竹内久美子著

『アタマはスローな方がいい!?』


メルトモから推薦いただいた本である。
私の好きな「竹内久美子」本である。
いつものように、誰からの質問かわからないが、世の中いろいろ疑問を持つ人はいるものだ。

それを懇切丁寧に、動物の行動研究分析と照らし合わせながら、
解きほぐす、人間の疑問に答えてくれるわけだ。
思うに、やはり、「エストロゲン」「テストステロン」というホルモンがポイントのようである。

そして、「シンメトリー」という言葉も出てくる。
左右対称な人間ほど素晴らしいのだ。
いくつくところはこれなのである。

助走はこのぐらいにしてと・・・。
気になるお題を3つほどあげよう。
「おじさんの加齢臭の由来」「どうしてメスは群れたがる」「アタマはスローな方がいい」
おまけは「似た者夫婦のひみつ」
そのほかに気になったのは「おっぱいを大きくしたいのです」でした。

特に気になり熟読したのは「加齢臭」の話である。
おじさんにとっては、いろいろときついお言葉が多い。
「そもそも、男というのは何かと臭い生き物なのです」 「はっきり言っておじさんは臭い!」
そして、とどめは「免疫力の強い男ほど臭くないという研究があります」
つまり、シンメトリーな男は臭くないというわけなのだ。
さらに、「美人は匂いもいい」というわけである。

ここまでくると、臭いおじさんとしてよくぞ生き抜いたと。
よくぞどこやかしこがアンバランスな遺伝子が伝わったものだと。
先祖を誉めてやりたい気持ちで一杯だあ。アハハハハハ・・・このくらいでいいかな。


中島誠之助著

『ニセモノ師たち』


ホンモノを見分けるというか。
何を持って、「ホンモノ」と確信をえられるのか。
いい陶芸作品の見分け方のようなヒントをもらいたくて、この本を買ったのだ。

この本で見つけられたのは、まず儲けようという欲を出さず、
素直な心で作品を見る。
「美意識」を高め、作品に対して美を探し求めるのだ。

そのためには、勉強以外にないようだ。
時代背景やその作品が置かれた立場・状況を思い浮かべる。
その作品を使った人物を想像するのだが・・・。

騙されやすい三法則は、@欲が深い。
A出発点のレベルが低い。
B適度に小金があり、教養もあることなのだそうだ。

でも、ホンモノの鑑定や騙されないための方法より一番気に入ったフレーズは次なのだ。
「本当の趣味というものは他人がなんといおうと自分の信念を通すことであり、 ・・・自分の求める世界を追求する姿が・・・あらゆる分野で重要なことだといえる ではないでしょうか」これだと思った。


斎藤茂太著

『いい人生には「生き方のコツ」がある 』


元気が萎えてきたとき、ちょっと壁が見えたとき、
茂太先生の本は、いいヒントをくれる。
それもとても平易な言葉だから助かるのだ。

その言葉やフレーズから、
新しい一歩というか古くて新しい一歩・・・。
その一歩が出ると、ほんと気持ちが楽になるのだ。

今回この本からもらったキーワードは、「趣味」「夢」「美」の三つである。
まずは「趣味」、
この趣味については人生にとって大切なものであることを。
自分を磨くこと、人生そのものであること、自信がつけば他人の評価が気にならなくなる ということ。

二つ目は「夢」、
これを持つことで先の明るさに元気づけられる。
小刻みな歩み、継続は力、人生に「比較」はいらない。

最後は「知足」転じて「美」、
ある程度の年齢になったら、「なにごともほどほどに」
そして、「楽しいこと」「美しいものを」心ゆくまで味わうこと。
それが心の安らぎになるのだ・・・。


村上春樹著

『ねじまき鳥クロニカル 第2部予言する鳥編 』


突然、妻クミコの蒸発、夢と現実。
知らない世界へ、不思議の世界へ、
主人公が「井戸に入り瞑想する」・・・ここまでくるともうわからない。

これってどういう世界なのか。
ファンタジー小説。
こころの動きと登場人物との会話。

主人公とチャプタごとに登場する人物との会話が続いたかと思うと、
登場人物が一人長く長く語り始める。
その語る内容は、過去の登場人物の戦争体験であったり、セックス体験・・・なのだ。

第二部では、加納クレタとの不思議な夢と現実のセックス。
そして、井戸から加納クレタに助けられた主人公の顔に痣ができる。

加納クレタとのクレタ島への旅立ち計画。
なぜクレタ島・・・と思うまもなく、結局加納クレタだけの旅立ち。

人間が生きている現実の世界、と思いながらもほんとうにこの世界があるのかと思うことがある。
肉体が滅びるとあちらの霊魂だけの世界があるのではないか。
これはほんとうのところ誰もわからないのだ。


藤原智美著

『暴走老人!』


この本は、メルトモから推薦してもらったものである。
まさしくこれからあと6年ほどで新老人に仲間入りする私である。
読み進めるにつれて、そら寂しさを覚えた。

笑えないのである。
それこそ、企業という組織の中で、効率化いわゆるスピード処理の中で、 生きてきた団塊世代。
もう一度いうが、笑えないのである。

ただキレル老人が多いというよりは、老人そのものが多いのだ。
思うに老人は涸れて死んでいくものなのだが、やたら「若さ」を保とうとする 世の中のメディアにそそのかされ、その気になっているからではなかろうか。
死に向かってのあがきのような気がする。

その原因は、宗教心がなくなったこと。
年に関係なく欲望を刺激するものが、世の中にある。
その欲望にかてないのだ。

さらにその原因は「情報化社会」になったからということなのだ。
欲望を抑制できる「少欲知足」で満足できる老人になることしかない。
それには、50までにしっかり遊んで?「足る」ことを学んでおくこ必要があるように思う。

少々情報が不足していてもどうということはない。
ツールに惑わされず「最低限」の情報で満足する、できる。
そんな老人でいいのである。


村上春樹著

『ねじまき鳥クロニカル』第1部


確か、一昨年だったか、村上春樹は「ノーベル文学賞」のちまたの声があったように思う。
一度もその作品を読んだことはない。
なぜか、三部作「ねじまき鳥クロニクル」を買ったのだ。

ねじまき鳥?クロニカル?疑問だらけ。
登場人物は、失業して主夫業をしている主人公と妻と妻の家族と、失踪したネコが絡んでの 不思議な話。
神がかりと霊感と人間の皮を剥ぐ、娼婦、夢精、・・・・。
主人公が、いろいろな登場人物の長い話を聞くシーンが結構出てくる。

それは、失踪猫を探して空き家で出会った少女。
義兄の話から生い立ちを話す妻。
死んだ占い師の遺品を託けに来た中尉。
義兄が犯したという霊感女の妹。
10分間だけ話をさせてという電話の向こうの女。

これが村上ワールドなのだろう。
次にどんな話が出てくるのか、予測がつかない。
どの話も全く関連性がないのだ。

ほんとうに不思議の世界に迷い込んだような感じなのだ。
1つ1つの話が「猫」に絡んでいるように思えるが・・・・・。
見出しだけでは、その中味は検討もつかない。


土屋賢二著

『土屋の口車』


いつもながらの、哲学的言い回し。
ああ言われればああ答えられる。
こう言われればこう答えられる。

この本を読んでいると、なんとでも言い訳ができる。
そんな気がしてくる。
しかしながら、妻に向かって、助手に向かって、同僚の女教授に向かって・・・ 本当にこんな言い回しをしているのだろうか。

筆者の本を本屋で手にとっては元へ、手にとっては元へと繰り返してきたが・・・。
いつもおんなへの話の切り返しを読んで・・・・
よくやってる・・そう思うから買ってしまう。

この本でも相変らず、まえがきで「この本を買うか買わないか」の問答がある。
さらに、いつ描いているのか、授業中に描いているのか。
ピカソ風の絵が、エッセイごとに掲載され、これは画集なのではと、エッセイを 読み忘れてしまいそうだ。

絵に眼を奪われ・・・・
とうとう最後まで観賞してしまった。
読んだのは「まえがき」だけだった。


養老孟司著

『養老訓』


9つの養老訓のうち、読んでピンとこなかったのがある。
それは「一本足で立たない」「人生は点線である」
内容を読んでなるほどと合点ができたのだ。

訓示と同じ小見出しがあったのは、「人生は点線である」。
帯も同じフレーズだ。
生と死は、同じ線上にあると私は理解した。

読み進めて、耳に新しく入ってくる新鮮な響きのフレーズがあった。
それは「感覚的」という言葉だ。
長年、組織にどっぷり浸かったサラリーマンは、「概念的」になっていることは間違いない。

私の場合、ようやく、そこから抜けようとしているのだが、そんなに簡単にはぬけられないだろう。
常に物事を論理的に考えないと気がすまない世界にどっぷりと浸かっていたわけだから。
ヒントがある、筆者の虫好き、つまり自然との触れ合いなのだと思った。

この本には、これからセカンドライフを生きるにあたり、いろいろなヒントがある。
ただヒントも、自分が刺激を受け、動かないと何も変わりはしない。
棚に積読だけでは何もならない。

私の場合、この本から三つのキーワードをもらった。
「世間」「手間」「体力」である。
さてさて、これからどう生かされていくのだろうか。


千住博著

『ルノワールは無邪気に微笑む』


ニューヨークの第一線で活躍する「世界的な芸術家」千住氏に74の問答集。
恥ずかしながら、初めて聞く芸術家である。
副題の「芸術的発想」という言葉に引かれ買ったのだ。

私の場合、芸術で遊んでもらっている。
プロになれるはずもなく、ただ作品に取り組むに当たって、いいヒントがきっと あるはずと読み進めた。
あるあるいいヒントが・・・。

その三つをあげてみよう。
まず一番は「描きたい何かが心にはある」・・・「何だろうと思い続けているとき、 何かが目の前に現われる。しかしいや違うというふうに、『探しつづける目』 これが心にないとどうにもなりません」
作りたいという気持ちと、常に「探究心」が必要なのだ。

二つ目は「飛躍は規則正しい生活のなかからこそ生まれると思うに至っています」
いい作品は突然に生まれるものでもない。
ただ毎日の地道な活動から、生まれるということなのだ。

三つ目は「公に発表し続けることです」
そうすれば「少しずつでもよくなっていくのです」
さらに「人の目に触れるなかで初めて見出されてゆくのです」
まあ、私の場合、「ヘタななりに人に見てもらいたい」これなのだ。

梅原猛著

『法然(上巻)』


「法然上人絵伝」48巻から、筆者独特の推理に入る。
偉大な宗教者ほどその過去は、その弟子たちによって創られている。
4つの仮説を立て、真実へと一歩ずつ近づいていくのだ。

その歴史上の疑問は・・・。
@皇胤の血筋A父は押領使
B父殺害の犯人は誰かC出家の原因と師は。

いつもながら、つぎつぎと仮説を立てては、他説を切り崩す。
そして、筆者なりの真実へと迫るのだ。
この執念は、どんな頭の構造から埋めれてくるのだろうか。

哲学的複眼的思考がないとできるものではない。
ただただ感心するばかりである。
こんな熱意を「陶芸」に私はもち続けていたいものである。


遠藤周作著

『勇気ある言葉』


ところどころに名言というか、迷言がある。
このユーモア、狐狸庵山人先生なればこそである。
読んでて、心が知らぬ間に満たされるのだ。

諺、名言・格言、流行語と本文、それに「編集部注」の三つの構成。
編集部注は、ほんとうにそうなのだろうか。
狐狸庵山人のほうが本当のような気になってしまう。

そんな中で、いいフレーズを、次の3つの格言から抜粋してみた。
「お若く見えますネ、と言われたら 年をとったナ と言われていると思え」
「人間には耐えられない侮辱が二つあるユーモアのセンスがないと言う断言と苦労 知らずだという断言と」
「明日という日があるじゃないか」

そして、そのフレーズは・・・次の3つである。
「利口に年をとることの秘訣は何よりも若い者ににたいし寛大になることであり、許してやることであり、 時には馬鹿になってやることであろう」
「笑いというのは、ある意味で人間が他人と交流しようという感情のあらわれだ」
「明日という字を入れた名言や諺に、人生の知恵が多いようである」


瀬戸内寂聴著

『あした見る夢』


「人間の力のなんたるかや、生きていることに感謝の気持ちを持つ大切さを語りながら、 生きる力、生きる知恵を授ける。
京都・嵯峨野、寂庵から人生の達人が綴る珠玉のエッセイ集」なのだ。

いつもながら、エッセイは、好きなところから読めばいいのだ。
肩がこらなくていい。
日常自分たちの生活の中で、気付くことはたくさんある。
ただそれを情報化するのは、なかなかむつかしい。

余談だが、最近この「かってに感想」を書くのも、視点がぼやけというか、読む本、読みたい本が 「人生」とかにしぼられ、もういいのかなあと思ってしまう。
いままでは、まだ会社人生というのがあったから、キーワードが多岐に渡っていた。
だから、結構書きながら、どんどん文章が浮かんできていたように思う。

やはり、日々の繰り返しが大切かを感じている。
まあ、急がずゆっくりやればいい。
自分がまず楽しめばいいのだから・・・・。


渡辺淳一著

『夫というもの』


夫は雲である
空に浮かぶ雲のようにいつもふわふわとして頼りない。(若年)

空を流れる雲のようにたえず形を変えて定まらない(中年)

空をおおう雲のように日がな家をおおってくすんでいる(老年)

この本には、男の性のことが的確に描写されている。
と言ってこの年ではいまさらどうこうしようがない。
ただ、思い起こせば、思い当たる結婚後の、所業が浮かぶ。

定年を迎え、
「定年後をいかに生きるか」このチャプタも、もう不要になった。
それは、いままさに現実の問題なのだ。


南雲治嘉著

『100の悩みに100のデザイン』


アイデア、新しい考え方・思考が100の解決方法に詰まっている。
どんな悩みでも解決方法はあるのだ。
その解決方法が示せるだけでも、この著者のすごさを感じてしまう。

読み方は、自分が悩んでいること・フレーズから入ればいいのだ。
あなたはどんな悩みを抱えているのだろうか。
それぞれ解決のポイントがゴシック・太字で示されいる。

私の場合、とりあえず気になる10の問題で読んでみた。
列挙してみよう。
「自分に似合う服がわからない」「かっこいいホームページを作りたい」

「遊び心を忘れてしまった」「アイディアがぜんぜん出ない」「人前に出るとあがってしまう」
「何か新しいことを始めてみたい」「集中力が続かない」
「何のために働いているのだろうか?」「ボランティアに興味がある」「夢がない」

次に解決のポイントを列挙する。
目的を明確に、レイアウト、
心の余裕、イメージをいかに生み出すか、複数の方法を。

何か面白い仕事はないか、リラックスと緊張、
生きる、準備、自分で作る・実現可能な夢。
最後にいいフレーズをいただいた、「夢は実現するためにある」そのために人は 努力する。・・・これである。
さらに、言うならば、動かなければ、やって見なければ夢は実現しないそう思う。


三田誠広著

『夫婦って何?「お二人様の老後」』


筆者の本は二冊目である。
「団塊老人」とこの本。
内容的には余り変わらないように思える。

「動く」「行動する」
第二の人生は、これにつきるようだ。
会社勤めが終れば人生が終わりというわけではない。

60歳が寿命であった時代とは、違うのだ。
そこから、全く新しい歩み方が、ある意味できるわけでる。
好きなものを自分自身が探せばいいのである。

誰かが見つけてくれるわけではない。
あなた自身があなた自身の目で、体で探すのである。
50歳になってからと筆者はいう。

これは、かねてから私自身が言っていたことである。
しかし、自分が好きなことは、なかなかみつからないものなのだ。
だから、私はいろいろやったみた。
そこで得た結論は、「続けられる」ものが残り、それが「好きなもの」なのだと・・・。


新田次郎著

『富士怒る(下)』


下巻もあっという間に読んでしまった。
歴史小説は、実に面白い。
実在の人物に架空の人物を絡ませてのストリーの展開。

天皇が神様として祀られる神社がほとんど。
そんな中で代官様が「神様」として祭られている。
「伊奈神社」があるのだ。

この小説の主人公伊奈半左衛門忠順は、政治は何をするか実によくわかっている。
そして、身の引き方、身の処し方、すべてを心得ている。
その点、現代の偽装や汚職などの事件で、登場するトップの人間たちは、 自己保身ばかりが目立つ。

この本を読み、伊奈神社詣で反省してもらいたいものである。
肩書きなんてどうでもよいのだ。
与えられたポジションで己は何をするかなのだ。

「あとがき」を読んで、新田次郎は吉村昭とよく似ている。
主人公の人物探し。
ストーリー性。実に面白く私は大好きである。


新田次郎著

『富士怒る(上)』


長編歴史小説は久しく読んでいなかった。
読み始めると、やはり面白い。
新田次郎の作品は、吉村作品とは、少し違う。

まず「山」がキーワードとしてある。
そして、その山のイベントに絡めて、時代背景を掘り起こす。
その山は、いま、静かな休火山の富士山なのだ。

その「噴火」突然だった。
まあ、それなりに地震は続いていたようだから、これが現代だったらどうだったろう。
避難警報は出せたのだろうか。
まあそんなのはこの小説には関係ない。

江戸の5代将軍綱吉の「生類憐みの令」が20数年を経過し、次の将軍家宣も決まって いつ交代するのか時間の問題であった頃の時代背景。
富士山爆発はそんな頃に起こった。
長年の綱吉と大老柳沢側近政治に終止符を打つ事件だったのだ。

失政を画策する三河譜代派と柳沢残存派との駆け引きに、百姓の側に立ち実務を担当する代官。
百姓の代表−名主−の息子佐太郎となさぬ仲のつるを絡ませて、物語は展開する。
天下の権力闘争は、代官伊奈半左衛門忠順を苦しめるのだ。

読んでて思うことは、政治はなかなか動かせないということだ。
ただ今の時代と違い、江戸時代は、すぐに餓死ということなのだ。
政治がいくら腐っていても、現代はそこまではいかない。

ただ、救いは、代官のかっこ良さ以上に、
純愛を貫く、「佐太郎とつる」
これが、この小説のポイントでもある。


岩合光昭著

『ネコを撮る』


「継続は力なり」
好きなことが「仕事」になっている。
同じ被写体−ネコ−を少なくとも40年は撮っているのだ。

飽きることをしらない。
常に同じネコの同じ格好はない。
アングルを変え、日を変え、朝夕を変え、撮りつづける。

好きこそものの上手なれ?!
その結果、このノウハウがかけるのだ。
ただ1つ言えることは、この人の通りにとれば、うまく撮れるそんなことは絶対ない。

始めたい入り口の本だと思うことだ。
そうしないと、なんで同じようにやっているのに巧く撮れないんだと・・・かならずこうなる。
よくよく調べて観ればわかることなのだが、眼力が完全に違っているのである。

それは、経験積むだけ、繰り返すだけ、・・・
やがて、自分なりのうまく撮るコツが見えてくる。
そうなれば、しめたものである。

それは、いつかはわからない。
それは、ひとそれぞれが違う。
明らめないで、粘り強く続ける以外にないと思う。

ネコが好きな場所で思い当たるのは、縁側で日向ぼっこをする隠居の世界である。
そのキーワードがいろいろと出てくる。 スピードを追う現代では、こんな光景はもうすっかりセピア色になって、 アルバムに閉じられてしまっているようだ。
でも、こう書く私は、もうそのセピア色になっているのだが。


小菅正夫著

『<旭山動物園>革命』


何がきっかけだったろうか。
「動物陶芸」になったのは、そんな私の目に映ったのがこの本だった。
昨年、北海道へ行く機会があったとき、旅程の空いた時間で、本当はこの動物園に行きたかったのだ。

この動物園に訪問者が多いのは、動物の立場に立って「見せる工夫」していることだ。
この「見せる」は、「魅せる」のように思える。
既設の動物園は、「形態展示」らしい。
この園は、「彼らがやりたいことやってる瞬間」を見せる、「行動展示」なのだ。

と言っても、何のことかわからない。
日頃飼育係が、動物の行動を観察している結果なのである。
アイデアを失敗しながらも、実行する、そこにいままでにはない、新しく見せ方が実行されるのだ。

この本を、読みながら、命の尊さを教えられる。
それは、「命の重さに人間と動物」も関係ないこともだ。
人間は他の動物より優位さを驕り、自然の大切さを忘れてしまう。

人間が作り出した快適な人工都市が気に入り、そのためには何をしてもいいと思ってしまう。
ところが、最近、精神的なダメージから動物に癒してもらうために、ぺっとを飼うのだ。
動物がイキイキしたこの動物園は、その動物の行動で人間が癒されている。

動物陶芸にいいヒントをもらった。
1つは、動物は三次元で行動している。
そして、もう1つは、動物の自然の動きである。
そこには、きっと人間が癒されるヒントがあるのだと思った。


和田秀樹著

『人は「感情」から老化する』


団塊世代、定年を迎える人たちにぴったり合う本である。
定年になったからといって、ようはすぐ老け込むなということ。
やれることをどんどんやってみること。

行動あるのみのようなのだ。
もう組織に遠慮することはないのだ。
それこそ自由なのである。

しかしどう考えても遅きに失したと思っている人も多いのではなかろうか。
そんなことはない。
肩書きや組織のネットからはずれ、自分の足で歩けばいいのだ。

そのヒントがふんだんにある。
後は、自分がやれそうと思うものをどんどんやればいいのだ。
別に失敗したからといって、給料が減るわけではない。

その一歩を踏み出せばよい。
自分の欠点の性格が合うチャプタをまず見て、その反対の性格を目指せばよいというわけである。
しかし、長い間、組織にいて思っていたが、「自発性」のある人は、ほんの一握りなのだから、 「即行動」なんてできる人もほんの一握りなのである。

本音の話、「私はどちらへ進めばいいのか教えて欲しい」そんな声が聞こえてくる。

陶芸をしてる私にとって、特にいいフレーズは3つあった。
@応援してくれる人が必要、A趣味にまつわる1年に1度の大イベント、
B寝食を忘れるほど楽しいこと。 これなのだ。


中野東禅著

『心が大きくなる座禅のすすめ』


心が広くならなくてもいいから、落ち着かせたい。
とにかくゆったりと陶芸がしたいのだ。
こころが落ち着いてないと、すぐ作品に出る。

成形がうまくできないのだ。
それだけではないのかもしれないが、面白いぐらい、心模様が作品に出る。
何かしら、まだまだ時間に振り回されているようだ。

それで、見つけたのがこの本なのだ。
何より嬉しいのは、正統派坐禅から一息禅まで。
並べてみると、椅子禅、立禅、歩行禅、正坐坐禅、仰臥禅、一息禅。

この禅師は、忙しい現世の人間どものためにかなり工夫してくれているようだ。
なにか毎日の中に、ひとつ取り入れてみようと思う。
そして、筆者の言う「のぼせ」を取り除きたいものである。

この本で一番気に入った言葉がある。
「考えるより、まず実践」これである。
書くより、言うより、やってみる、これである。


上野千鶴子著

『おひとりさまの老後』


久し振りに単行本を買ってしまった。
友から借りた本の作者を訪ねてといったところか。
「老後」が気になりといったところか。

読み始めて、やはり社会学の先生は、人間の傾向をよく分析している。
確かに老後の不安、死への不安、それはできれば考えたくないだけなのだが。
帯にあるが、「安心して死ねるかしら」、どんなにうまく書かれても、導かれても たぶん不安は解消しないだろう。

ひとつの選択肢というか、方法論と考えればよい。
そもそも死に方を選べないから、不安があるのだ。
自殺をするわけにいかないし、すべきでないし、なるようになるしかない。
これでいいと思うのだが。

うれしかったことがひとつある。
それは、「定年後のソフトランディング」というところである。
振り返れば、「40代から早めに助走していた」これも同じフレーズとして載っていることである。
自分がずっと言ってきたそのままなのだ。

参考になったことが、3点ある。
「自分の居場所」「男というビョーキは死ぬまで治らない」
「ひとりでいること」

特に自分の居場所のフレーズが気に入った。
こうである。「ひとりっきりでいても淋しくない場所」ということなのだ。いかがだろう。
さらに最後に「ひとりでいることのつらさと、ひとりでいさせてもらえないつらさとは、 どちらがつらいか、ストレスもトラブルも人間関係からくる。ひとりでいることが 基本なら、心は平安でいられる」このフレーズは実にいい。


金子兜太著

『俳句の作り方が面白いほどわかる本』


俳句、と言っても、一週間の出来事を「五・七・五」で創る。
何も考えずに、2004年5月末で「1757句」創った。br> もうどのくらいになっただろうか。

ときには、うまくまとまらず、七・七を加えて短歌に・・・。
それでもなんだかんだで、2000年から7年がすぎた。
よく続いたものである。

しかし、よく考えてみると誰に作り方を教えてもらったわけではない。
で、そろそろと思い、ハウツウ本を求めたわけである。
というか、たまたまその本に出合ったわけである。

読み始めて、早速、「はじめに」で、いい言葉に出会った。
”勉強”からはじめないで、”まず作ること”からはじめること、これが大事です。
私の場合、十分すぎたかもしれない。

次のステップは、「俳句の楽しさ」そして、
「俳句の技法」そして、「鑑賞」となる。
作者がどういう意図で作ったのか、まあ最初から、ご本人のコメントがあれば問題ないのだが。

古きよき俳句にそんなものはない。
そこはそれ、感性次第なのだ。
作者の意図とは違った方向に行くかもわからないが、それもよしなのだ。

私の場合、技法を知ったことで、そこし違った展開もうまれそうである。
やはり、なんでもノウハウ本はありがたい。
でも、先にノウハウというより、「やってみること」が大切なような気がする。


三浦展&上野千鶴子対談

『消費社会から格差社会へ』


団塊世代の一人と団塊の行動を分析しながら、その消費行動を情報発信してきた一人。
この対談には、団塊人として、いいところをついていると思う。
三浦という人がすごいのは、やはり、7割の高卒以下にスポットあてていることである。

団塊の名付け親である堺屋太一でさえ、これから定年を迎える団塊世代の消費行動を間違って 分析している。
団塊世代は、能動的ではないのである。
自分探しでさえ、人に導いてもらわないといけない、消費行動も同じなのだ。

いわゆるお膳立てがないといけないのだ。
それが堺屋さんはわかっていない。
決して、団塊世代がブームを作ってきたわけではないのである。

男女共同参画社会になりつつあり、皮肉にも、男と女が組織の世界で同等の扱いを受け、 男女間の格差がなくなった分、男の中で格差が表に出てきたのだ。
それが、現代の格差論のようだ。
諦めのような声が聞こえてきそうだ。

いたし方ないもっともらしい能力論が出てきたからである。
大学進学率5割の時代に、仕事へ就く男女の差もなくなり、男としても女としても かえって辛い時代になったような気がする。
男らしい職業、女らしい職業なんてのはもう過去の話なのだ。


選者:宮部みゆき

『スペシャル・ブレンド・ミステリー』


サスペンスと言えば、私にとっては、やはり松本清張である。
ようは、犯人探しなのだが、宮部みゆき選のこの本は、趣がが少し違う。
1970年を起点に、10年刻みの3ポイントで発刊された作品の中から選択された7作品である。

よくスリルとサスペンスとか言うが、サスペンスとは、
「小説などで、筋の展開や状況設定などによって読者や観客に与える不安感や緊張感」
スリルとは、「はらはら、どきどきする感じ」なんてある。

5つの作品を読み終えたが、緊張感がいまいちなのだ。
次の展開が待ち遠しくない。
テレビのサスペンスで、何通りもの筋書きを見てきてしまったせいかもしれない。

興味があったのは、1971年の世相、1981年の世相、1991年の世相、の世相と 選者のぎっくり腰の話である。
余り過去を振り返るのは好きでないけど、やはり、還暦を前に思うところがあるようだ。
ぎっくり腰は、なんとも激しい「椅子がこわい」を書いたあの夏樹静子先生の本が出てくるのだ。
ほんと選者と一緒に懐かしく思い出し、昨年の自分にも突然やってきたぎっくり腰を思い出して しまったのだ。


立松和平著

『芭蕉の旅、円空の旅』


蕉風俳諧を確立して、自己追求した芭蕉と庶民のために十二万体造仏を誓願し、他者救済した円空。
人間的魅力は計り知れない。
いずれも現世では、しようと思う人はいないだろう。

なぜだろう、自分が自分がのこの世。
貧しさをすっかり忘れた、金が金がのこの世。
庵にこもって句を作ったからどうした、仏を彫ったからどうしたなのだろう。

貧しさは精神を豊かに解放する。解放された精神のありようの「わび」の世界。
どだいこれは無理なのだ。
金がすべて、物がすべてだから、理解がむつかしいのだ。

門下生を訪ね、句会を開き、
自然の中に自分を置き、
その世界を最小限の言葉−5・7・5−で表現する、俳諧の世界。

芭蕉の世界には、現代にはない3つのキーワードがある。
1つは俳号、庵、自然。
日常から離れた時空間・自然に身を置き、心の中を見せ合うのだ。

一方の「円空」にも3つのキーワードがある。
「生死」「救済」「自然体」
これも、現在人には縁遠い。

芸術に関わりかけている、私には、多作の私には、「円空」の十二万体が大いに 気なるところなのだ。
「円空がわかれば芸術の真髄がわかります」これなのだ。


一校舎比較文化研究会

『ゲーテの言葉』


ゲーテに関する本の二冊目である。
ゲーテの名言の見出しと名言、出典と背景知識、自分の心を見つけるエッセイで構成されている。
こちらは一冊目と違い具体的な小さな一歩へのきっかけには乏しい。

どちらかと言えば、こころに刺激を与え、感ずるものがあれば感ずる人があれば・・・、
自ら行動せよということらしい。
あまりにもきれいな言葉ばかりのようだ。

私が感じたこの本のキーワードは「心、恋愛、旅、人と自然、目標、自分、反省」
前の本のキーワードは「ノウハウ、読書、学ぶ人、素材、師匠、先人、胸にしまう、自分の技術」。
生きる道、人生についての責任は、結局、自分なのだということなのだ。
もう人生のほとんど終えた私には、ひねくれかかった私には、もういずれも遅いようだ。

そこで、やはり「芸」の視点で読んだ。
拾い読みになってしまった。
つまり、名言の見出しで気になるところじっくり読んだわけである。三つあげてみよう。

「精神こそが技術を生かす」・・・上手じゃないけど味がある。
「深く進むほど広くなる」・・・芸術は人生と同じように、深く入り込めば入り込むほど、広くなる。
「色彩と心情の関係」・・・1つひとつの色は、それぞれ独特の気分を心情に与えるのだ。

最後に人生に関係ある名言を三つあげておこう。
「際限なき人間の欲望」・・・富や高い身分を手に入れながら、なおも満たされない 思いを抱くほどつらいことはない。
「定められた道を歩む」・・・人間というものは、何を志し、どんなことを企てようと、 結局は自然があらかじめ定めた道に連れ戻されるのだ。
「無に帰るまでに」・・・人間は、ふたたび無に帰るしかないのだ。


齋藤 孝著

『座右のゲーテ』


ゲーテに関する本を二冊買った。
芸術の世界に生きてきた大人物だけに、陶芸で生かせないか買ったわけだ。
本を読んで意外だったのは、多くの具体的なヒントを遺していることだ。

加えて、天才に等しい大芸術家が、未来にささやかな芸術を目指す素人でもわかるような わかりやすい言葉で遺してくれている。
これは、この本を発刊してくれた筆者に感謝する以外にない。
特にわかりやすいキーワードがありがたいのである。

この本からもらった多くのフレーズの中には、素人なりに、いますでにやってるものがある。
そのフレーズは、なぜか、弱気な自分を大いに後押ししてくれるのだ。
新しくもらったフレーズは、ありがたく頂戴した。

三つ書き出そう。
「飽きない」「過去に執着しない」「素材探しを習慣化する」
これは、いまの趣味を継続するコツのような気がする。

何かしら、こころがうきうきしてきた。
この本は「座右の書」になりそうだ。
大切にしまっておこう。

行き詰まった時に、また読んでみよう。
何かヒントをいただけるだろう。
その前にゆっくり言葉を噛み締めながら、もう一度読み返してみたい。

ただ単に感想を書くということではなく、
言葉をひとつずつ頭にたたきこみたいのである。
当然やってみることなのだ。


ひろさちや著

『生きがいなんて必要ない』


いつもながら、筆者の本を読むとほっとする。
「そんなに頑張らなくていいよ」
そして、そっと背中を押してくれるのだ。

決して、人生急ぐ必要はない。
「ゴールなんてない」
この言葉も大好きだ。

時間とスピードと効率と人間関係。
それだけで、40年間生きてきた。
でも沢山の忘れ物をしてきたようだ。

もうすぐ還暦を迎えようとしているいま。
落としてきた忘れ物をひとつひとつ見つけながら、と思いつつ。
やはり時間に遊ばれている。

ゆったりと、いい「物差し」を見つけようとするのだが・・・。
まだまだのようだ、陶芸をする時、時々そんな物差しが見えてくる。
仕事からの頭の切り替えをいかに早くするかだ。

作品を見ていると、いい感じなのだが・・・。
また、欲が邪魔をする。
筆者が言いたいのは、「考え方次第」ということなのだろう。

それは、「損得の物差し」捨て、
悪いことが起これば、起こるべくして起こったと思うべし。
病もわが身の治癒力に任せるべし・・・。

いちばん感心したフレーズは「思うがままにならないことは思うがままにしようとしなければ いいのです」これなのだが、いかがだろう。


浅田次郎著

『ひとは情熱がなければ生きていけない』


初めての著者の作品である、
「情熱」という言葉に引かれた。
一度も筆者の作品を読んだことはない。

特に最近は、小説を読む余裕がなくなった。
もっぱらエッセイや人生論ばかりである。
たぶん、仕事をリタイアすればさらに読まなくなる気配である。

この著者のエッセイで気が動いた話は三つある。
「芸術」「大鏡」「遊び・道楽」なのだ。
まずは、関係するフレーズをあげてみよう。

「すべての芸術の真価は、大衆の誰にも理解されうる普遍的感動によってのみ証明される」
さらに次のフレーズ「鑑賞者はその個々の能力にまったく関わりなく等しく感動を覚えるはずである。 古来そうしたものであった芸術を、大衆の理解とおよそ乖離した高みに押し上げてしまっのは、 近代の冒した過誤である」
このフレーズから、岡本太郎さんの言葉を思い出した。

「古い考えにわざわいされて、まだ芸術をわかりにくいものとして敬遠し、 他人ごとのように考えている人があります。 私は、このすべての人びとの生活自体であり、生きがいである今日の芸術にたいして、 ウカツでいる人が多いのがもどかしい」(岡本太郎)
さらに太郎さんは続ける「『芸術のばあいは、ちがいます。技能は必要ないのです。無経験の素人でも、 感覚とたくましい精神があれば、いつでも芸術家になれる・・・』そして『芸術は決意の問題』 なのだと」
芸術は特別のように思う必要はないのであると、ひとり合点したのでした。

二つ目は、「大鏡」の話の中で、銭湯の鏡の前で他人の裸と比較することがなくなった現代人は、 「世に謙虚な人間はいなくなった。デブはデブである現実を信じようとせず、痩せ女はさらなる ダイエットを試み、醜女も醜男も自分は十人並みだと錯誤し、老人は未だ壮年だと、少年はもう 大人だと勘違いする」
自分への評価が甘いというより、この年だから余計に思うのかもしれないのだが、
年相応に生きていない人が多いのは、「やはり自分は死なない」と思っているからかもしれない。

最後に、「道楽」
これは、社会は年金はもらわず60歳過ぎても働けと連呼している。
無駄に年金遣った官僚たちは、それを何とも感じていない政治家、困ったものだ。

定年がすぎれば、筆者の言うように大いに遊べばよいのだ。
家にこもる必要もないのだ。
少年の頃を思い出して、大いに「子供は風の子」ではないが、 「隠居は外で遊べ」でいけばよいのだ



梅原猛著

『宗教と道徳』


いつも思う、筆者のエネルギー。
考え続けるエネルギー。
「真理」を求めて、この混沌の現代に新しい哲学を見出そうとする姿勢。

現代人は、忙しい。
あれもこれも考え行動し、結局何を考え何を求めて生きているのか。
どちらかと言えば、人よりも1秒でも早く前に出ようとする。
それは信号やエレベーターや交差点や電車の乗降等でよくわかるのだが、 そのためだけに生きているような・・・。

長年時間通りに、時間管理の中で生きてきて思うことがある。
大切なことを常に自分の頭で考える。
もうすっかり忘れてしまったような気がする。
いつも人や世間に流されてきたように思う、でももういい。
そんな私に、この本は3つヒントをくれたような気がするのだ。

ひとつは、私は、この人がいうところの創造者が好きである。
「幼児の心をもち、その心によっていかなる批判にもいかなる逆境にも耐えて やすやすと新しい創造の道を切り開いた人間であったと私は思っている」
この「幼児の心」というのが、いいのだ。

二つ目は、「豊かになった日本人はいっそう豊かになることのみを求めて、 自己の豊かさを生んだ精神的背景について、何の反省もしなかった」
「豊かさ」どうしても生活の豊かさ、即、金に結びつけ、
物欲に走る、走る、俺たちなのだ、「自己の豊かさ」これなのだ。

三つ目は、「鳥は巣作りにおいて造形芸術家」これである。
わが家に今年ツバメの巣ができた。
別にツバメさんは見本観ながら作ったわけではない。
でもきっと世界でひとつのわが家の巣がわかるように、作り方・造形技術を工夫して 見事に作りあげたことである。

造形芸術の端くれのわたしに大いに刺激を与えてくれたわけなのだ。



小沢昭一著

『散りぎわの花』


昭和の一桁世代、妻の爺婆と同じである。
なぜか、一つ一つのエッセイに昭和の匂いがする。
読んでいると、時がゆっくり動いているのが感じられるのだ。

セカンドライフ目前のわれら団塊世代にこんな少年時代のような生活は待っているのだろうか。
どうも、年金問題とやらと少子化とやらで、まだ働けという雰囲気が漂っている。
こんな雰囲気に団塊世代は実に弱いのだ。

そんな雰囲気の中、この本は、ほんとに価値ある本である。
いろいろな遊びの紹介なのだ。
楽しみ方を教えてくれるのだ。

少年時代の遊びも、我ら団塊世代と同じものが沢山ある。
思い出してみよう、「遊ぶ」こと。
遠慮なく遊べばいいのである。

このまま、静かに埋もれていてもいたしかたないのだ。
自分が好きだった遊びを延長させてみよう。
そこには、きっと少年ようなこころが蘇ってくるはずだ。

悩んで悶々としている団塊世代よ!
このエッセイを読んで、少年時代を思い出し、
とにかくやり始めてみよう、一日もはやく!!



梅原猛著

『日常の思想』


「真理」とか「哲学」とか。
現代の日本社会に一番似つかわしくない言葉のように思う。
もう一回りの人生を体験し、60歳定年もあとわずかになり、やはり 人生をこれからどう生きていこうかという時、何かが足らないような気がするのだ。

生き方とか人生とか、何のために生きているか、生きてきたか。
死が近くなってきたから余計かもしれないが、
やはり中味のない頭がある種の栄養を必要としているようだ。

この本は、筆者が40代に新聞や雑誌に書いたエッセイである。
筆者の作品は、最近の70代の作品も読んだが、やはりいまこそ 「哲学」が必要だと一貫して姿勢は変わらない。
思うにもうそろそろ「その哲学」出来上がっているように思うのだが。

読み進めて、いろいろといい基本的な考えをいただいた。
その中でも一番は、「創造」に関することである。
多少なりとも、芸術にいそしんでいる私、大いに発奮できるかもなのだ。

「創造というのは、それをもう一度裸の眼で見ることからはじまります」これなのだ。
つまり、物は違った角度から見ると全く違って見えるし、どんなタイミングで見るかによっても 全く形が違って見える。
動物作品や陶器を作りながら、立体感は全く違う。

イメージが貧困であればあるほど作品としては面白くない。
イメージをいろいろ変えられるかによって、自分的には面白い作品になる。
ただし、他者から見ていいかどうかは別問題なのだが。

最後に、もう1つ言いフレーズを書き出しておこう。
「人間は知らないうちに1つの色眼鏡を通じて、ものを見ていること、そして発見とはその 色眼鏡から自由になることである」いかがだろう。
自由になれるかどうかはあなた次第、自分次第ということではある。



遠藤周作著

『ほんとうの私を求めて』


ユーモアを求めて、買ったのだろうか。
それとも何を求めてこの本を買ったのだろうか。
題名を見ると、「私」をで女性的な部分を感じながら、 それでいて、「私」を「自分」とかってに読み変えて買ったようだ。

しかし、読み進めるうちに、
どう読んでも、女性への人生相談のように思えるのであるが・・・。

男から視た女性を見事に?分析し、
女性にもっともう一人の自分を表に出しなさいと、
おっしゃってるのだが、どうなのだろうか。

なるほどと思ったことは、結婚生活における夫と妻の気持ちが見事に表現されているのだ。
それは、その優先順位である。
主婦は子ができると確かに、@母A妻B女である。

しかし、亭主は結婚して子ができても、
@男A父B夫なのだと。
これは、「男」であることが一番というのは、今の年になりよくわかることなのだ。

ただ、男女共同参画時代を向かえ、仕事に男女差はなくなった。
このあたりから様子が、変わりつつあるように思える。
男であることも、「父権」も、夫としても・・・ほんと男にとって辛い世の中になってしまった。

もっともこの本が書かれたのは、
1985年だし、狐里庵先生が亡くなったのは1996年、
もうすでに、10年以上も過ぎた。
世の中は、すごいスピードで移り変わっている。
それと同じくして、女性の立場もすっかり変わっているように思えるのだ。
先生が生きておられたら、この本の文庫化はされたのだろうかと思ってしまう。



養老孟司著

『運のつき』


いつもの養老本なら、論理の展開についていけないところがある。
その点、この本はまだついていける。
でも、ついていけないところは、適当に飛ばす。

そうすれば、結構、いいフレーズがいただける。
よくわからないときの話は、小見出しで納得する。
というのか「バカの壁」を作るのだ。

そうすると「楽」である。
定年後の生き方、というか、
「死に対する」心構えというか、それを第一章「いずれ死ぬ」で十分に語ってくれている。

学園紛争に関するところは、大分前に別の書で、全共闘の話やら読んだので、
適当に読み飛ばした。
面白かったのは、日本人は人間つまり「人」ではないというところ。

「世間」「この国は自分流より、世間流」。
この言葉は、何かにつけて、世間というか、近所のことを気にする。
あるいは、比較してしまうのだ。実のよくわかる言葉である。

せめて、せめて、セカンドライフは・・・・・
自分流に生きたいものである。
いや生きるぞ。その前、お迎えが来ないかだけが心配なのだが。

そこで、三つだけ最後にフレーズを残しておこうと思う。
「個性があるのは身体なんですよ」「あとから理屈はいくらでもいえますよ。でもタイミングというのは、どうしようないんです」
「対象で選ぶと、失敗を相手のせいにすることになりがちですわ。もうちょっと収入が 多いほうが良かったとか、背に高い人がよかったとか、そういう文句になる。 方法だとそれはいえません。」



水木しげる著

『水木サンの幸福論』


「幸福論」というワードに釣られて買ってみた。
趣味が高じて本業に、忙しくても金にならない。
金が入っても忙しさは変わらない。

好きだからこそ、苦にならない。
継続できるのだ。
それでいて、座右の銘が「楽をして、ぐうたらに生きる」だから、不思議である。

第一部の「幸福の七カ条」を読めば、筆者の生き方がわかる。
この7つに書かれたフレーズは、管理社会で効率とかスピードとか組織とか金とかを キーワードに生きてきた多くのサラリーマン諸氏にはとてもマネのできぬ相談ばかりである。
そこで、団塊世代は、その過去の栄誉をすっかり忘れ、少年時代のビンボー時代を 思い起こせば共鳴する部分が多く出てくるのだが。

でも、すっかり染まった色を50年前にもどすのは難しい。
エネルギーと頭の切り替えがいるのではなかろうか。
セカンドライフへ向け探し物を見つけようとしている人は、沢山のヒントが見つかるかもわからない。

と言っても、見つけるには、好奇心があるか世間の目を気にせず熱中できるか、
努力しても見返りを求めないか、好きなことに投資できるか、ときには怠ける余裕はあるか、
そして、とどめは目に見えないものが信じられるかなのだ。

この本を読みながら二つのキーワードが浮かんだ。
1つは「妖怪」もう1つは「遊び」である。
電気のない暗い時代に少年時代を過したものならきっとわかることがある。
それは、思い起こせば「妖怪」がいたかもしれないということだ。

もう1つ、この本には、多くの少年時代の遊びがある。
あのころのベイビーは物やツールがなかったから、いろいろな遊びを工夫したのだ。
書き出してみよう、「人口取り」「紙相撲」「陣取り」「杉弾鉄砲」「スズメ捕り」

いろいろないいフレーズがあったが、
最後に一番お気に入りのフレーズをひとつ書き出しておこう。
「我を忘れて没頭できること、ホンキで夢中になれることなら、どんなアホなことでもいい。 周囲の目や評判を気にして『世間のルール』に合わせようなどとしてはいけない」 いかがだろう。
要は自分が楽しめて夢中になれればいいのであるよ。



鎌田實著

『がんばらない』


「がんばらない」
競争社会の現代は、どうしても「頑張る」という言葉を、ふんだんに使ってしまう。
その言葉に押しつぶされる人がごく普通に身近かに出てくるようになった。

そんな競争社会に相応しくないこの言葉は、
なんとも暖かい響きを持っているようだ。
でも、多くの人がどうしても頑張ってしまうのだ。

この本には、頑張るだけの、効率化だけの、スピードを求めるだけの社会で、
何か忘れ物はしていませんか、ということを、いろいろなシーンで教えてくれる、見せてくれる。
それは、だれもがいつかかならず「死ぬ」ということなのだ。

この本は、死期がわかった、さとった人たちからの
いま忙しく立ち回り、「死を忘れている」人間たちへのやさしいメッセージなのである。
いいフレーズも沢山あるが、いいシーン、人間同士のいいつながり、「死」を通じての会話・対話、 それぞれが普段どおりの生活の中に、忘れていた「死」を取り込んでみせるのだ。

「死に方は選べない」「死に場所は選べない」
そう思っていた私にとって、この本の主人公たちは違ったことを教えてくれた。
そして、それはいい医者と看護士との出会いにあるということなのである。

この本にあるどの人の死に方に感動するかは、人それぞれである。
「その人のように死にたい」
と思っても必ずしもそのようにならないのが、死なのだろう。

でも、そう思いたいのが人間の心である。
最後に、いいフレーズを1つだけ書き出しておこう。
「人はつながりのなかで生きている。人と人のつながりのなかで生活をいとなみ、 人と自然のつながりのなかで命は生かされ、体と心のつながりのなかで、生命を育んでいる」いかがだろう



丸山健二著

『生きるなんて』


題名がいい。
「生きるなんて」大したことではない、と、肩肘張って生きる男どもの力を緩めてくれる。
読み終えて、ほんとラッキーだった。

ほとんどの人が自分が思うように生きようと思いながら、思うように生きられていないのだ。
慰めながら、それでいて手厳しさもある。
まだ、何にもやってもいない人へのアドバイスはきっちりある。

ただ、私の場合、「学校」は終わり、「仕事」もほぼ終わり、
「親」ももういない、「友人」については新しい人を求めようとしている。
「戦争」については、自分ではどうにもならない。

だから、、チャプタ4から8までは、さら−っと快速でとばして読んだ。
当然フレーズも気にしないで、
一番いい気になったチャプタは、「才能なんて」というところだった。

このチャプタで本当にいい言葉をもらった。
ここに書いておこう。
「実現化するためのより具体的な方策について模索し始めたときから、単なる憧れだった 夢が本物の夢に変わってゆきます」

さらに、最後に「食事を抜いても、睡眠時間を削っても、没頭していたいことなのか」、
のフレーズに出会い。
これなのだと、やはり「才能は自分で探さない」と、いま実感している自分を感じているのだ。



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