いつもの散歩道記録 |
平日に休みを取り、いつもの散歩道、いつもの時間、いつもの静けさはない。 工場の機械音、道路からかなり離れていても、 大型トラックの排気音が聞こえてくる。 実にさわがしい。 でも10年もたてば、こんな生活になるのだとしみじみと思う。 そんな騒音におかまいなしの虫たちは、 それぞれの楽器をひきさげていつもの草むらに陣取り、 演奏を始めている。 田んぼには、稲穂が実の重さからこうべをたれはじめ、 それにあわせるかのように、穂をもつ草もこうべをたれている。 稲穂を手で触れ、実り具合を確かめるが、まだまだ少し軽いようだ。 寒さが増し、着る服も長袖に、広げていた手の平も、 にぎりこぶしにして、 いつもの道をいつものスピードで歩くが、歩き終えても、 小さな汗の滴は出なくなった。そんな私の頭上をつがい鳥が、 お互いになきあいながら、位置を確かめ合い、通り過ぎていく。 わが庭を眺めると、夏を越えた長茄子が、 みのり始めその実り具合を長さで表現している。 食べごろなのだ。 『風に乗り 響きわたるよ 虫楽器』 『糸をたれ 初老楽し あき日和』 ☆どうでっしゃろ☆ |
>いつもの散歩道、毎回楽しく心温まる思いで読ませて頂いています。 >もしかしたら、 >こんな散歩ができるamigoさんは一番の幸せ者かもしれませんよ。 >私にはそう思えてくるのです。 その散歩道に固定するまで、いろいろな道を歩いてきました。 奥の細道で松尾芭蕉も歩き回ってそんな道をさがしていたのでしょう。 いまはあまりにも便利になりすぎて、 いい散歩道はどんどん消えていったのでしょうが。 先日話をさせていただいた、橘曙覧(たちばなあけみ)の貧しい生活の中から 楽しいことを見つけるという、それを短歌に表現する。 その「独楽吟」というのを読んでいて思ったのですが、いまは何もかも溢れかえり、 本当の楽しみ方を忘れてしまっているのではと思われて仕方がありません。 橘曙覧(たちばなあけみ)の楽しみのみつけかたの短歌を詠むと まだまだ修行がたらないと自覚しております。楽しみってほら目の前に あるんですね、 *************************************************************** <<独楽吟>> の中で自分の「たのしみ」と一致する短歌を三つあげてみました。 『たのしみは 百日ひねれど 成らぬ歌の ふとおもしろく 出できぬる時』 『たのしみは 意(こころ)にかなふ 山水の あたりしづかに 見てありくとき』 『たのしみは そぞろ読みゆく 書の中に 我とひとしき 人をみし時』 *************************************************************** >実家に泊まって虫の声を聞くと・・・ >田舎の虫の方がおっとりしているような・・・ >街では気ぜわしく鳴いているような気がしました。 >面白いもんですね。 もう楽しみを見つけているみたいですね。 感性が豊かでございます。 先日、三好春樹著「男と女の老い方講座」なんて本を読みました。 筆者は老人介護に関わって26年以上、PT(理学療法士)の仕事をやられています。 このかたは「老い」への道筋は、男よ、女に見習えと盛んに申しておられます。 その中にこんなのがございました。 ************************************ 老いに適応しやすい条件 ①金、地位、名誉に縁がないこと ②進歩主義を信奉していないこと ③「自立した個人」にこだわらないこと だそうです。 ************************************ 以外に思ったのは、③「自立した個人」にこだわらないことでした。 いかがです。 ****************さらにこんなフレーズ***************************** ばあさん同士は、不自由な体でもベッドから抜け出して歩行器や車椅子 を使ってほかの部屋に出かけてよくおしゃべりする。 反対にじいさん同士はめったに話さない。互いに関心はあるらしく 様子を窺ってはいるのだが、同室者同士でも口を開くことは珍しい。 ***************************************************************** *****そし本文********* 少し濁った川の浅いところをゆうゆうと泳ぐ鯉が一匹。 空を見上げると、つがいの鳥が鳴く声をお互いに交わしながら。 東の空から西の空に飛んでいった。 起きる時間を少しずらしただけで、いつも通り過ぎる人たちは、 どこに消えたのか、あいさつの声も交わすことすらない。 雨上がりの散歩道、雨を含んだ草がおじぎをし、狭き道をさらに狭く して通せんぼ。目の前に首の長い鳥が、一点を凝視して動こうとしない。 しばらくして気づいたのか、大きな翼をひろげ、他の畦道まで飛んで いった。その場所で、また一点を見つめている。 稲穂も雨を含み、みのりの前におじぎしている。 昨日の雨で適当に空気が湿っているのか、深く息をすると実においしい。 東の山あいをみると、朝日がなんども顔を出そうとするが、厚い雲にはば まれて、ぱっと明るくならないまま、厚き雲にふさがれた。 雨降りと雨上がりとで散歩道はまた違う情景を創り出している。 空の雲だけでなく、いきものの蜘蛛も、雨に動じない女郎蜘蛛と 忙しく店をたたもうとする凡蜘蛛とが対照的である。 あめんぼうはちょっとした小雨でも橋の下に移動している。 秋は、雨降りごとに雨のリングを増やし、その色をふかめるようだ。 『ふわり雲 山に寄り合い 通りぬけ』 ☆どうでっしゃろ☆ |
>>懐かしい童謡を口ずさみながら、詞を思い出しておりました。 >そうですかあ~そういうのはいつみているのですか 朝の40分程度の散歩でですよ。 >>「気をつけなさいよ」という。 >>くびをかしげる私??? >>間をおいて、「へびが出るから気をつけなさいよ」と・・・ >>なるほどと私・・・ >今年蛇二度見ました。 >昨日ミニハウスの近くで、隣の畑に入って行くヤマカガシを ヤマカガシというのは、最近「ツチノコ」に間違えられたヘビじゃないですか。 確か毒ヘビですよね。 気をつけてくださいよ。 こちらのヘビはシマヘビですから・・・ ************本文**************** 久しぶりに影絵のように鯉の泳ぐ姿が見えました。 ゆらりゆらり、のたりのたりのいい泳ぎです。 堰を越えて落ちる水の音は、その汚れとは無関係に、 マイナスイオンが出てくるのか、 なぜか気が鎮まります。 小道に入り、さらに進むと草むらがある。 いろいろな音を奏でる演奏家の虫たち、 待っていたかのように、われがわれがと予約のない 演奏会を始めています。 草むらの中では、音響効果を考えた、 テリトリー確保で、虫たちの苦労がうかがえます。 秋が深さを増す毎に、稲穂が伸び、もう葉先をこえています。 吹く風に穂と葉先をゆらし、知らぬ間にせいぞろい。 小さな用水路の溜まり場で、つのだしてのそり歩くタニシに しばし足がとまり、じっとながめておりました。 そのたにしの隣には、役目を終えたたにしの宿だけが、 ひっそりと朽ち果てていました。 給食センターの工場からは、いつもとちがう臭いが外に流れています。 その臭いは散歩するわが鼻を刺激しながら、胃液を活発に製造させます。 そこのグランドには、いちょうがあおあおと咲き誇り。 その給食センターを過ぎ、道路下のトンネルをぬけるのが いつものコース。 句の浮かばぬ工場群を横にみながら、ふと目が動くものが。 白き茸があちらにポツンこちらにポツンと生えていた。 ミニホワイトアンブレラ、小人たちのかさのようにも思える。 ひととき童話の世界にわれのこころを弄びながら。 帰り道気づかなかったムラサキツユクサ。 この草には露・滴がよく似合う。 葉に降りた滴玉は、光り輝く高き宝石よりまだまだ、純粋だ。 涼しくなった各家の窓は閉められ、犬を諌める声も、 時々聞こえるハクションも内にこもり、いささか迫力に かけてしまった。 今週は一日だけ、散歩道に家人がついてきた。 家人の声ばかりで、自然の草・動き・音に目も耳も口も皮膚も、 そっぽを向いて、句など浮かぶものではない。 外向けには夫婦仲睦まじくなどというが、 散歩道はやはり一人がいいようでして・・・。 『虫たちはわれがわれがと話をし』 『草むらの虫の音聞いて生を知る』 『この世の身 軽きおもさを 知らされて』 ☆三句になっちゃったどうでっしゃろ☆ |
草伸びほうだいだった空き地が、きれいに刈られている。 わが頭をおさえながら、しばしのさみしさと そろそろの散髪をおもいだし、空き地の横を 過ぎてゆく。 6月に鯉が楽しく遊んでいたところでは、 羽黒とんぼのつがいが川面をリンクに、ダンスを踊っています。 先導者が方向を変えると、後進とんぼも うまく方向を変えながら、踊るのです。ミュージックがないのが 不思議なくらい、見事なペアダンスでした。 しばらく歩くと水面に小さな輪がいくつもできている。 よくよくみると小さな魚・・・ さらによくみるとメダカのようです。 学校の授業が始まったのか、 あちらへいったりこちらへもどったりに団体行動のようです。 懐かしき童謡を口ずさみながら、詞を思い出しておりました。 さらに細い小川では、側面にさばっていたいくつかのたにしが、 自分の体を支えられなくなったのか、川の流れに乗ってどんぶらこと 流れておりました。 どの水田でもその子供たちがわんさか生れ、ざわざわとしています。 何を食べているのだろうかいな。 山を越えた向こうから、雀脅しの爆音がリズムよく「バ~ン」 と聞こえ始めました。可憐な野の草は、白い花を咲かせて、 秋の色に華を添えています。 畦道の電信柱に「迷子の犬」探しています、の貼り紙が、 いつもの時間にウォーキングしても、朝日が昇るのを 見る間でもなく一回りできる季節になってしまった。 虫の声がうす暗き道に透き通って聞こえます。 あいさつを交わしながら、 通り過ぎるおばさんが「気をつけなさいよ」という。 くびをかしげる私??? 続けて「へびが出るから気をつけなさいよ」・・・ なるほど・・・ 『とんぼ対 川面リンクに ペアダンス』 **いかがでっしゃろ。 |
暑きほど、稲の葉はぐんぐん伸びるようでして。 (でもカメ虫が発生するとか、NHKのクローズアップ 現代で初めて知りました) 小さな用水路に、隊をなして遊ぶあめんぼう。 蛙、虫、鳥いっせいにそれぞれが声を出す。 私の耳はそれを重ねてひろうのですが、 なぜか夏真っ盛りの蝉の声ほど暑苦しくはない。 犬を散歩させる人とすれ違う、朝日が眩しいのか、 犬のふんを処理するスコップで眼を隠す。 われはその人の禿げ上がった額の反射光で、眩しさのあまり眼をおおう。 おのれの禿具合を思い出してしまい、 少しずれた「おはようございます」のあいさつになってしまった。 朝日が昇る頃、 きょうは久しぶりに朝焼けがブルーのキャンパスを 情熱的な色使いと大胆な筆使いで変えていく。 ひとまわりしてわが家にたどり着く頃には、 もう色がさめてもとの白い雲とブルーのキャンパスにもどり、 ただ雲が空の変化を作るだけになっていました。 開け放たれた窓から、朝支度の臭いと音がもれてくる。 適度な運動をしたためか、パンを焼く臭いほど、 食欲をくすぐるものはない。 とはいえ私の朝食は、帰宅時にのみ味噌汁付きのご飯ですが。 『休みなく病背負うて母生きた』 『気をはずしゆきつもどりつあめんぼう』 **今回は二句になりもうした。ごめんあそべ。 |
>トーチカとは何でしょう?想像するにザリガニ・・・? >やはりそちらの方言なのでしょうか? そのとおり、アメリカザリガニのことです。 戦後日本に渡ってきてやたら増えたものです。 なぜこちらではトーチカというのかしりません。 よくとも釣りで一匹捕まえては、その味をひもにつけて池に 垂らし、二匹目を釣る。 そんなことをしておりました。 散歩道も、毎日同じところを歩くとなかなか駄句のネタもなし、 マタひねりだす能もなしというところ。 定年後のことを考えると、散歩道もいつもの道ばかり じゃ思いやられようというもの。 芭蕉みたいに「奥の細道」ではないが、出不精amigoも、 いろんなところを歩いてみたいと思う。 これからは奥に入ったしかも細道を探す必要があるようでして。 秋立ちて、虫の音が蝉しぐれにとって変わろうとしていました。 それにまけじとがんばる蝉軍団。 虫の音、休止符の入る鳴き声は、秋を迎え少し休んではと促している ように思えるから不思議です。 草の露、いずれの稲の葉先にもほんに小さな露が、 道端に群生する草の間をぬうように、張り巡らされたくもの巣、 その中にひときわ目立つ蜘蛛が見えまして。 先日画像をいただいた「女郎蜘蛛」、黒の身体に黄色の縞模様がまこと鮮やか、 張り巡らされた巣の真ん中に陣取り、獲物を待つ姿にしばし見とれていました。 朝日を背にし、足長おじさんの自分の影に微笑みながら、 山越えて遠くから響き渡る鐘の音にひとときのやすらぎを感じる。 それでもへたな句さえ浮かばぬ自分に、 急ぎせわしき、こころにゆとりのなさ、さみしき自分を感じていたので ありました。 落ち着きのない心を、さらに刺激する電車が、 踏み切りのない線路を二両編成で、 警笛を鳴らしながら通るさまに、田舎町にふさわしき姿と感心しつつ 見えなくなるまで目で追っていた自分でした。 『秋立ちて蝉と虫らのせめぎあい』 『駄句を詠む日々詠むほどの句能なし』 **今回は二句になりもうした。ごめんあそべ。 |
道端の草は、わが背丈よりも伸び、蝉が止まり草にしてなきはじめた。 その路で、ひと夏地上での生活を終えた蝉が、その死骸を横たえていた。 七日たって、用水路にまた水が戻ってきた。 遊泳していた鯉の姿がまた見えなくなり、少し残念と思いつつ、 小さな生き物の動きに眼が動く。 あめんぼうは足跡を輪で残し、水面に小さな輪がどんどん広がる。 伸びた稲の横で、わずかなテリトリーの中、 羽を精一杯震わせながら飛び回るいと蜻蛉、その側の小さな用水路では、 底のほうから尻尾をゆらしながらおたまじゃくしが顔を覗かせるのだ。 その親玉の食用ガエルが赤ペラの低音部のごとく「グゥオグゥオ」とないている、 というよりほえている感じなのだ。 駄句『母絶えてなにもなきよう朝が来る』 |
7月の終わりの日曜日、用水路の水門が、いつものように開かれたのです。 勢いよく流れる出る水、ゴミや濁りとともにまたたくまに下流へと流れ去る。 深き水と静かな流れを楽しんでいた魚たちや小さな生き物たちは、 いつものこととはいえ、驚きの動きをみせ始めた。 懐かしき鯉姿も一度に下流へ、少なくなった水の中を右往左往するはや。 田んぼ近くの小さな用水路では、これまた小さなトーチカたちが、 わが水嵩と楽しく後進しているのだ。元気のいいトーチカは、 道端まで上がってきて、通行する人間どもをつめで威嚇してくる。 川縁には、ゆたり顔でお湯でもつかっているかのように、 お茶目な眼をキョロキョロと蛙が顔をのぞかせている。 あめんぼうはわがプールをひろげ旅立ち始め、 伸びつづける稲の上を優雅に舞いながら、色違いの仲良き鳥が、田に舞い下りた。 首だけを覗かせ稲の間を歩きながら、 見つけた餌をついばむために消え、終わると、また首がのぞく。 という田園風景を見ながら、はや8月になってしまったと、 ふと時をかんじつつ、母一人に死が訪れても、 なにごともなきように、新しい朝はやってくる。 翌日、浅くなった川に、ひさしぶりに戻りし鯉、 ゆたりゆたりと泳ぐ鯉たちに、なんともいえぬ懐かしさを感じた。 その鯉に、「お帰り」と声をかけながら、 そういえばいままでもこの鯉は自分には見えなかったけど、 深き水の中には確かにいたんだと・・・。 駄句『夏盛り葉衣変える木々もある』 |
わが家並みの周辺では、三匹の雀がさわがしく飛び交い、羽を休める様子がない。 たぶん今日も一日忙しいから頑張ろうと、各家を住処にしている 仲間に呼びかけているようでもある。 いつもの畦道を歩くと、農薬散布の小旗が立つ、 水田のあちこちに首長き鳥の軽き足取り、秋はまだ遠いが、 その気配は確かにある。チョンギースとかジーという虫の音が聞こえてくる。 でも、あちこちの山から聞こえてくる蝉時雨にはボリュームでも音色数でもか なわない。 用水路の本流から引き込まれた小さな用水路には、 モーターボートでの引っ張りもいらないあめんぼうが、 水面に表面張力の足の輪を作りながら、優雅に歩く。 そんな姿をぼやけたまなこで追いかけてみると、とても楽しいのです。 いつも水を満腹にした用水路、それを堰きとめた水溜まりのあたりでは、 泡ブクを出しながら動く方がいる。どうもこれは亀のようだ。 自宅近くの用水路、各家庭用水が流れ出る土管には、はやが集まりて 忙しく用水の速き流れに乗り楽しんでいる。 よごれた家庭用水を流していても、はやはいつも元気である・・・・・。 残念だが、水の濁りがなくならないため、ゆたり鯉は水深く見えはしない。 恋しき鯉の群れよいずこへ。 駄句『ほれ楽し水面歩くあめんぼう』 |
さらに小川の水嵩が増し、支流は我田引水・用水路、幅60cm ぐらいでしょうか、 この用水路にも大きな鯉が昇ってくるのです。 それも水草をかきわけかきわけ昇るのです。 なぜなのでしょう。 いい餌でも求めているのでしょうか。 そばを通るたびにガボガボと大きな音を立てる。 電車の音には反応しないのですが、わが足音には 即反応してくれる・・・ その水草に目玉だけを出した。 例の食用蛙が、俺の出番だと浮いています。 そして、やおら、どすのきいた声で 「グォーグォー」と合唱するのです。 昔高校時代に父が建てた我が家が、田んぼの真ん中にあり、 夜中じゅうこのなき声、吠え声に悩まされたことを思い出しました。 懐かしい声なのです。 呼んでいるのですね、雨を・・・ 知らなかったのですが、最近は苗を育てて、田に水を引き 田植えをしないのですね。 機械で均等に種を蒔き、 ただ成長を待つ、そして、梅雨時期に我田引水する ということのようです。 変わりましたね。 駄句『速き水われの流れとはや踊る』 |