秋の街 最近は、どういうわけかなかなか発刊されない。 久しぶりの作品である。 と言っても、いつもの長編歴史小説でもエッセイでもない。 短編小説7編である。 限られた紙面の中に、それぞれの人間の生き方が凝縮されている。 その主人公は、刑務官、寝台自動車会社の運転手、監察医務院技師、ハムスターの飼育者、 妻に逃げられた男、パトロンに死なれた女、であったり難破漁船の船員である。 吉村作品には、刑務官と難破船に関する話はよく出てくる。 私的には、主人公が悲惨な結末を迎える、「船長泣く」と、 遺体解剖を職業とした主人公が出てくる、「雲母の柵」の2作品が印象に残っている。 いずれも死をテーマにしたものであり、特に見逃せないのだ。 「船長泣く」はあとがきにこう書かれている。 「大正15年12月に難破したマグロ漁船『良栄丸』に遺留されていた航海日誌 のたどたどしい文章に触発されて書いた」とある。 難破の月日を重ねるごとに、仲間が一人、また一人と死んでいく。 死体とともに、幾日も幾日も死と隣り合わせにいる主人公を淡々と描いているのだ。 読んでも読んでも最後まで行っても、いい結末にはならない作品である。 主人公が絶筆してから、約6カ月後、難破船はアメリカの貨物船に発見された。 発見された時、2名がミイラ、10名が白骨となっていたのである。 一番気になった「雲母の柵」。 これは、主人公の監察医務院技師の解剖ぶりと結婚の話が書かれている。 淡々と描かれ、幾度と出てくる解剖シーン、無感情のままこの作品が終るのか・・・。 と思いながら、主人公の花嫁選びとのラップが面白い。 あわせて、これでもかと思うほど「死」について書かれた部分は私にとっては、見逃せないのだ。 死なんてものは、ほんとうに突然やってくるし、いつも隣り合わせなのである。 その見逃せないフレーズを5つほど、「気になるフレーズ」に入れておいた。 |
余話として と言っても、本にならない話を集めたもの。 歴史好きの読み手にとっては、こんな話もたまらないのでは。 「本にならない」そんなことが「あとがき」にこう書かれている。 「文芸春秋のW氏から、私がかつて書いたむだばなしのようなものを集めて本にしたい、という 話があったとき、最初どうも気乗り薄だった。 いま、ゲラをながめつつ、この『あとがき』を書いているのだが、書きつつも、なおためらいがある 要するに、これらは無駄ばなしなのである」 これなのだが、わたしたち読み手から見ると「歴史のこぼれ話」だろうが、 筆者からすれば「無駄ばなし」で、編者から言うと「余話」になるのだ。 いつものことなのだが、司馬さんの語句の由来、言葉の由来の説明も結構ある。 「小田切謙明一所懸命」「シビレ、江戸へゆけ」「ノボリ兵法」「クダリ音曲」「伊達な」「傾く」 「どこの馬の骨」・・・・ 字面だけでは意味はわからない、由来に興味ある方はたまらいのではと思う。 21の余話の中で、面白いと思ったのが、7編ほどあった。 日本の剣客がアメリカに渡り、フェンシングのチャンピオンになったという-アメリカの剣客の話。 「私は坂本竜馬という人の許婚でした・・・」という千葉さな子という-「千葉の灸」の話。 近藤勇を捕縛した武士という-「有馬藤太のこと」の話。 名前の話で二題、まずは、百姓には姓がないため、アダナが姓の代用をはたしていたという- 「村の心中」の話。 これは少しその名を例示してみると、チンチ庄兵衛、ホラ五郎左衛門、ゴウトウ法印、グタ与兵衛、 などなど。 なのだが、これは決して字面の通り受取ってはいけないのだ。 例えば、チンチは、背の低いこと、ホラは、ホラ貝を吹く、ゴウトウは しばしば追い剥ぎに逢ったから、グタは鼻に病があったからなのです。 思わずクスッと笑えてくる。 もうひとつ名前の話。 西郷隆盛、従道の名の話。 明治維新後、戸籍の名前を届けることになった、ナノリというのがあって、通称以外に 加えた実名を届けた。 西郷の場合、東京に不在で薩摩藩の吉井友実が届けることになったのだが、名乗りまでは 知らなかった。たれかの言葉でおもいだし「隆盛」で届けたのだが、これは父親の名前で 「隆永」が正しかったのだ。 従道の話も同じようなものなのだが、 彼の名前を聞いて届けた役人が「リュウドウ」を「ジュウドウ」と勘違いして届けた。 正しくは「隆道」だったのだ。 一番面白かったのは「どこの馬の骨」の話である。 こんな話が書かれている。「徳川大名の先祖は、たいてい戦国に現れてくる。その連中の出自を しらべてみると、そのほとんどがどこの馬のほねだかわからないのである」 さらに続く「これが明治のとき華族になって公侯伯子男になったのだから、要するに日本の華族 というのは、モトはどこの馬の骨だかわからないのである」 いわゆる「家柄」なんてものは、なんでもないのである。 自分は人より上と思っている人にとっては、「家柄」とか組織の肩書きが気になるところだろうが。 栄枯盛衰、百年後にはほとんどのものはなくなっているから、 「肩書き」なんてものはなんの役にも立たないのである。 要するに、人物本位が大切なのである。大いに納得。 |
内側から見た富士通「成果主義」の崩壊 同じような職種で、同じような仕事をし、いままさに人事の制度を変えようとしているわが社。 で、天下のリーディングカンパニーに何が起っているのか、いたのか、興味本位に 知りたくて買ってしまったのだ。 この本は、単なる告発本とは大分違う。 富士通の業績を分析し、社員のやる気、無責任な組織体制、企業体質、筆者が属した 人事部の問題を明らかにしながら、日本型の成果主義を提案するという構成内容でも、 まじめで大いにためになる本なのだ。 さらに、おわりに「『成果主義幻想』を捨てるとき」では、筆者が「書こうとしたきっかけ」 が書かれており、すでに多くの企業が実施している「成果主義」人事への警告の本なのである。 まず、驚いたのは、「はじめに」で隆盛を極めた富士通が、2004年3月期でかろうじて黒字 を出し、その影には持ち株の売却・管理職の賃金カットがあったことを紹介し、 新社長の次のような発言が書かれているのだ。 「・・・富士通のビジネスを弱くしたのは、いったいなんだったのかということです。・・・ お客さまに対する経営の基本を軽視したのではないか。部分最適化が起きて、成果主義の 誤解につながってしまったのではないか。これらが富士通を弱くした原因だと、 私自身も役員として率直に反省しています」 このはじめにでは、現会長で前社長が2001年10月13日号の週刊東洋経済に載った発言もある。 その奢りぶりがよくわかるので、そのまま抜粋しよう。 この発言は、就任以来毎年のようにくり返してきた決算下方修正に対する経営責任について質問され、 答えたものである。 「くだらない質問だ。従業員が働かないからいけない。毎年、事業計画をたて、そのとおりに やりますといってやらないからおかしなことになる。計画を達成できなければビジネスユニット を替えればよい。それが成果主義というものだ」 いま現実に人を評価する立場にある自分からみれば、目標管理制度、人事考課制度の矛盾を感じながら、 この筆者の問題の指摘があまりにも明確であることで、ついつい読み込んでしまう。 私としては、わが人事担当者には、この富士通の事例を是非読んでいただき、 「他山の石」としてさらにいいものになることを期待している。 特に成果主義がうまくいっていない要因のキーワードのところを、何度も読んでいただき、 是正しながら、よりよい制度導入を願うばかりだ。 そのキーワードを列挙してみると。 「評価の割り当て」「裁量労働制」「降格制度」「目標管理の公表」「先送り」「下方修正} そして「ムラ社会」なのだ。 この本の第6章にはこんなことが書かれている。 人間はなぜ働くのか?極めて哲学的な話なのだが、大いに反省させられたので抜粋したい。 「別にたくさんのお金がほしいわけではない。一生安泰な身分が保証されていなくてもいい。 そんなことより昨日よりは今日、今日より明日と続いていくなかで、働いてよかったという 充足感がほしいのだ。 実に純粋である、私の場合は、 身分の安泰と職場が厳しさの中に楽しさがあればいいと思っているのだが・・・・。 本を読み終えて、大いに反省する点がいくつかあった。 まず1つは従来の年功制度に胡座をかいている自分である。 そして、もう1つは知らぬ間に「ムラ社会」を作ってはいないか。 おわりに、一番気になったのは第2章の「社員はこうして『やる気』を失った」である。 人がやる気をなくすのはこういった方法でなるのかということだ。 わが社の新制度導入がいいものになるか大いに注視していたいものだ。 |
「人生百年を生ききる」 でも、思い出せない。 自分のホームぺージの中の「読み感」も検索してみた。 それは、「蓮如」だった。 ちょっとその時の「読み感」の一部を抜粋してみると。 「もうすぐ半生を終えようとしている死に頃の私にとって昔で言えば死を覚悟していた年であろう。 世の中が平和すぎて死について考える機会が少なくなったからかもしれないが、 死はすぐ自分の隣にあるにもかかわらず、 いやなこととしてできるだけ遠ざけようとしている自分が見える。 90歳過ぎて大往生した宇野千代著『私死なないみたい』という本があったが、 やはりご本人はまちがいなくおなくなりになってこの世にはもういない」 どうも5年ほど前に読んでいるようである。 「死」を意識しながら、まだまだ他人事のように書いてある。 では5年ほど過ぎて変ったのだろうか。 考えるに、その間にあったやはり8年間の闘病生活の末の「母の死」が大きい。 でも、4年も過ぎるとはや「死」をよそ事のようにしているようにみえる。 そういった意味でこの本の読むタイミングは良かったようだ。 この本でまず気になったのは、題名の「生ききる」という言葉である。 すぐに思い出したのが、瀬戸内寂聴著「孤独を生ききる」だった。 お坊さんは、なぜこんなに力強い言葉がいえるのだろうかと思ってしまう。 常にいろいろな死を見つめながらの積み重ねと、学びながらの積み重ね。 死を意識した結果、一日一日の生を充実したものにする。 これが思いきらすゆえなのだろう、凡人は、何となく一日を過ごしてしまうのだからいただけない。 凡人なりに、「読み感」を続けると、この本は6つのチャプタで構成されている。 そのチャプタにさらに大見出しがあり、さらに小見出しがあるのだが、どの「文」を読んでも実に わかりやすい。 まずはいろいろな「教訓」を出し、それをやさしく説いていく。 加えて、実際にあった良い話、ほろりと来る話を挿入するのだ。 本来なら、何度も何度も噛み締めるように読むもの、そんな気がする。 気楽な私が特に気になったのは、「夫婦」「親」「あの世この世」である。 フレーズをいただくだけでなく、大いに反省し明日からを「生ききる」 糧にさせていただくことにした。 できうれば、迷った時には小見出しから、「泰道」和尚の説く言葉読み返す。 いまそんな気持ちでいる。 いいフレーズ、良い話がふんだんに有る。 その中でもひとつだけ良い話を選べと言われれば、次の話である。 「ガンを知らないふりをした老僧」の話。 死を楽しいんでいるように笑顔のなんともいえないむじゃきさで話すところが、とても好きだ。 おわりに、「豊かな死を迎えるためのコツ」ということで、 吉田兼好の言葉を書いて、せめて死を身近に感じながら人生を楽しみたいと思うのですが、 ・・・・・。 「人みな生を楽しまざるは、死を恐れざるゆへなり。死を恐れざるにあらず、死の近きことを 忘るるなり」 |
「無常を生きる」 本屋で新しい文庫本が出るとつい買ってしまう。 読みやすい、男女に関係なく人間の生き方を教えていただく。 作品が書かれたのは、ちょうど8年から9年ほど前のもの。 その当時の事件について書かれてる部分を読むと。 ただひとことで言うなら「無常」であり、もう少し言うなら風化だろうか。 「風化」、それは阪神大震災であり、オウム事件であり、エイズ薬害事件である。 阪神大震災、オウム事件では、「お布施」が随想のキーワードになっている。 エイズ薬害事件では「政治」がキーワードになっている。 特に、「忘れてならないこと」のチャプタにある小見出し「忘れていた他者の痛み」では、 生き方を考えさせてもらった。 オウム事件とエイズ薬害事件では、あらためて「怒る」ことの大切さを知った。 最後のチャプタ「あの日この日」では、寂聴さんのいくつになっても「女」らしさを 忘れない、を感じさせてもらった。 ここでは、もう少し「忘れてならないこと」について書いてみたい。 と言っても、生き方・死に方について、いいフレーズがあるということなのだが。 そのフレーズのキーワードを並べると、「お布施」「他者の痛み」「慈悲」「人心の荒廃」 「犠牲死」「堕落」「天罰」 人間は、大きな天災を経験すると、死を意識し「他人の痛み」を知る。 でも、時の経過は、また事件を風化させ、また「死」を遠ざけ、「他人の痛み」を 忘れてしまうのだ。 だから、生きていられるのかもしれないのだが。 多くのエッセイを読んできた。 通常エッセイには、日常感じたままの話なので、書く方も力を入れたものではない。 だから、生き方についてなんてフレーズは出てこないのだ。 宗教家ゆえなのだろう。 また、宗教家ゆえにオウム事件については手厳しい。 特に「お布施」に関する部分は、明解である。 でも、人間は弱い、わが身になれば、財産なんて関係ないようである。 せめて、私自身「他者の痛み」のわかる「お布施」をしたいものだと思う。 |
定年後をパソコンで暮らす それからというもの「定年」をキーワードに取材を続ける、筆者の作品はいつも気にしていた。 しかし、かなりごぶさたでほんとに久しぶりなのだ。 「パソコン」「定年」をキーワードに22人の能動的なセカンドライフの話の本である。 この内、お二人(LCOネットワークの向井幹雄さん、釣り情報サイトの坂井廣さん) は、すでにテレビと新聞で話題として取り上げられていたので既知の人物だった。 私にとっても、会社人間切り替えの助走路に入っており、すぐに飛びついた本なのだ。 もともと筆者自身がパソコンを使用するなんてことは、「定年百景」では全く感じられなかった。 プロローグでは、「定年退職をした人たちが私の背中を押してくれた」。 こんな書き出しで始まる。 そして、「触らず嫌い」だったとも吐露する。 われわれ団塊世代もまだまだ「触らず嫌い」(会社ではセットされたものをやむを得ず使っているが、 もちろん自分ではセットできないし、家では使う気にもなれない)のおやじがほとんどでは なかろうか。 読みながら、特に気になったことが三つある。 1つは、検索エンジンを駆使して取材対象を探したということなので、団塊世代の動きがあるか ということ。 2つは、セカンドライフへの切り替えへのきっかけとなぜパソコンなのかということ。 3つは、パソコン有効活用のヒントがあるかということである。 セカンドライフへの切り替えへのきっかけで多いキーワードは、 「妻の死と介護、ボランティア、自分の病気」からというのがわかる。 このキーワードをきっかけに作られたホームページは、どれも 逆境に打ち克つだけのチャレンジャー精神が旺盛なのだ。 ただただ頭が下がるだけでなく、そのパワーと逆境を楽しんでる作者に驚いてしまう。 残念ながら、1つめの団塊世代の大きな「うねり」は、まだ起こってないようである。 このうねりが始まるかどうかは、まだわからないし、筆者と同じように後押しする人が出るか どうかなのだろうか。 うねりが起れば、「団塊」と言われるように、一塊で動き、景気にも影響するだろうし、 それこそ団塊世代の生みの親、堺屋太一氏が言うところの、パソコンによる「好縁社会」 というものが生まれてくるのだろう。 3つめの、パソコンの有効活用。 当然のことなのだが、HPアドレスがあるので、あとからじっくりみるとしても、 やはり3つほど気になのだ。 ①容量をくう動画や画像の保存方法②地図から飛び出す登録型リンク集 ③一度投げ出してしまったHP作成ツール。 おわりに、チャレンジャーの良い台詞を3つほど。 「目的やテーマはなく、遊び半分で挑ったまでのこと。私ら夫婦の旅日記でも公開すれば いいじゃないかと。いま振りかえると、じつに簡単なホームページですよ。 立ち上げたことを単純にうれしがっておりました」 「ホームページづくりはもっと視野を広げてくれる、視えなかったものを視える ようにしてくれる」 「・・・倒れてから1年以上が経過しました。残念ながら1級1種の障害となりましたが、 今は、あせらずにゆっくりと社会復帰を目標に頑張っています。/このホームページ は、私が左手で文章を書き、絵は娘に描いてもらい、出来上りました」 いかがだろう、まだセカンドライフへのきっかけがつかめない団塊諸氏は少しでも 刺激になっただろうか。 思うに、いつも「少年のようなこころ」を忘れないことだろうか。 |
不道徳教育講座 「潮騒」「仮面の告白」「禁色」「金閣寺」・・・。 どれも難解ですぐに投げ出してしまったことだけと、上記の4つの小説の題名だけが 頭に残っている。 筆者について、もっと頭の中にこびりついているのは、自衛隊での割腹自殺の新聞記事である。 いまではとても発表されることはないと思われる写真記事。 それは首が切り落とされた写真、誠にセンセーショナルなものだった。 なんで、当時読みたいと思ったのだろうか。 そういえば、胸毛とボディビルダーで鍛え上げられた裸体とプレイボーイという 言葉にあこがれ、さらによく テレビにもてはやされていたせいかもしれない。 それからしばらくして、百恵ちゃんの主役で「潮騒」が上映されたのだが・・・。 それからすっかり三島作品は御無沙汰である。 先日、難解というイメージしか残っていない筆者のエッセイなるものを見つけた。 これは読める、われでもわかるだろうと買ったのである。 このエッセイはすでに廃刊されている女性向けの「週刊明星」に掲載されていたものである。 残念ながらほとんど読んだことがない。 余談だが、もっぱら私は「平凡パンチ」にお世話になっていたからである。 この本、三島氏には似つかわしくない題名がなかなかいい。 「不道徳教育」、題名が題名だから、お堅い方から批判の手紙がよく届いたようだ。 今度はそれをネタに話しを展開してるあたりは、なかなかのものである。 この当時の女性たちはどのように読んでいたのであろうか。 性に関して大いに解放されていった時代でもあったように思われる。 その意味で女性のこころをより解きほぐす、殻を破らせる役割を果たしたかもしれないのだ。 一方で、謙譲の美徳とか親孝行とか年上の人を敬う。 「公衆道徳」なんてものもどんどん消え失せ、とにかく人より前へ前へ。 「みんな駆け足しないといけない」そんな時代だったように思う。 この本が面白いのは、エッセイのそれぞれの題名である。 当時としては、かなり衝撃的であろうと思われるものが結構多く、どうやって69題を ひねりだしたのか興味はつきないのだ。現代ではとても受け入られないような題名を 少し引き出してみよう・・・・。 「弱い者をいじめるべし」「殺っちゃえと叫ぶべし」「泥棒の効用について」 「女には暴力を用いるべし」「先生を教室でユスるべし」「痴漢を歓迎すべし」 ついでながら、私的に気に入った題名をあげますと、 「うんとお節介を焼くべし」「できるだけ自惚れよ」「文弱柔弱を旨とすべし」 「馬鹿は死ななきゃ・・・」「日本および日本人をほめるべし」「お化けの季節」 内容については、とやかく書きません。 筆者のウィットをいかに受け入れるかでありましょう。 ところどころに「キラッ」とする光りものが探せたらよいのではないでしょうか。 まあそうは言っても、3つほど人間の真実を見つめるというか、その「キラッ」 と見つめる眼が光ってるなと思えるエッセイありましたので、紹介しておかねばなりますまい。 まず1つは、「できるだけ己惚れよ」でありまして、「己惚れがというものがまるでなかったら、 この世に大して楽しみはありますまい」ということなのだ。 2つめは、「馬鹿は死ななきゃ・・・」でありまして、いろいろなバカの症例が紹介されており、 当時の世相を物語るものでありましょうか。ちょっと書いてみましょう。 「秀才バカ」「謙遜バカ」「ヒューマニストバカ」「自慢バカ」「三枚目バカ」「薬バカ」・・・ これを読んでいるとあまり現代も変らぬような感じではあります。 終わりに、「肉体のはかなさ」でありまして、ボディ・ビルコンテストにからめての話なのですが、 これこそ時代が変っても変ってないようで「無価値の男の肉体のはかなさ」 を憂えているものなのです。ほんとうになるほどと思えまする。 |
団塊老人 思わず手が出て、レジに向った。 家に帰るまで我慢できずに、電車の中で読み始めた。 目を飛ばすように読んだ。 第一と第二のチャプタは、団塊の世代が歩んできた話なので、飛ばしながら読んだ。 第三のチャプタは、筆者の話なので、これも軽く読んだ。 第四のチャプタからは、寮に帰りじっくり読むことにした。 いままさに、私がやろうとしていることに対するアドバイスが多く散りばめられている。 細大もらさず、気になるところはさらに二度、三度と 読み返す。 読み終えて思ったことは、セカンドライフに向け、私自身がいますでにやってることは 良い方向なのだということだった。 さらにじっくり進めなさいという後押しの本である。 あきらかに、このまま何もしないで定年を迎えれば、団塊老人は、粗大ゴミ以上の 産業廃棄物になるといいきる筆者なのだ。 特に力が入ったのは、第四のチャプタの「生き抜くための老後の哲学」と 第八のチャプタの「肩書きを捨て、裸の人間に」である。 幸い第六のチャプタの「妻に嫌われない方法」については、「老醜」について少しの反省 ですみそうである。 第五のチャプタの「子供と親に金を使わない」については、子供について大いに反省し、 「手間はかけても金はかけない」そして、いかに 子離れするかのようである。 そして、明るい老後のを迎えるため、より具体的には、3つの捨てることがある。 それは「肩書き」「経済至上主義」そして「帰属意識」なのだ。 どれも苦しいかもしれないが、とにかく裸になって、「自分は何をやりたかったのか、 何をやるべきかということを、もう一度真剣に考える時」なのである。 このようにもろもろの反省と定年後に向って目標をもって、自分の生き方を再構築するなら、 産業廃棄物にもならずに、最終章の「団塊の世代の老後は明るい」なのである。 そろそろ我ら団塊世代も 物質的に満たされても、限度のなさと精神的な豊かになれない自分に気付いているはずです。 この本を読んで、これから何が大切なことなのか、この本を読めば大いに気付くというもの。 そして、「無邪気な子供のような気分で、さまざまなものに驚き、学ぶという姿勢があれば」、 体力的には無理でも、第二の青春時代を迎えられると、こうなるのである。 |