桂文珍著

『落語的笑いのすすめ』


「桂文珍」師匠が、慶應義塾大学で9回講義をなさった。
落語的講義なのです。
話し言葉、落語、どこかしこにオチがあり、時々笑いでKO(シャレ)されてしまう、 実に面白い本なのです。

仕事疲れの人、人生に潤いを求めている人、最近ストレスがたまってと おっしゃる方に是非お読みなっていただきたい。
ほんとよく笑えます。
ようもこんなに面白いこと言えるなあなんて思います。

笑いの「ツボ」というか、「ネタ」というか、「間」というか、
ほんと見事というしかありません。
お話は、1回講義から9回講義まで連続性があります。

ですから、1回から読むというか聞くのがより面白い?
まあそんなこともないみたいで、
好きな講義から聞かはったら良いのでは思いました。

まあ、大学の講義ということではなく、吉本の演芸場へ行ってる。
そんな感じでページを開けばよかろうかと思います。
ほんとメガネをかけた福々しい文珍師匠がすぐ目の前にいるかのごとくに聞こえます。ほんと保証します。

最後に一言うれしかったというか、うんと納得したことがあります。
「同じ笑いの物差しを持っている人と結婚をすると、意外に、幸せです」ということなのです。
そういえば、わが家内と笑えるネタは同じだからここまで来られた、そう思ったのでした。

ほんと面白いでッセ!!
でも言っときますが、電車内などで読むときは、 くれぐれも周囲の方に注意してお読みなるか、喫笑席などで読書することをお勧めします。
笑いすぎに注意しましょう?!



内田百閒著

『御馳走様』


筆者内田百閒先生は岡山の方である。
82歳まで存命であった。
落語の小噺といってもいい、オチがあるからだ。

特に面白かったのは、「蒲鉾」というエッセイである。
船が鱶に囲まれたとき、船の誰かが鱶の犠牲にならないと他が助からないという話。
で、誰が犠牲になるかは、船から手ぬぐいをみなが垂らし、 鱶に引張られたものが選ばれたことになるという、昔からの言い伝えがあるというのだ。

ここでの話では、備前岡山の蒲鉾屋の主人が鱶の犠牲になることになった。
犠牲になるにあたり、この主人が鱶に「わしは岡山の横山」だ、で鱶が逃げ出したという話なのだ。
オチがおわかりになっただろうかね。

とは言ってもエッセイである、だからどこから読んでもいいのだ。
短いから、読みやすい。
ただ文体というか、漢字などが昔のままなので、読めないのがしばしば出てくる。

まあこんな読みだろうで辞書もひかない。
しかし、よくもまあ戦時中というか、物不足というか、金がないというか、 飽食の時代でないのにいろいろと食べて飲んでいるものである。
もちろん、ゲテモノからハイカラものまで結構あるのだ。

猪の足頚、河豚(当時普通に食べていない?)、
白魚、シュークリーム、おから、
雷魚、シャンペン、チーズ、食用蛙・・・・。

どうも、何か珍しいものを食べる時、
どこからともなく、先生宅に人が集まってくる。
臭いでもするのか、三々五々に、その際の会話も実に面白い。

昭和19年、戦時中で段々と物がなくなったいく時代。
食通は、目で口で楽しめないなら、イメージで・・・ということで、
「餓鬼道肴蔬目録」なんてのを書いている。
「食ベルモノガ無クナッタノデセメテ記憶ノ中カラウマイ物食ベタイ物ノ
名前ダケデモ探シ出シテ見ヨウト思ヒツイテコノ目録ヲ作ッタ」ということなのだ。

いろいろな食べ物の中に、岡山の人ならすぐわかるものもある。
「お祭鮨」と「大手饅頭」と「白魚」
もっとも「白魚」はもう獲れないが、当時いまもある「平井」付近の旭川で獲れたらしいのである。 白魚は雄でないと美味くないらしいのだ。

「大手饅頭」に至っては、食い残し分に毛が生え(カビ?)ても蒸して食う「食通」ぶりなのだ。
「お祭鮨」の22に及ぶ「具」の記述も興味深い。 今もあるから、こんなに具が入っているのだろうかと思う。
最後に、その具を書き出して終わりにしたい。
かんぺう、しひたけ、木くらげ、高野豆腐、湯葉、こごり菎蒻、さやゑんどう、くわゐ、うど、ふき、
竹の子、牛蒡、にんじん、れんこん、カステラ、蒲鉾、海老、烏賊、平目か鯛、玉子焼、のり、紅生姜。 これでもかという「具」である、肝心の酢ごはんは見えなくなっている状態なのだ。



堺屋太一著

『団塊世代』


私は団塊世代である。
かねてから、この団塊の意味を知りたかった。
ただこの言葉に関し知っていたことは、1947年~49年生まれの塊という程度である。

どうもこの本を読むと、もう少し意味があった。
「『膨れ上がった世代』『この世代は、単に数が多いだけではない。共通の経験と性格を持ち、 社会経済に重大な影響を与える。・・・鉱業の用語を借りて、これを『団塊の世代』」なのだ。
さらに「団塊とは、堆積岩中に周囲と成分の異なる物資が丸みをもった塊となっている状態を指す」 のだそうだ。

この作家は、将来、近未来とかを予測するのが好きだ。
最近では、「団塊の世代『黄金の十年』が始まる」を読んだ。
内容は、「団塊がまた、時代を変える!新しい労働力、新しい市場、新しい欲求が、新しい文化を創る」 とあったが、とっくに私たち団塊世代は、退職金・年金の目減りで控えめなのであって、 新しい市場・欲求や文化を創るなんて期待してもらっては困るのだ。

この本には、4つの近未来小説がある。
舞台は、電機工業、自動車工業、銀行業、公務員である。
結末は、どれも挫折で幕引きである。

「黄金の十年」と描きながら、なんでこの小説の中で嫌な終わり方にしたのだろうかと思う。
その終わり方は、一話目は新規事業であるコンビ二事業に参画して挫折、 二話目は会社の土地売買に絡んで子会社出向の身に、
三話目は、大量のミドルエイジということで、 全く業種の異なる百貨店への出向、最後は、21世紀を想定し、 国家公務員として十分な老後対策ができなかった話なのだ。

明るい未来なんてどこにもありはしない。
でもよく考えてみればいい、21世紀になり、 いままさに退職を迎えようとしているが、それなりに団塊世代は生き抜いたのだ。
時は過ぎた、近未来小説も現実の話になったが、まあ人間、同じ世代が多かろうと少なかろうと 大した事ではない、それなりになということだ。

こんな挫折の小説を描きながら、「黄金の十年」なんてよく描けるものだと思う。
単に人口の塊を、名付けただけではなかったのか。
まだ、これで商売しようと思うほうが誠に浅薄である。



林望著

『リンボウ先生の閑雅なる休日』


読み疲れというか、読みに対する集中力が全くない。
そんな時、選ぶ本は、過去読んで好きな部類の著者の本を探す。
林望先生のこの「閑雅」なる休日に惹かれたのだ。

なぜだろう、同じ時間を生きながら、なぜか忙しげに見える日本人。
イギリスの長閑な田園風景を思い浮かべ、
ロンドンの街風景から、どうしても違う時間を生きているように思える。

でも、昔の日本人は、節目節目で歌を詠んでいたように思える。
それは、俳句であり、短歌であり、狂言、連歌、川柳・・・。
自分の時間を生きずに、大きな組織のうねりに身を任せざるをえないからだろうか。

そのあたりを、長い英国生活の経験から、さぐり出し教えてくれる。
とはいえその通りにできる現代日本人はまだまだなのだ。
ただ、もう少しすると「団塊世代」の大量退職時代がやってくる。
そこに、なにかの大きな変化がやってくるようにも感じられるのだが、さてさてどうなるのだろうか。

その世代は、大量消費時代を経験しながら、「もったいない」も経験している。
高度成長時代にひたすら組織のために尽くし、90年代後半にリストラを体験してきたのだ。
さてさて、高齢化社会に向け、年金をもらわずに、まだノウハウを 次世代に継ぐため、働けの呼び声がかかっているのだが・・・。

本題に入ろう、イギリス生活が長かった筆者、そのイギリスと日本の季節、自然、庭、家、木々・・・、
を比較しながら、「閑雅なる休日」-静かで趣がある休日-とは、どんなものなのかを考えるのである。
「イギリス人は、功なり名遂げてのち、・・・
『田園への回帰」である。田舎に移住してあくせくしたビジネス生活から逃れ、ゆったりと 散歩と読書に過ごしながら、晴耕雨読にガーデニングする」のだそうだ。

どう考えても、昨今のわが国政府は、高齢社会とやらで、定年を過ぎても働け、働けの大合唱なのだ。
はっきり言って困ったものである。
イギリス的生活など望むべきもないのか。
ただ、いま私は、その当たりのお年になり、「思案中」なのでいろいろと参考になるの本なのだ。

この本を読みながら、クラシック音楽を聴くとか、ガーデニングをするとか、晴耕雨読の生活をするとか、
この裏側にあるのは、経済的に保障された福祉型社会-ゆりかごから墓場まで-が、イギリスにはあるのだ。
ある程度の年金は保障されていても、団塊世代が大量にやめるこれからの日本に おいては、ゆったりとした年金生活・田舎生活は、むつかしいのかもしれない。

しかしながら、経済的に浪費型から少しだけブレーキをかけた生活にすれば問題ないように思える。
それには、子離れ・親離れが大切で、しかもセカンドライフへの考えがしっかりしたものでないといけない。
そういった意味からこの「閑雅なる休日」の本は、セカンドライフ での生き方教えてくれるものだった。

終わりに、筆者が言うように、私が妻に求めるものも、 やはり「話相手」なのである。



五木寛之著

『養生の実技』


やはりこの歳になると健康はどうしても気になる。
でも、なになに健康法というのはあまり好きではない。
続かないし、自分に合うかどうかわからないからだ。

その分、妻があれこれと健康食品を薦めてくれる。
でも、薬嫌い、医者嫌いの私も、昨年から血圧の薬を飲み始めてからというもの 、あまりうるさく薦めなくなった。
とうとう所謂薬中毒患者の仲間になったわけである。

そういった意味から言うと「養生」という言葉が、自分の波長に合う。
と言って五木さんの養生法を取り入れようとは思わない。
ただ、過去の自分が患ってきた病と自分なりの養生法の確認作業をしたかったのである。

思い出してみよう、「病」
小児喘息、中耳炎、鼻炎、十二指腸潰瘍、腎臓結石、犬に噛まれ縫う、梯子から落ち縫う、 トラコーマ、虫歯、腰痛、強度の日焼け、足首捻挫、じん麻疹、うるしかぶれ、老人性湿疹、 慢性便秘、痔・・・。
けっこうあるものだ。

でも、よく考えて見ると、所謂大病はない。
この体のお陰でうまく生きてこられ、大変感謝している。
もう少しよく考えてみると、じゃーこのまま大病もせずに長生きできるかという保証はないのだ。

「私の養生法」??
早寝早起き、排便後洗浄、糸楊枝、ラジオ体操、軽い腹筋運動、ウォーキング、朝の空気入れ替え、
、自作お茶、青汁、昼寝・・・、結構あるものだ。

忘れていた、「読み感」
養生というか、病に対する処方というか、どちらかというと生き方だろうか。
いろいろないい短いフレーズが出てくるので、どんどんあげてみよう。

「世間病むがゆえに、われ病む」「病気に完治なし」「治療より養生」
「人生は苦しみの連続である」「故障をおこさないように工夫するのが、養生ということだろう」
「人間は生まれた日からこわれていく」「病院は病気の巣である。できるだけ近づかないほうがよい」

読まれて気になる方は、是非一読をお薦めしたい。
それとは、別のフレーズで気になったのがある。
「意志が弱くても、持続できるもの」これはないと思うのだが、どうだろう。
三日坊主の人に止めをさすようなフレーズを最後に紹介しておこうと思う。
「努力としつけによって人間はたしかに変る。しかし、ある年令をすぎると、 メッキがはげるように、その人の地金がでてくる」いかがだろう。

もうひとつ気になることがあった。
有名な貝原益軒の養生訓でも出てくる。
私の好きなセックスの話が、本文に一言も出てこないことである。
でもありました最後の「私自身の体験と偏見による養生の実技100」に こうありました。
「セックスに基準はない。・・・各人各様に不言実行」思わず笑ってしまったのだ。

終わりに、「清潔好きな人」は、読み始めてすぐにやめるかもしれない。
それは、「髪洗いは年に2回」「体の表面をいくら清潔にしたところで、内側はグシャグシャ なのではあるまいか」なのだ。
まあ人それぞれ思えば、どうということではないのであるが。

いずれにしても、健康が気になる人には、是非一読をお薦めしたい。



佐野眞一著

『だれが「本」を殺すのか(下)』


下巻は、ほとんどが文庫本化にあたっての追加取材である。
<検死編>は、本殺しの犯人の確認作業なのだ。
それは、蔵書であり、読者であり、著者であり、書店なのだ。

検死といいながら、各fileには、新しい芽生えのようなものも書かれている。
そして、最後に「『本』の復活を感じさせる小さな予兆」、
小さな予兆であるが、筆者はかすかな期待をしながら結んでいる。

メディア媒体が大きくデジタル化の方向に移りつつある時代に、 すべてのことが本にとって悪い条件が重なって現在の「アナログ本」の衰退が 起こっているのだ。
この感想を書きながら、毎年平均的に本を読んでいる私にとっても、 確かに読みたい本がなかなか見つからないし、単行本を買おうという気になかなかならない。
それは、私が年を取り読みたい本が変わっているということと、 好きな歴史小説を書く作家が少なくなったことに起因するのかもしれない。

明るい兆しとして、デジタル化の波をいち早く感じ、ネット世界に参入した 村上龍やつげ義春の作家の話や「T-Time」というツールや、
「バカの壁」「ハリーポッター」「磁力と重力の発見」や
「五体不満足」などのベストセラーになった本の話を読むとなるほどと頷ける。

終わりに、思わず笑ったことがひとつある。
それは「リアル鬼ごっこ」という本の話である。
「『リアル鬼ごっこ』なる本をアマゾンで買ってみた。帯には『あなたは最後まで逃げ切れますか!? 20歳の鬼才が放つ衝撃のストーリー』とある。読み出してストーリーのあまりの 荒唐無稽さと文章のあまりのひどさに1ページ目でぶん投げた」なのだ。

なぜ笑ってしまったかというと
この本は、息子のおさがりで読んだ。
佐野先生ほど大胆ではなく、我慢して我慢して最後まで読んだのだが、
あまりの単純なストーリーの設定に思わず「こんなのでも本」に なるの、なぜに「これが鬼才」と思ったのだった。



佐野眞一著

『だれが「本」を殺すのか(上)』


単行本が発刊されたとき、興味を持っていた。
しかし、買わなかった。
文庫本になるのを待っていたのだ。

16年に文庫本化されたが、なぜか買わなかった。
やっと2年して買ったことになる。
興味が現実の話より、いわゆる死を意識してきたのか、宗教に関するものや、哲学的なものや 趣味の方に移ってきていたようだ。

と書きながら、なぜ買ったのか結局よくわからない。
読書欲が手詰まり状態のときは、過去からの好きな作家-吉村昭、佐藤愛子、佐野眞一- や読みやすい随筆 を探索する癖があるようだ。
たまたまあたったのがこの本ということになった。

前置きが長くなってしまった。
いつもながら、佐野作品は、テーマに沿った念入りな取材活動が面白い。
それも取材先の生インタビューが入っているから、臨場感がある。
本に関わる、いろいろな人物のいろいろな仕掛けに驚くし、一冊の本に燃える男たちの 姿が逞しく思える。

その一方で、なぜ欲しい本が欲しいタイミングで入らないのか。
読者、ユーザー側の切なる希望達成は、複雑というか難しいといわざるを得ない。
しかし、多くの町の小さな書店が競争の名のもとに閉店に追いやられ、大型化、 オンライン書店化されているのが現状なのだ。

本好きの私にとっては、書店で探す本が見つからないときは、「アマゾンドットコム」に頼っている。
安い中古本もあり、さらにある金額以上であれば、郵送料もただというサービス、 さらに本が着くのも速いとなれば、やはりオンライン書店も十分に使える。
ただ、手元に取ってページを捲りながら、すぐに大まかな内容を確かめる楽しさ、 本を探す楽しさはなくなってしまうことが、アナログ派には寂しいのだ。

この本を読んで意外に思ったことが二つある。
ひとつは一般の物価下げに比較して本の値段がいつまでも下がらないという再販制度のからくりと、 もうひとつは、本が売れないのに新刊本は毎年増えつづけ、7万3千点、その一方で返品率は 40%というから驚き以外のなにものでもない。
紙という資源の無駄というから「もったいない」と言わざるを得ないのだ。

おわりに、意外な事実がひとつあった。
理想の書店-明治から続いている老舗「今井書店」-が山陰の米子にあるということだ。
ただそれだけなのだが、山陰というフレーズに何か懐かしさに加え、逞しさを感じてしまったのだ。



ジョーエレン・ディミトリアス著

『この人はなぜ自分の話ばかりするのか』


最近ノウハウ本あまり買わなくなった。
仕事上必要なくなったからか、好きでなくなったからかわからない。
迷った挙句、買いたい本が見つからなかったので買い求めたのがこの本である。

読み始めて、じっくり読んだのは1章の「『人を読む』には準備が大切」である。
後は、見出し、小見出しを拾い読みし面白そうなのをピックアップして読んだ。
そして、横着者、楽したい向けの最後の「応用編}をじっくり読んだ。

なぜか、筆者自体がプロの陪審コンサルタント」と知ったからである。
この本が筆者のように実際に多くの人と接し、観察して、話した人でないと無理なのだ。
そういった同一の環境にある人が「人がわからない」と思い悩むとき多いにヒントになる ノウハウ本なのである。

そういった人に会うチャンスの少ない人は、はっきり言って、
騙されて痛さを知って、経験を積む以外にないように思う。
方法としては、仕事を離れれば、必要のない、気がをけない人以外の人とは できるだけ付き合わないこれも1つの方法ではなかろうか。
年を重ねれば、自分の過去の経験で生きるしかないように思うのだ。

それは「はじめに」で筆者が書いてある。
「『人を読む』時には必要なものは科学でもないし生まれつきの才能でもなく経験である」
ということなのだ、いかがだろう。

読み終えて思ったことが二つある。
1つは、五感をフルに活用して、一生懸命その人を見る、知る。
これではなかろうか。

もう1つは、「人を読む」に当たり、気になることがあるならば、まず「見出し」「小見出し」を見る。
でピンとくるキーワードがあれば、その個所の拾い読みをお勧めする。
そして、自分のやり方に変換するのだ。

最後に、横着もののポイントというやつを書き出しておこう。
ぴったしのネーミングである「SPEED」なのだ。
「全体に目を通す、目立つ特徴を取り出す、その特徴を拡大する、集中力を保ちながら評価する、 安全圏で決断する」以上、ご健闘をお祈りしたい。



梅原猛著

『法然の哀しみ(下)』


また、苦しんでいる、読みきれていない。
読む集中力がない。
そんなことを書きながら、「読み感」にしようと目論んでいる。

「自らいう『世捨て人、隠遁者』の法然には 全く艶聞がないのであると筆者は紐解いているのでした」
と上巻で書いたら、恋文の話やその恋の相手と一緒の墓碑が広島県生口島にあるというのだ。
その墓碑の写真には、法然上人、如念尼公(式子内親王)、松虫・鈴虫とあり、さらに 哀しい恋の伝説が残っているのだ。あくまで「伝説」ですがね。

法然に興味が湧くのは、第九章法灯を継ぐもので13人もの弟子が紹介されていることである。
その名、あげてみよう。
法蓮房信空、真観房感西、勢観房源智、善恵房証空、
長楽寺隆寛、正信房湛空、遊蓮房円照、明遍僧都、安居院聖覚、
聖光房弁長、善信房親鸞、法力房蓮生、津戸三郎為守。

「多種多様な、それぞれ独自の個性をもつ弟子たちに、法然はそれぞれの人にあった かたちで念仏の教えを語り、
いずれの弟子をもかたい信仰をもつ専修念仏の信者とならしめたのである」
ということなのだ。

思うに、それぞれの性格・能力を見抜く力に非常に長けていたと思われる。
筆者がこれらの人物の特性をつけても、非常にバラエティに富んでいることから、法然が 誰でも受け入られる素晴らしい器量を持っていたということでもあるのだ。
ここで、それぞれの人物の特性を書いておこうと思う。

信空・・・持戒第一、感西・・・清浄第一、源智・・・奉侍第一、証空・・・学問第一、
湛空・・・工夫第一、明遍・・・遁世第一、聖覚・・・雄弁第一、
弁長・・・造寺第一、親鸞・・・思索第一、蓮生・・・滑稽第一、為守・・・頑固第一、 なのだそうだ。意味がわからないのがあるがそういうことなのだ。

第十章迫りくる危機(法難と流罪)で、安楽・住蓮事件をとりあげ、筆者は後鳥羽上皇に 浄土宗を弾圧するように迫った「黒幕」を解き明かそうとする。
読み進めながら、これが法然という人物を題材に選んだ主目的のように思える。
たどり着いた人物は、表では「法然」に対する態度は恭しく装い、匿名で書かれた「愚管抄」 では本心を吐露して、悪口ばかりが書いている人物。

法然への憎しみ、流行する専修念仏への批判が生々しい。
その人物は九条兼実を同母兄に持ち、兼実の力で天台座主になった「慈円」という お坊さんなのだ。
さらにこの本には、兼実の死に関し、非常に冷酷な文も残されているというのである。
書いたこの匿名の本が残るとは思っていなかったのだろうが、 死んで「不徳」のいたすところとなったわけである。



梅原猛著

『法然の哀しみ(上)』


まだ読みきれていない。
力が入る、読む集中力がいるのだ。
筆者は、宗教というより、法然が確立した専修念仏という ひとつの思想がどのように形成されていったかを、法然の生き方を通じて、 なぜかなぜかの疑問を発しながら、残された法然に関する書籍から紐解いていくのだ。

あたかも推理小説のごとく、ある時は仮説を立て推測しながら、 ある時は残された書籍どうしで比較しながら、
関係する多くの書籍をすべて読む筆者の集中力に驚嘆を覚える。
筆者自身が、混迷する現代社会に向けて、新しい思想確立を模索しているように 思える。

戦後から現在に至るまで、共産主義に打ち勝ったように見える資本主義。
しかしどう見ても、資本主義の現在の状勢は、もの・かね・出世、出世のためなら 金、金のためなら何をしてもいい風潮。
これでもこれでもかと際限なく「もの」を求める人間たち。
21世紀は「こころの時代」と言われていた。

ところが、いざ蓋を開けてみると、耳目を疑う事件ばかりである。
いま、この時こそ、新しい思想が求められている時代のように思える。
この本は、「法然」が律令政治、平家が滅亡する時代に 凡夫のための「専修念仏」という新しい思想掲げて登場した時代 と現在をラップさせながら、読み手を引き込む魅力があるのだ。

序章は「もしも数ある日本の仏教者の中からもっとも日本的な仏教者をあげよといわれたら、 私は躊躇なく法然と答えるであろう」
といった熱烈で強烈なファンフレーズで始まる。
そういいきれる確証を、残された書籍等から読み解き積み重ねたうえでの 自信に満ちたものでもあるのだ。

ところが、意外や謎解き・紐解きは、数多く残された「御影」-肖像画-から始まるのである。
「御影・・は、法然が完璧な聖者であることを物語っているのであろうか」
そんな疑問を投げかけながら、各地の寺院に残された御影を見ながら法然の表情と描かれた時代からその 心境を見事に分析する筆者、ただただ感心するばかりなり。

第二章は、伝記から叡山に登ったのは、父時国が殺害された前か後かを紐解きながら、
なぜ一人息子を叡山に登らせたのか・・・。
第三章では、法然の師はだれなのか。

第四章では、師との対立と旅立ちを。
第五章では、二人の弟子(源智と弁長)が語った証言から「専修念仏」への道を、
第六章では、立教開宗、最終章では、「選択集」による法然教学の完成を紐解く。

おわりに、この本に出てくる主な書籍名、二度と目にしない固有名詞を羅列しておこう。
「四十八巻伝」、「法然上人伝記」(「一期物語」「禅勝房との問答」「三心料簡事」「別伝記」 「御臨終日記」「三昧発得記」)、「源空聖人私日記」「本朝祖師伝記絵詞」「黒谷上人伝」
「往生要集」いかがだろう、読まれたことがおありだろうか。

思い出した、一番書きたかったことを忘れていた。
それは、性欲がどうにもならなかった親鸞や蓮如等々の宗教家と比較しあまりに欲のない「法然」、
それは本当かいろいろな角度から紐解くが、女性に対しても、名誉欲も、金銭欲もないのである。
彼が開宗した浄土宗は、かつて女性は不浄であり浄土へいけないとしていたが、 男女に関係なく、悪人も念仏を称名すれば浄土へ逝けると説いたのだから、 女の人が寄って来ないはずがないのに、自らいう「世捨て人、隠遁者」の法然には 全く艶聞がないのであると筆者は紐解いているのでした。



イザヤ・ベンダサン著
(訳)山本七平
『日本人と中国人』


まだ、読み切っていない。
かなり苦しんでいる。
言い回しがむつかしく頭がついていかないのだ。

これも著者の訳がわかりにくいのかなあとかってに思っていた。
で、著者が気になりインターネットで検索した。
意外な事実を知ってしまった、訳者のペンネームだったのだ。

ということは、私の読解力がたらないということである。
いけない、むつかしい本を読むと眠くなる。
だから、読み始めは早かったのに6章で止まってしまったいるのだ。

でも感想が書きたいという、ジレンマに陥ってしまった。
そもそもこの本を読んだきっかけは、小泉さんが続ける靖国神社参拝で、ぎくしゃくする日中外交が 気になっている自分がずっといた。
そんなタイミングで書店で見つけた本なのである。

はじめに「読者のみなさんへ」という出版社の話の中に 「日中関係というのは、考えてみれば、双方が対等でまともな関係を 持ったという時代がありません」ということを聞いて「おや、といった驚き」をまず 覚える。
今年小泉さん交代を前に、政治の綱引きでついつい騒がしい世間・メディアから一過性の ことに思えてしまうからだ。
この本には、歴史を振り返り、対中国外交に関わった有名人が登場する。

要はこの歴史上の有名人が当時の中国外交を引張ってきたのである。
それは、足利義満、秀吉、竹内式部、新井白石、平田篤胤、西郷隆盛・・・なのだ。
歴史好きの私にとっては、彼等有名人がどんな中国観を 持っていたのか、興味のある実に面白い本なのだが、いかんせん頭がついていかない。

でも、この本を読んで、ひとつだけいえることがある。
「なぜ、あの国とまともに付き合えないのか」
それは歴史の積み重ねなのだ。

と言いながら、また首相が変われば、
急に「蜜月」を迎えるかもしれない。
「政経分離」これがいいのかもしれないが、よくわからないというのが本音である。

一方で、小泉首相の外交がまずいということで「一喜一憂」する必要もないということでもある。



山田悠介著

『スイッチを押すとき』


自殺をテーマにしたサスペンスである。
これは、息子のおさがりの本なのだ。
筆者の作品は「リアル鬼ごっこ」に続き、2冊目である。

2030年の未来社会なのに、なぜかITがまったく進んでいない。
自殺抑制プロジェクトの主人公たち、スイッチ押さない被験者たちが 逃走中に携帯を使用する場面が何度かあるのに、なんで位置情報がつかめないのか不思議である。
携帯が通信状態であれば、現在でも位置情報がつかめるのにと、設定の矛盾を感じながら、 そんなところに目をやってはいけないとストーリーを駆け足で追っていった。
「アマゾンドットコム」のカスタマーレビューを見るとこんな感想が出ていた。
「死についてたくさんのことを考えさせられました。 実際にこんなことはないと思いながらもついのめりこんでしまう  そんな感じでした。先の読めない展開 どんでん返し とっても面白かったです 」
このどんでん返しというのが、若者に受けるようだ。

読み終えて、ストーリは「リアル鬼ごっこ」と変わりはしない。
現実に自殺者が3万人で、しかもネット社会から生まれた若者の集団自殺が 数多く発生する中で、自殺抑制プロジェクトには、ストーリーとしてリアリティがある。
いずれ人間は死ぬのに、なぜ若者は死を急ぐのか、あちらの世界が何かいいことでもあるように と若者の集団自殺があるたびにそう思っている人は多いだろう。。

被験者の逃走を手伝った、監視員も被験者だったというどんでん返し。
そして最後にはすべての逃走者がスイッチを押してしまう。
被験者たちはスイッチを押すまでなぜに独房の中で、7年も生きられたのか、 それは家族との「絆」、友との「絆」、それがチャプタごとに感動呼ぶのだ。

若者たちに、是非読んでもらいたい本である。。
「死」を考えるというより、人はなぜに生きるのか、生きられるのか、 その材料としていいテキストなのだからと思ったのでした。



松下幸之助著

『素直な心になるために』


二十歳の頃、B6版のPHPを愛読していた。
純粋だったからだろうか。
当時「素直な心」の素直がとてもここちよい響きに思えていた。

あれから40年近くたった、これまでの過程において多くの本をランダムに読んできた。
ふと振り返りあの頃、読んでいたこの人の話を思い起こしてみたくなった。
すっかり捻くれぼうになった心に、「素直さ」をもう一度注入してみたくなったのだ。

読み終えての率直な感想は、「重い」のである。
心が汚れてしまっているから、響かなくなってしまっているのだ。
と言って、もうあの頃の「素直さ」が戻ってくるとは思えない。

社会環境の変化、人間の心の変化を、この本が的中させているところがある。
それは、「素直な心のない場合の弊害十カ条」にある。
衆知が集まらない、目先の利害にとらわれる、治安の悪化、意思疎通が不十分、 生産性が低下する、・・・こうなることを幸之助さんは、言い当てているのだ。

筆者亡き後、21世紀「心の時代」と言われているが、 この「素直な心」こそが大切なキーワードになっているように思える。
ただ、それに対して、現代人はあまり気付いていないようだ。
こういう私も、すっかり腐心してしまっているので、 この本をの刺激を受け、セカンドライフに向け 「少年の心」を取り戻そうとしているのだが・・・。

どう読んでも、私のこころには余りにも難し過ぎるようなのだ。
何が狂っているのだろうか。
それは「私心」にとらわれ過ぎ、「自己中心」で、全く純粋さがなくなっているのである。

すべてをゼロクリアして初心に還るのは無理だ。
ならばせめて「素直な心の内容十カ条」の10のキーワードから、 自分ができることから始めてみようと思う。
まずは「謙虚に耳を傾ける心」「すべてに学ぶ心」「融通無碍の働きのある心」 の三つのキーワードからやってみたい。



岬龍一郎著

『中村天風心を鍛える言葉』


ずっと気になっていた人物-中村天風-の考え方がまとめられた本である。
筆者岬龍一郎については、相当前、思いだせないほど前に 「お金持ちより時間持ち―モノ持ちよりもココロ持ち」という本を読んだ。
「このココロ持ち」という言葉を当時かなり気に入っていたように思う。

この人物とこの筆者、「ココロ繋がり」もう買わない手はないのだ。
筆者は「天風哲学」という言葉を、この本の中で使用している。
ということは、哲人天風ということになるのだろうか。

読み終えてまず思ったことは、この天風人は人間には限界がないということを 証明するために生まれて来たような人ということだ。
肺結核に冒され、自分の無力さを感じながら、「何のために生まれたのか、生きるのか」。
その答えを教えてくれそうな人物を世界中に訪ねて歩く姿、その人物とのやりとりが実に興味深い。
もちろん、それ以前の日露戦争のスパイとしての活躍も面白い。

しかし、何と言っても、「カリアッパ聖者」との出会いが彼の生き方を決定付けたのだ。
一人の人間の人生の中で、人との出会いがいかに大切なことなのかが十分すぎるほどわかる。
聖者との出会いで、宗教家なら「悟り」なのだろうが、天風さんは宗教は好きでないようである。

哲人の場合、目覚めたというべきなのだろうか。
人間には、「こころと体」以外に「魂」というものがあり、それは間脳にあることをわからされる までの「カリアッパ聖者」とのやりとりは、禅問答そのものであり、実に面白い。
凡人には、簡単にその考えまでにゆきつかないが、ほんとにいいフレーズが光っている。

セカンドライフでの迷い道も一度に晴れた。
それは「人の喜びをわが心の喜びとせよ」これである。
そして、いま自分のやっていることの道筋をつけるためには、「心のスクリーンに具体的な イメージを描いて絶え間なく燃やしつづける」これである。

とにかく久し振りに、人生の生き方を教えてくれる本に出会えたような気がする。
それもたった「579円」で、ラッキーという以外にない。
すぐにやれることは、実践することにした。

終わりに、日頃からお葬式宗教については、疑問を持っている私だが、 天風さんが宗教について痛烈に論破する部分は、ある意味痛快である。
といって、凡人の私に「死に対する心構え」ができているかということはまったくない。
それを書き出しておこう。
「彼ら(釈迦、キリスト)が自分の周囲に来る者をもっと正しく理解させるだけの指導力 があったならば、宗教というものをつくらないで、自分の人格の力で正しく導いていったであろうと 私は信じるのです。
それをどこかで間違ってしまって、すがれば救われる。頼れば救われると 思わせてしまったところに、現在の宗教の過ちがあるのです」いわゆる「他力本願」ではなく、 積極的な「自力本願」でないとだめなのであることを、明確に主張されているのである。
いかがだろう。



きみたりゅうじ著

『SEのフシギな生態』


久しく仕事に関する本は買っていない。
買う前から敬遠している。
理由は簡単、もういいだろうということ。

でも、この本は、私の現在の会社と多いに関係があるのだ。
といって、私はもう多くの失敗を重ねてきたから、いまさら帯でいうように「転ばぬ先の仕事術」、
といったノウハウをもらいたくて買ったというわけでもない。

漫画付きだからで買ったわけでもない。
やはり、事実の話、失敗の話を読んで、仕事柄何か「おお」と共感できるものを、どうも 求めているようだ。
だから、密かに、くすくすと笑ってしまった。

筆者には、ほんと申し訳ないのであります。
この方、どのくらいどっぷりとSEをされたのかわからないが、失敗のたびに体験する 「徹夜」というフレーズに何か麻薬のような感じをもってしまう。
このおかげで体はボロボロではなかろうか。

反対に、仕事を完成させ、納品したときの達成感は何よりも充実していたのではなかろうか。
そうはいってもやはり体力からいって、若いうちはいいが、35歳を超えるとしんどいのではなかろうか。
後半には、そういったところから「転職」の話も出てくるのだ。

読み終えて、最初に考えたことは、
人間をどうみるか、「性善説」か「性悪説」である。
間違いなくこの業界は「性悪説」で考えるべきであることをこの本は教えてくれるのだ。

終わりにくすくす笑うだけではと反省し、
それでも「おお」と思える、フレーズは書き取っておくことにした。
その中の一番の「お気に入りの教訓」を最後に書いておこう。
「要求定義とは、『できる』ことと『できない』ことを明確にする作業であり、『できない』ことを 明確にしておくことで、あらかじめリスクを排除するといった重要な工程である」

さらに加えるならSEの世界で最も大切な能力は、常に私が思っていたことを 筆者もいうところの「コミュニケーション能力」につきるのではなかろうかと思う次第です。



池波正太郎著

『おもしろくてありがたい』


帯に「幻の箴言集」と大きく書いてある。
この手法は、私が「読み感」を書いている手法と同じである。
書き手はすでに亡くなっており、これを望んでいたかどうかはわからない。

筆者が、小説の主人公を通じて語らせた言葉、それは仕事、家族、生き方について・・・等々。
その本は、「真田太平記」であったり、「剣客商売」であったり、「鬼平犯科帳」、あるいは「男の作法」 などのエッセイであったりする。
それぞれの本の、いいフレーズを抜粋・収録したものなのだ。
あまりいいこととは思えない。

なぜかと言えば、人が小説そのもの、本そのものを読まなくなるからだ。
いい言葉、フレーズは、そのことを探すこと自体が楽しいのである。
それは、本読みが楽しいことの中心的目的でもあるからだ。

この忙しそうな時代、人は苦労することより、 いかに「楽」をしていい情報を得るかに目をさらのようにしている。
情報化社会は、ある意味情報のエキスだけを求めているように見える。
現代人にとって大切なことが、情報を得るための過程でも、その苦労した話でもなくなって しまっているのである。

さらに、多くの日本人は情報はタダだと思っている「ふし」がある。
まあそうはいっても、この本は買わないといけないけど。
この本のフレーズ抜粋は誰の主観でやったのが全然見えないのが、いささか面白くない。

こんなことを書きながら、なぜこの本を買ったのか。
言葉・フレーズに飢えている自分がいる。
ある区切りを迎える時期になぜか、踏ん切りがつけられる言葉をどうも探しているようなのだ。

ということで、気に入ったフレーズを2つ書き出しておこう。
そのキーワードは、欲望&時間、人生&我欲。
「1つ1つの欲望を満たすためには、金よりも何よりも、それ相応の[時間]を必要とする。1を得るためには、 1つを捨てねばならぬ」
「こうして60年も生きて、若いときからいろいろな人を見ていると、我欲の強い人がいちばん 不幸せになっています。結果的に、『自分さえよければ、他人はどうでもいい』という人がね。 金があっても、幸せとはいえませんね」



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