱なボキャブラリーに少し言葉のストックができたことだろうか。
綾おる岸、岩清水、移ろい、カオスの闇、臥遊、農の美、残り香、水辺の余韻、秘すれば花。
さらに、知らぬ多くの四字熟語が・・・山河逍遥、修景詐術、地相感覚、点景人物、風流韻事、飛花落葉、水石道楽。
私の貧相な感性では、これらのフレーズだけでは、その風景が想像できないのが実に残念である。
ただ、旅に出たときと言っても最近はとんと縁がないが、風景の見方の要素が出ているので、これは使えそうである。
町、橋、坂、山、峠、崖、流れ、島、・・・とは言いながら、高台や展望のいい高層ビル等の建築物から見て、単純にいいなあというそのレベルを超えることは、私の場合難しい様である。





  • 遠藤周作作:狐狸庵閑話

確かに、筆者は中学五年生から二浪して慶応文科に入るまでの間、グータラの人生だったようである。
いつ変わったのだろうか、親父に文科に入って三浪(医科へ)しないなら家を出て行けと言われ。
家を出て一人暮らし、そこから文士生活が始まる。
大きな変化は、四十を前に死ぬかもしれない病気に遭遇した影響からだろうか。
二十歳前頃から、隠居さんというか、暖かい陽射しの当たる縁側で鼻毛を抜きながら何もしないで、ボーッとして毎日を過ごす。
そんな風流人生にあこがれていた筆者。
とはいうものの、筆者の作品には、キリスト教(キリシタン)弾圧をテーマにした、かなりシリアスなもの−「沈黙」「深い河」−といったものも結構あるのだ。
残念ながら、私はいまだ読んでいない。
このエッセイの中にも、クリスチャンが踏み絵や拷問に耐えられず信仰を捨ててしまう、キリシタン狩の江戸時代、島原等での話が出てくる。
数多くのエッセイを読みながら、日本人の不得手なユーモアといつでもどこでも何にでもあらわれてくる筆者の探求心、好奇心の賜物から書かれたものばかりである。
だから、大笑いということではなく、私が好きなクスッと笑える話と人間の本質の探求と筆者の死生観を見せてくれている。
思わず読み込んでしまうとても興味深い本なのである。
ただあらかじめお断りしておくが、ユーモアを解しない人、いつも苦虫を潰したような顔をした人、ヌケがないまじめな人は読むのは、はなからやめたほうがよい。
ちょっと暇なとき、いや暇を見つけて小話をしたいとき、この本には馬鹿話のネタには事欠かないのだ。
特に「古今百馬鹿」のチャプタは、実に物好きな事を真摯にかつくそまじめに考え、まじめに文章にしているからどのエッセイを読んでも笑える。
こんな面白いエッセイを書く人が、キリシタン弾圧をテーマにした小説や死生観についてまじめに論ずるなんて、とても信じ難い。
そのギャップがあるから、ユーモアが際立つのかもしれない。
瀬戸内寂聴から仕入れたネタを自分で確かめに行った話−女占い師が口から真珠を出す−「奇妙な女」、 「寝小便に泣く男」の中に出てくる鳥取藩近習役の奇癖のある先祖、寝小便の治るレコード、 筆者が入院時に寝小便をしたそのシーツを別室のベッドのシーツとこっそり替えた話、 「女優」では狐狸庵の厠をO女優が使用した旨の張り紙をしている話。
このエッセイは、いちいちヌケた私が中味を紹介するよりは、とにかく一読することをお薦めしたい。
ただし、何度も言うがユーモアを解さない人にはお薦めできない。



  • 阿川佐和子作:どうにかこうにかワシントン

エッセイ、いつもの筆者のものであれば、こんなことをテーマに書いているとだいたいイメージが描ける。
初めての筆者の場合、どの世界(笑い、歴史等)へ読者を誘おうとしているのか、とにかくその雰囲気に慣れるまでは、読み手はひたすら読みつづけるだけだ。
これは、何かの目的、たとえば留学するための参考書とか、海外生活のためとかと考えて読むと少し物足りないかもしれない。(これは筆者も言っている)
「あとがき」には、「そもそも渡米の目的が外国に住むということで、それ以上でも、それ以下でもなかった」 というように、海外生活をした事のない人にとっては、それだけでもすごい体験であるが、日本脱出のための準備やアメリカでのいろいろなトラブル体験(?)にもあまり切迫感がない。
これは、筆者自身の性格からくるものなのか、もともと大人なのか、鈍感なのか、「けちでぐずで」「凝る」ことのないマイペースであり、何々をいつまでにしないといけないということへのこだわりがないのだ。
山登りを極める人が、「なぜ山に登るのですか」と問われたとき、こんなせりふを言う「そこに山があるから」
佐和子さんの場合、「ただ海外生活をしてみたかった」である。
でも、そこでの生活は、もちろん日本での生活と違う、その違いにギャップを感じながら、なんだかんだ理由をつけながらも時間をかけながらでもやっている。
「一年間もいれば少しは喋れるようになるだろうとタカをくくっていた」語学習得も結果として、上達(どのレベルか不明だが)しなかったというが、自分に対する嫌悪感も習得できなかったことへの悲壮感もない。
このエッセイから私が得たことは、人間いろいろなものに目を向ける好奇心と実際に自分で体験することにより、それなりになんとかなるし、書くネタはいくらでもある自分でもエッセイが書けそうだということだった。
佐和子さんのこのアメリカ在住体験記は、チャレンジに対する慎重な日本人と積極的なアメリカ人との考えの違いに、目を向けながら、自分はチャレンジに対するアメリカ人の好意的な目にかぶれてしまった、これにつきるようだ。
そして、「人生、その気になれば、なるようになる」ということらしい。



  • 糸井重里作:インターネット的

やっとインターネットの活用法がわかったような気がする。
なぜかというと、同世代で同時期にパソコンを購入し、さらにホームページを開設した。
筆者もそのパソコンを、それまでは全く使用していなかったのだ。
私と違うのは、有名人でアイデアが豊富でいろいろな人脈もある。さらに、コンテンツも素晴らしくアクセス数も桁が全然違う。でもフラットなネット世界では、全然関係ないことなのである。
現実に私がネットの世界で付き合っている人には年齢とか性別とか職業を意識したことはない。
この辺は、私の好きなように勝手な解釈である。ご容赦をください。

筆者は、有名なコピーライター、40代になり、つくる側の人間として得意な仕事を確保して、いわゆる「偉い人」で生きるか、貧乏で野心的な職人で生きるこの二つの道しかないのか、そういった危機意識を持つところからスタートする。
この「インターネット的」世界で生きていく道を見つけたのである。それも無限の広がりが見えてきたようなのだ・・・。
それは、次のフレーズ「ぼくにとってインターネットは、いま言ってきたようなとりとめもなく考えてきたことを、すべて突破するように見えました。雇ってくれる人の顔色を見ないで全力を出せるし、何よりも自分でメディアを持てるし、 ・・・同じような思いを抱えている人々の気持ちを集めることができる・・・」でよくわかる。

この本を読んでひとつ感激したことがある。それは、「クリエイティブ」ということに対して全く同じ考えだったということだ。
「『創造性』と訳すよりも、日本語で言うとしたら『独特の工夫』だとか、『いままでにない何か』だとか、『発想しつづけようとすること』だとか、『そのままにしていられない気持ち』だとか」これなのだ。おわかりいただけるだろうか。
逆に気になることが一つあった。
それは、インターネットを三つのキーワード(リンク・シェア・フラット)でとらえ、そのフラットなインターネット世界に競争という場を持ち込んでいるということだ。
確かに新しい価値を生み出すためには、フラットな場での競争は大切なことだと思う。
やはり、コピーライターとして激しい競争の中で生きてこられた筆者の発想なのだろう。

競争がないことにはいい発想は生まれない。これも事実だと思う。
ただ、筆者が情報化社会の次に来るのは魂の世界だと言うのなら、競争・スピードとか効率化を追いかけていたのは20世紀までなのだ。
21世紀は競争を意識しない、こころの豊かさを人々は求め、しかも、インターネットは未連係の人たちとの新しいネット世界のツールなのだというなら、なおさらそう思うのだが。
この本には、たくさんのいいフレーズがある。とにかく書き出してみる。

アイデアこそが価値の中心、もっと伝えたい、もっと受け取りたい、まだまだ足りない「くだらない面白さ」、にぎわいをつくる、お金がなくても何度でも実験ができる、
いまのメディアがずれている点、「わけのわからないこと」を考える機会、信頼はインターネット的の出発点、
「考える」を開発コストに入れる、受け手なくして送り手なし、消費にどれだけ「クリエイティブ」になれるか。
これらのフレーズだけでも、ホームページ作りに十分役立つこと請け合います。
いずれにしても、インターネットってなんだろうと本当に知りたい方・インターネットでHPを開設して何かを発信したい方には是非一読をお勧めしたい。
おわりに、熟成させていないアイデア・情報をどんどんHPの世界へ送り出し、わがHPがさらに充実したものになるようにしたいものである。


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