セス・ゴーディン(YAHOO!副社長)著
『パーミッションマーケティング』


仕事に関する本は最近とんと読んだことがない。
別会社に出向し、先が見えてしまって、仕事上必要性を感じるものがなくなっていたからだ。
まあ率直に言えば、怠け者ということになる。

そんな私ではあったが、ひょんなことから「マーケティング」という言葉に興味を持ち始めた。
と言って、全く基礎知識のない私にとって、山ほどあるマーケティング本の中から何冊か選び出すことは 至難のわざである。
そこで、仕事上付き合いのある人にアドバイスをいただき、アマゾンで「ユーズド」品を求めたのだ。

YAHOO副社長が著したもので、わたしが知識として得たい内容がぴったりマッチした。
インターネットを利用した新しい「マーケティング」本である。
ただ、発刊日からすでに6年経過しているということでどうなのかと心配したが、 書かれている内容は、まだまだインターネットの時代だから全く問題なかった。

いままでのテレビ主体のマス・マーケティング(土足マーケティング「インターラプション (じゃまする)マーケティング」)のように一方的なマーケティングとは、まったく違うようだ。
読み進めながらわかったことは、メル友作りによく似ているということだった。
ここで、パーミッションマーケティングの3つの特徴を書いておこう。

@期待される−ひとはあなたからのメッセージを楽しみに待ってくれる。
Aパーソナルである−メッセージはダイレクトに個人に届けられる。
B適切である−パーミッションマーケティングは生活者が興味を示したものにメッセージを送る。

いかがだろう「メル友」作りにそっくりである。
このマーケティング手法は、インターネットでのインターラクティブ情報交換で、 できるようになったのだ。
この「パーミッションマーケティング」において、見込み客になってもらうための5つのステップ というのがあるのだが、やはりお客に手をあげてもらうためには、「インセンティブ」を提供する、 お客さまに自社製品・サービスの教育をする、 対話の中で一人一人の要望を取り入れる、そして利益につなげるアクション をということになるのだ。
お客さまと友だち付き合いをする感じなのである。

この話とは別に気になる内容があった。
それは、インターネットを利用した「ウェブ・マーケティングにありがちな迷信」というのである。
なぜか、ホームページのアクセス数が絶対のように言われるウェブの世界で気になる情報だからなのだ。

12項目も書かれている、書き出してみよう。
@トラフィックがウェブサイトの効果を測るベストな方法である。Aコンテンツが良ければ、 顧客は何度も来てくれる。
B最新技術を使えば売れるようになる。Cサーチエンジンがサイト交通量のカギ

D他社より優位に立つにはJavaやショックウェーブなどの最新技術を駆使する必要あり
EウェブはテレビのようなものだFウェブ活用人口は多い
Gいま実験しないと失敗するH完璧なサイトにすべきである
Iインターネットは匿名が望ましいJバナー広告で稼げ

K常に更新しているべき

このあたりが気になる方や、インターネットを使ってWebマーケティングをと考えている 方は必読の書であるが、最も世の中スピード時代、もうかなり古いノウハウ本なのかもしれないのだが・・・。



林寧彦著
『週末陶芸家になろう!』


陶芸教室に通って4年目である。
技術的な進歩に少し悩んでいる。
というのは、電動ろくろをやってみたいが、マンションではどうかなあと・・・・・。

そこで、ジオシティーズの「ホビー・陶芸」にホームページを登録している仲間から、 情報はもらえないかと探してみた。
なんとマンションに電動ロクロを入れ、外に物置を置き、窯まで設置している方が いらっしゃったのだ、それも女性の方なのである。
もちろん初めての方なのだが、図々しくもメールを送信したら、 いろいろとアドバイスもしてくれて、この本まで紹介してくださったのである。

早速、アマゾンで本を検索し買い求めた。
もちろん中古本なのだ。
4日に注文し、翌日の5日には到着。
その日に読み始める
まずは、この本の「はじめに」を読んで、「やってみる」勇気を与えられる。
それはこんなフレーズである。
「なにかを始めるとき、できない理由は山のようにあるものだ。できる理由はただひとつ 『それでもやりたいから』」なのだ。

本題をへ入っていくといきなり驚かされる。
なぜか、それは150kg?もする窯がマンションに搬入されていくからなのだ。
マンションの中に「窯」ウソ!!ホントなのである。

ずっと読み進めると、作者は4年間陶芸教室に通い、転勤・単身赴任を機会にマンション 工房を始められた方のようだ。
なんと行動的な方か、この本の中には、自分で窯を持って 自分で釉薬を作って、陶器に自分で自由に絵を描いて、焼いてみたい人にとっては、いろいろな ノウハウが満載である。
その一方で、自分は陶芸をするに当たって、何に凝ってみたいのか、 色、形、それとも・・・自分のイメージができあがっていないと、 かなり相当苦しい道のりであることをアドバイスしてくれるのだ。

さて、窯のことはまだ先の話として、 私にとっては電動ろくろ選びのことが書かれていないことが残念だった。
でも、いろいろ参考になることがあり、特に3つほど早速やってみたいと思った。
まずは、成形の基本技術を繰り返してマスターすること。

2つめは、白化粧土を塗布して、素焼きし、そのキャンパスに絵を描いてみること。
そして、3つめは模様を残してまわりの化粧を落として素地を出す「かき落とし」を やってみること。
その他にも、「象嵌」「ノート付け」「文様」「白化粧土に蚊帳の布目」等々・・・。

おわりになってわかったことがある。
題名は「週末陶芸家になろう」だが、たゆまない陶芸のための下準備の継続 が下地にある。
決して、筆者は週末陶芸家ではない、ただ単に陶芸で金儲けをしない完全なプロの陶芸家 なのだと確信した。



西田小夜子著
『定年夫はなぜこんなに「じゃま」なのか?』


ゴールデンウィークに挟まれた二日間、定年の助走運転ということで休みを取った。
10日間の休みである。
その休みの二日目に、岡山の書店で買い求めたのがこの本だった。

夫というものは妻から見れば、ほんとにジャマなのだとつくづく思った。
単身赴任を10年も続けていれば、朝の起きかたからして違うのだ。
私の早起きは、妻からすれば、急かせれているようなのだ。
「ゆったり」していないというわけだ。

なんていういつも日曜日の助走体験をしながら、この本の重みを感じている。
やはりほとんどいなかった夫がそばにいるわけだから、面倒だと思う。
わたしは「みのむし」ではないが、いろいろ気になることがたくさん出ている。

この本の構成は、ある夫婦の実話をもとに、小説という形で少し終りをハピーエンドに 脚色している。
だから、読んでいる気分は楽なのだ。
現実はこのような終り方でないようなのだ。
そしてその小説の後に、筆者の「検証」が入る。

この検証が実に鋭い。
定年後を、定年まで勤め上げたという自信をもってリタイヤした夫は、 ゴロゴロが当たり前だと思ってしまうようだ。
思うに、定年後の起床から始まる一日の生活について、喧嘩しながらでも十分に 話し合う必要性を大いに感じた。

定年おじさんも時代によって呼び名が変わっている。
粗大ごみに始まり、濡れ落ち葉、そしていつもごろごろの「みのむし」なのだ。
定年おじさんの80%が定年後何もすることがなく、妻を頼りにぶらぶら と家の中にいるかららしい。

年金に多少不安はあるものの、もうすぐ目出度く定年を迎える団塊世代。
その「みのむし」から抜け出すためのヒントがたくさん載っている。
わたしに参考になるものをちょっとピックアップしてみよう。

「男は最低限、食べることと、洗濯機の使い方、ガスのつけ方、お風呂の沸かし方、 それに買い物など、身の回りのことができたほうがいいと思う」
「友だちがいないなら、1人遊びの楽しさ、ぜいたくさを身につけてほしい」

終りに「みのむし」男・予備軍には耳が痛い話を書いておこう。
「一日中、何もしないで暮らせる男の不思議」「妻を束縛する夫の言葉3点セット『どこに 行く』『何時に帰る』『おれのめしはどうなる』」
「男は、やりたくない、できない、忙しいという理由をつけて家事をやらない」
「夫は、どうしてこうもじゃまなんだろう」



日野原重明著
『死とどう生きたか』


なぜ買ったのだろうか?
死を生きる、臨終に立ち会う。
私は、祖父と父と母の臨終と臨終らしきものに立ち会った。

祖父の場合、脳卒中で倒れ病院に、しばらくして我が家に運ばれてきた。
リハビリなんてない時代だから、寝たきり状態になり、母が面倒を看た。
子供ながらに、祖父が息をしてないのではないかといつも障子の向こう側が気になった。

いつ死んだのか覚えていないが、隣が父の会社の診療所だったので、その先生に死亡の確認をしてもらった ように思う。
死に際し、祖父は何も言わなかった。
というより、何も聞こうとしなかったといことになるだろうか。
膝を立てたまま死んだので、「押さえて」と言われ祖父の膝を押さえていたが、 硬直状態だったのでどうにもならなかった。
父の場合、大学病院に入院し、交代で泊り込んで看病をしていたのだが、 たまたま私の時に、寝息をかかなくなった父に気づき、知らぬ間の臨終だった。
父も何も言わなかった。
目が微笑んでいるのが印象的だった。

母の場合は、8年という長い姉の自宅介護の後、病院で臨終を迎えた。
兄姉弟とその連れ合いが見守る中、潮が引くような母の死だった。
母も何も言わなかった。
私が体験した、臨終では、母が一番幸せではなかったろうか。

この本は、そんな自分の周辺にあった臨終のことを思い出させてくれた。
もういつ起こってもおかしくない年になった。
死に場所、どんな病で、自分の葬儀、死に方、死までの生き方を考えさせてくれた。

この本を読んだとき、一番に思ったことは、なぜ仏教は、臨死への 立会いがないのだろうかということだ。
死んだ後の通夜はあるのだが・・・ここがわからない。
死ぬときは一人でかってにいけということなのか、それとも此岸から彼岸へは 魂は連続していて、ただ肉体がなくなるということだからなのか。
自宅で多くの死を迎えていた時代は、家族で臨終に立ち会うのはごく自然だった。
いまそれがないから、死への荘厳さがなくなり、他人事になってしまった。

この本に出てくる有名人も無名人も死の病は全く違う。
死の病も選べないし、死に方も選べない、一方で先生の配慮から自宅で死を迎えた人が 紹介されている。
自宅での死を迎えた、この本での主人公たちのなんと幸せなことか・・・・。
そういう自分は自宅で死にたいのかもしれない。

この本の主人公で、私が一番印象に残ったのは、「死を受容した16歳の少女」の話だ。
日野原先生にとって、最初の臨終への立会いだ。
その少女が、最後に話した言葉をここに書いておきたい。
「先生、お母さんに心配かけつづけで、申し訳なく思っていますので、先生からお母さんに、よろしく お伝えください」



中山庸子著
『小さな工夫でゆったり暮らす』


今週の本は、仕事を持つ主婦が家事の工夫について、書いた本である。
なぜ買ったのか、わたしは「ちょっとした工夫」という言葉が好きなのだ。
加えて、「ゆったり」この言葉もである。

どこを見てもみんな忙しそうである。
信号に向って走る、エレベーターに向って走る、電車に・バスに向って走る。
フロアーを走る、道路を走る、みんなほんとに忙しいのだ。

最初のチャプタにある「忙しくてもゆったりと過ごす方法」なんてのを 見ると早く読みたくてワクワクしてしまう。
コンテンツには、家事の実務経験から考えられたいろいろなハウツウがある。
家事=仕事と置き換えれば、仕事にも生かせるいくつものアイデアが満載ということにもなるのだ。

だからと言って、仕事に生かしたいと、私は思っているわけではない。
実は、趣味の時間をできるだけ多く取りたくて、単身者の家事に工夫ができないかと 考えているわけなのだ。
ところが、読み進めると意外なアイデアというか「いいフレーズ」に出会う。

そのフレーズが、セカンドライフに生かせるものや、趣味に対する考え方が 織り込まれているものまである。
66のハウツー、家事という単調な作業の繰り返しの中を「創意工夫」という ポジティブなポイントに絞って、より楽しくできないかの一点なのだ。
だがしかし、その結果が仕事へ趣味への工夫という派生効果までもたらしているわけだ。

男には、なかなか考えられないことのような気がする。
仕事に、母親業に妻業?に。
三役をこなしているのだから、完全に脱帽である。

私はかつて、この本のフレーズ「ある時の私はたった5分も待てないほどのかなりのせっかちです。 また、ある時の私は1メートル先にあるものを取りにいけないほどのものぐさです」にあるように、
仕事を終え家に帰ると、コタツの人、テレビの人、食後の牛、状態であった。
無趣味だった私も最近では、家事を手伝い、好きでたまらない趣味までできてしまった。
それは、単身赴任を経験し、やむにやまれず 家事をするようになったからではなかろうかと思うのだ。

ここで、いつものように楽しく生きるヒントをいただいたフレーズを書き出してみよう。
「好きなことなら続けられる」「楽しんでやりたいことにはたっぷり時間をかける」
「家事の中から趣味を見つけ、特技に高める」「手作りに大切なのはオリジナル・シンプル・ ユースフル」

家事がマンネリ化し、退屈になってきている人、家事に時間を取られ自分の趣味に時間が取れない人。
そんな人だけでなく、人のことばかり気になる人、だけでなく「気持ち」「住まい」「お金」「暮らし」 「健康管理・家族関係」のキーワードが気になっている人。
男女に関係なく、いろいろいいアイデアがふんだんにあるから、とにかく一読をお薦めしたい。



新田次郎著
『孤高の人(下)』


冬山単独行の記録を樹立し無事帰還した文太郎。
そんな文太郎には、新聞記者の取材が待っていた。
下巻は、人に騒がれるのが好きでない主人公の取材に戸惑うシーンから始まる。

巻頭には、上巻同様に文太郎が踏破したコースの山々が記された地図がある。
それは「八ケ岳」「雲ノ平・槍・穂高」
いずれの山も冬の山行となれば、その厳しさは相当なものであろう。

下巻は、文太郎が考えたディーゼル機関のアイデア図面から、新しい組織が作られたり、 独身の彼に起こる結婚をキーワードにした騒動、そして結婚。
単独行を貫いていた文太郎が友の願いに応え、無謀な計画と知りつつ初めてパーティを組む。
結婚し子供も生まれ、その年末年始にかけて厳しい冬山−北鎌尾根に向かい、遭難死への 最終シーンとなる。

読み終えて思うことはやはり「なぜそんなにしてまで山に登るのか」
そんなことを思ってしまう。
当然のことながら、「なぜ山に登るのか」は、筆者のテーマでもあるのだ。

遭難死という不幸な結末が分かっている。
だから、無謀なパーティに誘う登山仲間に対して、文太郎が思案する複雑な心境を描く 後半部分に思わず力が入ってしまった。
わたしは心の中で「やめろ、やめたほうがいい」と思わず叫び、「なぜそんなにしてまで 山へ登るのか」そんな質問を主人公に発してしまったのだ。

と言って、歴史の事実は変わるものではない。
冬山には何物にも変えがたい素晴らしさがある。
その素晴らしさゆえに魔物が多く棲んでいるようだ。



新田次郎著
『孤高の人(上)』


新田次郎作品の4冊目である。上下巻ある。
3冊目を読んで、また筆者の作品が読みたくなったのだ。
探した、あった、さらに長編である、なぜかワクワクした。

一番好きな吉村作品は、歴史の裏舞台で江戸から明治にかけて活躍した歴史上の人物を取り上げている。
新田次郎の場合、山を舞台に、華々しさはないがひたむきに行動・功績をあげた 歴史上の人物を取り上げており、吉村作品の歴史小説に影響を与えた小説家ではなかろうかと思ってしまう。
それは「槍ケ岳開山」の修業僧播隆であったり、「芙蓉の人」の野中千代子にはいずれも 華々しさはなく、今回の寡黙でひたくきな主人公加藤文太郎も同じである。

文庫本の最初のページには、彼が踏破した山々の地図があるが、 その平坦な地図では短時間で長距離を縦走したかれの功績はすぐにはイメージできない。
小説の始まりは、前作品同様、序章で主人公の活躍したメインのシーンがまず紹介される。
その中で、「縦走全行程およそ百キロメートルを17時間で踏破した」とある。
単純に計算すると1時間で6km、平坦部でもかなりの速歩でないとむつかしく、1時間でこの距離だと体力凡人 にとってはかなり汗だくである。
高低差のある山々の縦走、頂上での適度な休憩を取りながらなのだから、 それだけでも超人的であることが分かるのだ。

上巻は、密かにエベレスト登山の夢を抱き、貯金と単独行に拘りながら、孤独と闘い続ける文太郎の 単独行完成で終わる。
山ばかり拘っている変人であるように見えて、技師立木勲平の言葉に触発され、学歴コンプレックス を持ちながら、ディーゼルエンジンの改良アイデアにも取り組み、 さらにほのぼのとした初恋と伴侶との出会いが描かれているのだ。

場景色は、研修場所、寮、造船所の設計職場、下宿先を除けばやまやま山である。
どの山景色がいいかなんて多すぎてとても言えない、いかんせん貧困頭では鋭い描写であっても その景色がイメージできないのだ。
気に入った描写があれば、書き留めておき、実体験する以外にないと思われる。

もうひとつこの山景色に映し出される違う景色がある。
それは朴訥で寡黙で不可解な微笑みが冷笑ととられてしまう主人公の心象、心模様である。
著者が朴訥で寡黙なのかどうかは知らないが、主人公の口に出して言えない 言葉を活字にして引き出している多くの部分に、同じ山を愛するものとしての 心のうちを過去の経験から導き出しているように見える。

この小説は、筆者のテーマである、「なぜ山へ行くのか」という問いかけが、 あちこちちりばめられており、山好きでない私は「なぜこんなにしてまで 登るのか」そんな愚問を発してしまう。
そんなこととは関係なく、この小説から3つ学んだことがある。
それは、「ひたむきさはかならず報われる」「好きなことは続けられる」 「アイデアは思わぬところから浮かぶ」なのだ。

そして、考えさせられたことが二つある。
ひとつは、山に登りたい一心で、職場と下宿先からの通勤は、 ナッパ服とズック靴と石に入ったルックザック姿ということなのだ。
多くの人は、人の目を気にしながら生活している、特に服装や形にこだわるのだが、 主人公には、やりたいことに向ってなんの迷いもないことだ。

もうひとつは「孤独」の二文字である。
私自身、単身赴任10年目を迎えているが、冬期には、過去に何度となく「寂寥感」を味わって きた。
そのたびに人の暖かさを求めようと同僚に「飲みの声」をかけ、断られると、さらなる 「孤独感?」を味わったものだ。
その点、主人公の孤独との闘いは、幻視、幻影を見ながら、死をも意識しながらであるから、 私のような生ぬるい「浅い・薄ぺっらな孤独感」ではなく、おおいに頭が下がる思いだ。

最後まで、目が離せない読み応えのある感動作品だった。



新田次郎著
『槍ヶ岳開山』


新田次郎作品の3冊目である。
後段にある「取材ノートより」にこんな一文−数年前の夏のこと、槍ケ岳登山中の十人の若い人に槍ケ岳 に初登頂したのは誰かと聞いたら、三人はウェストンと答え、あとの七人は知らないと答えた−がある
もちろんわたしは、ウェストンも知らないし、この小説の主人公「播隆」も知らない。

この小説は、妻殺しの呵責に苦しむ修業僧「播隆」が、笠ケ岳再興、槍ケ岳開山に成功した伝記小説なのだ。
いきなり序章で、その槍ケ岳初登頂に成功し、頂上に「仏像の入った厨子」を置くと、御来迎が 現れるというシーンから入る。
「御来迎」とは、科学的には「ブロッケン現象」と言われているのだが、主人公はその虹の環の中に如来を 見、その顔に亡き妻おはまの顔を思い出したのである。

この小説から、主人公を通して3つの主張が聞こえてくる。
まずは、笠ケ岳再興、槍ケ岳初登頂成功まで、「なぜ人は山に登るのか」を追い求めている。
また、主人公のたどった軌跡− 岩松から出家して岩仏に、さらに改名して播隆に、罪の償いに厳しい修業を続けながら、笠ケ岳再興、槍ケ岳開山 −から、仏縁のあった4人の住職の生き方と対比しながら人生について語ろうとしている。
そして、筆者自身の実体験を織り交ぜながら、自然の素晴らしさ・厳しさを描写 しようとしているのだ。

山の素晴らしさを知っている人、笠ケ岳、槍ケ岳を登ったことのある人は、その見事な描写に 思わず読み込んでしまうのだろう。
山登りをしない私には、その点で感受性に弱さを感じるが、日ごろの散歩から貰える鳥や草花や小さな生き物に いろいろな音・色を照らしあわせながら、置き換え作業をして読んでみたのだ。
そこに筆者の自然に対する敬愛と慈愛を感じるのである。

私は、この小説から1つの宗教観、1つの生き方についても考えさせてもらった。
それは、人は死を迎えるにあたりだれもが何かに、誰かに、救いを求めようとすることだ。
極楽浄土へ往くには、浄土宗でいう、「南無阿弥陀仏」の六字の名号を唱えることだけではいけない。
筆者が播隆を通じて言わせる言葉は、「死ぬまで一心不乱に生きる」あるいは「生ききる」 ということのようである。

そして、「僧は修行によって身につける以外に道はないのだ。修行とは実践することだ。 名号を唱えながら自ら歩き自ら瞑想に耽ることだ」。
このフレーズは、どの仕事についても同じなのだが、ひとつの生き方を示唆したものなのだ。

終わりにちょっと面白いというか、このまま知らないほうがいいのかよく分からないが、 「御来迎」現象について書いておこう。
当時逃亡中の蘭学医学者高野長英を登場させて、その謎解きをさせているのだ。
時代の状況からして当然会うことない二人である。
播隆の凍傷の治療者としてそのシーンを設定しているのだ。
気象庁に勤務していた筆者としての心憎い演出である。



新田次郎著
『芙蓉の人』


読みたい本がなかなか見つからない時、いつも吉村作品を探す。
多くの書店の多くの文庫を探したが、読んだ物ばかりだった。
そこで、思い出したのが、すでに読んだ新田次郎の「アラスカ物語」である。

なぜ思い出したのか、それは史実に基づき、自然を相手にした人間の壮大なドラマを見させてもらったからだ。
ということで、「新田次郎」作品を書店で探索した。
「芙蓉の人」「槍ケ岳開山」を買ってみた。

まずは「芙蓉の人」、久しぶりに、のめり込むように、一気に読めた。
今の時代であれば、「よりによって冬期の富士山などに登って気象観測などする必要が あろうに」となるだろう。
明治という時代は、国威発揚のため、多くの男子が志を立て実行に移していたのだ。

しかし、この小説は、少し視点が違う。
気象観測において、「山内一豊の妻」ではないが、並々ならぬ内助の功をたてた、妻「野中千代子」 を主人公にしているのである。
あとがきにあるように筆者自身、すぐにはこの話を小説にしたわけではない。
いろいろな刺激を受けながらも機が熟すのを待っていたようである。
そして、落合直文著「高嶺の雪」と主人公の残した「芙蓉日記」と、富士観測所勤務経験をベースに、 女性の視点から描かれた作品なのだ。

夫の師−フランス帰りの和田雄治の女性蔑視の考え方とのぶつかり合い、 主人公の母・義母という江戸・明治の女と新しい女性の考え方を持つ千代子との ぶつかり合い、叔父(義父)、父、義弟の意外な協力者。
明治という男の時代に職業に関して、周辺の人とのやり取りを通して、女性蔑視に敢然と立ち向かう 主人公の力強さが描かれている。

野中観測所での場景は、筆者の富士観測所での実務経験が十分に生かされ、 死に直面しながらも、 極寒の富士山頂でひたすら気象観測の記録を取り続ける野中到と千代子の 姿が、誰でもイメージできる迫力のあるものとなっているのだ。

野中到の言葉「天気予報が当たらないのは、高層気象観測所がないからだ」から始まるこの小説。
今の時代にしても、天気予報はなかなか当たらない。
「気象衛星ひまわり」をしても、台風の進路はとらえても、予測はむつかしい。

いまでこそ、女性の気象予報士は沢山おられる。
男の世界に一歩踏み出した野中千代子という女性の心を燃やしたのはなんだったのか。
「夫の志を遂げさせ無駄死にをさせないためにも、夫の手助けをしたい」この一点なのだ。

この一点に向っての、女主人公の気力、行動力、意志の素晴らしさが見事に描かれ、 大いに感激させていただいた作品だった。



岡本浩一著
『上達の法則』


陶芸の趣味講座に通ってもう3年が過ぎた。
楽しさは変わらないのだが、果たしてうまくなっているのか、そこに不安がある。
そんな「不安」を抱える私にとって実にいいタイミングで見つかった本なのだ。

まず、目次がうまく整理されていることに気づく。
仕事でも趣味でも「上達する」ことの必要性を説き、次に 「認知心理学、学習心理学、記憶心理学などをベースに上達法を科学的に分析」して、 記憶との関わりを読み解く。
そして、上級者と中級者の違いをいろいろな一芸を引用しながら、 紐解いていくのだ。
ところどころに陶芸の話が出てくるので、余計身近に感じる。

次に本題になるのだが、方法論に入り、スランプ、特訓法と続く。
この本題は、小見出しがすでにキーワードとなっていて、大いに刺激を受ける。
ただ、この通りにやれば、すべてうまくいくかどうかは、 やはりその人にあった、はまったものかどうかなのだろうか。

へたな作品を沢山作ってきた。
できあがるまでの楽しさを味わい、自分作に自己満足しているのが、現在の私の状況だ。
そんなレベルの人に、大いにヒントになるキーワードがあるが、その前に気になったのは、 スランプかどうかということだった。

もっとも「スランプ」というのは、上級者にしかないものなのか?疑問。
どうも「上達の途中」でだれでもあるみたいだ。
具体的には、「努力しているのに、技能が上達しない」「努力すればするほど下手になっていると思える状態」 とあり、少し考えた。
さらに読み進めると「『飽きた』『疲れた』という心理状態」とあり、 作ること自体は、全く飽きてないし、疲れも全く感じていない。
ただ趣味以外のことで疲れ、作陶への意欲が薄れているのが現状なのだ。
少し安心した。

陶芸の先生の言葉を思い出しながら、 わたしなりに、この本からもらったヒントは、次の6つである。
「上級者のほうが細部へのこだわりがある」
「得意なものにこだわるメリット」「ひとつのものを深める」
「反復練習をする」「マラソン的な鍛錬をする」「独自の訓練方法を考える」

そして、「不安」を抱えるもう1人の自分に対しては、
「後退しなければ前進している」という呪文。
少し前が明るくなってきた。



瀬戸内寂聴著
『ひとりで生きられる』


「瀬戸内寂聴」で題名「ひとりで生きられる」これで買った。
この年には重い「愛」についての本だった。
もう少し店頭で開いて読んどけばよかった。

だから、買って2カ月ほど置いたままの状態だったのである。
寂聴さんが、50代に入り「得度」する前に発刊されたものである。
なぜか、最終章に般若心経の「色即是空空即是色」がでてくる。

いろいろな恋を経験し、男と別れ、また新しい恋を愛を経験してきた。
そのご本人の貴重な体験を踏まえ、 「10年にわたる歳月にいつのまにか書きためられていた私の愛についての想い」のエッセイなのだ。

各エッセイには、いろいろな女と男のドラマが引用されている。
それはご本人だったり、確たる男社会で活躍した女闘士であったり、他人の夫と逃避行した 女優であったり、未婚の母宣言をした女優であったり、小説の主人公であったりする。
当時は「処女」崇拝のようなものがあって処女膜再生が流行っていたり、 結婚はもちろん男有利な社会であったようだ。

恋や愛に関して真実をついた、チャプタにあるフレーズ。
それだけではない、各エッセイの最初にある真実をつく小見出しフレーズ。
チャプタにあるフレーズは、すでに書き出してあるので、小見出しフレーズをちょっと書き出してみよう。

「皮膚に確かめたもの以外は信じられない」「情事と恋人を別に考えるとき」
「願望に火をつけられた因果の女」「夫がベッドの中でもらした意外な告白」
「手を切ろうとして切れない夫の心の中」「未知を欲しがる期待の底には」・・・・

あげればきりがないが、フレーズが気になり始めた方は、是非一読に値する。
ただ、30年ぐらいも前の男女の世界だから、現在の男女の性意識、恋・愛意識は相当変わって きているだろう。
最近流行の「できちゃった婚」のように、結構男女ともお互いに性体験、恋愛経験を 積み重ねながら、お互いが選択しているようにも見えるが、 現実の離婚の大幅な増加は、「愛は不変」ではないということを、知らないところから生じている ようにも思えるのだ。

最終章に、般若心経が出てきて、その不変でない「恋・愛」の話が出てくる。
「『色即是空空即是色』およそ形ある物は、いつまでも永久にその形を保つものではなく、その 中味は常に流動している」
「『受想行識亦復如是』心の形、精神の働きの上でも、やはり常に流動する自由さを持っている」
要するに、筆者は 「色を恋情、情事と解さなくても、恋や愛が、精神のいきいきした働きの一現象であるかぎり、 やはり『色』の中にくりいれられていい筈である。すると、『愛や心』もまた、決して不変ではなく、 生命力のあるいきいきした愛や心ほど、常に流動し、自ら新陳代謝をして日に新たに変質していく のが本来の性質なのだ」といいたいのである。



吉村昭著
『高熱隧道』


大好きな吉村作品である。
人間は、何のために生きているのだろうか。
貧乏から脱出する金のための過酷なトンネル掘削、常に死と直面しながら、 「生きる」ことを考えさせてくれる作品だ。

自然との闘い。
使うもの使われるものの関係と常に「死」についての意識が違う壁。
ただひたすら、発電所のためのトンネルを掘る、掘り続けるのだ。

吉村作品の前作では、「闇を裂く道」というのを読んだ。
完工までに19年も要した丹那トンネルは水との闘いの話なのだが、この作品は、高熱地獄と の闘いという掘削条件が異なる分、「死への恐怖」も当然異なる。
その分、技師と人夫との暗黙のやりとりに何とも言えぬ迫力があるのだ。

加えて、このストーリーの中には、正体の分からないものへの「死への恐怖」があり、 そのことが見事に描かれている部分がある。
それは「泡雪崩」に遭い、5階建て宿舎の3階以上部分が完全に消滅して 84名が一瞬にして行方不明になったところである。
この爆風は、音速の3倍毎秒1000メートル以上の速さをもつという。

ほとんどの人がそんなことは聞いたこともないし、当然想像もつくものではないだろう。
描写では、「北東方向に吹きとばされた。爆風は、宿舎の二階から上部をきれいに 引き裂いて、比高78メートルの山を越え、宿舎地点から580メートルの距離にある奥鐘山の大岩壁に たたきつけている」ということなのだが・・・・。
いかがだろう。少しでも、イメージできただろうか。

この「泡雪崩」の発生はめったにない。
にもかかわらず、二度目の被害を受けることになるのだ。
また、同じように宿舎がやられるのだが、今度は爆風でブナの木がなぎ倒される。
そのなぎ倒された、ブナの木が宿舎に突き刺さり、火事で28名が焼死したのである。

このように数多くの災害を経験しながらも、主人公の技師たちの喜びは 「自然の力は、容赦なく多くの犠牲を強いる。 が、その力が大きければ大きいほど、かれの欲望もふくれ上り、貫通の歓喜も深い」とある。
にもかかわらず、「惨事」の連続で、高熱隧道(トンネル)貫通の感激もどこかに吹き飛んでいってしまう。

それは重苦しい最後の貫通現場のシーンにある。
人間と自然との闘いに金も絡んで「なぜそこまでして、何のために掘るのか」、 「泡雪崩」で84名の犠牲を出した時の県警察部長の「犠牲者をこれ以上 出すのは、もうやめなさい」と言われながら、戦時中の国の事業として続行可能となった。
国のためとは言え、「人の命の重さ」を忘れ、続行し完工したのだが、 貫通の歓喜を体験することなく、目に見えぬものに追われるように現場から立ち去る姿で見事に描写されているのだ。

「死生観」とか「なぜ生きる」ということに関心が出てきた人は、是非読んでもらいたい力作なのだ。


中西輝政著
『日本の「死」』


過激な題名である。
筆者はよくテレビに出る人だ。
書かれている内容は、日本の政治におけるリーダー像の展開である。

小泉首相の仕事ぶりを分析し、何が不足しているのか。
そして、どんな施策をすべきなのかを相当過激に提言しているのだ。
提言の後半に見えるもの、それは石原慎太郎首相待望論である。

「まえがき」からその過激さがわかる。
「日本は死ぬだろう。いやすでに死んでいると言ってよい。少なくとも、今や一点の疑問もなく死亡 宣告を出せるのは、何と言っても『日本外交の死』である」。
何かどこかで聞いたような台詞である。
田中真紀子元外相に「伏魔殿」と言わしめた外務省の痛烈な外交批判とそのお膳立てにのって動く 小泉首相がターゲットなのである。

日本の外交にいじいじとしたものを感じている人にとっては、ある意味小気味よさを感じるかもしれない。
ただこれは文庫本だから、どうしても過ぎた時間から温度差を感じてしまうのはいたしかたない。
また、石原慎太郎待望論も、昨年からくも信任を受けた小泉首相の続投が決まったことで、 70歳越えという年齢から可能性も極めて低くなった。
次のリーダーは自民党の安部幹事長代理らか民主党に変わるのかの方へ興味が移ってしまっている。

外務省改革は、あの「伏魔殿」事件や機密費問題や他の外務省汚職事件も絡んでいたため、 結局次の外相による改革実施がメディアを巻き込んでの大騒ぎというより、 汚職の当事者だけに背負わせてしまい、本来の改革にメディアの目が向かなかった。
確かに改革自体の宣言はしたのだろうが、 本質の問題にメスを入れることなく終わってしまったのではなかろうか。
世界の日本を目指す方向なら「残念」と言わざるを得ないのである。

いわゆる外交官とはなんなのか。
大使館、領事館での大使・領事などの役割は何なのかなのである。
よく旅をした人、さらに外国でトラブルにあった人は、わが国の外交官の対応振りはよくわかっているのではないか。
加えて、外交は日本の針路を決める最重要事項であり、スパイ防止法もないため、 わが国の情報は垂れ流し、加えて外交の方向性を決めるための 情報収集機関さえない日本の脆弱性を筆者は指摘するのだ。

それは、領土問題−竹島・釣魚島−では、何もしない日本の弱腰外交がよく取り上げられている。
天然資源問題がからみ、中国・韓国のごり押しの領有権主張。
これに対して、「ことを荒げたくない」「穏便に」済ませたい外務省の考えが見え隠れする、 そんなレベルまでは、素人の私たちでもわかるのだが。

世論は、まだ強行策を望んではいない。
国民が求めているのは、内閣支持率からすれば、小泉的「まあまあ穏やかに」の あいまいな外交でもいいように思える。
ただ、熱しやすく冷めやすい国民性がいつ過熱するかは、よくみえないのだが・・・。



赤瀬川原平著
『老人力』


7年前、単行本が出たとき買いたかった本である。
でも、気持ちの上ではまだ老人ではない、そう思う気持ちが勝ってしまっていたのだ。
年月がたち、予備軍から正規軍としての老人力が発揮できるようになってきた。

55歳、ためらわず文庫本に手が出て買うことができた。
物忘れ、繰り言、ため息等々いずれも合格のスタンプが押せる。
最初のチャプタ「おっしゃることはわかります」で、「老人力」という新しい発見をした、路上観察学会の 話が出てくるのだが、読みながらクスクス笑いながら、妻との同様の会話を 思い出したのだ。

この本には、一話ごとに、老人力というマイナスパワーの例示が沢山出てくる。
「名前を思い出せない」「用事を思い出せない」「日にちを思い出せない」「物忘れ」 「足どりをおぼつかなくさせる」「視力のソフトフォーカス」「物語の繰り返し」「あどっこいしょ」等々。
いずれも思い当たることばかりである。

でも、最近はいい言葉がでてきた。
「セカンドライフ」−第二の人生、何のことはない、現役を引退し、隠居・趣味の世界に入ることなのだが。
「老人力」の発揮できる世界がもっともらしい言葉で言われるようになったのだ、ありがたいことだ。

この本には、マイナスパワーの話も面白いのだが、セカンドライフを生きるうえで他にも二つのヒントがもらえた。
1つは、「路上観察学会」「ライカ同盟」という趣味クラブ結成である。
もう1つは、そのクラブから生み出される、面白写真、事件である。
そのクラブの中で大いに「老人力」を生かすことなのだ。

散歩しながら路上を観察し、ライカカメラで写真を撮るのだ。
もっとも問題はどんな趣味クラブを結成するかだ。
この2・3年でセカンドライフに、団塊世代が大挙して繰り出す。
我ら仲間たちは、どんな趣味クラブを作ろうとしているのだろうか、気になるところだが、 いまだ大きな「うねり」は起こっていない。

たぶん、思うに「老い」を認めたくない、同世代が余りにも多いからだろうか。
若さを誇りたい、誇るためには「外見にこだわる」そんな感じが強すぎるような気がする。
一番肝心な「こころに豊かさ」を持ち、効率とか、スピードとか、名誉欲とかを 捨てないと、この「老人力」を認知できないのかもしれない。

おわりになるが、あとがきに忘却の進化過程が書かれている。
「O沢さん」によると、なんて書かれてあるのだが、これは「小沢昭一氏」に間違いない。
「固有名詞」を忘れることから始まり、普通名詞、形容詞そして最後は動詞だというのである。
「O沢さんが若いときある長老に聞いた話」で締めくくられているのだが、 思わず吹き出してしまった。
これは「小沢昭一的こころ」の作り話だろうが、実にウイットに富んでいて面白い。



天外伺朗著
『宇宙の根っこにつながる生き方』


著者の「運命の法則」を読んで、この本を読む。
なにか神秘の世界に入ったような気がする。
なぜだろうか、見えないことを言葉で説明しようとするからだろうか。
哲学でいう「真理」を求めようとしているからだろうか。
読み進めると「あの世」「この世」の話が出てきて、仏教の世界そのもののようでもある。

本が発刊されたのは、この本が先である。
「運命の法則」の考え方の根本には、ここでいう個の宇宙との結びつきからきているようだ。
もう少し、くわしく書くならば、プロローグにあるように、 「物理学や脳生理学の学者が提唱した『ホログラフィー宇宙モデル(あの世「暗在系」)』と ユング心理学『集合的無意識』、それに東洋哲学の3つが根幹にある」ということらしい。

さらに加えるなら、このフレーズ「徹底したエゴの追求、そこから生じる競争と対立がいるところの社会の活力 になっていることは否定できない事実です。しかしよく考えれば、それは社会の活力と同時に、 全体の効率をものすごく下げる要因にもなっている。本来生かされるはずの個人の才能や個性が 低次元の競争と対立で活力を失ってしまっているからです」が「人を動かす」ための新しい考え方、 金や名誉を求めない考え方を生み出す原動力になっているようだ。

とかくこういった話をしだすと、神がかっていて胡散臭い、妖しい宗教の話のように思える。
でも、筆者はそういったことを表に出しながら、きれいに否定してそぎ落としている。
言うならば、真剣に「心の世界」ここでいう「あの世」について、電子工学技術者として解き明かそうとしてい るのだ。

チャプタごとに「魂」「宇宙のしくみ」「カルマ」「瞑想」「宇宙の愛」のキーワードがある。
どのキーワードも、現代生活では縁遠いものになってしまい、いかがわしいものにもなりかけている。
それでいて、だれしも人間なぜ生れてくるのか、死んだらどうなるのか、興味はある。
アボリジニ人たちのように、自然とともに生きる人間、物欲のない人間は、その宇宙を身近に 感じながら生死をともにしているから、惑いはない。
煩悩の多い、物欲の尽きない、文明に毒された現代人・凡人に筆者は、宇宙を身近に感じさせるべく、 「あの世」「この世」をモデルにしてわかりやすく描こうとしているようだ。

この本を読んで、興味を持ったことが三つある。
ひとつは「あの世この世の図」「瞑想の誘導法」「アボリジニと死」
特に「瞑想の誘導法」は、興味深い。

というのは、いつも時間に追われ生きている自分を時間から解放させたいのだ。
「瞑想状態に入ると、ホワーとした感じに包まれます。ゆったりとくつろいだ、何かに守られているような感じ といったらいいでしょうか」
宇宙の中の自分を感じたいのである。



天外伺朗著
『運命の法則』


この本を買ったのは、NHKラジオのニュース解説の時間で紹介され、ご本人が「燃える集団」 の話をしているのを聞いたのがきっかけである。
「運命の法則」運命に法則がある、それからして大いに興味が湧いてきたのだ。
ところが、いつも行く何個所かの書店にこの本はなかった。

やはり買いたい気持ちは治まらず、インターネット書店の「アマゾンドットコム」 で検索し注文した。
ついでに、妻も求めたい本「夫を粗大ゴミにしない銀の法則」(東海林にり子著)があり、 検索したのだ。
たまたま妻の本は「中古本」があり、それを求めた。

この中古本ウソみたいに安くて、きれいな本だった。
妻の本は翌日届き、私の本は翌々日届いた。
なんと便利なことか。

同じ法則つながりである。
「粗大ゴミ」とはいえ、なんか不思議を感じた。
「運命の法則」の15章の中には、31通りの法則を筆者は紹介している。

であらためて、法則とは何ぞやと辞書で引いてみた。
「法則とは、一定の条件のもとで必ず成立する事物相互の関係」とある。
むつかしい、この一定の条件を探し出すのが厄介なはずである。
にもかかわらず、31の法則があるという、とても凡人には考えられない。

技術者にとって、「法則」を見つけるのは、命題なのかもしれない。
凡人と言っても、この31の法則の中で、気になるものがいくつかあった。
「共時性の法則」「『燃える集団』の法則」「意識成長・進化の法則」「うぬぼれの法則」「内発的動機の法則」

過去それなりの人生を送ってきて、その体験を通じて「なるほどそういえば」というものなのだ。
でもたぶん今の歳だからわかる「運命の法則」のような気がする。
20代30代で読んでも、感想が書けないような気がする。

その点から言えば、サラリーマン生活も終わりに近づき、セカンドライフで の楽しみを見つけたいと願っている状態という、いいタイミングで買ったように思う。
一番気になったのは、「フローの法則」でこのフレーズである。
「人が喜びを感じるということを、ちゃんと内観的に調べていくと仕事、遊びにかかわらず、何かに 没頭している状態であることを、チクセントミハイは見つけだした。そしてその状態を『フロー』と名付けた」これなのだ。

さらにくわしく「フロー状態の特徴」を書き出してみよう。
@行為に集中、没頭しているA浮き浮きした高揚感B雑念がほとんどわかないC時間感覚の喪失
D自分自身の感覚を喪失しているEその場を支配している感覚。自分が有能である感覚
F周囲の環境との調和感、一体感、いかがだろう。
セカンドライフでは@からCになるような「陶芸」の世界に没頭できたらと思うのだが・・・・。

「〜法則」が気になる方は、必読の書であると思います。



瀬戸内寂聴
『場所』


だれにでも忘れられない「場所」がある。
昔、どのくらいの年月を言うのかわからないが、昔過ごした場所。
懐かしく訪ねてみると、遠い昔の自分が蘇ってくる。

子供の頃、過ごしていた場所に、久しぶりに行ったことがある。
神社の境内なのだが、その中で缶けりやかくれんぼうやソフトテニス、いろいろな遊びをしていたことが、一機に 思い出された。
でも、意外なほどエリアが狭いことに、気づかされた。

私にとって、その他に気になる場所は、幼児期を過ごした場所、小学校から高校まで過ごした場所、
妻との初デートの場所、妻との新婚当時過ごした場所・・・・、。
そろそろ時間空間を飛んでみたくなる年になってしまったようだ。

筆者にとっての想い出の場所。
父・母の故郷、よく遊んだ場所からみえる川や山。
夫と娘を捨てた駅、作家としての出発点となった場所、出家を成就させた坂。

人生のいろいろな転換点となった筆者の「場所」を訪ねる旅。
その過去を再構築する作業結果がこの小説になったのだ。
定年後のセカンドライフが軌道に乗って、続いて生かされるなら、是非やってみたいたびである。

まずは、家人との出会いの場所から、再構築するたびへ出たいものである。



津本陽
『弥陀の橋は(下)』


苦しんで読んだ上巻も、下巻になるとウソのように読みやすくなった。
でも、相変わらず親鸞自身が説教として語る言葉は、やさしく筆者が書いてくれているのだが、 意味を理解するのがむつかしい。
あーあ読んだという感じである。
それは、直弟子でさえ異説を唱え、親鸞が「その考えは、そうではない、 こうだよ」と諭す場面がたびたび登場することからもわかる。

だから、浄土真宗の信者?の端くれといっても、 お葬式仏教しか知らないから理解できるはずがないのだ。
凡夫には、やはり専修念仏の「南無阿弥陀仏」の六字の名号を唱えるだけで、 許してもらわないといけない。
「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」である。

下巻は、親鸞が家族ともども新しい地(笠間郡稲田郷)関東で、領主塩谷朝業に迎えられ、布教活動 を開始する「真実」のチャプタから始まる。
昔ながらの加持祈祷の呪法をおこなう弁円(べんねん)が上人の弟子になるまでが描かれ、 話としては非常にわかりやすく面白い。
ここでは、善人?にはわかりにくい「悪人往生」「悪人正機」の話が出てくる。

第二章「正信」では、日夜、説教、読書、執筆に励む親鸞の姿と二つの寓話 (腫れものに悩む病人を治し、女性の亡霊を往生させる)が載せられている。
一方で、権威をふりかざし現世の名刹を追いもとめようとする道場主たちの姿を 自分に移し変えながら、「真の専修念仏とは」を説く親鸞。
そして、承久の乱が起き、かつての念仏の弾圧者後鳥羽上皇が島流しにあうのだ。 そんな中で、ひたすら勉学の集大成として「教行信証」の草稿を書きすすめる親鸞である。

第三章「野のいばら」では、法義の研鑚のため家族ともども帰洛(京都)する親鸞と「歎異抄」を表した「唯円」の話。
第四章「歎異抄」では、十八条からなる「歎異抄」の解説と筆者唯円の挿話。
第五章「洛中の隠棲」では、だれの庇護も得ず、関東の弟子からの仕送りだけで苦しい生活を続け、 恵信尼とも離れ離れとなって京都に隠棲する親鸞が描かれている。

第六章「うほに与ふべし」では、「正像末和讃」の著書と親鸞往生とそれを知った恵信尼の返信文などが 現代文に解釈されて載せられているのだ。
そして、最終章「口伝鈔」では、親鸞の孫の代となり、覚如が表した「親鸞伝絵」ことなどが書かれている。
最後まで読んで率直な観想は、この人は決して奢ることなく日々研鑚し続け、そして日々反省しながら 常に自分に厳しく問い続ける姿勢で 生き続けた常人ではなしえ得ない人生を送ってきた偉人なのである。
改めてその偉大さに尊敬の念を払わざる終えないのだ。

そして、命の不思議を感じるのは、親鸞も含め彼の周辺に生きた人たちの当時では考えられない寿命の長さである。
親鸞90歳、性信89歳、明教房順智101歳なのだ。
さらに、筆者も言う「 老眼鏡のない時代に、最晩年に至るまでおびただしい著述をつづけられたことも 、ふしぎでならない」ほんとうに仏の加護としか思えない不思議である。「南無阿弥陀仏」。



津本陽
『弥陀の橋は(上)』


あまりにも漢字と古文に悩まされ、さらに宗教語に悪戦苦闘して一度投げ出してしまった。
今年になって、最近、自分が読む本の傾向からして、これは外せないと思い、再度読みきることにしたのである。
でも読む意欲とは裏腹に相変わらず、悪戦苦闘している。

まず始めに、帯にあるこの言葉が気になった。
「凡夫」である。
辞書によれば−、仏教の真理に目ざめることなく、欲望や執着などの煩悩(ぼんのう)に支配 されて生きている人間−とある。
親鸞自身が己のことを凡夫と言っているのだが、じゃあまったくの平平凡人である私たちはどうなの。

それは、この本を読み進めるとわかってくる。
膨大な教養を蓄積続けた親鸞は、常にわれわれ平平凡人を救うため、自分自身を謙って身心ともにわれわれと 同じ立場をとったのである。
平平凡人の民を救い、浄土に導くためには、僧侶としてどうあるべきか、この一点なのである。

このストーリーは、範宴、後の親鸞が不断念仏衆として9歳から二十年間を過ごしてきた堂僧として、 新しい一歩を踏み出すため、吉水にある法然房源空の庵室を訪ねるところから始まる。
と言っても、最初のチャプタ「六角堂」には、法然とのご対面はない。
将来の伴侶としての「筑前」のちの恵信尼との出会いに始まり、女犯の欲望が払いきれない自分が「六角堂」に 百日間参籠して告勅を得るところまでが書かれているのだ。

当時の男たちの女犯の夢想は、どんなんだったろうかと、余談ごとを考えてしまう。
いまでこそ女体の裸はごく普通に見られるから、必然女好きの私を含めた 男どもが見る夢も、想像しないでもわかる。
それはどうでもいいとして、範宴は、ここで聖徳太子からのお告げ
(わが三尊は塵沙の界を化す
日域は大乗の相応の地なり
諦に聴け、諦に聴け、我が教令を
汝が命根に応に十余歳なるべし
命終わりてすみやかに清浄土に入らん
善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩を)

を得て、さらに百日参籠で救世観音から女犯 もよろしいとのお墨付きの告勅
(行者宿報にてたとい女犯すとも
われ玉女の 身となりて犯せられん
一生の間よく荘厳して
臨終に引導して極楽に生ぜしめん)
を得るのである。

うらやましいというか、信心の賜物なのだ。
観音さんが女犯の相手をしてくれ、死ぬとき極楽に連れて行ってあげようということなのだ。
末法の世である現代、人々の宗教心は薄れ、仮にこの時代に「親鸞」が出て、お告げが あったと言ったところで「何をたわけた」ことをとなるだろう。

親鸞が生きた時代は、真剣に浄土へ行くためにはどうしたらいいかと 考えていた時代であり、身も心も研ぎ澄まされ、鍛錬されており、不思議ではない出来事 だったのかもしれない。
さらにこの本では、同じような感覚を持った南方熊楠や西丸震哉の著述もあると書かれている。
現代は1億人もいるのだから、このような感覚のするどい人は、一人や二人はいるのかもしれないが、 それ以上に怪しい「金をすべて布施せよ」ばかりの新興宗教がまかり通っているのも事実である。

つぎのチャプタ「吉水」では、師と仰ぐ法然と因縁の出会いがあり、妻帯と専修念仏に確信が 持てない範宴は、矢継ぎ早に質問をなげかけるのだ。
その問答は、確固たる信仰心を持たない私のような凡人でもわかるように書かれている。
そして次のチャプタ「本願に帰す」では浄土教が迫害を受け、後鳥羽上皇により法然も親鸞も流罪となる。

細木数子流に言えば「大殺界」に入った親鸞は、僧籍を剥奪されて、京都から離れて直江津に流罪となり、 親鸞と恵信尼の新しい生活が始まる「非僧非俗」では、ひたすら教養を積む親鸞が描かれている。
こういった親鸞の姿をみると、人間誰しも好不調の波があり、不調のときの対応の処し方のお手本の ように思える部分である。
ようはジタバタしないで、次に向けてひたすら充電することが大切なのである。

やがて、ご赦免を受けた親鸞、救いを求める凡人たちのために、自分のなすべきことを着実に実行していく 「越路の風」では法然の師を知り、残された京都の弟子たちの対応の仕方を見極め、
法然の教えに従い群れることなく、その組織に属することもなく越後での地道な布教活動を続ける親鸞、

「関東へ」では、招請により関東に向け旅に出る親鸞・恵信尼とその子ら一行、
各地で親鸞の助けを求める話がちりばめられている、向こう岸にいる老婆の紙に六字名号を筆で書く話、 大蛇を鎮める話、飢饉で死んだ人たちを浄土三部経で弔い、大鬼や餓鬼を救う話、そして上巻の最終章 「光輪」へと続くのだ。

頭の中は、浄土教の教えで「南無阿弥陀仏」の念仏で一杯になった。
一応浄土真宗派に属する凡人で不信心な私は、思い出す都度、この念仏を唱えることにした。
「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」


不信心な私には、蓮如の「白骨の御文」や「般若心経」も気になり始め、いい読み感が得られたようだ。
救世観音様や聖徳太子さんがいいお告げをくれるわけではないが、欲望や執着などの煩悩(ぼんのう)に支配 され、いまだ性欲に悩まされるわれも、「南無阿弥陀仏」により極楽へ行けるようになりたいものである。



松永伍一
『金の人生、銀の人生』


老いを生きる考え方のアドバイスがちりばめられている。
やはり「銀の人生」でいいと言う言葉、なんともこころにしみるのだ。
加えて人生は「ちょっとした工夫」で楽しくなるということをおおいに教えられる。

ということで、まえがきにある「銀の人生」3つの功徳、忘れないようにしたい。
@肩肘を張らなくてすむので、長続きできる。
Aしっとりと充足した気質になるので、まわりの人から大事にされる。
@年輪を重ねることに、人間としていい味が出せるようになる。
さらに心強いのは、「ここが肝心な点だが、「銀」=「地味」、ではない。
そこに艶が生じた時、「銀」は「金」を超える値打ちをきっと持つようになるだろう」これなのだ。

また、この本を読んで、うれしく思うのは、セカンドライフに向けいろいろやってる私にとって、 共通点がいくつか探せたことである。
「散歩」「鳥の声」「季節の変化」「白骨の御文」「夫婦喧嘩は『ごめんね』と先に言ったほうが勝ち」
楽しいことは、自分の気持ちさえちょっと切り替えれば、日常の中でいろいろ見つけられるのだ。

ここで、ヒントになる小見出しの好きなフレーズを書き出してみよう。
「散歩の目指すものは人生の発見だ」「散歩はもっとも優雅で安上がりの贅沢である」
「鳥の声に、『自分はこれほど人を感動させたことがあったか』「シミ、シワ、ハゲ、老いは 小さな死の練習をしている」

この中で特に気になるのは、「シミ、シワ、ハゲ、老いは小さな死の練習をしている」である。
現代人は外見の老いを隠そうと一生懸命になりすぎているような気がしてならない。
死は近くにあるのだが、いつも遠ざけようとし過ぎて、 醜いもののようにしてしまっているのがとても気になる。

終わりに、趣味について、苦言をいただいた。
「趣味はノルマのように頑張らなくていい」さらに続けて、
「趣味はノルマのようにして頑張ってやり遂げるものではない。ゆとりのある時間を楽しむ ものだから、ゆとりを殺す方向に走ってはならないだろう。仕上げたものをながめて、自分でほめ 言葉をかけることも大切」さらに続ける、 「自分でほめて、面白いと思ったら人に見てもらうという順序になろうか。・・・ 人に見せることによって生まれるゆとりを私は大事にしている」なのだ、おおいに参考にして、 肩肘を張らずに趣味を大いに楽しみたいものである。



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