いつもの散歩道記録パート6
**9月13日のいつもの散歩道**

>一度田圃に目を転じれば、今年の豊作を確約したように稲穂は頭を限りなく下げ、
>一面黄金色に輝きだしている。早生と奥ての田の色の違いが見事なグラデーショ
>ンを作っていた。
>其方の農家よりは一足早い刈入れが始まろうとしています。
刈り入れ早いですねえ、
稲の成熟が、当然植える時期が違うという事でしょうが。

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秋は人の心にいろいろなものを呼び覚ます。
憂いのこころ、たびのこころ、進む道を思うこころ、
もちろん、食欲、読書、スポーツも・・・。

まだ、蒸し暑さの残る散歩道だが、みのりを、
穂を伸ばして知らせる稲の実の、実に逞しきことか。
行き交う散歩人は、それぞれ選んだ散歩道をすたすたと、
自分のスピードで過ぎて行く。
時にはね、半裸のおじさんに出合ったりする。

指を立ててみると、風に便りを乗せて、秋を知らせる。
その風に誘われて、旅心が湧いてきたりする。

メル友は、メールに乗せて「憂い」を運んできたりして、
忘れていた、自分の年を思い出し、人を思う年も過ぎて、
過ぎた道より、これからの道を思い始めている自分がいる。

休耕田に目をやると、鷺に、あめんぼう、とんぼがほんと気侭に
生き生きと動いている姿に、遊んでいるように思えてしまう。
しばし足を止めて、汗をふきながら、眺めいる。

そしたらなんとなく、
鼻がむずむずして、クシャミが出て、その音が山にこだまする。
まわりに人がいない、この気持ちよさはなんだろう。

『指立てて 風のたよりで 秋を知る』
『メル友の 揺れる心に 秋憂い』
『思い秋 われも秋過ぎ 道思う』

☆どうでっしゃろ☆


**9月6日のいつもの散歩道**

風の神は、今年15番目の大きな風を起こしに日本にやってきた。
風の神自身には、かたちがない。だから、その声を人の目にわかるように、
いろいろな形で伝える。

水が好きな風は水に伝えて、波になる、でも風並みでは面白くないから、
大きな波になり、強さをほこるのだ。

稲葉で波を作るものもいる。稲葉を波打たせて、自分の存在を知らせ、
わからないならと、なぎ倒したままにしたりする。
そのおかげで、葉に止まっていたとんぼが、
驚いたように飛ばされ流されるが、すぐに踏ん張りもとにもどる。

水田の間を歩いていると、人待ちをしていたかのように、セキレイが舞い降りて、
我の前を歩く、尾を振り、時には止まって我を待つ。
待っていたかと思うと、また先に飛ぶ。

山間を通り過ぎた風が、その情熱を残したかったのか、
鮮やかな朝焼け色が黒い雲と青空に映えている。
そんな朝焼けも、散歩人とともに、色を払って消えてしまう。

我気付かず、道端に居た蛙が、川に飛び込み「ちゃぽん」の音残す。
風に煽られ、鳥も一声、蛙も一声、そして鯉が飛び跳ね、
水音を出す。

畑には、風に揺れる花を見つけるが、
デジカメでは揺れて撮れぬ花となっていた。

『風が声 水に伝えて 波になる』
『風が波 大きさ変えて 強さ見せ』
『一音の 鳥に蛙に 鯉の音』

☆どうでっしゃろ☆


**8月23日のいつもの散歩道**

鳴くこともせず、巣立ちしたつばめたちの家族連が、
前向きに後ろ向きに、電線に止まっていた。デジカメで撮るも広がり過ぎて、
いい画像にならない。

その下を流れる川にはちょうど、屍を流れに任せた鯉が通り過ぎていった。
水に生きるものは、死を迎えれば、水葬の形が自然に行われる。
人様は、自然の形をいろいろと見ながら、神秘の力の火をかりて、灰になる。

そんな流れの途中には、堰がある。堰の手前には、
人間どもが捨てたいろいろなゴミたちが、葬りさられることなく、
原形のまま、たぶん朽ちることなくやがて水の中へ沈むのだろう。

「おはよう」の元気のいい声をもらい、沈みがちな心が少し蘇った。
向う岸には、墓地がある。老いた夫婦連れが、此方側に車を止めて墓参り、
その姿を我に重ねながら、朽ちた墓に目を止める。
そんな時、法師蝉の鳴き声がお経のように聞こえてきた。

帰り道、田の畦の横の小さな水路端に足を止め、しばし時を過ごす。
そこには田螺が群れをなしている。ゆっくりゆっくりと歩くもの。
交尾するもの、ときには、側面から身体を離し、そのままふらふらと流れるもの。
でも、また適当なものにつかまって、ゆっくりゆっくり這うのだ。
その間、時はゆっくりと流れていく。

水路に満たされた水の流れは、草や花、もちろん稲をいきいきとみせている。
向こう岸に白く開いた花が水に浮かんで、流れる水に時々、
もてあそばれている姿が、とてもゆったりとしたものにみえてくる。

わが家の近くに帰ると、家庭用排水路の近くには、多くのはえが群がり、
流れに合せて泳ぎを楽しんでいる。
わが庭には、夏枯れしたバラが落ちることなく、
ドライフラワーみたいになっていた。

『釣り人の 竿のしなりに 足とまり』
『音作る 水に虫鳥 人の声』
『墓参る 老いの夫婦に 我映し』

☆どうでっしゃろ☆


**8月9日のいつもの散歩道**

先週なくなっていた用水路の水ももどり、なぜか流れる水からもらう、
不思議な気のようなものを感じている。
干からびた川底に、何することもできずにいた雷魚はあの後どうしたのだろうか。
そんなことを考えながら、夜の暑さが残る道を歩いている。

稲と稲をうすい糸で結ぶ、
こんな小さなエリアで何を捉えようとしているのだろうか。
この蜘蛛の糸を草で作った輪に集め、小さな虫取り網を作るのだ。
この網で、糸蜻蛉取りに夢中になっていた、そんな頃を思い出していた。

雨が降らず、乾いた土の上は、なんともぎすぎすした擦り音で、
どうもいただけない。遠く山すそを見ると、朱玉がぽっかり浮いて見え、
しばし出番を待っている。

しばらく行くと、山影があり、いつも涼しい風をもらうのだが、
水門近くの向う岸の水草が、かすかに動いて見えるのが気になる。
ズーム機能を使って撮ってみるが、どんな生き物かはわからなかった。

帰り道、20cm程度の土の堰を、昔の平衡感覚の遊びを思い出すように
ふらふらと渡り、向こう側につく。たどり着いた左側の畑には、うりやかぼちゃや
スイカまでが、「食べてくれろ」と実を膨らませていた。

少し小道に入ると、細い水路がある。水路には、はしゃぎ回るように「あめんぼう」
が動き回る。水面を歩けない人間としてはうらやましい限りだ。
水の中には、側面には田螺とおたまじゃくしがたくさんへばりついていた。

尻尾をくねらせながら、息を吸いに上がってくるおたまじゃくしは、
水面に口を出して、すぐに水中にもどる。
そんな光景にしばし見とれていた頃、静かな虫の音しか聞こえなかった散歩道に、
時を急ぐ蝉時雨が一斉に聞こえ始めたのだ。

『せききりて 鳴き急ぐ蝉 夏の日々』
『土乾き 苛立つ心 雨を待つ』

☆どうでっしゃろ☆


**7月19日のいつもの散歩道**

>昨年はもっと周りの景色をゆとりを持って眺めていたように思うが、
>このゆとりの無さは何なんだろう・・・?
>ただあくせくしているようにも思うのだが。
日々の仕事の中に、自分なりの一息の工夫はなかなかね。
仕事に呑み好まれている人は沢山います。
でもまずは体とこころ、最近は特にこころではと思うことしきりです。

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眼が醒め、起きるには起きたのだが、眠気眼と寝ぼけた頭で、
歩きながら、どうもまっすぐ歩けていないように思える。
ちどり足のような感じである。更年期障害だろうか。

いつもの散歩なら、人の気配を感じて、飛び立つ鳥に
案山子にでもなりたや、と思うのだが、
とてもそんな気持ちにはなれず、会える鳥もほんとに少ない。
どうしたのだろうか。

なぜか山のウグイスの声も、仲間がいないのか、夏枯れのような
感じで聞こえてくる。ただ元気がいいのは、田の稲である。
今年の稲も葉の先に、輝く滴玉が見える頃になった。

いつも川風が吹く場所には、朝早くから3〜4人の若者たちが、
ルアーフィッシングを楽しんでいた、それを横に見ながら進んでいくと、
いい涼風が吹いてきた。
背中で受ける、この風のここちよさに、しばしその場で立ち止まっていた。

いつ頃からだろう、小さき命の生きている季節に関心を無くしたのは、
この散歩をし始めて、老いを感じ始めて、生死の空しさを
こころで受け止められるようになり始めた。

散歩から帰ると、せっせと用水路でじょうろにもらい水をして、
わが猫畑に水遣りをする。隣の家の窓がすでに開き、
ワンワンと吠えられる。
吠えられないと1日が始まらないようになってしまった。

それに合せるわけではないのだろうが、隣の奥さんの鼻歌、
よく言えばハミングが聞こえてきた。
きゅうりは、たった2本しか植えていないのに、できすぎて食べるのが
追いつかない。必然ほっておく、化け物瓜になってしまい。
よく蔓が耐えているものだと思う。
今週もわが単身寮に持って帰ることにした。

『仲良きは カルガモ鳩に 若き人』
『水含む 土に傘立て 一茸の』
『七夕の 願い忘れて もういくつ』
『娘(こ)に言われ きょうを知りて 七夕の』

☆どうでっしゃろ☆


**7月5日のいつもの散歩道**

寒い梅雨、涼しい梅雨なんて・・・。
いつもは、じめじめと蒸し暑い梅雨なのにどうもねえ。

ヒンヤリとした朝
山には閉じ込められたうぐいすが鳴き、水が引かれた田の上を
つばめが飛び交い、一個所へかたまっていたアオサギは
それぞれが好きな田で羽を休めている。

田に水を引くために作られた堰、この堰を境に音の異空間ができあがり、
流れのない溜り水は、気持までも満ち足りてしまい、鯉の姿も
風の波で、かき消してしまい、楽しさも作りはしないようだ。

堰から水が落ちる流れのはるか遠くを見ていると、首だけ出しては沈み、
また沈む鳥が見える。そこに向けて速足で行ってみる。
さらに近くなると、沈んでいる間にさらに速足で行くが、
結局、なんの画像も撮れもせず、飛び立たられてしまった。

田の方に目をやると一個所の田んぼに家族と思しき人たちが、
四人で草抜きにおおわらわである。
そんな光景を見ながら、一軒家を通り過ごして
すぐ隣の田んぼに動く二匹の鳥に出会う。

初見せのカルガモのようである。
構えても飛び立つ気配もなく、つがいで虫取りに
精を出していた。知らぬ間にいくつもの画像を撮っていた。

わが家の近くの広場に、
いつもの鳴き声とは違う鳥に出会う。
野菜の葉の上に止まった、雀より小さな鳥である。

『川にサギ 山にうぐいす 田につばめ』
『葉の上に 止まりし鳥に 耳澄まし』
『風の波 鯉の波動を 打ち消して』

☆どうでっしゃろ☆


**6月28日のいつもの散歩道**

>>いい動画が撮れたのだが、ホームページにどうアップしていいのか
>>よくわからない。

>佐藤さんにもわからない事があったのね・・・でもでも次のメールが届く頃は
>問題解決かな??
解決していません。容量が大きすぎて、ちと駄目ですわ。
1MB以上ですよ。

でもパソコン先生に聞いてみようと思いますがねえ。
まあいつになるやらね。

>散歩道を読んでいると、こんな時間が持てる人は幸者。
>散歩をしている人は大勢いるでしょうが、なかなかこれだけの観察眼を
>持った人はいないでしょうね。改めて感性の豊かさを感じます。
幸せ者だよ。ほんと里子さんに誉められてね。
散歩道で誉められると、家ならせいぜい天井があるから、しれてるけど。
外だから、際限なくあがりっぱなしのMyキャラクターの
「yula」になってしまうね。うれしくて上がりつづけています。

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梅雨冷えで、早い朝は半袖シャツではちと寒い。
田の草にも、滴玉ができて、プランぷらん。
靴が雨も降ってないのにぬれてしまうのだ。

いつもの川は、水嵩が増し、どこかしこで水引きのため、堰がされている。
この堰で水の流れがなくなり、その深さと濁りで、鯉の波形まで
見えなくなってしまった。

用水路の水草に、目玉だけ出して、
雨が降るわけでもないのに、あちこちでグォーグォーと声を響かせ鳴く、
そんな蛙の季節になった。

さぎ団の溜まり場の用水路も、板ゴム製の仮の堰で水が止められ、
水嵩が増したと同時に、水にもぐらないさぎも餌が取れなくなり、
それぞれ水田の方に定位置を移したようだ。

同じ様に、田に水が引かれて、いつもそこを住処にしていたひばりが、
住処を離れて、草が多く生えたところへ位置を変え、背の高い草の上に止まって、
一休みしていた。

その日の夕方、チャリで少し行動範囲を広げてみた。
百間川の河原へふらふらと、
「ゴルフをしないでください」
の看板を見て見ぬふりの同世代のおじさんたちが、
棒振りを盛んにやられている。
その横をふらふらと自転車で抜けていく。

適度に伸びた草に被われた、河原に戯れているように見えるひばりたち、
それも沢山のひばりたちに会うことが出来たのだ。
一生懸命撮るが、いま少し距離の隔たりから、
鮮明な画像にはなかなかならない。

川の真ん中にできた中州に新しい鳥を発見、こころは弾んでも、
なにぶんにも距離がありすぎて、これも画像は鮮明にとれない。
日が長くなったせいか、ついついふらふらと。

途中ホームセンターにより、雑貨を求め、いざ帰ろうとチャリに、
後輪の空気が抜け、ガタガタで乗れない。パンクだ。
近くにあった。自転車店でパンク修理をしてもらい、
家に着いたら、遠出し過ぎたせいか、二時間も過ぎていた。

『水草に 大目玉出し 蛙鳴く』
『気も薄れ 毛々も薄れて 句も薄れん』
『河原来て 楽しや遊ぶ ひばりたち』

☆どうでっしゃろ☆


**6月21日のいつもの散歩道**

少しひんやりとした散歩道、どこかしこの田んぼは、稲が伸び始め、
いつ水を引くのかを待つだけになっている。
その水引き用の細い用水路には、この時を待ってたとばかりに、
鯉が押し寄せている。

狭くて細いから(50cm幅)、こんな所まで上ってこなくてもと思うのだが、
人間様でも人が多いのが好きなように、ばしゃばしゃと水に浸かってしまった草を、
尾鰭でかきわけ(?)ながら、先へ先へと進んでいる姿を見ていると、
こちらが元気をもらえるのだ。

鯉人を横に見ながら、散歩道を先に進む。さらに進むと、
いつもの鷺が集うポイントに来るのだ。ここは分水路になり、
段差があって水が落ちている。
別においしい水が落ちている分けではないのに、その音に誘われるように、
ここにも鯉が集う。

ところが、きょうは、先行く散歩人の気配で、一斉にばたばたと鷺たちが、
飛んでいってしまった。
デジカメを準備する間もなく、遠くへ飛び去った鳥を眺めるだけに終わり、
実につまらない散歩となってしまった。

帰り道、同じところを通ったのだが、今度はデジカメを構えると同時に、
後ろからバイクが通り過ぎ、これまたシャッターチャンスを逃してしまった。
そこから、飛び立ったアオ鷺が欄干に止まって、いとも簡単に、
羽を広げるでもなく、スタスタと歩いていく姿に、ただただ感心して見とれていた。

話は変わり、広島での散歩道に面白い光景を見つけた。
人間様がそばを通っても、逃げない雀の話なのだが、
一茶が雀の面白い句を作ったのがわかるような気がするものなのだ。

散歩しながら、少し柔らかく乾いた、砂地よりやや硬めの土に、
妙にたくさんの小さい穴がなぜあるのだろうかといつも思っていた。
それが先日ようやくわかったのだ。

雀さんたちが、くるくる回りながら、穴を掘っているのである。
なぜそんな仕種をしているのかわからない。
どうも、羽についた虫を落としているようにも見えるのだが・・・
(知ってる人いる)。

もうひとつ気になるのは、道端に降りて来ては、尻尾を立てている雀が、
チョット高めのさえずりを交えながらびょんぴょんと跳ねていること。
こんな雀の仕種を見ていたら、
下手なわれでも駄句がいろいろ出て来そうな気分になる。

『穴を掘り 楽しや回る 親雀』
『待ちわびて 水とはしゃぐ 鯉人よ』
『朝のぼり 夕にのぼりて 梅雨の鯉』

☆どうでっしゃろ☆


**6月14日のいつもの散歩道**

>前のメールにも書きましたが、あれだけの鳥が撮れたんですもの、凄い!!
>私なんか鼻から諦めていますが・・・
>そこへいくと草花は動かないから良い。
>それでも後で眺めれば、アングルが如何の
>こうのとなって、威信の一枚なんていうのはなかなかなないのものですね。
>HP屋久島の紀元杉、あれなかなか良いと思っているのですよ。

>迫力あるでしょう・・・?
>あれ、樹の根本に寝転んでシャッターを切りました。
>仲間はカメラマン気取りなんて
>言いましたが、大木や高い建物はこういうアングルが好きですね
迫力の紀元杉等、原画像待ってま〜す。もうついてるかなあ。
大木とか、野の花とか、自然のものはやはり魅力的です。
いつも思います。自然の音が入れば、さらにいいのでしょうね。
散歩する時、デジカメを持って歩くのですが、
6月入ってからは、広島の散歩道、いい鳥画像はないですねえ。

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さらに早い朝、句ダネはあるものだ。
畦のひばりは逃げもしない。被写体にするが、草の色と羽の色が
際立たないため、画像としてはいま一つというところ。

すっかり、川を上る鯉はあちこちに群れをなして、背鰭をゆらゆらとさせながら、
尾鰭で川の泥をかき混ぜ、波を作ったりする。
段差のある水路の、水が落ちるところには、鯉がたむろしているのだ。
ときには、ガボッと音を出したり、飛び跳ねて着水の音が聞こえたりする。

その泳ぐ姿をデジカメで撮ってみた。
いい動画が撮れたのだが、ホームページにどうアップしていいのか
よくわからない。

田の畦の草は薬剤散布で枯れ、ついでに野の花も枯れ、少しさみしい。
靴で踏む草の音も変わってしまったようだ。

春が去って、梅雨を飛び越したようにも見える、もう秋が恋しくなった。
すっかり季節の区分がなくなったように思える。
そんな散歩道に、朝もやがかかり、気を静めてくれるのだ。

水路端に立ち並ぶサギの群れに眼をやりながら、水面に顔を
出す「う」のような鳥、かなり意識しながら、距離をとるのだが、
二枚の画像で、もう飛び立たれてしまった。
再生してみたら、結構いい画像だった。

なんとなく、遠くへ眼をやると、めずらしい光景が・・・、
鉄橋の上の電線に、大きなアオサギが上手に止まっているのだ。
人間様なら、そのままグルッと回って大車輪をしてしまいそうに見える。
なんていいバランス感覚なんだろう。

翌日、久しぶりにスポーツ広場へ行ってみた。
途中、野にはひばりが囀り、山のあちこちからまだまだうぐいすが囀っていた。
古く濁った池には、グォーぐぉーと蛙がないていましたとさ。

『朝思い 昼に忘れる 夏の句々』
『草枯れ死 野の花ともに 道さみし』
『渇き道 靴の擦り音 雨を待つ』
『夏なのに 山のうぐいす 野のひばり』

☆どうでっしゃろ☆


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