『これが佐藤愛子だ@』 最近テレビの日曜日番組にある「カーツ」ではないが、これは、男に対する叱咤激励のエッセイである。 平和なゆえに男が弱くなったのか、はたまた女性が強くなったのか。 愛子さんは、「男児は、やはり『ペニス』より『キンタマ』だあ」論者であったのだ。 確かに江戸から明治以降、40年前までは、「キン冷法」とかの時代であった。 だから、ブリーフなんてもってのほかなのだ。 やはり、ペニスが元気でも「キンタマ」を圧迫しすぎると精子自体に元気が ないため、子宝に恵まれにくいのかもしれない。 愛子さんのエッセイは、まず書き出しで物議を醸しだす。 例えば「私は男が好きである。もしこの世から男が消えうせたならば、生活上の困難は別としても、 何と味気ない、・・・」 「このごろの女にはやさしさがなくなった・・・」 「このごろの男の笑うさまを見ていると、・・・『ワッハッハッハァ』笑う男がいなくなった」 次にその出だしを受けた文を、さらに次の展開では、コロっと言い方を変えた文章を書き、 そして最後に止めをさすのだ。 いわゆる「起承転結」がしっかりしたエッセイなのである。 しかし、いずれにしても、人間観察がするどい賜物(キンタマではない)なのである。 一番おとこへのキツイ一発は「この世の中の滑稽なものの1つに、男の生殖器」をあげている。 ぺニスは「機能よりもきっ立したさまの雄渾さを執る」なんて仰っているのだ。 まあ、いつもズボンにテントを張って歩く様は何とも言えずいい姿であり、その姿が平生の形であれば、 満員電車もすべからく女性が警戒し、痴漢行為はなくなるのではと思える。 愛子さんは、いまなら、塾女まっさかり、 最近は、物申すおばさんからおばあちゃんになり、 とにかくお元気で面白いエッセイ、いつも楽しみにして読んでいる。 久し振りに男根へ元気をいただいた。 来週から「セカンドライフ」なのだが、このまま引退モードではなく、行動しながら終りたい。 新しい一歩に景気付けのいい激励のエッセイとなったことは間違いない。 |
『中国電力陸上部はなぜ強くなったのか』 仕事の延長のようなものであると思っていた。 だから、読むこともなくボランティアに寄贈する予定であった。 ところが、ひょんなことから読まざるをえなくなったのだ。 しかし、読まずして人に渡さなくてよかったと思う。 恥ずべき行為をしようとしたことを反省している。 この年になれば、人を育てるということはもうほとんどない。 しかし、人材の発掘の仕方、そしてその人材の持つ能力を100%以上に 引き出すノウハウのようなものが、これから先、生きていくのに大いに参考になるのだ。 でもよく読んで見ると、主人公自体が持つ、隠れナレッジ−暗黙知−は結局わからなかった。 思うに、幾人も幾人ものランナーを観て得られた「ノウハウ」「知識」「経験則」のようである。 だから、読んでもたぶん理解できないし、他の人が同じことをやっても、うまくいくものではない。 常に練習場に立ち、言葉をかけるわけではないが、じっと選手を観ている、 ここにヒントが隠されているように思えるのだが。 ここに説明されていない「科学的トレーニング」があるにしても、 からだではなくこころを一体化した指導法。 選手がスランプに落ちた時の突き放すような、言葉は非常に印象的である。 突き放しても「諦めない」選手、「向上心」を常に持っている 選手をその眼力で探し、わがチームで「一緒にやってみないか」と声をかけるのである。 一番印象的なのは、かならずしも一流選手、いい成績を残した選手 にチーム参画の声をかけているわけではない。 ほとんどの選手は、いい時期はあったが、いまいちの成果に低迷していたのだ。 ただ、監督の陸上部の夢はどうも「日本一」を目指したようである。 「限界」「プロセス」という言葉が心に残り、 ひとりひとりの練習方法を編み出していることがとても素晴らしい。 とても仕事ではこうはいかない、なぜなら、慣れたと思ったら転勤だからである。 落ち着いて人を育てるなんてそれこそ夢の話なのである。 |
『定年上手』 ある種のブームを呼ぶという人がいる。 一方で、年金、介護、などの問題から、まだまだ働きたいという人が多く、 いわゆる優雅なセカンドライフへの移行というのはむつかしいのではと考える人もいる。 思うに、それなりに生活を慎ましくすれば、年金問題はクリアできるのではと思う。 そうした時、拘束もなく、計画のない時間割をどう過ごすのか。 そのヒントがふんだんに具体的に示され、読んでいてもついつい引き込まれる。 勘違いしてはいけないことは、読者自身がその対象者なら、読んだからできるというのではなく とにかくいいと思うことはやってみることなのだ。 特に堀田さんの離陸は見事だったと思う。 森村誠一氏との交互の話は、もう一度いうが、具体的でなかなか面白い。 セカンドライフには、かならずキーワードがある。 仮に妻帯者であるなら、地域社会へスムーズに入るには「妻」の力を借りるということだ。 そして、組織人間だった自分から脱却すること。 それには、肩書きを捨て、人を序列でみない、上だ下だと思わないこと。 ちまたにある各種講座にいけば、いい体験ができるのだが、 女性向けのものが多く、男どもはすぐに損か得か、ためになるか、 で判断するので、ここに団塊世代の男の姿はほとんどみかけないのである。 まあ退職してからでいいやと、多くの団塊おじさんは考えている。 あるいは、テレビの守で、妻の金魚の糞になって過ごそうという魂胆もみえる。 でも、よーく考えて欲しい、セカンドライフは長いのだ、まず一歩を踏み出そうではないかい。 終わりに、森村さんが書いている部分に「私は一日が終わる時に、日々その日の決算をすることに しています。今日はプラスの日だったのかマイナスの日だったのか」 これで思い出したことがある、私の場合どうやってきたのか。 それは、一日1つでも「よかった」「楽しみ」探しをすることなのだと・・・。 |
『現代語訳:般若心経』 ひろさちや作、瀬戸内寂聴作である。 いずれも言葉の意味を具体的な事例を用いてわかりやすくかかれている。 たった262文字のお経の中に、人間のこと現世のことが適切に表現されている。 読み始めは、いずれの本も、仏教の素人を意識したものなのだ。 だから、実にやさしく懇切丁寧である。 いまだに、2冊は手放せない。 それなのに今回違った作者の本を求めたのか。 どんな解釈をしているか違う視点からを期待していた。 見事に外された私如き凡人が読むものではない。 難しすぎるのだ。 投げ出してしまったのである。 |
『ツレがうつになりまして』 「うつ」物語が読みやすく漫画にまとめられている。 筆者が言うように突然に「宇宙人」が来たような感じというのはよくわかる。 家人が10年ほど前にあることがきっかけでなった。 ほんと突然に、それなりの兆候はあった。 でも、われが「単身赴任」ということで、十分に状況が把握できていなかったのだ。 ほんと突然なのだ。 正常な人からすれば、ピンとこないのである。 三個所も病院を変え、ようやく落ち着いた、正常になるまで1年以上を要した。 職場にも三人の方が、この「うつ」病に苦しんでいた。 筆者の「ツレ」のようにやはり同じ職場では無理なのだ。 しばらく休んで出てきても、すぐにもどりがあるのである。 この本には、うつになりやすい人や、なり始めの兆候や、なってから快復するまでの つらい過程がうまく表現されている。 特に兆候の部分やなってからの症状は生々しい。 ストレスの原因は人まちまちである。 うつになった結果、 脳内物質「セロトニン」が少なくなるのであるが、なぜ少なくなるのかは まだわかっていない。 ようは闘争本能がなくなってくるということみたいである。 特に自分を責める、役立ってない自分をやたら申し訳ないと思うのだ。 不思議なのが、低気圧がくるとさらに落ち込むということである。 昔の家人の兆候を思い出したのは、次の三つである。 やたら「お香」をたきたがる、クラシックを聞きたがる、低気圧が来ると沈む。 でも、これを体験した家人は、最強の妻に・母になったような気がする。 終わりに、上記のキーワード以外の関係する「キーワード」をあげておこう。 精神的に弱い(やさしい)人、目に見えるストレス、なまけ病、 ひとりぼっちがダメ、大事な決まり事が多い・・・。 とにかく忙しい人、 時間に追われ、ゆっくり物事を考えることのない人、そして、 人を使い、人の上に立っている人、一読の価値は十分にあります。 |
『かなりうまく生きた』 チャプタ2は、恋愛論が多いので、もう関係ないようだ。 チャプタ1・2は、「人生」「死」に関するエッセイが多い。 いつものごとく、エッセイはどこから読んでもいいので気楽だ。 テーマを見ながら、どんどん飛ばして読み進める。 恋愛に関するものが多い、チャプタ2は早く読み進め、人生・死に関する エッセイがあるチャプタ1・3はじっくり読んだ。 特に気になったエッセイは、5つある。 「何一つ無駄ではなかった」「私はあなたの人生の傍役」「不器用な愛情表現」 「長寿は幸福か?」「縁の神秘」 さらに言うなら、「縁の神秘」 これが特に気になったのだ。 それは、キリスト教信者でありながら、仏教的な話をしているところからでもある。 もう少し言うなら、この「縁」が分かるのは「『時節』がいる」ということ。 そんな年になったのだ。 ホントに結婚って不思議である。 終わりにそのすべてを語るフレーズを抜粋しておこう。 「縁などという言葉を口にすると、おそらく若い人たちはには笑われるだろう。だが人間の縁が しみじみ納得がいき、なるほどと思えるのは人生のさまざまな経験を経たり、 人間を多少は見ることができる年齢になってからである」 いかがだろうか。 |
『文珍の歴史人物おもしろ噺』 たった5ページほどで語れるものではないのだろうが、人物像としては そんなところなのだろう。 さらに興味深くかかわる人なら、小説のネタにする。 文珍さんは、落語的に終わりに「教訓」というをオチをつけているのだ。 どんな人物でも、いいところばかりではない。 歴史的な功績は偉大であっても。 そう言った意味からも最初に書かれている一言人物像が実に面白いのである。 さらに言うなら、偉業をなしたその後、・・・ いろいろこぼれ話があるものだと思う。 総じていい噺ではない、ほんとにこぼれ落ちた噺なのであると思ったのでした。 ここに紹介されている「日本史編」の人物32名は、 長編歴史小説や人物伝でお目にかかった方達がほとんどである。 特段目新しい人物はいないが、こぼれ噺的に気になったところは、「気になるフレーズ」 で紹介したい。 やはり気になったのは、「世界史編」の18名の人物である。 その中でも特に気になったのは、「マルコ・ポーロ」「ゲーテ」「リンカーン」である。 その教訓が大いに参考になったのだ。取り出しておこう。 「家を長くあけてはダメ」「その思索、感性は日本人に合う」「落語家以上にオチのうまい人」 まあこの教訓もピンとくるかどうかは人それぞれである。 またピンときても、生かせるかどうか。 それは生きた時代も人物の器量・技量も違うのだから、参考にはなっても即自分に 役立つなんて思わないことだ。 この本は、やはり気楽に読んで、笑って頷いて、フレーズを記録する。 題名どおり「おもしろ噺」をいただけばいいのだ。 ああ面白い噺をありがとう文珍さん、ということで。 |
『寂聴:般若心経』 何度も読んだ。 それだけではたらず266文字を諳んじた。 それなりに意味はわかっても、 結局生き方の問題なのだ。 此岸にいる限り、多くのいろいろな欲望に捕らわれ、それに執着してしまうのだ。 今回は、寂聴さんの般若心経の解説本を、買ってみた。 心経の解釈は変わりはしない。 法話、話し言葉で書かれている分、わかりやすい。 でも結局のところは、教えが心身に染み込まないと行動・考えが変わるものでもないのである。 表現された言葉、「無」ということばがクリアにならない。 だから何度読んでも、経を諳んじても身につかない、困った現世人なのである。 「無」だ、「無」だと言われても、まず自分が存在する。 ここがクリアにならないのである。 「色」という一字が妙に、こころに残る。 物という意味と言われても、 性を感じてしまうのである。 これは執着しないと思っても、執着してしまうのだ、困ったものである。 きっと死ぬまでだめなのであろう。 |
『小さなお店のつくり方』 時々読んではとじ、読んではとじ・・・。 だから、ずっとベッドの棚・今年読んだ本のところにおいってあった。 4年近く置いていたようだ。 陶芸の作品を昨年ボランティアやフリマに出しときから、売る・相手を喜ばすものというキーワードが 気になっていた。 やっと「わが工房計画」が実現の可能性が出てきたので、本気で今回読んでみたのである。 いただきたいのは、いろいろなノウハウである。 気になったキーワードは、「ポリシー」「自作」「商品価値」「原価」「店名」「店の設計」。 この中でも特に気になるのは、「ポリシー」なのだ。 業種選びのポイントにこんなことが書かれている。 「自分がそれまでに経験したことのないような新規事業に手を出すべきではない」さらに続く。 「もっとも必要なのは『ポリシー』である。単に金儲けをしたい』『楽をして食べていくことが できる商売はないか』『人が羨む職業がいい』など自分勝手な動機づけで業種を決めては いけない」さらに続く。 「自分が好きなこと、自信が持てること、信じられることとは何か、よく考える」なのだ。 「自分にとって、人より何倍も努力しても苦にならないことは何かを考える」ことなのだ。 家人がよくいう「そんなに根を詰めて陶芸をやって疲れないの」と。 不思議なのだが、全く疲れないのだ。 まあ、メガネの老眼があってなくて違う意味で疲れるから外している。 なんでするのと問われたら「そこに粘土があり、動物や器が創ってくれと呼んでいる」 という応えになるのだろうか。 次に気になるのは、「店名」である。 「耳ざわりがよく簡潔であること」 まあそれなりに決めたから「よし」としよう。 三つめはやはり「商品価値」である。 動物陶芸で150円相場にしてしまった。 これが問題なのだ。 かりに値段を上げるとしたら、レンタルBOX店を変えないといけない。 展示BOXが高いのだア。 あーあ困ったね、よーく考えることにしよう。 |
『簡単に断れない』 本のデパートの「お歳暮」なんのことだろう。 読み終えてその意味がわかり、クスッとわらえるだろう。 読者が妻を持つ男の場合、読み終えてがっくりくるだろう。 妻・おんなの強さを思い知るのだ。 必死に抵抗を試み、理屈しか言えない筆者・男供の限界を感じるのである。 また、ところどころに美しく散りばめられた土屋画伯の線描に、絵を描く自信のようなものを もらえる。 小学校時代の純粋な心で描かれた絵に感動するのだ。 思わずこれは、ラフスケッチの絵と勘違いしてしまうほどなのだ。 この本は「虚弱体質」の人向けにエッセイが構成されている。 全巻56のエッセイで満載なのだ。 本の標題「簡単に断れない」のエッセイを読むころには、該当の読者はガックリと 首をうな垂れているだろう。 思うに、頻繁に出てくる妻は「一妻」なのだろうが?!?。 さらに頻繁に出てくる助手なる人物は、何世代目だろうか。 こんなにスバらしい哲学者と渡り合える人の顔がみたい。 まさか時々出てくる画伯のラフスケッチの人物がそうなのだろうか。 まあしかし、女性心理を見事に描き出せ、川端康成の左を曲がれる人物は唯一土屋先生を おいては、いないと断言できる。 いや、現時点では、2006年11月30日8時00分現在では。 読み終えて、トラとウマをかかえた初心者は、トラを引きつれウマに乗ってデパートに走り、 お歳暮詰め合わせセットを買い求めることになるだろう。 ただ、デパートの店頭にないことに気づき、トラウマで「売り切れてる」と勘違いするのだ。 そして、年を明けて、お歳暮として送らなかったことでトラウマから目覚め、 安堵感で新年を楽しめるのである。 終わりに、秀逸のエッセイのエキスを書き出そう それは、「年賀状の効用」である。 そのエキスはもちろん思わぬ「効用」をしったことである。 気付いていない人のために特別に・・・・。 @雑煮ともに、正月が来たことを知らせてくれる貴重な手段であり、そのうえ今年の干支まで 教えてくれる。 A多くのメッセージを伝えることができる。B人間性も現れる。 C色々の人の消息を知ることができる。D礼儀を示す貴重な機会である。 さあ頑張って年賀状を書きましょう。 |
『隠された十字架』 それこそ、筆者が明智探偵になって、犯罪の謎を解き明かしていくような感じなのだ。 そういった意味からすれば、1300年前に遡って聖徳太子の怨念に怯える 藤原家の残された人々の鎮魂種明かしとでもいおうか、サスペンスドラマのようでもある。 それにしても、筆者の何かに取り付かれたような激しいエネルギーはどこからくるのだろう。 仮説を考えてから「真実の開示」までにどのくらいの年月を要したのだろうか。 真実が開示できたが、「聖徳太子」の人物像はますます謎だらけになったと、筆者はいう。 霊に取り付かれたのか、わたしは、その謎だらけの、筆者の作品「聖徳太子」を読みたくなってしまったのだ。 仮説「もしも法隆寺に太子一族の虐殺者達によって食封(へひと)が与えられているとすれば、法隆寺 もまた後世の御霊神社や、天満宮と同じように、太子一族の虐殺者達によって建てられた鎮魂の 寺ではないか」 「殺害者の子孫たちは、彼らの父祖の死に見えざる怨霊の復讐を感じて、その霊を手厚くまつろうとし たのではないか」 こういった仮設に立ち、7つの謎を解決の手掛かりをもとにして歴史の真実を紐解いていくのである。 ある意味、筆者が冒頭で言うように、「聖徳太子にたいする最大の冒涜に見えるだろう」。 そして、「信じ続けてきた法隆寺と太子像が、この本によって完全に崩壊する」ということなのだ。 真実を解き明かした時、筆者の興奮は、「聖霊会から帰って、私はとほうもなく 興奮していた。・・・法隆寺は太子の怨霊鎮めの寺であることは、もう まちがいない。・・・ひどく興奮して家へ帰って、夜おそくまで、妻や子を相手に わめきちらしたので・・・・」相当強烈なものだったようだ。 そもそも7つの謎を見つけること自体すごい。 さらに解決の手掛かりを「日本書紀」や「古事記」や「資財帳」に求め、法隆寺は「誰が 何のために」建てたのか。 ここに現代人の常識−「寺院や神社は故人の徳をしのぶものである」−から古代人的な発想を展開 する。 これもすごいのである。 そして、太子の子孫・山背大兄王子一族は絶滅し、建立するにも太子の一族も財力もないところに いきつくのだ。 最後に、1300年以上続く「聖霊会」について、「怨霊の狂乱の舞に聖霊会の本質がある」 「骨・少年像のダブルイメージ」 「御輿はしばしば復活した怨霊のひそむ柩である」「祭礼は過去からのメッセージである」 「舞楽・蘇莫者の秘密」 「死霊の幽閉を完成する聖霊会」「鎮魂の舞楽に見る能の起源」にたどりつくのだ。 古代人は、非業の死を怨霊の仕業と見ていたようだ。 人を呪詛することも普通に行われ、その技を持つ僧が宗教会のトップに堂々と座っていたのだ。 真実を探求する展開で一番迫力があったのは、怨霊を封じ込める呪いを?救世観音等に見つけるところだ。 それに筆者が「人間というものの恐ろしさ」を覚えるくだりは、藤原時代の政治はこういう ことなしには可能ではなかったのである。 おわりに、「藤原鎌足」「中大兄皇子」が悪役蘇我氏を滅ぼし、「大化の改新」へと つながる歴史が、わたしの頭から吹っ飛び、単に「政治体制」を変えるための、「政変」 だったことを知ったのである。 |
『こんな女房に誰がした?』 「間」が分からないのだあ。 解説の安住アナウンサーが言うところの「言葉のリズム」の妙味が伝わらない。 所謂、エッセイではない。 話し言葉で書かれているから、臨場感がない。 面白さが半減しているのだ。 話の内容は「人間の価値」「人情の機微」「人生の無常」をキーワードにしている。 おばさまに評判がいいのはわかるが、どうみても聞いても、 定年間近い男供が読む本、聞く本である。 そろそろ人生をわかれよ、組織は冷たいよ、肩書きはもう終わりよ、いい加減には 女房に愛想よくしないと。 股を広げて子供を産んだ女性、恥を経験した女性に敵はないのである。 その強さを知るべきである。 その家庭に帰る男供よ、覚悟せよと言ってるようでもある。 特に、思うことは人生の表ばかり歩いている男供に、裏もあるよ。 裏返しもあるよということなのだ。 人生成功もあれば失敗もある、その中からいかに学ぶべきかなのだ。 それぞれの人生を比較しても何の意味もないのである。 組織にいれば、いたしかたない比較も、人間という面からみればなんの意味もない。 そこが男社会に住む男供にはなかなかわからない、上だ下だ勝った負けたばかりだから、 全く生活実感がないのである。 終わりに「しみじみ感じる人生の機微」のフレーズを書いておこう。 「動物は歯がなくなったときが死ぬときだといわれます。でも人間は歯が抜けてからが長いのです」 「人間は懲りない生き物なんです」いかがだろう。 |
『ツチヤ学部長の弁明』 土屋画伯の絵も見てきた。 いつも周りを気にしながら、クスクスと笑ってきた。 ネタは、強い女、助手、妻の話で埋められていた。 このエッセイにして初めて講演の話がでてきた。 括弧書きで(笑い)が多く書かれていた。 そして、天皇陛下のような真中分けの土屋学部長のご尊顔を拝見することができたのだ。 やはり哲学の大学教授というより、ジャズピアニストという感じである。 (そんな気がした。) 講演では、お茶の水女子大生の素晴らしい人間性を遺憾なく披露している。 凡人は、文章と話し言葉というものは違う。 でも、先生は、エッセイ表現が、そのまま話し言葉になっているのだ。 吉本の漫才師じゃーない漫談師よりはるかに面白い。 人が集められるネタである。 こんなのが出ると講演依頼が殺到する心配はないのだろうか。 それこそ、大学教授とジャズピアニストと画伯と エッセイストで忙しいのに、数多くの講演までこなすとなると、寝る間もなくなるのではと 心配してしまう。 余計な心配だろうか。 今回の30以上のエッセイもほんとうに面白い。 特に面白いものを主なエッセイとしてあげておいた。 その中でも、秀逸は田中真紀子が見せた女の涙での「小泉首相の失敗に学ぶ」である。 そして、一番気になったのは、「定年後のふたり旅」である。 2年と少しで定年を迎える私は、このエッセイを何度も読み返したのだ。 そして、二つの結論を得た。 旅は「友」と行くべし。 たかがおんなされどおんな、なんと言っても恐るべしは「おんな」なりである。 |
『パラサイト日本人論』 ネタはかなり古い。 1995年単行本、1999年文庫化。 そのせいか仮説のネタが、極端な下ネタ風ではない。 でも最近の作品の仮説設定のきざしは伺える。 やはり動物行動学がテーマだから、生存のための性行動は研究の対象となるのだ。 今回の作品の中には、日本人のルーツを探る部分がある。 古モンゴロイドと新モンゴロイドの特徴が出てくる。 まず気になったのは、耳垢(乾湿)、足の長短、顔の作り、眉の厚薄、一重・二重瞼、目の特徴等々である。 わが家族の特徴を見ると、この合体版のようなのだ。 いわゆる混血である。 その割には、品質が悪いように思う。 もうひとつ気になったのは、ツバメのメスがオスを選ぶ実験である。 尾羽が長いのが、選ばれる、それはかっこよくてウイルスに強いからなのだ。 これを人間の男に当てはめて推論をするところが実に面白いというか、胴長短足の私は辛い。 息子にその短足が完全に遺伝し、私よりさらに胴長で短足なのが心配なのだ。 平和な日本人に生まれたから、誠実で気弱な男を若い女が求めているから、外見だけで選ばないので、 なんとかいいみたいである。 でも、やはり心配である。 |
『ほんとうの心の力』 自分の努力のみ、自分の努力のうえの神頼み、そして、ただ神頼みだけ。 比率にして、2対6対2だろうか。 天風さんは、「心を鍛えろ」というのである。 それには、積極的な「心の働き」をという。 積極的とは消極的に対する言葉ではない、「絶対的な積極」、 さらに言えば「心がその対象なり相手というものに、けっしてとらわれていない状態」 ということらしい。 残念ながら、十分に心の働きを知らずして生きている凡人にはむつかいしのだろうか。 しかし、よーく過去を振り返ってみると、 私なりに、潜在意識を実在意識として、やっとの思いで行動してきた。 思うに、どちらの意識であっても、そのもったことしか結果は出ない。 つくづくそう思う。 思っても、まず行動しないとどうにもならないのだ。 不思議なのは、思ったレベルでしか「ことは」実現しない。 まず思うことが大事、 そして、次に初動が大切なのだ、だからやりたいことができれば、まず動くことなのだ。 この本に、心に関するいい言葉がたくさんでてくる。抜粋してみよう。 「心は秘密の玉手箱」「心に施す技術」「心が喜ぶ想像」「心の垢を取ってから寝床に入る」 「心の偉大な作用」「すべては心が生み出す」「情味は心で味わう」「心にないことは生じない」 さらに抜粋するならば、 「情味」「無礙自在」「残心」「平然自若」 ほとんど今では聞くことがない言葉でもある。 この本から学んだことは、 笑いを大切に、病の時、不運の時はよりいっそう心を積極的にして、人の振り見てわが振りを直す。 常に積極的な言葉を使う習慣をつくりたいものである。 |
『ガウディの伝言』 あそこに、こんな素晴らしい建築−サグラダ・ファミリア−があるとは知らなかった。 35年前を思い出しながら、残念でしかたがない。 夢の建築とその発想の違いを感じながら、キーワードを探索した。 一番強烈だったフレーズは・・・ 「人間は何も創造しない」である。 さらに、くわしくそのフレーズを彫り出そう。 「人間は何も創造しない。ただ、発見するだけである。 新しい作品のために自然の秩序を求める建築家は、神の創造に寄与する。 故に独創とは、創造の起源に還ることである」 創造の起源に「ガウディ」は、自然の植物を常に観察スケッチしていたという。 思うに動物には、何も感じなかったのだろうか。 昆虫には、と思ってしまう。 確かに植物を観察すると、思いがけない形であったり、色にバランスを感じることがある。 それは、静かにじっと観るとわかる。 このじっと観るがなかなかできないのだ。 時間がないという言い訳を作ってしまうのである。 二つ目のフレーズは、筆者が言うフレーズ・・・。 「私にとって彫刻をつくっているときの理想は、『石の中に入って彫っている』という状態です」 私の陶芸の場合、どうだろうか。 家人がよく言う「そんなに粘土いらっていて疲れない」。 疲れないし、粘土が形になるのを夢中でやっている、ただそれだけなのであるが・・・。 そうしたら、時間を忘れているのである。 これを筆者は、仏教の「空」という表現を使っているのだ。 三つめは、「三次元で考える」である。 動物の形を粘土で創るとき、イメージを粘土に表現する。 このイメージを平面図に落としてと言われても至難の技とつくづく思っており、納得できるのだ。 この本からは、まだまだ多くの刺激を受けた。 その書き出しは「気になるフレーズ」に譲るが、 ただ最後に言えることは、筆者がこの物創りに30年近くのめり込んでいる建物。 それは、本でわかっても、なぜなのか自分で確かめたい。 そのためには、やはり現物を観察する以外にないのではなかろうかと、読み切って思ったのだ。 筆者は言う、「ガウディは、人間を幸せにするものをつくろうとしていた」これに つきるのだろうか。 |
『脳が若返る30の方法』 それも簡単にでき、簡単にやめられるのだ。 やってみたいことを、やってみればいいのだ。 この本の中で、一番気に入ったフレーズは「はじめに」の中にある。 「夢を追い続けられることこそが、人間の遺伝子に組み込まれた真の幸福」これである。 さらに「脳が若くなければ、自分の夢を追い続けることはできません」、 そのためには「常に新しい何かで刺激し続けること」というわけである。 この本の中には、30の脳への刺激方法が入っている。 その方法に入る前の「プロローグ」の次のフレーズが私の脳にはぴったしだった。 「脳は、好きなことをやっている限り、あまり疲労を感じません。 それどころか、好きなことをさらに極めるために変化していきます」である。 それは、陶芸という自分の「好きなこと」が見つかり、いろいろと脳が変化している。 陶芸をやる中で、いろいろ新しい体験を探しながら前に進む。 その楽しさがとても心地よいのである。 脳が刺激を受けている。 それが、この本を読んで確認できた。 ただ、意外だったのは自分が左脳系から右脳系へ変化しているということだ。 30の方法のうち、すでにかなりの部分をやっている。 それなりに、違った刺激を脳には与えてきたつもりだ。 それは、日常生活の「元気の素」にもなってきた。 おわりに、変なことに気がついた。 若返る方法はいろいろあることがわかったのだが、疑問に思ったことがある。 それは、若返ったかどうかを確かめる方法なのだ。 死ぬ時期はコントロールできないから、死ぬまでボケずにいられることなのだろうか。 となると、この本は、団塊世代へのボケ防止の本にピッ足しということになる。 こんなことを書けば、著者に失礼かもしれないが・・・。 |
『魂がふるえるとき』 表題にあるように、魂が震えるような作品となると・・・。 私の場合、山岡荘八や芥川龍之介や吉村昭作品になる。 この本の中には、宮本氏が選んだ短編が16作品収められている。 どうやって選んだのか気になり、あとがきもきっちり読んだ。 「これら名作についての私なりの解説は、ここではあえて避けることにした」とある。 なぜか? 「小説というものには、百人百様の読み方があり、またそうであるべきなので、ここに収めさせて いただいた小説に初めて出会う読者の真っ白な心にゆだねたいからである」とある。 確かにすべて初めて読む作品だった。 しかし、残念ながら「真っ白な心」で読んでいなかったと思う。 ほとんどの読者は、ある作者の作品に偏り、自分の世界が出来上がっている。 あえていうなら「真っ白な心」になった気持ちで読めばよかったのだ。 短編は、私の場合、どうしてもテーマと内容の意外性に目が向く。 そういった意味からすれば、水上勉作品「太市」が一番よかったように思う。 身体が不自由で糞まみれの子とその仲間を結びつける女郎蜘蛛の話。 子供たちの遊びという世界、純粋な心には、差別はないのである。 今の時代なら、とても考えられない光景ではなかろうか。 やがてはがきで知った太市の死と蜘蛛からみた人間の死を考えながら小説は終わるのだ。 次に、「サアカスの馬」である。 「僕のように怠けて何も出来ない痩せこけたサアカスの馬」と自分を対比させながら、 やがてその馬が、サアカスの舞台で本番を迎え、生き生きと動き回る。 その姿を見て、「僕の気持ちは明るくなった」と明るさを取り戻す主人公。 先生に叩かれながらも、元気を取り戻す、子供の純な心が描かれているのだ。 もう一編をあげると、二人の女に気持ちが揺れる男心を描いた「もの喰う女」。 揺れながらも、唇から乳房を求めたことで、自分の不純さを恥じ入る主人公。 今の時代では、考えられぬ純粋な愛を求める男心に、ふっーと溜息を洩らしたのでした。 あと気になったのは、 おんなの片腕を持ち帰り、その片腕を擬人化した話が進む川端康成の「片腕」。 いまではよくある、再婚話が出た密会の女との別れを描いた「蜜柑」。 そして、最後に生き別れた母娘の再会と期せずして同じ娼婦という商売であったという −「ひかげの花」。 |
(訳)住友進 『人生の意味』 中味の、数秘術・マンダラ・タロット・神とかが若干気になり、買わずじまい。 6年して文庫になったことと、この年になったことで、読む気になったのだ。 文庫になったからといって、中味が変ったわけではない。 文庫になるということは相当数の読者がいたということである。 人との出会いから、人生が開けた体験談が多く載っている。 それだけでも、うれしいというか、生き方の参考になる。 ただ、日本人の受動的な人生と違い、能動的に人を求める、 適職を求める、そこに出会いがあり、人生が開けていくようだ。 これは基本的に生き方が違うように思える。 この本には、シンクロニシティ−「意味のある偶然の一致・・・さらに言うなら、 あなたが本当に必要としているものを提供してくれる現象のこと」−という言葉が よく出てくる。 ほとんどの人は、そのことに気づかずに人生を過ごしているように思う。 そういった意味からも 「シンクロニシティはたんなる偶然の導きにすぎないように見えます。しかし、実際は宇宙が人間が 成長するために仕組んだものなのです。どんな人も自分の人生の目的を実現する方向に向かっていく ことができます。だから、リラックスして、心を開き、人生の目的を実現するきっかけとなる出来事に 気づかなくてはなりません」 このフレーズが、この本のエキスなのだ。 ただ気になるのは、悪業を働く人も、やはり人生の目的を実現するため、 宇宙から仕組まれているのかとか。 自殺したり、ニートになったり、ひきこもりになったり・・・。 と考えてしまうと、どうもいけない。 見出しやチャプタの最初にある格言にいいフレーズがある。 書き出してみよう。 「本当のビジョンをもつことで、人生はつくられていく」「すべてのことは実現可能である」 「突然自分の使命に気づく」「直感を利用してますか」 「魂とのつながり」「直感と夢からの贈り物」 「創造力は家のなかから」「自分の欠点と和解する」。 まだ、斜め読みであるが、秋の夜長にじっくり読みたい。 できれば、「瞑想」1か月ほど続けて、心をリラックスさせてから、読みたいのだが。 いまだに、じたばたした人生を送っている自分にはむつかしいことのようだ。 |
『それからどうなる』 過去4シリーズとも痛快で、笑い転げるエッセイがいくつもあった。 「愛子さん」はまだ健在なのだ。 ただ、これは、2年前の本の文庫化である。 すでに「傘寿」を過ぎておられるので、 「まだ死にそうにない」のエッセイが最後になっているが、 今のところニュースになっていないので、大丈夫だろうと思われる。 シリーズ5では、19のエッセイが編集され、その中の話題は、キーワードのとおりである。 私にとって面白かったのは6つあった。 簡単な内容とその題名を紹介すると。 まずは、最近35年ぶりに私も入院したので、愛子さんの初入院を扱った 「幸せとは何ぞや」。 男の性を扱った「我が性かなし」。 サオ&タマの話が出てくる「夢かうつつか幻か」。 性豪と言われた故川上宗薫の単刀直入の口説き文句が出てくる「我が歎き」。 匂いそうで臭わない「秘結」を取り上げた「面白中毒」。 そして、いくつになっても若く見えていた友の死に顔が皺くちゃババアだったという 「まだ死にそうにない」である。 この中でも、秀逸は、こんなフレーズがあるエッセイである。 男の性欲の真髄に迫るフレーズや一見男の味方のようなフレーズが好きなのだ。 そして、尾篭な話ではあるが、悩ましくて出ない秘結のことや人生の終わりの死に顔に関する ものなのだ。 でも、どうも女であるがゆえに誤解している。 「サオ&タマ」の話、それは「伸縮自在なのはサオではなくてタマの方ではないのん? 俗にいうでしょ。怖くてタマがちぢみ上ったって。サオも伸縮するけれど こっちは自在というわけにはいかんでしょう」 いずれも伸縮まではOKであるが、どちらも自在、つまり自分のこころの自由には ならないのであります。 タマは怖いときもちぢむし、思わぬものが当たってもちぢむし、寒暖で伸びたりちぢんだり、 体の異常でもちぢみまする。 サオも立って欲しい時に立たず、ちぢんで欲しいときちぢまず、寝てるときまで余計に 立ち、持続して立っていて欲しい時にちぢみ、実にやっかいなのだすよ。 性欲だけあって立たないのが一番悩ましく、「バイアグラ」というものが売れるのだす。 以上サオタケの話ではなく、サオタマの話でしたア。 愛子さん、いつも面白い話をありがとうございます。 思い出した、全く余談ですが、サオの話のついでに言わせていただくと。 立ち小便をしていた男性が怒られて、チャックをしないままブラブラとサオを出したまま 逃げ、その人物が近所の旦那だったかどうか?というフレーズについてなのですが。 近所の旦那だったかどうかは私にはわかりませぬが、 男から言わせれば、怒られた瞬間から逃げる人ならサオはちぢみ、ブラブラなんてないと 確証があります。 あ〜あどういうわけか、今回の「読み感」、下ネタばかりになったなあ。 |
ハイジ・トフラー (訳)山岡洋一 『富の未来(下)』 上巻以上に苦しみ、斜め読みをしてしまった。 内容的には、エキスが上巻で下巻には、気になるフレーズもほとんど出てこなかった。 読み終えて、第三の波・情報革命への変化の検証であることがわかる。 第二の革命(工業化)とこの革命との間で、衝突が起き、あちこちに歪が出てきている。 「頽廃」「再生」は、資本主義制度の将来にまで、影響が及ばざるをえないのだ。 資産・資本・市場・通貨が様変わりしている。 37章では、資本主義制度の存在を脅かしかねない決定的な点に焦点があてられている。 「これは資本主義と呼べるのか」そこまで著者はいいきるのだ。 どういうわけか、第9部では「貧困」が取り上げられている。 題名の「富の未来」から、取り上げざるを得ないのだろうか。 そうではない、第三の波が貧困さえも解消させる可能性があるのである。 この部の終わりには、「超農業」という言葉が出てくる。 中国・インドがその話の中心になっている。 キーワードは、「バイオ」「インターネット」「教育」「分散型エネルギー」 工業革命と同時に第三の波を体験し、さらに農業革命と一度に起こっている国なのだ。 中国の共産主義一党体制でうまくいくのだろうか。 この部分には触れられていない。 政治的な歪は、ある意味、もみ消されているのが多いに気になる「中国」なのだ。 終わりになるが、革命的な再生が起こっているのはわかるが、日本でみると やはり気になるのは自殺者が減らないことである。 富の未来は明るくても、人の心は荒んでいるのだ。 こころの豊かさが味わえて初めて本当の富の未来があるのではなかろうか。 そのためには富の未来に相応しい「哲学」が必要なのではと思うのだが・・・。 |
ハイジ・トフラー (訳)山岡洋一 『富の未来(上)』 書店で気にはなっていたのだが、仕事上必要性を感じなく なっていたことと、値段が値段だけに躊躇していたのだ。 思わぬきっかけが後押しとなったわけである。 もっとも、もともと「未来論」好きなので、読むのに苦痛はない。 でもかなりのページ数であり、構えて読まないとなかなか進まなかった。 読み切りへの後押しは、やはり「きっかけ」のおかげのようだ。 身近に、なるほどと思えたのには、アメリカが先行しているとはいえ、 日本にも筆者が分析している情報・データ・知識等から未来の方向性がすでに見えるからである。 過去筆者の作品、「未来の衝撃」「第三の波」を読んでからもう何年が過ぎたろうか。 筆者が論じた通り、第三の波は大きなうねりとなっている。 そんな中で、「富の体制」が変りつつあるという。 その意味さえ私にはわからないが、読むと、 「金銭経済と非金銭経済を組み合わせたものが、本書にいう『富の体制』である」なのだ。 こんどは「非金銭経済」がよくわからない。 さらに進むと、「『生産消費活動』と呼ぶものに基づく世界的で巨大な非金銭経済」とある。 説明はむつかしいが、事例で言うとDIYやボランティア活動などをさすらしい。 確かに、金銭が伴わないで、多くの働き手が何かのために働いている事実があるのだ。 データが情報になり、そして知識になる。 この知識が経済を動かしている。 個人が持つノウハウが、何かを動かし、インターネット内に 新知識として蓄積され、それが雲の巣のようにあっという間に広がっていく。 人間として満足得るには、単に金儲けだけという時代から、金を払わなくても人が喜んで動いてくれる。 こころの時代の到来と言える。 「こころの富」を得た人は、その富をまた人に無償で分配する時代なのだ。 |
『遥かなるケンブリッジ』 ヒースロー空港や食事の不味さやソーホーのストリップ(当時は売春宿)、 ハイドパークなどの公園の広さと田園風景、イギリス人の日本人への敵愾心、二階建てバス、 地下鉄、ビッグベン、ウェストミンスター寺院、バッキンガム宮殿、 タワーブリッジなどが頭に浮かんでくるのだ。 エッセイの構成は、ケンブリッジ到着に始まり、・・・、次男のいじめと差別意識・・・、 そして、やはりイギリスとイギリス人を評しながら、 日本、日本人はどうあるべきか。 この話が、ベストセラー「国家の品格」を生んだ土壌なのだ。 最後の12章をベースに、筆者の国家論が生まれたのだ。 やはり、国を論じるにはいくつかの国を知らないとどれが目指すべき方向なのか わからないのである。 適確なイギリスとイギリス人の分析から導き出された国家論。 尊敬される普遍的価値を持たない国は、世界のリーダーとはなり得ない。 いくら経済的に繁栄したとしても、他国がみる眼は単なる羨望の目に過ぎないと筆者はいいきるのだ。 手厳しい。 それにしても、経済的に枯れたというか成熟したイギリス人の生き方、 セカンドライフに心の豊かさを求めようとする団塊世代にとって、 食べ物は別にして、なんとも魅力的な国である。 これから行くとしたらどこへと言われると、 私はやはり混血美人の多いスペインとなるのだが、 やはりイギリスも捨てがたいのである。 話が横道にそれたが、この本で筆者が言いたいことは、 やはりこのフレーズのようなので、最後に抜き出しておこう。 「イギリスは近代的民主主義、・・・フランスは人権思想・・・ドイツは哲学や古典音楽・・・ アメリカは競争社会の思想を作り、映画、音楽、スポーツを世界に広めた。・・・ 彼らの生み出した普遍的価値に世界が敬意を払っているからである。ハイテク商品を 売りまくるだけでは、尊敬を受けることもなければ真の大国になることもあり得ない」。 これは是非ビジョンが描けない日本の政治家に読んでもらいたい本である。 |
『心は孤独な数学者』 3人の天才数学者が生まれた地を尋ねて、それぞれの人物評伝を描いている。 天才は天才で多いに悩みがるのだあ。 ニュートンは、生涯独身で通し、 ハミルトンは、初恋の女性を生涯愛しながら、別の女性と結婚、 ラマヌジャンは、結婚はしたものの、母と嫁の間で悩ましい結婚生活を送り、 彼の才能をやっと見出してくれたイギリスのハーディーのもとへ行くべきかでも悩んだようだ。 三人の紀行エッセイに割かれたページ数からして、 筆者は神童ラマヌジャンの生誕地インドが多いに気になっていたようだ。 天才の生まれた地を訪ねながら、筆者は数学の天才が生まれる地の環境条件を 見つけ出したようだ。 私は、3人のうち誰もが知ってるニュートンしかしらない。 ニュートンが数学者に分類されているとは知らなかった。 重力の法則から天文学者か物理学者かと思っていたのだが?? ハミルトンは、数学者というより、その純愛ぶりに頭が下がる。 兄に無理やり恋仲を裂かれた初恋の女性も、死ぬまでハミルトンのことを 思っていたのだから、これも素晴らしい。 金銭的な問題から家族を思い、天文台兼天文学教授になったところも、なかなかのものである。 でもやはりなんと言っても、不思議を感じるのは、最後のラマヌジャンの話である。 次から次へと公式を考え出しなんと3254個の公式を残したそうだ。 ただすぐには証明はされていなかったが、??年??によってすべて証明され、ほとんど 間違いらしいものがなかったらしい。 さらに、最近では「ラマヌジャンを研究することが重要になったきた。 彼の公式は美しいだけでなく、実質と深さをも備えていることが わかってきたからだ」(理論物理学者:タイソン)だそうだ。 終わりに、もっと不思議なフレーズを抜き出しておこう。 「ラマヌジャンの数学に関して、少しずつ実世界との対応が明らかになってきたということである。 対応さえつけば数学の意外性が実世界の意外性に置き換えられ、驚くべき宇宙の秘密に 迫ることが期待されるのである」いかがだろう、32歳で早世した彼が、 編み出した公式の数にも驚くが、やはり宇宙人ではと思ってしまう。 最後の最後に、聞いたこともない数学の言葉を抜き出しておこう。 発散級数、四元数、行列代数、グラスマン代数、ハミルトン・ヤコービ方程式、 擬データ関数、へッケ作用素の固有値、分割数の漸近公式、素数定理、 コーシーの積分定理、・・・もういいかなあ、ああ舌噛むなあ。 |
『ウルトラー・ダラー』 NHKのキャスターをしていた筆者、小説を書くための材料は十分に 収集できていたのだろう。 サスペンスフィクションとはいえ、 人物設定と現実を賑わすニュースとの奇妙な一致が面白い。 分厚い本であることと、筆者の作品が初めてであることから、 買ってもなかなか読み進むことができず、オフィスの引き出しにしばらく 眠っていた。 仕事仲間に頼んで、病院まで運搬してもらった。 やっと長時間の閑にまかせて読むことができたのである。 物語は、浮世絵のオークション会場で、その状況を取材していた主人公 BBC特派員スティーブン・ブラッドレーの登場。 ある浮世絵がまさに落札されようとした時、主人公の携帯にメールが 届いたところから物語が始まる。 「ウルトラ・ダラー」裏社会での交換値89という 超精密ドル紙幣の偽札がダブリンに出現したのだ。 ストーリーは、この偽札に絡まる日本人印刷技術者の突然の蒸発(拉致)、 偽札検知器の不正輸出、ドル紙幣に無線ICチップを埋め込む技術、 それぞれの技術関係者に忍び寄る裏社会(北朝鮮?)からの魔の手。 さらに、日本の官房副長官やアジア太平洋州局長やアメリカの情報機関・イギリスの 情報機関を絡ませてくる。 描かれている情報が日頃縁のない一般読み手にとって、新鮮で機密情報がどんな 形で収集されているのかも興味深い。 主人公の篠笛の先生との恋、偽札検知器社長とアジア太平洋州局長の妻との不倫、 不倫現場の写真による不正輸出強要、無線ICタグ開発第一人者を 技術習得研修講師に招いて、女により誑かす。 この小説は、さらにアジア太平洋州局長の在日朝鮮人の母や主人公の恋人は 中国人の混血?(スパイ)を絡ませる展開なのだ。 しかし、ストーリーは、もっと大きな展開へと移る。 それは、北朝鮮がウルトラ・ダラーで「核弾頭ミサイル」を裏取引で 手にしようとする場面とその取引が阻止されまで手に汗握る連続なのだ。 ラストシーンは、主人公の恋人が誘拐され、それを助けに行くのだが。 助ける前に恋人は撃たれ、川の中へ、 やがて主人公も撃たれ川に落ち、お互い血を流しながら水中で出会う、 という心憎い演出でありました。 |
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