いつもの散歩道記録パート4 |
>佐藤さんがあまりにも鳥にご執心なので、 >ついつい私も鳥に目をやってしまいました。 >鳥追いの佐藤さんは、動きもすばやくなっているのでは・・・ すばやい?、鳥はさらにすばやい。 自分のテリトリーに侵入するものへの警戒心、これはなかなか解けるものでは ないと日を重ねても思います。 自宅の庭になにげなくやってくる鳥は、隣近所の木に少し止まっては、 気ままに隣の庭に飛んでいきます。 撮り手の気持ちも知らずに。 >今日は夜勤明け、風呂に入った後洗濯物を干していましたら、 >遠くからうぐいすの鳴き声が聞こえてきました。 やはりこの声を聞かないと、春真っ盛りとはいえないようですね。 >毎日忙しなく過ごしていて鳥の声もオチオチ聞こえなかったような気がします。 >「ホーホケキョ」やはりこの声を聞くと、春だなーと感じます。 >毎年巡ってくる春なのに、感じ方は毎年違うような気が致します。 鳥のさえずりに耳を傾けていると、工場の音、車の音、 電車・新幹線の音がいかに邪魔な音だということがよくわかります。 *****************本文************************* いまでは、チャリでゆく散歩道と歩く散歩道がある。 鳥を追いかけていると、どうしても遠くへ行ってみたくなる。 さえずりは聞こえても、撮れるまでにはなかなかならないからだ。 デジカメの使い方もまだまだである。 鮮明な画像が撮れるまで、いろいろなやり方を試している。 やっとその撮り方が分ってきたところ。 暖かくなった風に誘われるように、 フラフラと出る散歩はとても気持ちがいい。 水門の近くでいつものように「コサギ」に出会う。 早速覚えたての撮り方でやってみた。 次にアオサギの棲息場所に足を向けた。 川辺の向い風に少しあえぎながら、チャリをこぐ。 遠くからいつもの鳥影を見つけ、チャリを降りて近づいていく。 それなりの画像は撮れても、飛ぶ瞬間はなかなか撮れない。 じっくり待つのがコツのようだ。 その場所から離れて、川沿いを走ってみるものの、違うさえずりは聞こえない。 ほんとに耳力を集中しないと、その聞こえてくる位置はさらに分らない。 やっと見つけた鳥を撮ろうとすると、人の気持ち知らぬ。車が通りぬける。 帰り道、川が分かれるところで、群れている鯉たちに出会う。 ゆたりと整然と群れている。水が濁っているから、全容はわからないが、 チャリを止め、しばし時間を忘れていた。 翌日は、歩く散歩道に出かけてみた。 枯れ木から、ビルの屋上に飛び移る鳥を見つける。 水管に止まりそこから湧き出る水に潤いを求める鳥さんだ。 しばらく行くと、ガードレールに止まっている鳥と出会う。 カメラを向けないと、平然としているのに、ジーとズームが動くと、 さっさといなくなる。 金網のやぶれたグランドに目をやると、忙しく虫を食べている鳥たち。 まるで、花見前の宴のようでもある。 啓蟄とはよくいったものだ、きっと虫がグランドに溢れているのだろう。 遠くの谷から、移りし季節を知らせる「うぐいす」のメッセージ。 しばし耳を素通しさせながら、線路の方へ目をやると、 電車と競うかのように鳥が飛ぶ。 昔なら、決して負けるものなどなかったろうになあ、飛ぶ鳥よ。 線路沿いに6・7人の人だかり、三脚をでカメラを構えている。 ひょっとして、鳥仲間?! これは後で知ったことなのだが、 きょうは、山陽新幹線開通30周年とかで、 JRがいろいろな列車走らせるているということだった。 自宅の前の用水路で、春と戯れるセキレイに目が笑う。 いなくなっていたつばめが里帰り、虫を追いかける様に。 「お帰りと」一言。 『風そよぎ 春と戯れ 遊ぶ鳥 』 『昔なら 負けるもの無し 飛ぶ鳥の 』 ☆どうでっしゃろ☆ |
遠くへ行きたくて、チャリで出た。 学校のネットあたりの田んぼの畦で話し込む二人の娘。 どうも、野球部のマネージャーのようだ。 バックネット越えに飛んでくる球を拾っているようである。 チャリで側を通りぬけると、話し声を止めてわれのお通りを待っていた。 さえずりが聞こえるが姿が見えない鳥。 そのさえずりを聞き分けながら、その位置を確かめる。 よかさえずりなのだが、電線のうえで、画像を撮る距離には少し遠い。 田んぼの中に、モアイ像のように遠くを見据えたまま、 不動の鳥が五六羽見えてくる。 擦り寄ってよか画像を撮る、飛び立つところを撮ろうとしたのだが、 デジカメを固定していないためむつかしい。 その鳥の悠然とした飛ぶ姿を見詰め、ついでに手を額のあたりにおいて、 はるかかなたの山々をに目をやり、大きく深呼吸してみた。 少し霞んで見えるが、さえぎるもののない風景を見るのは、 なんと気持ちのよいことか。 鳥を追いかけていると、思わぬ細道、安全ガードのない道を、 チャリで走ることになる。 バランス感覚の乏しくなった、われに、ここにも老いの訪れがあることを 気づかされたのだ。 山縁の道をお墓を横に見ながら、鳥のさえずりを聞き探すが聞こえる音もなし。 そんなところにボチャンという水の音が、耳に飛び込んできた。 川の向こう岸に目を向けると、何か跳ねた輪の後、 そのあたりに自転車をそろりと向けてみると、大きな鯉が悠然と泳いでいた。 久しぶりの鯉の泳ぎにしばし、チャリを止めて眺めていたら、 こころが浮いているのに気がついた。 暖かくなったせいか、家に帰ると壁にゆすりかが何匹も止まっている。 それを求めて、珍しい鳥が羽をはばたかせながら取る姿は、 いつもの光景なのだが、今年はいつもより早いように感じられた。 散歩を終えて、洗面所で顔を洗っていたら、 思わぬ鳥のさえずりがあまりにも身近に聞こえたのだ。 聞こえる位置を探していたら、風呂場の外の壁の上で鳥が鳴いていた。 そそくさとデジカメを持ってきて、やっと撮ったのである。 『目の上に 手をあて遠き 山を見る 』 『細道を チャリで進む 年も過ぎ 』 ☆どうでっしゃろ☆ |
>父が田んぼに出かけていった。休耕田の枯草を集めて燃やすのだそうな。 >熊手を持って掻き集める。枯草の下から青々とした柔らかそうな芹が沢山芽を噴 >出していた。レンゲの葉も出ている。しこし脚を伸ばし畑の土手のほうに行くと、 >これまたフキノトウが芽を出している。春の味覚に小躍りしてしまう。 >山野草に舌鼓を打つ季節となったのだ。花も嬉しいけど、此方のほうもまた格別。 山野草、鳥を追いかけるばかりして、野の草を見るのを忘却しておりました。 いつのまにやら、芽がちらほらと出ているのですね、 そういえば、「栃木の山紀行」にはきょうの一枚ということで、山野草 が出ていましたね。イイ画像です。蓮華草って「ゲンゲ」が正しいのですか。 ***************本文**************** 鳥を追いかけ始めて、いつも感ずることは、飛び立つ時、 さえずりを残してわれを振ることである。 このさえずりがなければ、次の時には、追いかけようとは思わないような気がする。 時にはさえずりが聞こえるが、姿が見えないこともある。 景色との補色になって、見えない。ほんの近くにいてもである。 「思えば遠くへ来たもんだ」という詩があったが、 鳥を追いかけて知らぬ間に遠くへ歩いてきてしまった。 鳥も心得たもので止まり木がないところにはほとんどやってこない。 さらに不思議なのは、どこの庭木にでも止まるというものではないようなのだ。 遠くから大きな鳥が見えたので、大回りをして近づいてみた。 飛び立たれない許される距離まで、真剣な顔で、そろりそろと近づく。 そうすると、右足をあげた。 何をするのだろうかと思う間もなく、用水路に向けて水を放ったのである。 口をポッとあけてただ唖然として見とれていた。 許される距離が近かったからか、画像としてはとてもいいのが撮れた。 さらに遠くへきた。 山すその木々の天辺に鳥の群れが見えるので近づいてみた。 よく見ると、鳥の巣なのだ。それも一つや二つではない。まだ飛び立てない、 ヒナ鳥のような姿も見える。風が吹いて結構木が揺れているのだが、落ちることも なく、鳥たちは生きているのだ。 その昔は家もなく、川と田んぼと里山の世界に、繰り広げられていた 光景なのだろうが。 回数を重ねると、いつもの場所のいつもの時間にいつもの鳥を見かける。 これが縄張りというものなのだろうか。 その場所に、セキレイがつがいで餌を啄む姿を見つけ、鳥姿を撮ることができた。 セキレイの姿が水面にも映え、なかなかのものである。 ただ残念なのは、まだまだ鮮明ではない。このカメラでは限度なのだ。 帰宅して、画像を整理してみたが、デジカメの世界では、見えた画像が、 どういうわけかパソコンでは見えない。がっかりしてしまった。 翌日、歩くにはかなりの距離なので、自転車で同じ場所に出かけ、 さらに遠くに足を伸ばしてみた。 面白い名の神社−耳岩神社−なんてのがあったので早速登ってみた。 確かに、神社自体は古いのだが、最近作られたような耳の岩があるにはあった。 残念ながら、その由来とかが書かれたものがないから、 何を拝んでいいのかわからない。 たぶん、耳がいつまでも聞こえるようにということなのだろうが、 年をとればあまり聞こえすぎるのもどうでもいいような気がしないではないが。 『セキレイが 心ほどいて 止め姿』 ☆どうでっしゃろ☆ |
>まだ、鳥に馬鹿にされている所なのかしら。 >私なんかとっくに諦めている。尤も、2倍ズームぐらいじゃ物になりませんよね。 鳥のテリトリーへ入るのはむつかしい。自然人にならないと。 画像を少しずつためていっています。 残念ながら、名前がねえ。 インターネットで「日本野鳥の会」のHPを見てもよくわかりません。 デジカメでとった画像がまだ鮮明ではないのです。 とんびやからすやすずめやかもめやウミネコや鳩ならわかるのですが。 結構いろいろ近所周りを歩いているといますねえ。 **********本文******************************** 暖かな陽射しに、縁側から庭に出て、花を見ながら、花談義をする近所の人。 駅横の空地もきれいに整備舗装されて、駐輪場になりそうだ。 国道を無理矢理横断して、鎮守の森を目指した。 壊れかけた屋根瓦がいまにも落ちそうなほど、入り口の門は古びていた。 その横に太陽神「天照大神」の碑だけが妙に新しく違和感がある。 木々の背の高さが、この空間に静けさと、過去の幻想をもたらしてくれる。 昔はこんな神社の中をかけずりまわり、缶蹴りや鬼ごっこ等いろいろな遊びを 楽しんだものである。鈴を鳴らしながら、賽銭箱にがっちりとはめられた 鎖と錠前に、いたずら心ですんだ昔とは違う、寂しさが漂っている。 田の真ん中当たりに、きじ鳩を二匹見つけ、デジカメで追う。 春を迎えて、孫が見守る中、じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃんが、 親子三代で、今年の畑の準備に追われているのを横にみながら。 少し過ぎたあたりで、大木の落葉の枝に鳥を発見した。 暖かなせいなのか、鳥さんから、我のカメラスピードに合せて、 しばしズームインの許可が下りたようだ。 カメラをぶらぶら振って歩いていると、洗車する髭ずらのおやじが、 じっと怪訝そうに我を見ていた。 その先の庭の木に目が向く。 ゆずがたわわにみのり、いつか通った時と同じように、いまだ獲られぬ ままなのが気にかかる。 暖かい1日なので、ジャンパーの前をはずして歩いてみた。 薬局に寄り道して、洗剤を買う。 また、国道を横切ると、バイパス道路建設のため、 買収された田んぼが着々と埋められ、そこでカラスが一匹遊んでいた。 動かしている嘴を見ると、 「人間は何しょんかいな」そんなことを言いたげでもある。 暖かくなると、同じように、鳥たちも心をほどくのか、 セキレイが用水路で、しばし我に止め姿を見せる。 でも、素早く撮れぬ自分、そのもどかしさ。 ようやく撮れた画像はぼやけていた。 『飛び立ちて さえずり残し われを振る 』 『足を止め 撮れるかな鳥 逃げるかな 』 ☆どうでっしゃろ☆ |
少し陽射しが暖かい。掘り起こされた田の土の色に、 水分がなくなってきたのか、色褪せている。 新しく芽生えるための再生活動が続いているのだろう。 その土からの精気を思いっきり吸い込んで、持ち帰る。 いつもの散歩道、もうかなり歩いてきた、 季節の変化を自然の動きや生き物の生死で見つけながら歩いてきた。 ちょうどいまの時期は、ほんとに変化の少ない頃、この地へ住む限り、 露になるまで歩いているだろう。 畦道を歩いている時に気付いたのだか、田植え時期、 ポンプで水揚げされた時の大田螺の抜け殻が、ちらほら落ちている。 それを、かわしそこねて踏んづけ、つぶしてしまった。 人間が、火葬されて骨を残すように、かれらは貝殻を残す、 やがて歴史の積み重ねが、土に還す、 だれが踏み潰したとしても、わかるものではない。 人もこの地にだれが生きていたのか、ほんの一握りの人でしか。 歴史家は知ろうとはしないのだから。 鳥はそれぞれのテリトリーを持っている。 からすや雀や鳩は、人間のテリトリーと重なっているが、 その他の鳥のテリトリーは実に厳しい。 双眼鏡だとか、望遠鏡を使用しない限り、 「人の感」では侵入ラインを越えてしまう。 だから、バードウォッチングなるものが楽しいのかもしれない。 カラフルな羽と、澄んだいろいろな鳴き声、いろいろな飛び方、 仲間との交流の仕方、それぞれの鳥の動きに、 人間は一喜一憂するのがよくわかりはじめた。 『この道 いくど歩けば 露となる 』 『鳥を撮る 鳥になれない もどかしさ』 ☆どうでっしゃろ☆ |
>このままで行ったら春がめっぽう早そうな気がします。 >でも、何処かで帳尻合わせられるんですよね。 >春めいてくると、何処となく心がウキウキします。 >猫がニャーゴ!ニャーゴ!の季節になりました。 そうか猫発情の季節か、母が亡くなり姉の家には 毎週行かなくなったので、猫に会うこともなくなりましたからねえ。 ウキウキねえ。今年は冬が短くて、うら寂しさが少なくなって 単身赴任者としては歓迎でした。 ******************本文************************ はがきを投函するため、いつもの散歩道を変えてみた。 寒い中、素足を惜し気もなくみせる、眩しい女学生の後を歩きながら、 駅前でポストに投函。 雑然と並べられた自転車を横目で見ながら、通り過ぎる。 二人のポリスマンが寒い中、一台一台自転車の盗難チェックをしている。 その横をバイクでポストマンが、きのうの便りを乗せて風を切り颯爽と 通り過ぎていく。ほんとに日常的ないつもの光景なのだろう。 しばらく行くと、きょう初めての鳥に出会う。電線に一匹。 下を通りすぎても逃げない鳥、鳩である、それも山鳩。 伝書鳩のようにうるさく鳴くこともなく、群れることもなく、 ただポツンと止まっているから、とても寂しそうに見えてしまう。 寒さと、寂しさを感じながら、ただ歩を進めていたら、突然、大きな 犬に吠えられた。寒さで縮んでいた背筋をピンと伸ばして、 足を急がせた。 角を回ったところで、ガードレールに止まった珍しき鳥を見つける。 雀大で嘴が内側に曲がった鳥、デジカメのシャッターチャンスを逃し 撮ることができず、もう会えないかもしれない悔しさを味わった。 にぎやかな園舎を横に見ながら、用水路の流れに沿って歩いていたら、 遠くの水面に大きな輪ができた。 久しく見ていない鯉では、と思い田んぼに降りて 輪のできたところまで畦道を歩く、でも鯉には会えなかった。 翌日いつもの散歩道。風が強く、追い風が、わが耳の横で「寒いだろ」 と告げながら、ピューという。帰り道はさらに厳しい向い風。 でも逆に考えればまた楽し・・・。 跨線橋横の野っ原が強い風になびいて、見事な波を作る。 それに見とれていたら、塀越えに犬がひょいと首だけ出して、 われと眼があう、身構えたが、 この犬は首を横にかしげただけで、吠えもしなかった。 帰り道、見え隠れする鷺を見つけたが、近づくと一声残して飛び立った。 近所の庭に止まった初めての鳥影に、デジカメのボタンを押し、二画像撮る。 でもいい鳥影は一画像だけ・・・。ほんとに鳥を撮るのはむつかしや。 『枯れ草や 風になびいて 波になり 』 『人影に 寒いだろやと 風の声』 ☆どうでっしゃろ☆ |
新しい息吹きを求めていたら、いつもの散歩道から、大きくはずれていた。 そのおかげで360度のパノラマ田園画像に出会えたのだ。 そして、さらに鳥を見つけて、追いかけるうちに小さな人間の姿を教えてくれる、 そんな空間に自分が居た。 だれだろう、「田園」なんて言葉を作ったのは。 まさに気が洗われ、新たな活動の原点に戻してくれる、園なのだ。 デジカメで、鳥を求めて、シャッターを押すのだが、 人間の気をすぐに察知する鳥の感性はとても敏感だ。 いつもの散歩道にもどり細い用水路にむくろを見せる黒カラス。 カラスは黒い、むくろを見せぬと言われているカラスのむくろ。 田園の静けさに、遠くから、球を打つ、 ラケットの破裂音がパシーンと思いっきり響き渡る。 里の子からもらった。梅画像。 その梅と同じ梅を散歩道の家の庭に見つけ、思わず、 ほほ笑んだ。 『里の子に 梅の便りで 春もらう 』 ☆どうでっしゃろ☆ |
>こういう文面を見ていると、なんか凄く心にゆとりがあるように思われます。 >けっして時間がたくさんある訳じゃないんでしょうに? >小鳥も充分心の癒しになるような気がします。 >嬉々としている佐藤さんの様子が伝わってくるのですが・・・ >そういえば、近頃しみじみと小鳥の姿を見たことが無いような気がします。 >庭のあちこちに、万両の木が実をつけています。小鳥が運んできたものです。 >と言っても、何処かで食べてきて、我が家で糞をしたんですね。それが今綺麗な >実をつけているというわけです。又それを食べて、何処かに・・・・しているのかな? こころにゆとりというか。いつも変化を求めている部分と、ゆったりとぼ〜〜と していて何もしていない、変化のないのを望んでいる自分がいます。 鳥を見ているとどうしても自由に思えてくる。 でもね、えさを誰かが与えてくれるわけでもないし、 「起きなさい」と言ってくれるものでもないわけでして。 ほんとの自由を勝ち取るには、厳しい自然との闘い・生存競争というものが あって得られたもの。人間の親子の関係は離れすぎても近すぎてもね。 やはり金がものをいう時代には、口では自由が欲しいだとか、自由で居たい なんて言うけど、本当の自由というのはないのかもしれませんね。 ******************本文****************** 人は休みとなれば、起きる時間を少し調整してゆっくりと起きる。 でも鳥たちは、そんな人間様に関係なく、自然の時を頑なに守り、いつもの時間 いつものように餌を取り、さえずりを始めるのだ。 きのうの雪が、夜には雨に変わり、散歩道のあちこちに水溜まりを作っている。 小学生の頃の遊び心がよみがえり、長靴をはいているつもりで、つい水溜まりに 入っていた。はるか先まである、あちこちの水溜まりが、まるで水玉模様のように 見えてくる。 いつまでも荒れ放題だった休耕田が、いつの間にやら耕され、息吹をもち はじめ、土の力強さを感じさせてくれる。陽射しが目に入り、行く手をはばむが、 それとは逆に暖かさも届けてくれる。 いつもの踏み切りで、電車に捕まりしばし立ち往生、止めた足に、さらに向かい風 が重なり、頬にあたる風がやけに冷たい。後ろから追いかけるように、犬と散歩する ひとがやってくるが、降ろされた遮断機を越えるわけに行かず、じっとがまん。 やっと通り過ぎた電車に、せきをきるように線路を渡る、また追いかけてくる犬。 いつものところに臭いをつけるため、小水をかける犬、終わったと同時に後ろ足を 使って土をかけている。 家影が田んぼに映る。魔法をかけられたように大きなビルディングになって、太陽が あがるにつれて、そのビルが小さくなっていく。 一夜の雨で小川の水嵩も増し、濁り水だが、勢いのある流れの音を作っていた。 鳥が餌をついばみ、小川に降りているところに、デジカメのレンズを向けると。 その音を察知したのか、さっと飛び立った。 飛び立つ鷺の初ショットとなったのだ。 『人時を あやつり鳥は 時のまま』 ☆どうでっしゃろ☆ |
家人の田舎へ用事がありでかけるため、 時間があまりとれず、いつもの散歩道を変えて、20分程度の散歩となってしまっ た。 この地には、昔連兵場があり、大正天皇が来られたという、場所があるのだ。 そこには石碑がいまだに残っている。 我が家から10分程度でその場所にいける。 小高い山を急な階段と坂道を登るのだが、草木がぼうぼうと生えるなか、その石碑 はある。 その石碑の下には新幹線のトンネルがある。 しばらく佇んで、のぞみやこだまやレールスターの通過するのをボーッと眺める。 列車の人でない自分から見ると、なんでみんなあんなに急いでいるのかと思いなが ら。 そんなことを思う一方で、 天皇陛下がこの小高いところから、居並ぶ兵隊を閲兵していたのかと・・・ しばらくして、時代の移り変わりで目の前に開かれているこの情景とのあまりもの 差に、時の不思議さを感じてしまっている自分がいた。 ここは春には桜が咲き、照明で満開の桜を照らすなんてこともやる。 春の時期、人が酒飲んで騒いでいるか、そのころ夜桜見物をしている人がいるかは、 8年すぎて一度もその時期訪れない私にはわからない。 >とうとうやりましたね。おめでとうございます。 >更なる画像を期待しています。 >ズーム機能がついて、今度は鳥も登場するのでしょうか? この山に鳥の姿を求めたが、一向に鳴き声は聞けないまま、 ニユーデジカメの被写体が探せないまま、 ただひとり眼下に広がる、わが街を眺め、まだまだ緑が豊富、少しだけ気持ちよい 気分に癒されながら、急坂をそそくさと下りていった。 『二人だけ これからいつも ふたりだけ』 『輪つくりの むつかしさふと 物思い』 ☆どうでっしゃろ☆ |
暖かい日が続いた。朝だけではものたらず、夕方も歩いてみた。 いつもは散歩をせかす家人から、叱咤もされず、いい気分なのだ。 春を待ちきれない芽が、我が家の小さな庭にもちらほら。 なんのことはない、ニューデジカメの被写体の鳥探し。ランダム散歩。 鳥はきまぐれ、わが意をかいさず、すぐ逃げる。 追うもまたすぐ逃げる。暖かいとまったく苦にならない。 追うわれを見て、尾を振る鳥たちの愛らしきことよ。 いままで気づかなかったが、多くの鳥のさえずりが聞こえるところをみつけた。 いまどきめずらしい枯れすすきの群生があったのだ。 近づくにつれて、その鳥がなんであるか分かった。それも半端な数ではない。 すずめ団、少々近づいても逃げない、折れもせず枯れてやせたすすきに 上手に止まる雀の姿が面白い。 木に群れる鳥にデジカメでフォーカスする。決して、売りにするつもりもないのに、 騒ぎ出しあれよあれよと思ううち、視界からきれいにいなくなってしまった。 羽持つ鳥の逃げ羽の強さだけが目立つばかり。 藁が敷かれていた田の藁がいつのまにやら焼かれ、焦げ付いていた。 焦げ付いてた田が、いつのまにやら耕されていた。 その向こう、かなり向こうの学校の運動場から、野球選手の元気な声が 聞こえてくる。 めずらしく、きょうは、ゆらぐような情熱色をパーフォマンスで見せる夕雲が 帰り道まで続いていたのだ。 『追う逃げる また追う鳥の 楽しさよ』 ☆どうでっしゃろ☆ |
風が強い、怠け体に勇気を出させ、新デジカメもって、いつもの散歩道に出かける。 といっても、寒いばかりで、「不易流行」の流行はなかなかみつけられない。 枯れ草、もみがら、わら、耕されたたんぼ。 そんな何事もないようにしか見えない、 田園風景の遠くの方で、やたらと黒いものが見えてくる。 近づくにつれてその数が増えていく。 夕暮れ時のカラスの大群である。 偵察から帰ってきたのか、田の餌を啄ばむ意外な姿。 われが近づいても一向に逃げる気配はない。 新デジカメのズーム機能を使って、撮ってみる。 撮れたのだろうかなんて気を使う余裕もなく、 冷たさでかじかんだ手でボタンを押すのが精一杯だったのだ。 しばらく田の畦道を歩きながら、 どうもよそ見で知らぬ間に幸運を踏んだみたいである。 これは正月から糞のいいことだ。 さらにしばらくクローバーを踏みふみ歩く、とてもここちよき歩きをもらった。 そこから、すこし違う道に、 踏み切りを渡ったところで二本の松に囲まれた祠を見つけた。 さらに進むと小鳥が一匹、電線に止まって囀っている。 見とれる間もなく、デジカメズームを向けた。 帰り道、向かい風に遭う、しばし立ち止まりて、 風の音に耳を傾けたり、あまりの寒さに背を向けたり。 遠き山間に夕陽が沈もうとしていた。 その形が朱色のダルマの形になっているのをじっと見つめて、なぜか若き頃を思い出 していた。 太陽に向って走る姿、森田健作?? わが家に近づいた頃、水の少なくなった用水路に鷺が一匹遊んでいた。 冷え切った体を家に運ぶがなかなかもとに戻らない。 わくわくする気持を押さえながら、 新デジカメで撮った画像を確かめようと再生したが、一枚も撮れていなかった。 その場で再生して確かめておけばよかった・・・と思うのはあとのまつり。 新しいタイプは被写体に半押しでフォーカスして、決ったところで、全押しをするの だが、それをしていなかったようなのだ。 寒さに気を取られたどうでもいいオチだった。 『葉葉なくし 久しき木々と 冬ごもり』 『初夢と 構えて寝るも 記憶なく』 『知らぬ間に 踏みし開運 犬の糞』 ☆どうでっしゃろ☆ |