いつもの散歩道記録パート3 |
三連休、散歩もせずに、掃除ばかりでございました。 まずは初日、町内会の掃除、近所周りとゴミステーションの草ぬき、溝の泥あげ、 その後は、公民館の外回りの掃除と、館内の拭き掃除。 公民館掃除は、男連が6人中4人出ておりました。 その中で、私と同年齢と思われるおじさんの話。 「いままで掃除機を使ったことがない」と申しておりました。 やはり、第二の人生は、まず炊事、掃除、洗濯から、 やる必要があるようですな。 帰宅して、蛍光燈拭きと窓拭き、 そして、翌日、日頃つかわないところの筋がいたい。 この日は、神社の掃除、石段がかなり急で百五十段はあろうか。 昇りきると息切れと、朝8時というまだ寒い時間、 鼻水が出てくる。 この石段の最上段から下へ向って、枯れ葉を竹ぼうきで払っていった。 結構いい運動というより、これまた日頃つかわないところの筋が 痛くなりましたです。 『山の神 降りて来てよと 枯れ葉らい』 『花なき日 団子もらいて 口楽し』 ☆どうでっしゃろ☆ |
いつもの散歩道とは、全く反対の人家のある方向に変えてみた。 それも夕方に歩いてみた。 フェンスの間から、少しだけ顔を出している黄色い花の揺れを見ながら、 頬を通り過ぎていく風が、冷たさだけを残していく。 新しく道路を作るからと、駅前のコンビニも解体中である。 確かその隣には、クリーニング店とかアパートもあったのに いつの間にやら何も無くなって、空空である。 時だけが過ぎすぎて、形ある物が壊され、新しい造形を ただ待つ空間に冬は余計に厳しく見えてしまうから、 不思議だ。 夕陽も手頃になり、まぶしさをさほど感じなくなってしまった。 通りがかりの家の庭に、どういうわけか30羽ぐらいのスズメの 団体が舞い下りて、何かをついばんでいた。われが通り過ぎると 庭土から離れ、木にとまり、ぺちゃくちゃと餌談義でもしているのだろうか。 冬には似合わぬ葦簾が立てられ、余計に寒さを感じてしまう。 しばらく行くと、季節がすんだ柿の木に、誰も食わずに終わった柿のみが 風にぶらりと揺れていた。 ふと川向こうを見ると首の長いすらりとした鳥との目線が合う。 鳥は首をすくめるが飛び立ちもしない。 そそくさとわれが通り過ぎて行っただけだった。 暖かい家に帰り、室内を見回すと、去年のシャコバサボテンが 今年も見事に赤紫の花を下向きに咲かせ、去年のシクラメンが いまだ蕾のままで、開花の時期を待っているようだ。 『まぶしさも 手ごろになりて 冬の陽』 『変わりなく ただ変わりなく 過ぎし日よ』 『風流れ 時流れて 人流る』 ☆どうでっしゃろ☆ |
夕方の散歩に切り替えてから、田んぼの畦、用水路・分水路、目をあげて みえる山間、草むらいずれも変化を見せず、枯れモード。 芭蕉が「不易流行」とはよくいったもので、この時期の変化はなかなかとらえにくい。 いつものこの散歩道は、冬向きではないようだ。 でも、芭蕉の句には、冬をテーマにしたものも結構あったような気がするが、 思い出せない、私の頭が枯れモード。 句の浮かび具合からして、わが観察眼は、変化しないもののとらえ方が弱く、 変化するものへの観察眼ばかりが目立つということになる。 昨日の酒の飲み過ぎで、朝歩きはやめ、夕方おもむろにいつもの道を歩いた。 分水路の水はすっかりなくなり、地割れを起こしている。 道端に懐かしい草を見つけた。ひっつきもちというやつである。 学校帰りに、それをもぎとって、友だちのセーターめがけて投げていた頃を 思い出し、わが服でやってみた。 変わりはしない、ワーワー言いながら、 楽しい遊びどきの思い出像がよみがえってきた。 少し過去に浸りながら、歩を進めると、 すっかりショーを終え、落ち葉を地面に散らしたいちょうがある。 落葉(らくよう)いちょうを手にとって過ぎ去った秋を懐かしむ。 遠くでは、田の上にまかれた藁に火をつけている人が見える。 だんだんと煙に巻かれていくようだ。 百姓仕事を知らぬ私には、何のためにするのかわからない。 途中、学び終えた学生のチャリンコ団体に、道をふさがれ、 通り過ぎるまで、しばし通過待ちとなったのだ。 帰り道、久しぶりに目にする光景。 自転車の前部に子供を乗せた父と、小さな子供用自転車で 先頭をきる親子連れに、遠き日父に乗せられて、映画館に連れて行って もらったころが懐かしく瞼に浮かんできた。 やがて、いつものバラ通りの鮮やかな色に目を預けながら、 ゆっくりと通り過ぎた。 もう薄暗くなり、生き物の動きもキャッチできないと思いながら、 用水路の水溜まりを見ていると、きらりとうろこを光らせながら 遊ぶ小鮒に出会うことができた。 『落葉(らくよう)の いちょう拾い 過ぎし秋』 ☆どうでっしゃろ☆ |
>いやいやそんな事は無いはず。 >かれた草むらを見れば、しっかり青々とした葉を伸ばしている雑草もありますし・・ >山の鳥達も里に降りてきています。我が家のブロッコリー、最近鳥が葉を食べて行く >ようでして青虫の食べ口より酷いです。糞もあちこちに・・・。 >ウメモドキも綺麗に実がついたのを見たことがありません。 >みんなみーんな鳥の所為。 >でも、毎朝心地よい囀りを聞かせてくれるので許しちゃお〜。 「許しチャオ」になりましたか。自然の「鳥の声は糞より強し」ですか。 ブロッコリー青虫もこずそれなりに成長していますです。 でもさ〜、すっかりその観察眼、感性ともうしましょうか花開いて いますね、五感もするどく働いているみたい。感心しています。 ****************本文********************* 稲刈りが終わりしばらく何もなかった田んぼは、 耕運機で掘り起こされて、このまま新しい年を迎えるようだ。 うっすらと霜のおりた田に寒さを覚え、通り過ぎていく。 工場のフェンスの中にあるいちょうが、先週は見事に色を変え、黄葉していた と思っていたら、葉をあっというまに散らしてショーを繰り広げ始めている。 しかしまあ、いずこのいちょうの散り葉も見事なものだと感心してしまうのだ。 決して、人間様の散り際にはこんなショーはできない。 華やかな舞台でショーを見せる芸能人の気持が少しだけわかったが、 それをなす術は我にはない。 草も刈れている中で、少し背伸びをした黄色い野の花が一輪、 少し距離をおいて、また一輪と咲いている。いつものトンネルを抜けて、 いつもの散歩道を変えてみた。 田んぼの畦道で、草の露をもらいながら歩く。 田の片隅でもみが燃やされ、こげた臭いとただもくもくと煙をあげているが、 その煙が妙に煙たく目にしみたのだ。思わず足をいそがせ、復路に入った。 いつもの川に近づくと、われを見た鷺が、 水の枯れた川の中を速足で歩いている。 そこからほんの少し先の水溜まりには、小鮒がにぎやかにかけずり回っていた。 しばし足を止め、そのかけっこをじっと眺めていた。 止まってた時間、どこからともなくやってきた鳥が、 さえずりながら弧を描いて飛ぶ楽しき踊りに気づき、足をふたたび前に進めた。 三連休の初日のことである。 『黄葉と 散葉(サンバ)ショーに 目も踊る』 『冬迎え 季語知らずにも ほどがあり』 ☆どうでっしゃろ☆ |
>最近はススキもだんだん少なくなってきましたが、 >会津へ行った帰りに見たススキ野原は見事でした。 まだあるんですね。 たくろうの歌にあった、「すすきのかんざし」なんてのを 思い出しました。 >紅葉も素晴らしいですがあのススキを見ていると、 >なにか心の琴線に触れるような言いようもないものを感じます。 いいことば、「心の金銭」(変換すると最初に出る)違った「心の琴線」 大切にしたい、わたくしのは少し鈍ってきていますが。 先週いい紅葉を見ました。こころの琴線に触れ それなりに癒されたましたよ。 **********本文*************** 手袋をして、襟を立て、いつもより少し速や足、風を切ると、頬が冷たい。 全盛期だったセイタカアワダチソウの花も、燃えるようなだいだい色から 脱色したような色になり、ほとんどが枯れモードへと移りつつある。 遠くから甲高い一番鶏が長い息で鳴きつづけている。 薄暗い道を、ライトをつけたバイクと自転車がやってくる。 鉄道の向こう側を見てみると、少しぼんやりとした家の明かりが、 川面に浮かぶ、屋形船のように見えてくる。 歩き終えると、みずばながたれて、寒さを体が感じている。 わが庭は、緑もめっきり少なくなった。 家人が補色するため、いろいろな色のパンジーをプランターに 植えている。冷え切った体と冷え切ったこころに 少しだけほの明るさが見えてきた。 『冬バラに 手をさしのべても 川向こう』 『家明かり 川面に浮かぶ 屋形船』 ☆どうでっしゃろ☆ |
春や夏や秋はほっておいても、私たちを囲む森羅万象、花鳥風月が いろいろなものを五感に届けてくれる。冬立ちて途端に、いろいろな 生き物が、休眠モードになったり、土に帰ったりしてしまうようだ。 夜のうちの雨で、少し路面が濡れていたが、散歩しても音をたてるほど ではない。頭をいろいろな方向に、さらに目をキョロキョロとする も、「不易流行」の不易ばかりが目に付いてしまう。 その不易を違った角度から見ようと思うが、五感も冷え切って、 句をひねり出せもしない。 人間様の作った建造物・カーブミラーに少し冬の変化が見られ、 機能しなくなったミラーは案山子のようでもある。 そのミラーの上の電線に鷺が止まり、 寒さのため白いボール球のようになっていた。 定番のカラスのカーカーと、チュンチュンと屋根上で飛び跳ねる雀は、 えさの話で盛り上がっているように聞こえる。 どこからともなく、飛んできた山鳩だけが、どんなえさを求めているのか、 伝書鳩と同じなのだろうか?と気にかかる。 ただただ、すすきやねこじゃらしの枯れていく様だけが、哀愁を誘い、 風が吹いても、ただその硬さだけが目立つだけである。 耳を澄ましても音が聞こえないから、自分で人工的な音を作って、 新しい音を待つが何も聞こえはしない。 冬ってこんなにつまらないのかなあ。 『立ち枯れの 花も草葉も 土支度』 『音求め 音を作りて 音を待つ』 ☆どうでっしゃろ☆ |