いつもの散歩道記録パート2
**11月10日の散歩道**

>夜も明けやらぬまだ暗いうちから散歩をされている
>佐藤さんは凄いと思ってしまいます。
ぜんぜんすごくありません。

私西宮への長距離ドライブ、いまだにこたえております。
どうも目が一番疲れて、首筋が痛く肩にきているようです。
爺である認識を忘れていた報いでしょうか。
たんなるウォーキングだけでは、鍛えられない。
目を鍛えるなんてできないし、老化一途でしょうから。
無難な電車利用がいいようでして・・・。

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ほとんどの田んぼが、春の田んぼに戻っている。
でもあの稲の「かぶ」はどうだったっけ。春にもあったのかな。
刈り取られ、実だけがとられた稲は、
田んぼのいたるところに数束ごとに、立てかけられている。
一仕事すんだコンバインだけが、ビニールシートをかぶって、
で〜んと陣取っていた。

虫の音もすっかり幕を降ろす泣き声になってしまっていて、
耳でのキャツチもなかなか難しくなってしまった。

しばらく歩くと、小雨が降り出し、
ウォーキングコースも省きながらの朝の散歩道となった。
秋の暮れともなると、真っ直ぐ高くそびえる、黄緑色の葉をつけた、
いちょうの木が目立ちはじめる。
ひと色をいつ変化させようかと身構える時期になったのだ。

いちょうの木のある工場からは単調な機械音が、
耳にいやがられながらも入ってくる。
そのいちょうの木の隣では、枯葉たちが、ランダムになんの装いもなく、
地上に舞って降りていくのだ。
秋の暮れとはいえ、すすきたちが風をそのまま受けて揺れる様は、
秋景色にやはりよく似合うようである。

『秋雨に 不安ばかりの 遠きたび』
『秋の日に 京に遊び 人に酔う』

☆どうでっしゃろ☆

**11月3日の散歩道**

夏から秋の始まりまで、あまり感じなかった配送バイクのスピード、
われの横をけたたまし音で通り過ぎ、風を作って残していく。
水のほとんど無くなった川に、洗濯後の泡だけが流れ、
生の感じられない川に、さらに句も生まれず。

そんな人間たちに、それでも何かをあげようと水面で戯れる二匹の鳥は、
楽しいダンスをサービスしてくれていた。

田んぼでは稲刈りの真っ最中となり、刈られた田には、切り株が残り、
ワラがまかれた状態で冬に向う準備も済んだようだ。
ちまたの音は人間が作る音ばかりで、どうしても雑な音になってしまった。

それでもある川端には、バラ団がとげとげしさのいただきに、
いろいろな色の花を咲かせ、競い合っているようにも見えたり。
帰り道、遠くの山に目線を移すと、ささやかな朝焼け色が目に優しく映ったり。

なんて思いながら、鐘の音を聞いて、帰り道が終わりかけていたら。
先週小さな柿の木の精一杯の実を数えていたから、
いつのまにやら減っているのに気付き、「昔はとっていたな」なんて、
思いながらそのまま通り過ぎていたり。

それでもわが庭に帰ると、冬コスモスの白と淡い黄色の混合色の
花びらの清楚さがなんともいえずいいと思わせくれたのだ。

『花枯れに 冬コスモスの 淡き色』

☆どうでっしゃろ☆

**10月27日の散歩道**

>野原や休耕田にはセイタカアワダチソウが咲き誇っています。
>ブタクサとも言うんだそうな・・・。花粉症や喘息にもなるとか・・・。
>凄い繁殖力ですね。在来種がどんどんやられてしまいます。
>嫌われ者でも花が一面に咲くときれなんですけどね・・・
こちらも同じ秋の朝風景というところです。
いつごろからでしょう。植物の生態系が変わりつつあるなんて、
言っていた頃があったように思います。
そんなことを言ってる間に、
もうセイタカアワダチソウの天下になっていましたようで。

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風もなく穏やかな朝、まだ覚めぬ目で薄暗い空を見上げると、
きょうの秋晴れ予報、360度、雲がひとつもない。
少しの寒さを知らせる車窓はくもり、いたずらごころで
「オハー」と書いて通り過ぎた。

いつの間にやら、すすきたちはセイタカアワダチソウに場所を取られて
少し穂を出して、あえぐようにかすかに揺れている。
いつのまにやら、騒がしかった虫の音も、風に乗って
聞こえる程度で、時は確かに流れているのだ。

たわわにみのる稲穂に目を向けると、虫が一匹、稲の葉に。
どんな動きをするのか、少し止まって眺めて見るが
少しも動きはしなかった。

用水路の水はさらに少なくなり、目をつむって通っても、
せせらぎにもならない。
鯉はその水嵩にたえられず、いずこかへ旅立ったようだ。
ほんの小さな流れに、つがいの小鳥が舞い下りて、
忙しく餌をついばんでいた。

『風流れ 虫の音流れ 時流る』
『すすき連 アワダチ草に 席取られ』

☆どうでっしゃろ☆

**10月20日の散歩道**

ドアーを開けると、いつもながら各屋根を渡り飛ぶ雀がさわがしい。
鳴く声でコミュニケーションをとる雀たち、上下左右に
移動しながらの飛びはね方も、とても人間さまにはマネできぬ。

そんなすずめが好む稲穂が、風のいたずらか、ある部分だけ、
ミステリーサークルにはほど遠く、ぽっかりと穴をあけられた
ように倒れている。

ちょっといたずらごころで、
元気に成長しつづける稲の葉の、小さな滴玉を指でいじりながら、
形を変えてみる。音は聞こえないが、滴玉がひび割れた田に
スローで落ちた。

道端には、いつのまにかすすきが背丈をのばし、ゆらゆらと
通る人にあいさつしているように見える。
そんなときいつものように遠き鐘が風に乗ってやってくる。

鐘の鳴るほうへ眼をやると、山すその朝焼けが徐々に
色を変えるが、待ち遠しい陽は現れない。
小さなトンネルを抜け、水の流れのない用水路には、
生き物の姿がないのか、水輪も小波もたたない。
動かぬたまり水はひとの生をも消沈させてしまうようだ。

少しずつ流れている用水路もまだある。
目をつむりその流れだけに耳をすますと、ゴミの川とは
思えないせせらぎとなる。
少しだけの流れにゆったりと乗るのがうまいのは鯉、
すいーっと乗って遊んでいるように見える。

『朝雀 めちゃはねるよ 何踊り』
『しずく玉 指で触って 形変え』

☆どうでっしゃろ☆

**10月13日の散歩道**

>それでも雑草が生い茂っているよりは、水があったほうが安らぎますね。
>周りの土手にはヨモギが生い茂り、
>ネコジャラシの穂もいくぶん黄ばみがかってき
>て、イヌタデ(アカマンマ)やシロヨメナが彩りを加えています。
>そして、その雑草の中からスズメがぱぁ〜と飛び立つんです。
>スズメのお宿??

>ただの雑草と思って通り過ぎればそれまでですが、
>佐藤さんの『散歩道』のお陰で
>時には道々の草花にも目が向けられっているかな?なんて思っています。
>今日は鴨さん来ているかな?と窓から眺めたり・・・
>患者さんの食堂からとてもよく見えるんです。
心和む場所が見つかって、よかったですね。でも山が一番!!。
昔の人は、季節の移り変わりに、心をあそばせる。

その移り変わりに合わせるように、生き物が生れたり死んだりする。
植物が咲いたり枯れたりする。自然の木や葉や花がいろいろ色を変えたりする。
そんな変化を精一杯楽しんでいたのでしょう。
だから、金に変えられない楽しみをいくつでも知っていたように思います。

でも忙しい現代人にとっては、そんなところになんで心を向けなければ
いけないのか、という気持ちなのでしょう。人工的な世界が楽しい。
だから、ひとの痛みより、われがわれがということなのでしょう。
だから、老いて枯れ去る時は、現世に気持ちが残りすぎる
のではと思ってしまいます。

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いつもより少し早めの散歩道。
お勤めの定位置に向う鳥たちが飛び交う朝模様。

用水路から分岐した小さな用水路は、水が干からび、我田引水を
やめた秋の田は、水涸れしてひび割れている。
稲穂は重みをまして、さらにたれ、黄金色を増し、
山の緑に映える彩りとなってきた。

金網の向こうの給食センターから、か細い鳴き声が聞こえてくる。
その主を探し当てた。小猫が鳥かごに入れらているのだ。
幹線道路下のトンネルを通りぬけて、しばらく行くと。

草むらが、がさがさと、私が歩を進めると、さらにその音は激しくなり、
その草むらから飛び
立つ鳥が一匹。
飛び方・かっこうから「きじ」とすぐわかった。
へえ〜こんなところにきじがという感じである。

突然、そして初めての出会いに驚き、
目を精一杯見開いていた。

風を感じながら、歩いていると、
そういえばすすきが揺れるころなのだと思い、老いていく
自分に思いを馳せる。

まだ水が少しだけ残る、本流の用水路には、小鮒が横腹を見せて光らせ、
居所を教えてくれるのだ。その前方では鯉が自分の水嵩
だとゆっくりと泳ぎ、その泳ぎを見ていると、
少しいらいらしていた自分に、ゆったりとした心がもどってきた。

『実ふくらむ 稲穂にあわせ 秋祭り』
『堰あけて 鯉の水嵩 心もどり』
『すすきみて 思い馳せるは 老いの先』
☆どうでっしゃろ☆

**10月6日の散歩道**

夜が長くなり、5時前はまだ暗い。家人を気にしながら、少し朝寝坊。
朝日を真正面に見ながら、じっと見られないから、手をかざして歩く。
朝日に五感の目を取られて、 耳や鼻や皮膚があるのに感性のなさを感じつつ・・・。
駄句も浮かぶまもなく、行く道が終わる。

帰り道、田の水がなくなり、刈を待つ稲穂。
畦道の草が刈られて、朝寝坊かもしれないが、虫楽隊の声も小さく 聞こえてしまう。
たまり水しかなくなった用水路で、あめんぼうが、ただ集うだけ のさみしさよ。

水がなくなった、用水路は川底を見せるだけなら、
まだいいのだが、気遣うことなく捨てられた単車だの不燃物が、
楽しみをみつけ始めている句のゆたり・ゆとりのわがこころを 失せさせてしまうようだ。

いきいき流れていた水の流れも、すいすい泳いでいたはやも、
ゆたり鯉も小鮒もさり、めだかの学校も終わって
さみしい季節になってしまった。

そんな散歩を終えた私に、隣家の金木犀が甘い香りを風にのせて なぐさめてくれる。
その目でわが庭の金木犀も見るとそれなりに 咲いていてくれていた。
気づかない自分に恥じ入る。

『散る花の 数を重ねて 秋思い』

☆どうでっしゃろ☆


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