いつもの散歩道記録パート5 |
広島での朝の散歩は、5時前からスタートである。 岡山の朝の散歩は、就寝が遅いため6時半頃にしていた。 今年は、夏がはやくやってきたみたいなので、先日は5時半頃に変えてみた。 そうしたら、意外に新しい発見があるものなのである。 もう新しい野の花は見つからないと思っていたのだが、ありました。ありました。 それに芽が顔を出して、まだ小さな苗状態の稲、 早く水をくれと催促しているように見える。 そして、そこからは、とにかくひたすら歩いた。 用水路が分れるところまでたどりついた時、驚く光景に出くわしたのだ。 水路の両端に、コサギ、アオサギ、飛んだサギ、知らぬサギたちがずら〜〜っと 並んでいるのである。それも直立である。 用水路の中にも餌をあさる鳥たちがいた。 その中に、水の中をもぐって餌取りをする鳥までいる。 「う」の仲間だろうか? こんなに集まっているのは 稲田に水を引くため水路に、水が多く流れ始めたからだろうか、 鯉もどんどん上流へ昇り、大きな生き物の流れがてぎたからだろうか。 翌日の散歩道、遠き山々は、霞に包まれ、太陽の陽射しも遮られ、 幻想的な田舎道を作っている。 この日は、意外な出会いがあった。 いつもなら、田の上か、天高くさえずっている「ひばり」が、 舗装なしの駐車場に、とんとんとあちこち飛び跳ねているのだ。 我が近づいても、適当な距離をとって、天真爛漫に飛び跳ねる。 そこから、また前日の場所へ、速足で出かける。 同じように、さぎたちが用水路の両端に立ち並んでいた。 目を違う方に向けると、川を泳ぐ小動物が、野鼠なのかなんなのか よくわからない。我を見て方向を変えるかと思ったが、 全く無視をしてこちらへ泳いでやってくるのだ。 まだまだいろいろと「楽しみ」は見つけられそうである。 『水流れ 精気もどりて 夏を待つ』 『店の花 宿を移して 庭の花』 『朝がすみ 光りさえぎり 幻想の』 ☆どうでっしゃろ☆ |
梅雨が済んだような最近の天候は、 朝がとても涼しく散歩するのに気持がいい。 春のようにどこかしこにいろいろな草花が咲き乱れ、いろいろな鳥が 飛び交い、いわゆる「花鳥風月」の変化の楽しみから、少し時期が 速足で過ぎたように見える。 この散歩道、かなり続いているが、今回は特に駄句さえ浮かばず、なかなか 作文に苦労した。そろそろ幕引きごろかもしれない。 鳥への八つ当たりのような「われ去りて さえずる鳥の にくらしさ」 なんて駄句もでるようになってきた。 まあ致し方が無い、人間様の自由にはならないのが、生き物というものなのだから。 でもいつもと違う種類の鳥は、岡山の散歩道にも、広島の散歩道にもいる。 相変わらず、さぎとすずめとムクドリとカラスと鳩だけは、 いつものようにちょこちょこと顔を出す。 さてさて散歩道、「不易」の中から、新しいものが探せるかが これからも続くキーとなりそうである。 苦しんでいます。 苦句・・・・・「気持ちよく 散歩できても ネタはなし」 『飛べぬ我 飛びたやわれも 飛んでみた』 『風騒ぎ 音を作りて 波になり』 ☆どうでっしゃろ☆ |
朝は、いつもどおり歩いて、野の花や新しい鳥やいつもの鳥の可愛い姿を追う。 きょうはなかなかいい被写体に出会えないまま、帰り道となった。 夕方、今度は自転車でうろうろとして見た。かなり道を変え、うろうろとしてみた。 やはり野の花も、鳥も見つからない。 しばらくして、雲行きがあやしくなる。 雨が降り始め、段々と雨脚が強くなる。 近くに見えた農機具庫の庇を借りてしばし雨宿り。 蛙が雨音、雨滴をどのように感知して鳴き始めるのか不思議を感じながら。 種類の違う蛙も鳴き始め、しばしの合唱に聞き入る。 雨上がりはいつになるか、西の空を見る。 しばし雨について、思いを馳せ駄句を捻る。 翌日は朝早くから、雨の一日。 結局、岡山では散歩せず、広島で夕方でかけてみた。 翌日、いつもの朝、 広島散歩道、薄暗い時間から歩く、駐在所の比治山入り口から、坂道をあがる。 途中、降りてくるいつもの夫婦連れに合う。 ご主人が目が不自由な方なのだ。 「おはようこざいます」の声を掛け合い、すれ違う。 道端の木々から鳥の囀りが聞こえる。ここちよい涼しさを感じながら登る。 登り切ってリターンする。草陰にいろいろな種類の猫が見える。 にゃお〜と言いながら、私に擦り寄ってくる一匹の猫。 降りてから、京橋川の川端を歩く。この時間になると、もう明るい。 最近、広島の朝の散歩もデジカメを持っている。 引き潮で見える川底に集う鳥を追うのだ。 『雨降るも 雨漏り忘る 家になり』 『寄り道に 蛙楽しむ 雨の音』 『早梅雨に 散歩取られて ほおづえよ』 ☆どうでっしゃろ☆ |
>いよいよ佐藤さんも野草の虜に・・・山の虜に・・・? >鳥と違って野草は逃げも隠れも致しません。 >屁にもかけなかった野草が、いつの間にか何か目新しい野草はないか、 >キョロキョロしながら歩いている私。 ほんと不思議で、でもね、小学校の頃は、まっすぐ家に帰るのではなく、 かならず、田の畦でなんだこの野草なんてちぎってかえっていたような。 昔は野壷があり、誤って、落ちた仲間もいたようで。 山登りは、相当の体力が要ります。里子さんの数分の一しか登坂力が ないと思われます。頑張って鍛えたいと思います。 ******************本文************************** 自宅に帰っても、早く目が覚める、 こちらでは、夕方に自転車でスポーツ広場に出かけることが多くなった。 少し反省して、朝は歩いて、夕方は自転車ということに、切り替えてみた。 いつもの散歩道は、前日の雨で濡れている。 田んぼの畦の草はさらに濡れている。 おかまいなく、踏みしめて歩く、いつもこの田にはいない、 アオサギが群れをなして立っている。我が名付けたモアイ立ちである。 広角のレンズで撮れば面白い光景なのだろう。 あるテリトリーを越えなければ微動だにしないのだ。 相変わらず、早朝にもかかわらず、ヒバリが天高く囀っている。 どこまで上がるのか、首が痛い。 用水路の方で、ばしゃばしゃと音がする。 水嵩が増し、早や速くなった水の流れに、6月の梅雨時期と同じ様に 鯉の滝のぼり、川のぼりが始まったのだ。 帰り道、田に残った、水溜まり。 その水溜まりで、尾を振りながら、 遊ぶセキレイに懐かしい水遊びを思い出していた。 夕方、自転車に乗って、スポーツ広場に出かける。 目新しいものはない。 帰り道、田の畦のところで可憐な花に出会う。 持ち帰りたくなり、 スコップを持参していなかったが、手スコップで、 掘り起こし、適当に土ダンゴを作ったのだ。 おかげで手は土だらけ、デジカメで画像を撮るわけにいかず、 さっさと帰りましたとさ。 広島での散歩も少し変えてみた、比治山へ上ってから、 いつもの川沿いコースを歩く、少しの坂道登りで、 身体に負荷をかけてみることにした。 夜明けが5時過ぎになり、夏モードがとてもここちよい。 さらに、引き潮の時には、京橋川の底が出てくる。 その川辺には、餌を啄むいろいろな鳥たちが見える。 デジカメも持ち歩かないと・・・。 『朝夕に 田に出かけて ひばり追い』 『野の花の 可憐さあまり 持ち帰り』 『急ぎ春 ひたる間もなく 夏季(き)たり』 ☆どうでっしゃろ☆ |
夏立ちて、いつもの田の畦道を歩いてみる。 朝まだひんやりと、歩く歩幅も少し小さめで、歩数を重ねる。 道端で目立つのは不易ばかりで、流行はあまり見られない。 でも、何か見つけられないものかと、きょろきょろとしてみる。 耕されて久しい田、その畦もいよいよ農作業の準備で、 草刈り機ですでに刈られている。 そんな田を横に見ながら、朝早くからさえずる雲雀、そして天へと舞い上がる姿。 一鳴きして、舞い下り、田の雲雀になると、土の色と同系色でその姿は、 実に探しにくい。でも撮りたや雲雀、でも撮れぬ雲雀。 追いかけては飛び跳ねられ、また追いかける。田に居たかと思えば、 天に舞い上がり、それを繰り返しながら・・・。 やっとの思いで、畦に飛んで移った雲雀をとらえ、画像に収めたのだ。 休む田の草に隠れて鳴く鳥に会う。最初は雀かと思い、何気なく 見逃していたら、飛び方、鳴き方が少し違うようなのだ。 雀よりまだ小さい。時には、草に止まったりするから、実にいい画姿 なのだが、デジカメには撮らえられないほどすばしこい鳥。 明らめて、帰り道へと進む。 今度は、電線にとまってさえずる鳥の声を聞きながら、 国道を横切るとバラの木群がある。 いつの間にやら、黄色い花をいっぱいつけて咲いていた。 川向こうだから、香りこそ届いてこないが、いい画姿である。 >29日に那須に行ったのですが、 >駐車場に着いて外に出ると真っ先に飛び込んできたのがうぐいすの鳴き声でした。 >外はブッルと身震えが出そうなほど、木の芽も閉じていて >まだ早春といったところ。 >こんな中で聞くうぐいすの鳴き声は、 >冴え冴えと澄み渡りいつまでも耳に残っていました。 >姿を見る事はできませんでしたね。 夕方、今度はチャリで、スポーツ広場へ、野の花を採集しに。 勢いこんで出かけたが、先日見つけた野の花の場所も含めて、 きれいに刈られ、何もない草場になっていた。 この山では、相変わらずうぐいすが、姿を隠して鳴いている。 野の花は取れても、撮れぬうぐいす。 さてさてどうなるのでしょう。 帰り道、じいちゃん、とうちゃん、孫で、機械を使用して種をまく姿。 三世代の農作業一家に出会う。 どちらの農作業もいろいろ家庭の事情はあろうが、 たぶん、こんな光景にはお目にかかれないだろう。 懐かしくもあり、微笑ましさも感じられた。 『田の雲雀 追うと飛び跳ね また追いて』 『里の子に 野の花もらい 画像箱』 『春長閑 武蔵芝居に とも笑い』 ☆どうでっしゃろ☆ |
お茶と大判焼きとお菓子とデジカメ持ちて、いつもの広場の山道を登ることにした。 登る時には、登ることに力が入り道端の山野草や、 森の中から聞こえてくる鳥のさえずりには、気が入らない。 山の頂まで道があるものと思いつつ登る。 山の中腹あたりで、思いがけぬ蝉の声、「春蝉」なんて初めてである。 右から左から、ジィージィーと蝉時雨、夏盛りのように思えてしまう。 手頃な汗をかいた頃、行き着いたところには、 ピョーネというぶどう畑、頂からの眺望は見えぬまま、汗を拭く。 だれもいない畑の四面から、鶯がさえずり、私の耳を楽しませてくれる。 そのぶどう畑の空地に生えた、野草に目がゆく。 降りるときは、少しこの野草で「道草」してみようと考えた。 ゆっくり降りながら、鳥のさえずりに耳を傾けたり、道端の野の草花に目をやる。 野草の葉の面白き形に、気が移り、デジカメでマクロ撮影。 ときどき蜂のブンブンを耳にしながら、知らぬ顔して降りていく。 小さな花で精一杯の表現をしている野草との出会いは、とてもすがすがしい。 清楚とか可憐ということばが思い出されていた。 花の形にも気が移り、ズーム。ゆくりと進む道、だれも邪魔せぬ道。 歩いても、止まっても、佇んでも、声をあげるとすべてが壊れそうに思えてくる。 ただ、ほぉ〜とか、へぇ〜とか感嘆符というか呟きを残して降りていく山道、 楽しいね。 『見上げたら 鳥通りすぎ 春の雲』 『葉を踏みて 声あげ蛙 池の中』 ☆どうでっしゃろ☆ |
散歩道というより、定点観察のようになってしまった。 「いつもの散歩道」その場へいくまでにいつものように、ちゃりをこぐ。 さえぎるものが少ないため、風の強さをもろに感じてしまう。 チャリを置き去りにして、山道を歩く。 鳥には鳥の都合があり、テリトリーがある。 特に警戒心の強い、うぐいすは、その姿を容易に見せてはくれない。 しばらく、山道に腰を下ろして、さえずりが聞こえるところを見ていても、 その姿にはお目にかかることはできなかった。 聞き耳ずきんのように、最大の受信装置にしてもである。 そんな鳥姿を見たい欲求を持つ、われに思わず、苦笑いしてしまった。 ただ、鳥観察、時間の経つのが速いのだけには驚いてしまう。 少し場所を変え、次のポイントへ、小鳥が枝から枝へ飛び交う、 枝先の木の実をつつきながら、くるくると回る。 忙しくつついたかと思えばすぐに次の枝先へ。 デジカメズームはほとんど間に合わない。 広場の真ん中にわが身をおいて、鳥の声をパノラマ的にサーチする。 サーチして、その場へ行くと、 われの気をはずし小枝との遊技をしている小鳥たち。 新しきポイントを探して、青々とした草を踏み葉桜の下を歩いてみた。 まだ露の残る、草むら、葉桜の匂いをかぎながら、進む。 広場から降りて、チャリを押しながら、歩いていると、 キジ鳩が飛び立ちもせず、われの歩に合わせて、テクテクと歩いている。 『山道に 腰を下ろして 春を聴き』 『われの気を はずして遊ぶ 小鳥たち 』 ☆どうでっしゃろ☆ |
暖かき春、演芸帰りに、じじとばばと家人と後楽園の川端を散歩する。 弥生のうちに咲く桜は、もう満開、散り始めて風とともに花びらの舞いを披露する。 いくつもの家族が社族が恋人族がシートをひき、昼の宴を繰り広げていた。 観測史上初めての早き春は、わがままな人間生活への警告なのだろうか? 南極の氷山も切り離し、地球温暖化に向けて着実に進んでいるように 思える。 とはいえ、そんな事にはおかまいなしの、四人連れ。 暖かいが少し川風がある。土手沿いは桜並木。 土手を下りて、川岸の方へ向い、「よっこいしょ」と腰をおろしたのだ。 わずかな川の流れ、川岸にわれら四人を迎える鰡(ぼら)軍団 水面に浮かんでは沈む繰り返し。 時にはゴボッと音を出す。よほど機嫌が良いのか跳ねたりする。 その横を何食わぬ顔で、首を忙しく動かす、カモ?そうかもねえ。 二匹でくるくる回りながら、水面のえさを食べている。 われらも食べているが、彼らは水面の掃除やさんのように見えます。 暖かさがここちよい。 しばし春を満喫。禿げた頭にゃ少し陽射しは・・・。 座り込んで、ばばが出した「かしわ餅」を食す。 二つも食べてしもうたなり。 ***********************インターネット「柏餅」検索********************** 端午の節供といえばちまきやかしわ餅がつきものですが、 これらを食べるのも邪気を祓うという意味があります。 ちまきは中国からの伝来で、かしわ餅は日本古来のもの。 柏の葉でお餅を包む習慣は日本に古くからあり、 柏の葉を食器として用いた時代もありました。 柏は、新芽が出るまで古い葉が落ちないことから子孫繁栄の象徴とされ、 広い葉もおめでたいと喜ばれていたのです。 ちまきやかしわ餅を食べる風習は室町時代からのものですが、 それが後に伝わった端午の節供と融合して 5月5日の端午の節供に食べるようになったのです。 ***************************************************************** 帰宅後、チャリをこいで、スポーツ広場に急いで出かけましたとさ。 ここも桜の花が満開、だれもいない、もったいない、桜並木。 いつものように、鳥のさえずりと鳥姿を追いかける。 さえずりだけで姿はとうとう撮れずに終わった。 翌日早朝、出かける前に隣の雨樋から群れをなして顔を出す雀、 楽しいそうにさえずり遊ぶ、われはただ一人、 またスポーツ広場に。 さらに桜は満開。 きょうは宴の場所取りに、青いビニールシートが敷かれていた。 めずらしく犬の散歩に車で乗り付けている人影。 その犬にかなり吠えられる。諌める飼い主の声にお構い無しに、 チャリと一緒にいつもと違う山道をあがる。 この道は山登りには、なかなか良さそう。 いつか頂上まで登ってみようと思う。 だれもいない道をあがるのは、とても気持ちがいい。 きょうも多くのさえずりを受信しながら、 画像は撮れない。やっと鳥姿を見つけ、いざ撮らんと準備するものの あえなく「電池切れ」。 いずこからも、うぐいすの声が聞こえて、競い会うようにさえずる。 この時期を逃さまいと、またさえずり方をいろいろ変える。 つがいを求めているようでもある。「いつか撮るぞ、うぐいすの晴れ姿」 を誓い、広場を後にしたのでした。 『たわ群れて 楽しや雀 われひとり』 『早桜 わがまま生きた 人の世の 』 『早き春 桜花散り 積む花の』 ☆どうでっしゃろ☆ |
翌日の大雨から一夜明けた。 カラカラに乾いていた空気が幾分しっとりとしていて、 チャリを踏んで出かける我にはとてもいい気持ちの朝だった。 学校近くの田の広がるところでは、雲雀が気ままにさえずり続けている。 いつものように桜並木のあるスポーツ広場に出かけた。 桜並木の手前あたりで、うぐいすの声があちこちから聞こえてくる。 すんださえずりは耳ごこちがいいが、姿が見えない。 「取らぬから 見せてよ」といいたくなるほど、こころがジレる。 心がジレていたり、ゆとりがないと画像も撮れないようだ。 いいさえずりの声をもらっただけで、桜並木へと。 桜花もほとんど散り、葉桜となる。 あっという間の華やかさが終わり、葉桜に愛おしさが残る。 昨夜の雨が、木の葉に滴を残し、曇り空で陽の当たらぬ山道では、 幻想的なもやが流れて我を迎えてくれた。 その目の前の木々を飛び渡る鳥は、決して止まってくれはしない。 「時よ止まれ」などと言いたくもなる。 チャリでの帰り道、水溜まりを足を上げて通り抜け、自転車通学の頃 思い出していた。 『ゆとりなき 撮る心には 撮れぬ鳥』 『木々渡る 飛ぶ鳥しばし 時止まれ 』 ☆どうでっしゃろ☆ |
>縄文杉に会えるのが今から楽しみです。 >ワクワクドキドキ・・・気分は高鳴る!! >屋久島の観光協会からパンフレットを取り寄せ、穴の空くほど見つめています。 これってよくわかります。たぶん?童心に帰っているように思えるのです。 散歩道で鳥を探していて、同じ様な気持ちになれます。 自然のものって人間を元気にさせてくれますね、 >バランス感覚を少しでも維持しなければと、 >最近寝る前に、目を瞑っての片脚立ち >をすることにしています。 私やってみましたが、あきまへんでした。 頭のバランスも壊れていますから、身体もねえ!! ********************本文************************ チャリを漕ぐ。 鳥たちに会いにいつもの溜まり場に出向いた。 おや! 羽の色が違うのに、何事もないように、同じ群れとして佇む鳥たち、 そろりそろりと禿げおやじが近づいた。 人間様は、色が違えば、衝突が避けられないのに、 何もなく闖入者を受け入れてくれるように見える鳥・・・。 そうはねえ、なかなかねえ、見えないラインがある。 それを越えると一斉に鷺たちが飛び立った。 羽をひろげた大鳥は、散歩人にはきつい風もなんなく交して、 悠然と大空を舞いながら、次の馴染みの群れる場所へと飛んでいった。 老いて群れる場所を見つけるのにあえぐ人間様から見れば実にうらやましい。 山裾に沿って、初めての道を進む。 小高い丘に桜の木が植えられている広場があった。 入り口が施錠されて車は入れないが、 その横にある狭い入り口からあがってみた。 かすかに、木々の間からチリチリと鳥のさえずり、 また山の方からはウグイスの声、 チッチッチーという別の声も、一人で聞くにはもったいないようないい声。 でもだれもいない。 しばしその広場をうろついてみた。 木がランダムに植えられた中から聞こえるチリチリの鳴き声の主。 それを突き止めるため、目をフル回転、やっと見つけたのだが、 画像は逃してしまった。 さらにうろうろとしてみた。 すると鳴かないが、あちこちの小枝を飛び渡る可愛い小さな鳥に出会う。 獲って帰りたいような衝動にかられるのを押さえていると、 デジカメ準備がもたつく。 それでもなんとか画像をものにした。 翌日、家人の田舎に墓参りに出かけた。 家人の家の北側に小高い場所がある。 そこからは街全体が見えるのだ。 ちょうどお昼時、町役場から時報が流れてきた。 それに合せるかのように、遠くの山から「カッコーカッコー」と聞こえてくる。 その透き通った声は、その鳥が近くにいるような感覚なのだ。 その小高いところには、梅が咲いている。梅の小枝に小鳥が飛び回る。 しばらくして、小雨が降り出した。 昼食をとって、またその小高い所にあがってみた。 傘を広げて佇んでいると、いろいろなさえずりが聞こえてくる。 ウグイス、メジロ、梅に桜、鳥たちの声と姿は捉えても、画は撮れない。 かなりの時間が過ぎていたのだろう。 家人は帰らぬ血圧高き我を心配し、どこかで倒れているのではと、 探していたようなのだ。 鳥のおっかけは、時間を忘れさせてくれる。 家人が、「白鳥を見に行こう」という。川の流れの穏やかなところを目指して、 義父が車を走らせてくれた。 山間の流れのない穏やかな川の溜まり場に、白鳥のつがいが6組以上見える。 白鳥は湖のものと思っていたが、「白鳥の川」なのだ。 その中でも特に中のよいペアが、見事な相似形のダンスを愛の形として 披露してくれた。 そのつがいたちは、いくつもの相似形を作り上げ、 川辺から見ていて、なんともいえぬ優雅さを感じさせてくれるのだ。 やはりクラッシックバレエはこれに限る。 さらに、遠くに離れていた群れが、どの鳥が呼寄せたのか知らぬが、 突然に飛び立ちその勇姿を見せてくれることになった。 残念ながら、餌を持っていなかったので、一定の距離以上には、 寄ってこなかったが、白鳥の優雅な泳ぎにしばし見とれていた。 『ふわふわと 風に乗りくる 花の子ら 』 『山あいの 流れに住みし 白鳥の 』 ☆どうでっしゃろ☆ |