ダン・ブラウン著

『ダ・ヴィンチ・コード(上)』


この本は、私が本好きだと思っている息子から「父の日」にプレゼントされた本である。
ただ息子は、私がどのジャンルの本が好きだということは知らない、また、息子から聞かれたこともない。
息子からプレゼントされたのは、この推理小説本の上下巻と「リアル鬼ごっこ」というサスペンス小説の三冊だった。

「リアル鬼ごっこ」は、文庫本だったので、すぐ読めたのだが、分厚い単行本はなかなか読めない。
でしばらく、他の好きな本の合間に少しずつ読んでいたのだ。
ところが、先日の盆休みに東京から娘が帰り、この本を「読みたい」とおっしゃる。

ということで、頑張って読んだのである。
推理小説は、頭の中に登場人物がうまく配置できないと面白くない。
どういうわけか私の頭はそういった構造作りから、かなり遠ざかってしまっていた。

でも、娘に尻を叩かれ頑張った、25日にやっと上巻が読めた。
ストーリーは、1975年、パリのフランス国立図書館が”秘密文書”として知られる史料 を発見し、シオン修道会(秘密結社)の会員の名が明らかになり、
その中にレオナルド・ダ・ビンチらの名が含まれていたことをヒントに、
そこにヴァチカンに認可されたカトリックの一派オプス・デイを絡めて、
キリスト教に纏わる「聖杯?」などの 秘密を解き明かしていくスリルとサスペンスの小説なのだ。

サスペンス小説は、その展開を書いてしまうとそれこそ読み手の協定違反になってしまう。
ということで、ちょっと違う視点から今回の「読み感」は、出来るだけ余談ごとばかりを 書くことにした。
小説の始まりは、ルーヴル美術館長の殺害シーンから始まる。
殺されたルーヴル美術館長は、血で綴った意味不明の数字と言葉を残し、裸で死んでいったのだ。
この<館長が残したアナグラム>から 小説は、「踊る走査線」のように複数の場面で展開していくという、なかなかの面白さである。

その場面は、4つある。
シオン修道会の代表?と思われるルーヴル美術館長殺人の容疑者となってしまったハーヴァード大学教授 と殺されたルーヴル美術館長の孫娘で暗号捜査官の二人が謎を解き明かしていくシーン。
容疑者と孫娘を捕まえようと追いかけまわるフランス司法警察中央局警部たちのシーン。

聖杯を探す修道僧と連絡を取り合うオプス・デイの代表司教がバチカンでなぜか資金集めをしているシーン。
オプス・デイの代表司教の命を受けた修道僧で、殺人を犯しながらキリスト教に纏わる「聖杯?」を探すシーン。
殺人犯として追いかけられながら、謎を解き明かしていくところにスリルとサスペンスを含ませ、 その他の3つのシーンと織り交ぜながら、上巻は「だれかだ。聖杯は物ではない。実を言うと、聖杯は・・・ 人なのだよ」という、イギリス人宗教史学者の台詞で終わるのだあ。



吉村昭著

『見えない橋』


久し振りの吉村作品である。
テーマは、「死」「過去ある者」。
七編の短編小説が収録されている。

吉村作品は、影の舞台で活躍した実在の人物を主人公にした歴史小説に いつも感動をもらう。
歴史小説を読む合間に、気軽に読めるエッセイも面白い。
それとは別に、なかなか「死」が意識できない私にとって、「死」や「影の世界」で生きる人たちに スポットを当てた短編小説も見逃せない作品なのだ。

簡単にストーリーを紹介しよう。
保護監察官と36回の服役者との交流と静かな一人だけの死を描いた作品。
町内会長と公園に住みついたホームレスとの交流と寂しい一人だけの死を描いた作品。
三浪を苦に漁場に身投げをした病院長の息子の捜索と捜索する漁師たちの生き方を描いた作品。

殺人事件を起こし服役した同窓生と同窓会とその死を描いた作品。
服役者の感想文投稿や読書会参加に戸惑う人たちを描いた作品。
記録小説の主人公の死を追ううちに、吉村氏自身がその主人公の夫人と出会い、また その夫人と同じように痛ましい死で夫を失った夫人と主人公の夫人との文通つながりに よる吉村氏自身が出会いを描いた作品。

吉村氏自身の母の壮絶な癌による死をを描いた作品。
七つの作品のうち、特に筆者の母の死を描いた「夜の道」に強烈な印象が残る。
癌の痛みに耐えられない母にモルヒネをうち続ける、筆者や家族の姿になんとも いえぬ痛ましさが滲み出て、思わず本を閉じたくなってしまった。

死は誰しも平等にやってくる。
平等にやってくるが、誰しもが、できれば楽に死にたいと思っている。
そんな甘い思いに煮え湯をかぶせるような壮絶な死は、こころを萎縮させるに十分だった。



ジュリア・キャメロン著

『大人のための才能開花術』


今週は、先週からのつながりで「芸術」に関する本を買った。
まったくこんな言葉に縁がなかった私だったが、不思議なもので 久し振りに訪れた書店で、手にとった本が、芸術的能力を開花させる ノウハウ本だったのだ。
いつもながら、アメリカ人はノウハウをまとめるのが、なんで こんなにうまいのだろうかと思ってしまう。

芸術なんて言葉は、鑑賞する側にたっても、自分で創造する側には無縁と 思っている日本人が多いのではなかろうか。
岡本太郎さんにしても、林望さんにしてもとにかくやってみようなんて 言ってくれているが、なかなか身近なものにならないのである。
そんな私たちにこの本は、プロローグで「そんなことはない、 誰でもいくつになっても創造はできる」と教えてくれる のである。
しかし、誰もがひた隠しにしていた才能だから、開花させるまでには、継続した トレーニングが必要なのだ。

そのトレーニング期間は12週間(3カ月)である。
一週間ごとの訓練は、具体的で非常にわかりやすく書かれている。
だから、本を読み終えたら「おわり」ということではない。

一週間単位でカリュキュラムを着実に実行していく。
実行していくとかならず変化が起こると筆者はいう。
読み終えて、各カリュキュラムにちりばめられた課題やエクササイズや確認作業 による才能を引き出すノウハウにまず驚きながら、セカンドライフに向けての 無趣味な団塊世代にとってこのカリュキュラムは苦痛ではなかろうかと 思ってしまった。

やはり、何か求めたい。
求めるためにアクションを起こしたいという気持ち・やる気がないと この12週間の継続した行動はむつかしい。
特に仕事中毒だった同輩諸氏には、相当な壁があるだろうと思われる。

陶芸をやっている私にとって、この本は大切なこと教えてくれた。
それは第三週から第五週に関してである。
パワーを感じる、全てそなわっているという気持ち、可能性を信じる、これなのだ。

そして、プラスの自己暗示として、「わたしは、才能のある多作の陶芸家です」。
さらに、アーティストのための自己暗示として、「わたしの創造力は、わたし自身や他人を 癒してくれます」。
セカンドライフはこれでいきたいものだ。

終わりになるが、このカリキュラムに共通して出てくる基本ツールがある。
それは、「モーニングページ」・・・どんなことでもいいから頭に浮かんだことを毎日3ページ分、手書きで書く。 書いたものは見ない。
「アーティスト・デート」・・・週に2時間程度のまとまった時間をとってあなたの創造性の象徴で ある<内なるアーティスト>の育成に専念することだ。
この基本ツールの「モーニングページ」を早速やってみようと思う。



林望著

『「芸術力」の磨き方』


「りんぼう」先生の本は二冊読んだだろうか。
過去の「読み感」を検索してみた。
「くりやのくりごと」「リンボウ先生の遠めがね」があった。

前記の本は、炊事等での創意工夫のエッセイである。
後記の本は、食べ歩きや古いものを訪ねてのエッセイである
そして、久し振りの三冊目が、このテーマ「芸術力」のお話であるが、 「えー」という驚きが先で、その落差に最初はついていけなかったのだ。

読み始め、さらに驚く、第一章「すばらしき芸術の萌芽」では、声楽に取り組む日々が描かれ、 物を書く人がなんでとなってしまうのである。
読み終えると、この方は、驚くほど多芸であり、 それぞれの芸のポイントをつかんでいるのだと、ただただ関心したのである。
絵画、声楽、能楽、音楽、書道、写真。
字を見て不思議に思う。 絵画道なんてならないし、写真道にもならない、もちろん絵画芸にもならないし、 写真芸にもならない。
声や能や音は「楽」が付くから楽しむものなのである。
いずれにしても、残念だが、陶芸はない。

読みながら思っていたことがある。
筆者の「芸術論」の展開の仕方は、不思議なくらい 岡本太郎さんと同じなのではと。

その似てる点のまずひとつは、 あとがきにこうある−芸術は力なり−どこかで聞いたようなフレーズである。
岡本太郎さんが言った「芸術は爆発だ」よりは少し弱いが、言ってることは同じである。
そこで、太郎さんの本からフレーズを引き出してみよう。
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<「今日の芸術」から>
「芸術は本質的に、けっして教えたり教わったりするものではありません。
それはすでにお話したように、芸術がたんに技能ではないからです。
自然科学の部門や、また芸ごとのように技能を修得し、 うまくならなければならないものとはちがうのです」

「私ははっきり言います。芸術なんてなんでもない。 人間の精神によって創られたものではありますが、 道ばたにころがっている石ころのように、 あるがまま、見えるがままにある。そういうものなのです。 すなおに見れば、これほど明快なものはないはずです。」

「あなた自身の奥底にひそんでいて自分で気がつかないでいる、 芸術にたいする実力をひきだしてあげたい。それがこの本の目的なのです」

「古い考えにわざわいされて、まだ芸術をわかりにくいものとして敬遠し、 他人ごとのように考えている人があります。 私は、このすべての人びとの生活自体であり、 生きがいである今日の芸術にたいして、ウカツでいる人が多いのがもどかしい」

「芸術のばあいは、ちがいます。技能は必要ないのです。 無経験の素人でも、感覚とたくましい精神があれば いつでも芸術家になれる・・・」

「私の決意というのは、第一には、きわめて簡単なことです。 今すぐに、鉛筆と紙を手にすればいいのです。 なんでもいいから、まず描いてみるこれだけなのです。 ・・・せんじつめれば、ただこの”描くか。 描かないか”だけです。あるいはもっと徹底した言い方をすれば 『自信を持つこと、決意すること』だけなのです」

<「青春ピカソ」から>
「いったい芸術において単に眺めるという立場があり得るであろうか。 真の観賞とは同時に創ることでなければならない。 観ることと創ることは同時にある」

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「リンボウ」先生の本から、 「もし自分の芸術欲というものを充足させたいと願うならば、時間がないとか 自信がないとかいっていないで、これを理解したい、やってみたい、という気持ちを 大事にして、まず一歩を踏み出してみることです。」
「技術の習得というのは、芸術の手段であって目的ではないということです」
「他人とくらべて技術が足りなくても、そこに自分の個性が生き生きと表現 されていれば、それでいい」

「小難しい理屈をこねくり回して芸術を語る人々の存在が、俄然クローズアップ されてくるのですが、ところが、こういう存在が、芸術の世界からふつうの 人々を遠ざけていることはほぼ間違いない」 「オタクの存在が敷居を高くしている」 「芸術」の敷居の高さは太郎さんが50年前にも言っていたから、筆者が いまだに言っているということは、いまだに変わってはいないのだあ。
つまり、だれでもOKで、鑑賞するより自分でやれということなのだ。
それは、陶芸をやっててつくづくそう思う、なぜもっと早くに始めなかったのか。

陶芸をやり始めて思うことは、いままでこころに余裕がなかったからだと。
時間がない、忙しいと自分に言い聞かせて納得させていた。
この時間がないということについて、筆者は面白いことを書いている。

「『惰性』というのが、時間を無駄にするいちばんの元凶でありまして、そこを 猛省することなしに時間を生み出すことはできません」
「明確に自分の価値基準を決めないかぎり、人は惰性に流されてしまう弱さを 持っているんじゃーないでしょうか」
私の場合、「惰性」を猛省し、テレビを撤去したのだ、 最初は苦しかったけど、貴重な時間作りができ、 いま物作りの楽しさを味わっているというわけだ。

もうひとつ芭蕉のことを引用しながらのいいフレーズがある。
「芭蕉は、不安のない日常に埋没し、定まったスタイルに安住することで、 自らの創造性という扉を開くカギが錆びついてしまうことを恐れたんだと思います」
「創造性」は日常からは生まれないということだ、「飛びなさい、飛び出しなさい」ということだろう。
もちろん、「観察眼」が鋭敏でないといけないがね。

おわりに、この本はへぼ陶芸にいそしむ私を「芸術」の世界へ誘ってくれたのだ。
また、芸術は、技術は技術として、芸術の目的ではないことを教えてくれた。
そして、創造性は、ルーティンワークからは生まれないということなのだ。



池谷祐二&糸井重里対談

『海馬』


脳の話は大好きである。
過去いくつもの脳の話の本を読んだ。
読み終えた時、そのたびに、頷きながら「脳にいいこと何かやってみよう」なんて思ったものだ。

しかし、残念ながらその成果はこの年まで現れていない。
いやそう思っていた、この本を読むまでは・・・・・。
そんなことを考えながら、そういえば先週読んだ「ここまでわかったボケる人ボケない人」も、 脳の話で、老いとともに脳が呆けていくものだった。
知らぬ間に脳に関する本を選んでいたのだ。
この本の対談者も、呆け解明に取り組む考えはあるようだが、 まだこの対談の中ではまだ出てこない。

本と言っても、対談という話し言葉を活字化したものである。
だから、さっさと読めるのである。
さらに、チャプタごとのポイントが章の「まとめ」としてあり、 ここだけ読んでもこの対談のエキスがもらえるのだ。

でも、「まとめ」だけを読むなんてもったいないことをしてはいけない。
二人の何回かの対談の中から、糸井氏が、池谷氏から脳の新しい話を導き出す過程が面白いのだ。
読み終えて、この本から、過去自分がやっていたことが脳に良いことしてたんだという話、 へーえ「やる気」って等、脳にこんなところがあるんだという初めて知る話、 新鮮な脳の話をまたもらったのである。

おー一番肝心なことを忘れていた、脳に関係するかどうかわからないが、糸井氏が 対談の中でインターネットに関し述べていた部分である。
「インターネットがなかったら、考え途中のことを発表することはできなかったわけで、・・・ そう思うとインターネットはそういう使い方をすれば、人の脳を変えるかもしれないです」
この部分は、私は糸井氏より早く考え、自分作のホームページを作って、過程を自分史として 蓄積してきたと思っているのだ。
しかしながら、しょせん一人と網の目のような人的ネットワークを持つ 糸井氏とはるか差がある。
この話は糸井氏著「インタネット的」本でも同じフレーズがあったので、その本の「読み感」 でも書いたのだ。

その当時の「読み感」を抜粋してみよう。

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やっとインターネットの活用法がわかったような気がする。
なぜかというと、同世代で同時期にパソコンを購入し、さらにホームページを開設した。
筆者もそのパソコンを、それまでは全く使用していなかったのだ。

私と違うのは、有名人でアイデアが豊富でいろいろな人脈もある。
さらに、コンテンツも素晴らしくアクセス数も桁が全然違う。
でもフラットなネット世界では、全然関係ないことなのである。

現実に私がネットの世界で付き合っている人には年齢とか性別とか職業を意識したことはない。
この辺は、私の好きなように勝手な解釈である。
ご容赦をください。

筆者は、有名なコピーライター、40代になり、
つくる側の人間として得意な仕事を確保して、いわゆる「偉い人」で生きるか、
貧乏で野心的な職人で生きるこの二つの道しかないのか、
そういった危機意識を持つところからスタートする。
この「インターネット的」世界で生きていく道を見つけたのである。

それも無限の広がりが見えてきたようなのだ・・・。
それは、次のフレーズ「ぼくにとってインターネットは、
いま言ってきたようなとりとめもなく考えてきたことを、
すべて突破するように見えました。

雇ってくれる人の顔色を見ないで全力を出せるし、
何よりも自分でメディアを持てるし、
・・・同じような思いを抱えている人々 の気持ちを集めることができる・・・」でよくわかる。

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本題にもどろう、わたしのやってきたことの何が良かったということを もう少し書いてみよう。
この本でいうところの経験メモリー(How記憶、方法記憶)のことなのだ。
ようは、自転車の乗り方や難問を解決する筋道など・・・ものごとの記憶の話なのである。

抜き出してみよう、「実際にやってみることをくりかえすと、 経験メモリーを獲得できる。経験メモリーを得れば得るほど 飛躍的に能力は高まり、何歳になっても脳の海馬は発達していく」である。
わたしの実際のことで言うならば、確かにもう少し早くやっていればよかったのでは というお考えもあろうが、陶芸の話である。
私的には、この本にもあるフレーズ「粘土工作がたのしいのも、まさに粘土が可塑的だからですよね」 の通り、経験メモリーへの積み重ねで、とにかく時が経てばたつほど楽しさが倍増してきて いるのである。

終りに、新しく知った脳の部位とその活用方法。
「やる気」を生み出す脳の場所-側坐核-のことである。
その部位を活発にさせるには、 「やる気がない場合でもやりはじめるしかない」これなのである。 自分のやり方、生き方を確かめられる面白い本だった。



フレディ松川著

『ここまでわかったボケる人ボケない人』


「ボケたくない!」
この言葉が気になり始めている。
この本は、2002年版で10版を重ねている。

だいぶ前から気になり、本屋に行っては意図的に見過ごしていた。
その心は、「まだまだだろう」だった。
筆者の本は、過去「老後の大盲点」という本を買っていたから、名前は知っていた。

やっと買った、ついに買った。
読むことにしたのは、物覚えが悪くなったせいかもしれない。
いや、定年が間近になったせいかもしれない、いやそのこころは実はよくわからない、 いや思い出せないという物忘れが多くなったということで、ボケ始めで思い出せないのだ。

困ったものである。
この本は、すでにボケが進行している人いわゆるボケてる人には効き目がない。
これからボケることが心配な人、あるいは周辺に50代60代の父母を持つ人、 必読の書なのだ。

筆者は、湘南長寿園病院院長に1981年に就任してから、20年以上経過して書かれた本である。
内容は、この病院に入院してくるいわゆる老人性痴呆症患者の特徴を分析した統計学である。
特徴、それは職業ではどうか、性格ではどうか、そして家庭環境ではどうかといいことなのだ。

読み終えてその特徴にピッたしだと思った人。
思った人は、悲しむことはない、楽しみな夢中になれる趣味をとにかくできるだけ 早くやりはじめることのようだ。
職業、性格、家庭環境がマッチしたからといって、 「ストレスのなかで、もっともいけないのが『ボケたら怖い』という強迫観念からかかってくる ストレスである」決して、強迫観念にかられてはいけないのである。

また、誤解をしてはいけないこともある。
「Hな人はボケない」と書いてある。
「ボケるから」なんて言って、 女性に対してセクハラをしてもいいということではない、くれぐれも要注意であり、 女性に対しても興味を失わないようにということなのだ。

いろいろ書いてあるが、筆者が言いたいのは、最後の章である。
「ボケを恐れるな!」なのだ。
「たしかにボケは他人や家族に迷惑をかけるかもしれない。しかし、ボケている 本人は、そのことをまったくわからないのである」である。

思うに、ボケが気になっている方は、一読されたい。
一読されて、笑い飛ばすぐらいでいいのではなかろうか。

おわりに、付章に生活改善のヒントがある。
「絶対ボケない、ボケさせないための生活ガイド」である。
ボケ防止のために、ヒントの中で自分ができることを今からすぐにやり始めることなのだ。

おわりにと書いたが、まだあった。
「フレディの遺言(私を介護してくれるあなたへのメッセージ)」どうしても ボケそうな人へのお勧めである。
もちろん遺産相続のメッセージはすでに書かれている方、 是非このメッセージも書き加えられたらいかがだろうか。

いよいよ最後である。
どうしても「ボケ」が気になる方。
最後にテストを受け、止めを刺してもらい、とにかく何か好きなことをすぐ始めようぜ!!



星野道夫著

『長い旅の途上』


いま読みたい本のキーワードは「人生」である。
なぜ、この本を買ったのだろうか。
簡単である、「長い旅」が人生のそのもののように思えたからだ。

でも、この年になって、人生そう長い旅ではなかったように思う。
だから大前研一の本のように「やりたいことは全部やれ!」なんて言われると。
何か残しているようで不安になり、時間がないと思ってしまうのだ。

読み終えて、大きな自然に抱かれて暮らしている人間は、とても澄んだ文章を書くんだ。
と、どこからこんな言葉を捜して来るんだろうかと思ってしまう。
「自然のささやき」「悠久の自然」「遥かなる足音」「めぐる季(とき)の移ろい」 「アラスカの呼び声」この言葉を見、フレーズや自然に生きる人との会話 を読むと何とも言えぬ「癒し」を感じてしまう。

筆者は、自然を大きく二つに分けている。
ひとつは日々の暮らしの中で関わる身近な自然である。
もうひとつは、日々の暮らしと関わらない遥か遠い自然である。

この遠い自然について、筆者はさらに言う。
「そこに行く必要はない。そこに在ると思えるだけで心が豊かになる自然である。 それは僕たちに想像力という豊かさを与えてくれるからだと思う」
21世紀は「心の豊かさを求める時代」と言われていたが、その兆しは一向に見えない。

物質優先の人工都市では、土台無理な話なのだ。
自然の中で何日も一人きりになって、自分を見つめる。
動物を見つめる、自然を見つめる、そういったところにほんとうの心の豊かさが生まれるのである。

なんてえらそうなことを言っているが、私の体験は「身近な自然」だけである。
この身近な自然でも結構いけるのだが、筆者が体験している何か大きなものに抱かれる、
といったものはなく、せいぜい稲穂が揺れる四面たんぼの中で感じる気持ちよさ程度でしかない。

筆者が18年間住むアラスカは、夏は短くほとんど夜がなく日照時間は長い、 その分、冬は長く夜も長い。
思うにカメラマンである筆者は、長い冬の長い一日をどうやって過ごしていたのかと思う。
こんな一節がある、「冬の訪れはなぜか心地よい諦めを人の心にもたらしてくれる」ようは じたばたしてもしょうがないとゆっくりやろうということだろうか、 と言われて、現代人は諦められるだろうか、パソコンを持って交信を続けているかもしれない。

とても時間に追われる現代人には、我慢できないだろう。
ならいっそのこと、アラスカ二週間の矯正の旅なんてのでもやってはどうだろうか。
遠い自然とは言っても、空調漬けの体では、マイナス50度の温度は耐えられないかもしれない。

この本がいいのは、エッセイだけではない。
いい写真がたくさんあるのだ、生の写真はさらなる迫力・臨場感を与えてくれること間違いなしである。
「オーロラのダンス」「シロクマ母子の寝姿」「ムースに降る雪」「シロフクロウの新しい家族」 「穏やかな春の日のアカリス」「ザトウクジラの優雅な舞」・・・・・。

自然に抱かれ、インディアンやエスキモーや・・・多くの自然を愛する人たちに愛された筆者。
「僕はクマに気を付けるが、それほど恐れてはいない」と書いていた筆者。 残念ながら44歳の若さで、恐れていない熊に襲われ、幼い息子を残してこの世を去った。
遠い自然・大自然をこよなく愛し、そこに住む人を愛し、動物を愛した筆者よ、いい話をありがとう。



山田悠介著

『リアル鬼ごっこ』


この本は、息子が娘と相談して父の日にプレゼントしてくれた本である。
フィクションとはいえ、自分と同姓の人間が5百万人も殺される。
内心穏やかではない。

インターネット的、仮想現実の世界は、若い人に受けるのだ。
設定、構成が単純だから読みやすい。
わが頭もゲーム感覚脳の若い人と同じであれば、もっと楽しく読めたのかもしれない。

ストーリーは、台詞の部分を拾い読みすれば、つかめる。
場面が変わるときは、最初のシーン説明をゆっくり読めばいい。
とんとんと、とんとんとあっという間に読み終えた。

ちょっとした持て余した時間に気楽に読める本である。
実話好き、歴史好き、随筆好き、ノンフィクション好き、
そして、人生とはとか、死とかに気持ちが寄ってきたお年頃としては、物足りない。

うるさいおじさんとしては、二つ三つ注文をつけたい。
最初の設定で、西暦3000年、医療技術や科学技術そして機械技術までがかってないほど発達し・・・
と設定しながら、「佐藤」さんが探せるゴーグルだけが、未来技術なのかと疑ってしまう。

まあストーリーの展開にはあまり関係ないのだろうが、 一千年後も、まだ新聞やテレビや新幹線かよと言いたくなる。
妹の情報を得るのにいちいち「王国センター」まで出向かないといけないのかよと言いたくなる。
のんだくれのおやじのことが心配なら携帯電話でかければいいじゃんと思ってしまう。

あれほど、主人公は妹を守らないといけないと言いながら、 自分だけそそくさ逃げて、妹は捕まり自分だけ助かる。
そんなんなら、最初からリスト出して時間かけ、苦労して探さなくてもいいだろうと、
捻くれオヤジは思ってしまうのだ。

それから、おやじとして腹が立つのは、おやじの会社もどんな仕事をしていたかも知らない。
誕生日や血液型も、昔も今も何も知らない。
おまえ大学3年生だろ、誰のおかげで大学行ってかけっこしてるんだよ、と怒りたくなるね。

終わりに結末がいただけない。
王様を殺し自分も射殺されるなんて。
同姓のあんたが勝ち残ったのだから、王様になればいいのだ。 がっかりだった。



三砂ちづる著

『オニババ化する女たち』


この本も、知人からお借りしたおすすめ本である。
強烈な題名である。
「はじめに」で、その題名である 「オニババ」−社会のなかで適切な役割を与えられない独身の更年期女性が、山に籠もるしか なくなりオニババとなり・・・若い男を襲うしかないといった話だった−に筆者なりの解釈 を加え、この言葉をキーワードに現代日本社会の悩み「少子化」を合わせて、話は展開されているようだ。

しかし、「オニババ化」ってホントにそうなのだろうか。
インターネットで検索すると、「安達ケ原 『鬼婆』伝説」や「乙羽信子主演の肉付き面をかぶる 鬼婆」は、筆者がいう「オニババ化」と違うようだ。
さらに昔話「三枚のお札」−小僧が和尚にもらったお札で山の鬼婆を追い払う物語である。 鬼婆は弱さで子どもの自立を阻もうとする日本的な母親のすがたである。 三枚の札はそれぞれ山、川、火となって鬼婆の追跡をかわすが、 母親の執着はそれだけ凄まじいということである。−では、母親の子供への執着 心を表現して、子供に自立を促そうとするものなのである。

つまり、この本は、子供を産まない、避けている?女性へ警告を発するため、 「オニババ」を活用しているように思える。
また、女性の役割とは、何かを問う本でもある。
誰とでもいいからセックスをして、産道をスムーズに、
30代40代の独身女性にとっては、「子供を産まない女はオンナでない」と 脅迫されているような、ある意味、 帯でいうように抱腹絶倒の目ウロコとはとても言えない本なのである。

一方で、セクシャルハラスメントに怯えながら、 これでもかと香水や欲情的な服に惑わされ、 通勤電車で痴漢にならならないよう細心の注意を払う男供にとってみれば、 ある意味、結婚への後押しをするというか、味方をしてくれてる本であるようだ。
題名から女性が読む本のように思われるが、これは社会に、女性に萎縮し、性欲をもよお よさなくなった男供が、女の体の仕組みを知るべきための本のようにも思える。
30代の男ども必読の書である。
もっとも「オニババ化」した女性には、心も肉体も弱い男供はかなわないかもしれないけどね。

この本で、見目形にとらわれ白馬の王子様がみつからないとか、玉の輿の話がないとか、 フィーリングの合う男がいないとか、運命的な出会いがない。
そんなこんなで知らぬ間に、大台を過ぎてしまった。
そんな女性群が、発奮して若い男を襲って「オニババ」でも何でもいいから、子供を作る。
そんな具合になればいいのだ。
平成17年の出生率があがれば、この本が貢献したことは間違いないだろう。

終わりに、還暦、定年、男として性欲も弱くなり?つつある私にとって、人生を振り返らせて くれるフレーズを紹介しておこう。
「理想ばかり追いかけても、人生は思い通りになりません。人生なんでも思い通りになるのだと したら、『死』や『次の世代への交替』を受け入れられません。 特に結婚とか、子どもを産むとか、誰かと一緒に住むというのは、全部『思い通りにならないこと』 を学ぶことなのです」なのだ。
いま振り返ってそう思う。たぶん家人もそう思っているだろう。



(文)古田靖
(絵)寄藤文平

『アホウドリの糞でできた国ナウル共和国』


知人からお借りした本である。
読み終えて皮肉な結末を迎えそうで迎えない「大人の童話」という感じである。
ほんとにこんな島が、国があるんだと、口あんぐりで終わってしまった。

まずは、この本の題名にある「アホウドリ」と島で思い出した作品がある。
吉村昭の「漂流」である。
実話に基づく小説なのだが、主人公たちが漂流してたどりついた島に、 たくさんのアホウドリがいて、その肉を食べて生きながらへ、 ふたたび日本にたどりついた話なのだ。
最初その島−鳥島−かと思った。

国という文字を見て違っていたことにすぐ気が付いた。
独立して40年に満たない国だったのだ。
ページを開くたびに、へーえの連続である。
40年だから、人間一人の一生分では、国家形成はどだい無理なのだと思った。

思ったが、税金を取らない国家って何だろうと次のことが浮かぶ。
資源だけ売って働かず、飯も作らず、本来払うべき金も払わず。
「そんな夢」のようなというが、やはり義務が伴わない生活をする人間は堕落するようだ。

それは、資源が枯渇して、考えられた政治施策?からもよくわかる。
独立前に資源を掘り出した国への補償要求、
ダーティーマネーの温床となったインターネットバンク、
難民を受け入れて多くの援助資金を稼いだ収容代行サービス。

いわゆる「オレオレ詐欺」の犯罪アイデアに発想が似ている。
というより「オレオレ詐欺」に酷似している。

大きな国や国連は、つぶれそうな国家を助けないわけにはいかないので、
支援をせざるを得ない。
いま先進国で問題になっている「二ート」、その国家版のようでもある。
それでもそれなりに食べていけるのである。
次の施策は、 引き続き、長年関わりがあったオーストラリア、国家として関わりのある国連、 なぜか他国と結ぶ同盟、その裏に潜んでいるように思える。
これは、議会が存在するから民主国家なのだろうか?!
できれば、ホームページで「ナウル共和国、糞がつきて運つきる」続編を流して欲しいものである。

この本は、あくまでも大人が読むには、「そんな夢のような」世界で終わるが、
子供に本として与えるには、あまりにも刺激が強すぎるようだ。
やはり、最初に書いたが、おとぎの国でも、結末は皮肉な結果に終わる、「大人の童話」である。



大前研一著
『やりたいことは全部やれ!』

最近は、人生について、元気が出る本を求めている自分がいる。
仕事から離れ、妻からも自立し、妻・子供に迷惑をかけないセカンドライフ。
定年後、きれいすっぱり第二や第三の関係する会社にお世話にならない人生。

「経営者」「世界」「旅」・・・いずれもちょっとスケールが大きいすぎるが、
人生をどんな形で楽しむかには変わりはないと、 かってに思っている。
スケールこそ違っても、私自身、10年以上前からいろいろな遊びを楽しんできたからだ。

人生の後半になって、自分に問いかけるのにいい本である。
帯にある、「思いどおりに生きて悔いのない人生を」を見て買ったのである。
サラリーマンだったから、思いどおりなんてことはない。

じゃー悔いのない人生だったか。
はたと考えてしまった。
悔いが残るほど、厳しい仕事もなかったからかもしれない。

困ったものである。
そうならば、せめてもうすぐくる定年後の人生で。
筆者がいうところの自分の人生を生きたいものである。

なんのことはない、それでは遅いと筆者は言っている。
「やりたいと思ったときが旬なのであり、先延ばしする理由はないので、
今楽しいと思っていることが年を取ってからも楽しいとは限らない」のだ。

この本から、3つ良いこともらった。
ひとつめは、常に死を意識して生きるということ。
ふたつめは、楽しいことを思いついたときからするということ。
そして最後に他人の人生を生きるなということ。
そこで、この三つを自分の人生に照らしてみると、大いに足りないのは、
常に死を意識して、悔いのない人生を送っているかなのだ。
きょうやれることはきょうやるこれでいきたい。

おわりに、「amigoよ」きれいにセカンドライフ号に乗るのだぞ!? の決意表明をいたします。



内館牧子 著
『夢を叶える夢を見た』

「夢」いい言葉であり、好きな言葉でもある。
だから、本屋に行って、本の題名や見出しに「夢」という言葉がはいっていると、 つい買いたくなってしまう。
過去どんな本を買っただろうかと思い出そうとしたが、ボケてるから思い出せない、 「夢が幻」になってしまったようだ。

今回、この本を買い求めたのは、チャプタの中に「飛ぶ」という言葉があったこと。
さらに帯に「『夢という爆弾』を爆発させて死ぬ人と爆発させることなく 『夢の不発弾』を抱えたまま死ぬ人」なんてあったからなのだ。
実は、セカンドライフに向けて「不発弾」のままにするか、「飛ぶ」かについて考え中なのだ。

それもいつのタイミングでやるかなのだ。
別に商売をするわけではないのだが、「陶芸」で飛んで見たいのである。
人生終盤になって、できるだけ家族に迷惑をかけたくないから、 踏ん切りのタイミングを見計らっているのである。

そんな人生の過程でいいタイミングに出会えた本。
だから、読み始めると速いこと、あっというまに「あとがき」まで行ってしまった。
「夢を実現させている」取材の対象者にボクサーやその関係者が出てきたり、 実際にアンケートを取ったりで読む側にとっても非常にわかり易い言葉で書かれているのが幸いしたの かもしれない。

そんな私のこころを見透かすように、「まえがき」書かれている。
「これは『何とか人生を変えたい』『このままでは生まれてきた甲斐がない』 『今の仕事を辞め、新しい世界に飛ぼうか、飛ぶまいか』と悩んでいる男女に贈るリポートである」
この本を読んで「飛ぶ」かどうかは、別にして何かのきっかけが見えてくるかもしれないということなのだ。

それに「飛ぶ」時期ということについて、なるほどと思ったことがある。
それは、いいタイミングで出てくる筆者が好きだという詩人「清岡卓行」の詩なのだ
そのひとつのフレーズは「すべての職業の滑稽さを知りながら
その頃夢みた仕事への悲しみのため
ある日ふと職業を変える」
もうひとつは「だから40歳になるとき
おつぎは50歳だと観念するにちがいないと思ったのですが
そのとき実際に感じたことはぼくはもう死ぬんだという
ごくありふれたことでした」なのだ、わかっていただけると思う。

現実にも戻って、自分の夢、若い頃を思い出してみるが、なんとなく生きてきたように思う。
どんな仕事をしたかったなんてあまり考えたこともなかった。
だから、若い頃から夢を持ってチャレンジするボクサーの言葉より、揺れに揺れた人の話の方が 私にはピンときたようだ。

そんな中でも、特に気に入った言葉がある。
「まずトレーニングを受けて、ゼロから教えてもらう。自分のメンタリティとしてそれができるか否か。 それに対して非常にフレキシブルな頭を持っている限りにおいては、いつでもやり直しがききます。 60歳だろうが70歳だろうが関係ないですね」
夢を求めて悶々としている人、ちょっとここでこの本に寄り道してみてはいかがだろうか?!

おわりなるが、この本の内容をすべて読んではいない。
飛んでみたいので、「飛ばなきゃよかった」を読み飛ばし、「飛べばよかった」をバネにし、 「飛んだ人」を読み返し、「飛ぶべきか飛ばざるべきか」「飛ばなかった人」をさらりと読んだ。
そして、第六章の 「死 そしてタイムリミット」で己の置かれている立場を十分すぎるほど意識させてもらい、 「飛ぶ」時期を見極めたのだ。



セス・ゴーディン 著
『「紫の牛」を売れ!』

(訳者)門田美鈴
マーケティング本の3冊目である。
この本は、知人から薦められたものではない。
薦められた本の著者が、著した別の本で、2年前に全米べストセラーになった本なのだ。

余談だが、知人から薦められた本のうち、もう一冊「シンプル・マーケティング」を、インターネットアマゾンで 検索したのだが、かなり古いから新刊本がない。
で古本をあたってみるとなんと、値が上がってるので買わなかったのだ。
かなりいい本なのか、こんな古本は初めてである。

今回の本でまず驚くのは、突拍子もない題名であること。
つまり、あるはずもない常識破りなものを作って売れということらしい。
売ることが仕事になっていない私には、残念ながらピンとこない。

しかしながら、筆者がいうテレビCMが効果的な時代に、マス・マーケティングで 狙ってきたターゲット−アーリーマジョリティ(現実的な購買者)と レイトマジョリティ−(追随者)は、商品が溢れる今の時代は違うという。
アーリー・アドプター(先駆者)を納得させるほうがはるかに重要というわけだ。
一方的なテレビCMは、宣伝費を浪費するばかりというわけである。
これは、おおいに納得できる話なのだ。

この本には、アーリー・アドプター(先駆者)を納得させるため、「紫の牛」度を飛躍的に アップする戦略がいくつも披露されている。
チャプタごとの見出し自体がすでに、戦略のフレーズになっている。
さらにチャプタの終わりに、金言がちりばめられているのだ。

この金言を積み重ねて実行するだけでも、売上アップに効果があがるような気がしてくる。
まあそれとは関係ないフレーズに納得させられたものがある。
それは、「常識破りな発想は、どこから生まれるのだろう?たいてい情熱を持って 自分のために何かをつくっている人から生まれる」なのだが、いかがだろう。

集中的に、マーケティングの本を読んできたが、物を売るには、綿密な市場調査をして、 一方的なCMを流してもだめということだ。
常識破りな「紫の牛」を作り、顧客層を区別し、ターゲットとするアーリー・アドプター(先駆者) という顧客にねらいを定めること。
そして、許しを得た顧客を商品開発に引き込み、決して離さないことのようである。



ハリー・ベックウィス 著
『インビジブル・マーケティング』

(訳者)阪本啓一
知人に教えてもらった「マーケティング」の本の2冊目である。
読み終えて思ったことが2つある。
ひとつは、人間の行動を洞察したうえで書かれたものだということ。
もうひとつは、溢れかえった商品に人間の選択眼が限界にきているということ。
そして、それなりに満足した人間の消費欲は「テレビのCM」では簡単に 刺激され新商品を求めないということのようだ。

自由化という波でやむにやまれず、「市場調査」という言葉に手を染め始めざるを得ない業界。
そんな業界にとって、「リサーチとその限界」「マーケティングのウソ」「顧客満足とは何か」 なんて見出しをみると内心ほんと穏やかではない。
独占という座に胡座をかいて、その言葉が忘れられないと市場は厳しいのだ。

筆者はそんな市場調査が初めて気になっている企業やいままでのやり方の見直しを 考え始めた経営者に4つのキーワードを示しアドバイスしてくれる。
「マーケティング」にまったく素人の私でも、非常にわかりやすく解説してくれるのだ。
といって、これを読んだからといってすぐに大家になれるわけではない。

それでも、十分にヒントをいただけた。
いままで「マーケティング」という言葉に無縁だった私にとって、過去の「リサーチ」 「マーケティング」「顧客満足」の洞察に関しては、軽く読み飛ばすことにした。
やはり気なったのは目に見えないマーケティングとしての「ブランド」と「関係性」である。

特に気になった「ブランド」。
これには3つの特質があるという、「方向性」「広がり」「奥行」
さてさて、わが社のブランドにどんな特質があるのだろうかいな。

終わりになったが、この本が読みやすく理解しやすい点について触れておきたい。
                                                                                                                                         
それは、小見出しごとに最後に箴言・金言が短いフレーズで載せられていることだ。
もう一度、本を読み返し、小見出し単位のエキスを知りたいときに、すべてを 読まなくても、この箴言で十分理解できるのである。



重松清著
『明日があるさ』


エッセイは大好きである。
でも、最近好きな作家のエッセイ本がでない。
吉村昭・佐藤愛子・土屋賢治の作品なのだが。

本屋をうろうろ探してやっと見つけたのがこの本である。
過去「定年ゴジラ」というのを読んだことがある。
ということで、まあ読んでみようかと買って見たのだ。

読んでも何だか面白くない。
なぜだろうなぜだろうと思いつつ何編か読んだ。
途中エッセイって何だろうと考えさせられた。

エッセイにもいろいろあるが、生きてきた世代が違うと、話題も違うのでどうもぴんとこないのだ。
加えて言うなら、世相批評的なものは私にはどうもあわないようだ。
というわけで、なんだかんだと言っているが、百編のエッセイが収録されているうち、 自分に合ったのは6編ほどであった。

それは「のび太が手にした『道具』」「21世紀少年の『未来』」
「不幸せとの付き合い方」「歳をとるのも捨てたものじゃない」
「田村章と岡田幸四郎」「ぼくは昔『ポン』と呼ばれていた」である。

私がエッセイ好きなのは、一編一編のエッセイからちょっとした 生きるヒントがもらえるからかもしれない。
そういった意味から、この6つのエッセイからいただいたヒントのキーワードを書き出してみると。
21世紀というか「夢」、家族は幸せな人間関係?、歳をとる、おじいさん、父親と母親の愛になったのだ。

その中でも特に気に入ったエッセイは、「歳をとるのも捨てたものじゃない」である。
この中にある「伝説」というキーワードなのだ。
どのくらい年数が経てば「伝説」と言われるようになるのかわからないが、 できれば「生まれてくる孫に伝説のオジイチャン」と言われてみたいものである。



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