趣味に生きる愉しみ それに、1992年、日本経済のバブルがはじけた頃、ブームにもなった「清貧の思想」 という名の本の名前だけを知っている。 どの本にも共通して思ったことは、枯れていく老いの生き方を教えてもらった気がする。 この本は、「趣味」をキーワードに買ってみた。 趣味と言っても私が考えたのとは、ちょっと違っていた。 「あとがき」にこうある。 「大量生産の安物には、二十世紀の体験だけでもうんざりしているのだ。人間が人間らしく生きる ためには、柳宗悦が求めたように、工場製の画一生産物でなく、職人の手造りの上等な物がまわりに なければならない。そんな願いをこめて、わが周辺に愛する物たちをとりあげたのが本書であった」 このいろいろな物への拘りようにいささか興醒めしてしまった。 自分自身が「少欲知足」をモットーに生きてきた。 筆者の作品もそんな感じで読んできたからだ。 さらに「無求」のチャプタには、こんな表現がある。 「わたしのような風骨の者でも、還暦を過ぎ、さらに古稀といわれる年も過ぎると、庭堅や良寛の ように徹底することはできなくとも、いささかこの『無求』『無欲』の境地に近いところには来て いると、自惚れなく言えるのだ。金は要らない。ものはすでに充分に持っている。名声も要らない。 もはや求むるものは何もない。と言う尊い心持ちで生きているのである」 「ものはすでに充分に持っている」確かにどう読んでも充分に持っている。 筆者が言うように「本物」だろう。 ここまでいろいろな物に拘らないといけないのだろうか。そう思ってしまった。 一方で、物に拘らなかったせいか、紹介された「職人の手造りの上等な物」、 このほとんどのものを知らない、自分の「無知」さに驚かされているのだ。 人は求めないといかに情報を知ることがないかということだ。 「職人の手造りの上等な物」、骨董の世界、なんでも鑑定団の世界に入るように思う、 いつも番組を見ながら何もないことに思い知らされている。 とはいえ無知な私が救われるところもあるにはある。 それは、「居酒屋」「読書」「犬の散歩」の「散歩」だろうか。 36項目のうちのたった4項目だから、まったく「本物」を知らない人間と断言できる。 この本は、「趣味」というよりは、 物への拘り、古い良い物への興味・収集をされている方には必読の書である。 ただ、「収集の趣味」の趣味以外を期待する人は、他の書の探されるが良いようであります。 ということで、私が救われたところを紹介して終わりにしよう。 読書をセカンドライフでも続けられるかどうかは、「いわゆるビジネス本こそ読んでも、 ふつうの人生論、幸福論、哲学、歴史、文学、 エッセイといった一般書にまで関心のある人は少ないのだ」、一般書に関心があるので、OKのようなのだ。 二つ目は「居酒屋」の選び方である。これは、「気になるフレーズ」に抜粋してあるので ご覧いただきたい。私はこれで2店ある。 最後に、犬は道連れにしないが、散歩である。 |
運のつき 「妻をみなおす」なんて本を読んでみたのだが、中途で挫折。 名前と中味のギャップについていけなかった。 急遽見つけたのがこの本。 何より安いのがいい。装丁なんて適当でいいのだ。 おまけに平成の超ベストセラー作家・養老孟司の作品なのだ。 おまけにたびたび毎度、筆者の作品には「バカの壁」に 当たるのだが、よりわかりやすくするために、我のようなバカ向けにふんだんに 例え話しを入れてくれているのであります。うれしいかぎり。 いつも思うのだが、何か禅問答を読んでいるようでもある。 名前の一字「孟」のとおりによーーく考えよう。 考えることが苦手、すぐに人に答えばかりを求める忙しい現代人にとっては実に 耳の痛いことばかりが書いてあるように思える。 なぜだろうということを思わないかぎり、人は「考える」ことをしない。 どの章にも「考える」という言葉が出てくる。 久々に思い出したロダンの「考える人」、昨年の流行語「なんでだろう」、 「考えるためには、答えを『丸めない』だけじゃない、努力・辛抱・根性が必要なんですよ」 と筆者が言う。 「スポ根」みたいになってしまうが、仕事上早く「丸めたがる」癖がついている我にとって 実に新鮮な言葉であり、セカンドライフに向けての趣味は「努力・辛抱・根性」 に「楽しく」を加えて、続けていたいのであります。 この本は何のために書いたのか。 あとがきに筆者は「この本は、私がいうこと、書くことの根拠を、自分の人生から掘り出 そうとした試みです」こう書いている。 「根拠」だから、チャプタのフレーズを見るとおやっと思い、何だろうと思い、何が 書かれているのだろうと思い、読み入ってしまうのだ。 これはマガジンハウス「喜入冬子」なる編集者の技のように見える。 人生から掘り出すから、いつもの昆虫の話が出てくる。 一番多く出てくるのが、なんと「東大の全共闘」の話しなのである。 これは戦争と同じだと書かれている。筆者は渦中の中に無理矢理入れられて しまっていたのだ。 一番面白かったというか興味を引いたのは、「なぜ解剖学」選んだのか。 自分が進むべき道を選ぶ時、「対象」で選ぶのでなく「方法論」で選んでもいいのではないか。 という根拠の話を展開する時に、美人のたとえ話しが出てくるのだが、これが実に面白いのだ。 あえて内容は書きませんが、読んでしまったから言うのではありませんが、 読む価値はあると思うよ。 それからもうひとつ面白いのがあるんです。 「『これを楽しむものにしかず』に至る三段階」というやつなんです。 なにかをするとき、嫌いだけど、努力する。それが第一段階。 好きになれば、それこそなにか好んで一生懸命にやるわけです。それは第二段階。 最後が「これを楽しむものにしかず」です。好むだけじゃない。 それをやっている過程を楽しんでいる。これが第三段階。「楽しむ」これなのだ。 おあとは読んでいただくということで、この本は「するめ」のような感じでありました。 千円はほんとに安うございましたよ。 |
プリズンの満月 だから、この時代から全く離れて展開する筆者の小説は珍しい。 ヒントは、「日本人刑務官が、警備の米軍将兵と収容されている戦犯との板ばさみで 奇妙な時期をすごした」という話を思い起こしたところから始まったと「あとがき」 に書かれている。 小説と言っても、主人公は全くの架空人物であるが、小説のヒントを得たのは、 プリズンの事務官として一貫して在任していた人物から直接取材した事実に基づいているため、 途中からはノンフィクションに近いのだ。 話は、40年の刑務官生活を退官した主人公が、釣りを楽しむところから始まる。そして、戦後 まもないころ、犯罪者が溢れかえった刑務所事情の話に移る。 そんなセカンドライフを楽しんでいるところへ、元上司から至急会いたいと言われ久しぶりに 背広を着て出かけた。 元上司からの話は、東京拘置所跡に建設中のビル工事現場の警備所長に就任し欲しいというものだった。 戸惑いながらも主人公は即断し、やがて所長としての手腕を発揮、ビルも順調に完成した。 引き続きビル警備管理の仕事もするようになるのだった。 そして、ストーリーは本題の、東京拘置所跡にあった、戦犯刑務所「巣鴨プリズン」の刑務官 時代を回想するシーンへと展開していくのだ。 これが、事務官として実際に勤務した人の話によるものなのだ。 回想シーンは、 GHQ管理下で、日本各地の刑務所に勤務する刑務官に「巣鴨プリズン」への招集があり、新婚 まもない主人公にその辞令が発令したところから始まる。 過去の戦争では例をみない、敗者の日本人戦犯をカービン銃を抱えた日本人刑務官が監視する というものだ。 プリズン内は日本人同士ということで当然、険悪なムードがずっと続いていく。 こんな雰囲気の中、受刑者が自由の身になるまでの間に、主人公に関係なくストーリーの中心人物も、 場面も減刑、仮釈放へのステップへと順次目まぐるしく移っていくのだ。 最終的に「巣鴨プリズン」は、また東京拘置所へと変わっていくのだが、その場面とかその時々の 中心的な人物・シーンをどんどん紹介してみると。 それは死刑執行台を建設した日本人とその後の人生、減刑運動にひたすら奔走する日本人教誨師、 死刑宣告を受け、精神異常をきたした戦犯、これが嘘ではないかといううわさ。 戦犯の慰問活動を続ける有名芸能人たち、経済的に困窮する家族のために、刑務所内で内職する 戦犯たちと仕事を探す刑務官たち。 初代所長からプリズン閉鎖まで何代か続いた所長たちの苦悩と仮釈放までの活動、 大相撲一行による慰問、正力松太郎の取り計らいにより実現した野球観戦。 世間の厳しい目にさらされながらも仮出所への道を模索し続け、 着実に実行していく、所長たちの努力には涙ぐましいものがある。 読んでいて、思わず体が熱くなってくるシーンも多く出てくる。 いずれにしても、私にとって戦犯刑務所にまつわる話は、全く初めてである。 終わりに、もうすっかり忘れさられようとしている敗戦国日本を思い出させる貴重な作品に出会ったような気がする。 |
いかにして自分の夢を実現するか 意欲がわかない。息切れしている自分が見える。 こうなると書店に寄ってもなかなか本が選べない、読もうという気になれない。 今週は少しだけペースがもどり、「夢」という言葉の本にたどり着いた。 実は、この本、過去に買って読んだことがある。 それなのになぜ買ったのか、趣味に関して夢が膨らみつつある、でわが書棚を探したのだが、 見つからず、再度買ってしまったのだ。 巻頭の訳者解説にこんなことが書かれている、 「成功者と失敗者との間には、紙一重ですが、大きなちがいがあります。それは失敗者には、 粘りがないのです」 この「粘り」ということばを頼りに、趣味でもう少しステップアップしたい。 でセカンドライフの夢を実現したいのだ。 この本から、ヒントを貰いたくて一気に読んだ。 まず貰えたヒントは、「私にだってできる」という「自信」である。 これは、貰えたというか、何かを始めた時、何とかなると自分に常に言いきかせてきた。 そして、加えて壁に当たった時に、 「私にだってできる」とトイレでよく連呼してきた言葉でもある。 あらためて力を貰ったというところなのだ。 そして、それでも挫けそうになった時、どうするか。 「一時的に情熱がさめ、やる気がなくなることがあっても、けっして絶望的になって夢を 捨てたりせず、すぐに気を取り直して立ち上がろう」 これである。そして最初にもどるが粘り強く続けるこれなのだ。少し元気が出てきた。 気持ちとやる気はできた。 次は、「行動」だ、で書かれているのが「行動指針」なのだ。14項目ほどある。 その中から、気になる項目を6つほど書き出してみると。 「あなたの手の中にある『未来』をあなたはどうしたいのか」 「プラス思考の辞書では『経験がない』は『新しい冒険の楽しみ』となる」 「自分の『予定表』をつくり直せ」 「『心配・怒り』のマイナス感情は情熱を一気に冷やしてしまう」 「『前向きトーク』で自分の逃げ道をふさげ」 「『成功者』に積極的に接して刺激を受ける」 これは、早速いただきなのだ、さらに元気が出て来たようだ。 それで、終わりに、「昨日の自分」を超えるためのヒント。 「小さい第一歩からはじめる」「何ができるかを考えよう」「もう少し遠くへ手を伸ばそう」 「投資は賢く」「成功をイメージする」「慎重に発展させる」、いいヒントばかりである。 大いに元気が出て来た。 私は極めて単純なのかもしれない。 でもちょっとした何か(夢)をしようと思うのだが、なかなか前に進まない。 だれかにヒントを貰いたいと思ってる人は、是非一読の書なのではなかろうか。 |
わが性と生 読みたい本が見つからないのだ。 風邪が長引いたせいかもしれない。 病とは、こんなにも人にやる気をなくさせるのか。 いろいろな書店へ出かけ、やっとのことで3冊探してきた。 行き着いた本は、寂聴の「性」に関する話と、吉村昭の刑務官の話と、「いかにして自分の夢を 実現するか」ロバート シュラー (著), 稲盛和夫訳、これに到っては過去すでに 読んでどこにしまったかわからず、もう一度「夢」の実現という意味で読みたくなったのだ。 で今回のこの作品は、やはりいつまでも治まらない性欲を少しでも自分なりに理解(鎮める) するために、得度した寂聴さんの性に関する開かれていない扉の中を見たくなったのだ。 話は、得度した瀬戸内寂聴から得度前の瀬戸内晴美へ、瀬戸内晴美から瀬戸内寂聴へという 往復書簡体という形で「性と生」の話が展開するのである。 性とかセックスという字を見ただけで赤らんでいたり、下半身がむずむずしていた年から 遠く年月が過ぎ、それでも老楽の恋などをまだ夢見ながら読んでいった。 こんな私のまだ治まらぬ欲望に十分に答えてくれる本でありました。 寂聴・晴美のそれぞれの周辺で拾い集めた、 年とっても治まらぬ性欲、もてあます性欲を持つ人間たちとの 生々しい会話を次々と披露してくれる点が多いに私を満足させてくれたのだ。 私以上に長く生き、多くの悩み多き人たちと接触してきた寂聴、そして作家としていろいろな 作家との性談義を知る晴美、実に話題が豊富なのだ。 何回の往復書簡だったのだろうか。 最近は、なかなか最後まで読めない本ばかり買ってはほおり出していたのだが、 この手の本は何と読むのが早いことかと自分に感心させられる。 やはり性の話は元気が出てくるところをみると、やはり自分の助平さを 自覚せざるを得ない。 まあそれはそれとして、目を輝かせながら読んだのは、老いた男女の 醜くも切ない性愛の姿である。 その姿に自分を重ねながら、一気に読みきってしまった。 読み終えて、頭の中にあるまだまだ少ない性知識が増えたと 密かに喜び満足した脳味噌があるようだ。 長い風邪で生気が衰えた心身に少し赤みがでてきたようだ。 寂聴さんと晴美さんに大いに感謝したい。 ちょっとだけ興味本位に出てくるキーワードを羅列してみたい。 もっとも、14年前に発刊された本だから、風俗に関して最新の ものを期待する向きにはちょっと物足りないかもしれない。 読むか読まないかは、あなたの気持ち次第というところか。 肥後ずいき、アダルトビデオ、ブルーフィルム、女の閉経と男の不能、 老いの性生活、蜘蛛の巣が張るって?、荷風等作家のセックスライフ、 男女性器の話、わが国最古の医書「医心方」にある房中術、阿部定事件、亀頭に塗る六神丸、 貞操帯、千人斬り、コナサセバサマ。br さらに気になるフレーズでは、ご不満の向きもあるかもしれませんが、直接的な表現はあまり載せないで、 女性ならではの性の表現を紹介しております。さらにこの手の話が好きな方は是非お買い求めになられ、 大いに楽しんでいただければと思う次第。 最後に、こんなことが書いてある。 「私は自分が剃髪して以来、どうも髪の毛と性欲は密接な因果関係があるのではと思われてなりません。 禿の人が男性ホルモンが強くて助平だなどという通説がありますがあれは根拠もない 俗説ではないでしょうか。私の周囲を見廻してもほんとに好色な男は禿より白髪になるようです」 汚名?をきせられている禿げにとっては、ありがたいお言葉なのだ。 |
寂庵説法 過去読んだ本を買って、途中まで読んで「あれ!読んだことある」と気付いてみたり、 歴史小説を買ったはいいが、その時代の言葉・漢字に戸惑い、読む波に乗れなかったり、 そこで、軽いものをと買って読んだはいいが、軽すぎていいフレーズに出会えなくて、 途中どうでもよくなって投げ出してしまったりだったのだ。 でやっと出会えた、読み切れたこの本は、出逢いとか、無常とか、老いとか死とか・・・ 仏教の世界の話というか、人間が生まれて死ぬまでの間に多いに悩み、だれしも一度は ぶちあたる話なのである。 私にとっては、古くて新しいことなのだ。 この年になり、聞きたいのは、ついついどうしてもぬぐえない欲(愛欲)の話。 それから、老いとか死の話なのである。 筆者は、実際に悩みを抱える人にどんな話をしたか、実話で挿入して説いてくれている。 あるいは、お釈迦さんが弟子の質問に答え、あるいは弟子を諭す話が書かれている。 過去、「ひろさちや」の本や同じ「瀬戸内寂聴」の本を読んでいる感じなのだ。 単調な生活の繰り返し、自分はこれでいいのか、このまま老いて、死ぬにはどんな死に方。 なんて考え出すと、行き着くところ、私の場合は「仏教の本」のようである。 ただ、この本は筆者が18年前に書いた本であり、得度して11年経ったころの話である。 小説家のご本人が言うように、仏門の世界では小学3・4年生と実に謙虚な言い方をし、 さらに辻で話をつづけるのが僧侶の修業であると同じ位置づけのようだ。 書かれている内容は、実に平易でわかりやすく、新鮮な気持ちで読ませてもらった。 世の中には、自分は体験しなかったあんな悩みこんな悩みを抱えている人は多くいるのだと なるほどと思ってしまう。 では、ここからは、どんな悩み事相談をしているかを、ちょっと書き出してみよう。 「一晩に二人のクラスメートが死んだ。・・・Kさんの死も、Oさんの死も、死ということ で同じなのに、それを差別した自分が何といういやな人間かと思い、そのことのショックで いっそう気分がめいりました。・・・」 「私は主人の給料が少ないと文句ばかりいっていました。・・・主人は私や子供に楽を させようと思って、収入のいい庭師の仕事に変わったんです。・・・木から落ちて即死 するなんて信じられませんでした。・・・私は当然のように思って(転職)、 格別感謝をしていなかったのです。罰が当たったんだと思いました」 「愛人に子を身ごもらせ堕胎させた男女」 「愛人に商売用の観音様を与えたら、交通事故で怪我をし、その観音様をみたら すごい形相になっていた。ここに持ってきたが何とかならないか・・・」 いろいろある、それで、自分も同じ悩みを持つという方は、是非一読をされたらと思う。 |
やまない雨はない プロローグに「人生の小春日和」とありながら、その中で「自殺を考えたあの頃」とあり、「自殺」 という言葉にすぐ反応してしまい、重いものを感じ本を閉じてしまっていた。 でも、いつも死を隣り合わせで考えるような年齢になり、 少なからず自分が先に逝くと思っている私にとって、妻が先に死 んだらどうなるのだろう、また妻は私が死んだらどうなのだろうと考えている自分がいる。 最近、読みたい本が見つからず、いつも空振りで終っていた書店歩きで、文庫本化されたこの本を 見つけたのだ。 あとがきにあるように10万部売れたとあるから、多くの同世代の人たちにとって、他人事でないと 共鳴するものがあるのだと思う。 しかし、読んでいて実に重い。 それはプロローグからエピローグの前までの190ページあまり、妻の病と看病と死に始まり、 妻との昔の話もああすればよかったのではという反省の弁ばかり、 さらに妻の死後に訪れたご本人の「うつ病」、精神科入院、自殺願望・・・。 「書き始めて約1年後『書いていると悲しくなって、筆が進みません』とお断りのご返事を差し上 げた」とあることでもよくわかる。 筆者にとって伴侶と一心同体の生活であったことが、妻の死後の暗くて長い トンネルから抜け出すためには、この本を書く以外になかったのではなかろうか。 読み手は、過去の人生の選択までことごとく反省して、自責の念を吐露する この気の重さに戸惑いながらも、涙しながら読んだのではなかろうか。 「二人して」生きて来た者たちにとって、自殺や事故で一緒で死ねない以上、 どうしても別れはやってくるのである。 人生の先輩の体験として多いに学ぶべきものがる。 暗く続く話も、エピローグを読むと驚きを覚えてしまう。 これが同じ人なのだろうか、変われば変わるものだと。 それは、読み手の人にすべて当てはまると限らないし、当然自分もこのように うまく回復できるかどうかはわからないのだが。 そこには、体験者のいい言葉が散りばめられている。 それは、「時の癒し」「人生は展開するものだ・・・今が暗闇でも、 ずっとそうとは限りません」「SOSはきっと誰かに届く」「いい先生との出会い」「あまり自分を 責めるな」「生きていくには、どこかで前に向き直らなければ・・・」 「『今』を生き、『今』を味わおう」「『自分にないもの』ばかり気にしないで、『自分に ある好条件』に気付く」、そして題名の「やまない雨はない」なのだ。 筆者と同じように、大した死生観も信仰心ももつことなく生きてきた自分の人生を思う時、 死の病床となった自分はどんな風になるのだろうか。 筆者の妻が入院して漏らす本音、いままでとは違う自分を見せる姿をじっと イメージする自分が意識された。 読み終え、やっと私も重いものから解放された感じがしたのだった。 |
徒然草 多くの人が、この出足のフレーズに気を引かれ一度は読んでみた。 あるいは、読んでみたくて現代語解釈の本を買い求めたのではなかろうか。 現代語解釈だけでなく原文もさらにエピソードもあれば。 そんな読み手のための手頃な文庫版である。 「つれづれ」の解説にはこんな風に書かれてある。 「現代語の『連れる』から、連続する。 心理的には、単調、変化がない、やがて、退屈だ、ひまだ、という否定的な判断が入る。 兼好は、そうした否定的な意味を、逆転させて。積極的な精神活動のきっかけに用いた」とある。 まあ、現代人風に言えばマンネリからの脱出のためのアイデアというところだろうか。 それは、町に出かけていろいろな人間の様をみるとか、旅に出るとか、季節の移り変わりに目をやる とか、わたし風にかってに解釈すれば、セカンドライフへのバイブルのような気がする。 組織のため、家族のため自分を捨てて、仕事一途に生きてきた涙ぐましい、 団塊世代への贈り物とでも言おうか。 セカンドライフを考えるヒントとしてもらったものを列挙してみよう。 「旅の心はシャワー」「四季の移り変わり」「孤独の哲学」「読書は古人との対話」 次に、現代の世相といろいろな欲望の話で面白いと思ったところを列挙してみると。 「長寿への警鐘」「女の色香の威力」「利に群がる蟻人間」「むなしい欲望の遺跡」 そして、コラムの中にある兼好の気になる話題3つ。 まず1つは、卜部兼好が本名で、吉田兼好になったのは死後の江戸時代ということ。 2つめは、時の権力者高師直のラブレターを代作したなんてあること。 3つめは、兼好31歳の時、1313年9月1日付の土地売買証書が残っているということ。 特に気になった、なるほどと思ったフレーズを2つほど取り上げてみよう。 「色欲ほど人間を迷わせるものはない。なんて人間はばかなんだろう。香りなんか、ほんの一時的 なものなのに、着物の薫き染めた香りとは知りながら、すばらしい芳香をかぐと心をときめかせて しまう。」 「人間が、この都に集まって、蟻のように東西南北にあくせく走り回っている。・・・このように あくせくと働いていったい何が目的なのか。要するに、おのれの生命に執着し、利益を追い求めて とどまることがないのだ」 「兼好は、人間の力ではどうにもならないさまを『無常』と呼びました」と「はじめに」あります。 思うにこの「無常」の中に大切なもの、いいものがあるような気がします。 それは自然であり、季節の移り変わりのことだと兼好は言ってるようです。 |
まわりみち極楽論 今回の本は、僧侶で受賞した筆者が、いろいろな人からの悩み相談を日々受ける中、 応える時間がない現状から、「この本を読んでください」と言えるものを作りたかった。 そんなことが、「はじめに」で書かれている。 また「できるだけ易しく深く」とも書かれているが、いかに生きるべきか、 いかに死ぬべきかなんて、日頃馴染みのない私には、 言葉の意味を読み取るのにかなり力が入ったようだ。 せめてもの救いは、1つ1つの不安に対して応えながら、よりわかりやすくと いうことで、いいタイミングで出てくる句なのだ。 私が作る「駄句」ではない。 それは、ドドイツであったり、詠み人知らずの和歌であったり、有名人−一茶、道元、 一休、良寛、二宮尊徳、芭蕉等々−の句で あったりする。 句の多くは、詠み人知らずのものである。 ということは、より悩みを抱える人の側に立って引用されているとも言える。 人生に覚りを開いた人の句は、なるほどと思ってしまい、自分は駄目だと思って しまうのだ。 われのような凡人は。 ただそれは読んだ人がどう自分の心で感じ取るかではなかろうか。 筆者が設問をひも解いていく内容を読んで、「バカの壁」がどうしても邪魔するところは、 小見出しをじっくり見て、さらに引用された句を交えての説明でさらに 復習するような感じで読んでみた。 19チャプタある中で、それぞれにある小見出しでなるほどと思ったのがいくつかある。 書き出してみよう。 「他人が変わるより自分が変わるほうがラク」「聴くとは、同じヴィジョンを共有すること」 「脱力こそ神仏との通路を開く?」「死とは、ほどけること?」「幸福を目指すほど不幸になる?」 いかがだろう何となくイメージできてこないだろうか。 句では次のものが実に分かりやすい。 「ともかくも心1つ住みかえよ山も浮世も外ならばこそ」 「幼子の次第次第に智慧づきて仏に遠くなるぞ悲しき」 「極楽へ行かんと思う心こそ地獄へ堕つる初めなりけり」 「仏とて外に求むる心こそ迷いのなかの迷いなりける」 「世を捨てて山を住処と楽しめば月日の数を知らぬけり」 「思うこと一つ叶えばまた二つ三つ四つ五つ六つかしの世や」 読み終えて、じゃ自分の不安が即座に解消されるかというとそういうものではない。 それは、筆者もこのように言っている、「この本を読んだからといって急に金まわりが よくなったりモテだしたり、あるいは病気が治るというような現世利益は、たぶん、ない」なのだ。 思うに、自分のこころの持ち方を変えるということだと思ったのだが、 それは読んでみての楽しみということになる。 終わりに、この本のアドバイスから私がこころのスイッチの切り替えをすぐにやってみたいと 思ったことが二つある。 その1つは、「変えようなんて思わないで、新しいことを何か始めればいいんです。 そうすれば自然に人は変わります」 もう1つは「全てのことは自分が何かを学び、深まるために起こる」である。 最後の最後にもうひとつ「あの世はあるのか」という問いに対して、お釈迦さんははっきりとは 応えていない。でも次のように言っている。 「意識の変容を促す瞑想こそ涅槃に致る道であるとして、それを勧めるんです。そして『瞑想 によって体験する以上のことは、死後にも起こらない』」ということなのだが、 問題は凡人が「瞑想」で意識の変容が起こるのかといことのようである。やってみる〜〜。 |
壬生義士伝(下) そして、壮絶な主人公の死に方、相変わらずの殺し合いの表現に読み疲れたのが、 正直な感想である。 死ぬと言うことがこんなにも苦しいものなのか、何のために体を張って、からだを切り刻んで まで、生きるのか、戦うのか。 そして、武士とは、身分の違う友情とは・・・。 上巻の「序」で大野次郎右衛門の吐き棄てるような台詞、「何を今さら、壬生浪めが」。 この台詞の奥にある主人公吉村貫一郎と大野次郎右衛門との密接な関係が、 下巻で登場する人物たちにより語られ、解き明かされていくのだ。 それは、大野の息子で貫一郎の娘みつを娶った医師の大野千秋であり、 大野の中間だった「佐助」であった。 壮絶な主人公の死に様をここで再現しても、意味はないと思うので、知りたい方には 読まれることをお勧めする。 ここでは、やはりほろりときたシーンの話をしたい。 5シーンほどあった。 まず一つ目は、元同士新選組の斎藤が会津で敗れ、名前を変えて国替えとなって、 吉村の故郷盛岡を訪れるシーンである。 いつも貫一郎が語っていた北上川を見ながら、山河の名をひとつひとつ訊ねる うち、胸が苦しくなって涙するのだ。 次に賊将として斬首された大野次郎右衛門の息子のその後の話。 次郎右衛門は息子千秋のために5通の番号をふった 依頼状を残していた。 この依頼状をもった千秋が宛先人を順番に訪ね、世間の差別・冷たさを感じながら、世話になる 貧乏医師に会うまでのシーン。 朝敵の烙印を押されたまま、白眼視され、出自による差別はどうにもならいように 思われていたが、それを救う人がいたのだ。 そして、貫一郎の娘みつを「戦場にでる」という息子嘉一郎から預かった千秋。 自分の生きる道を江戸に求め、医師を志して7年、師の鈴木文弥に言われ、 許婚みつを江戸に呼び寄せ、花嫁道中を済ませて初夜を迎えた会話のシーン。 「んだば、みつ。末永う、よろしゅうな」「いく久しゅう、お願い申しあんす」 こんな台詞、幾久しく忘れてしもうたでござる。 4つめは、冷たくあしらい、切腹して果てた貫一郎の亡骸に話しかける次郎右衛門。 自ら与えた新しい刀も使わず、ぼろぼろの刀で切腹した貫一郎。 次郎右衛門が握った握り飯もそのままにして・・・。 5つめは、刎頚を命ぜられ蟄居する次郎右衛門に佐助が実母に合せるシーン。 いずれのシーンも読み手を捉えて離さないのだ。 こんなに壮絶なシーンが多いにもかかわらず、その間に散りばめられた、 生きるということ、友情、母子の愛情、人情を感じさせてくれるやりとりがあるからだろうか。 終わりに、気になった言葉と貫一郎のもう一人の息子の話がある。 気になった言葉はただひとつなのだが、人間嘲笑うような「糞袋」なのだ、なんどとなく出てくる。 人は人生の大半を、外面の若さや恰好よさや、美醜にとらわれて生きていく、そのことを 痛烈に批判してるのだ。もっと大切なことがあるのだと。 終盤、時代が変わり、農学博士・教授となった、主人公と同姓同名の息子の登場。 これは壮絶な回想シーンばかりだっただけに、読み手はおおきな「ほー」を出してすっかり心が安らいでしまう。 それは、私とて同じだった。 本だけでは物足らず、 同名の映画を観賞した人たちは大いに涙したのではなかろうか。 |
壬生義士伝(上) 買ったわけではない、私の師が、 読んでみたらと渡してくれたのだ。 と言ってもそれなりのいきさつがある。 ある日メル友が、「『壬生義士伝』を読みましたか、この作品の主人公吉村貫一郎は実在する人物なのか」 なんてメールをいただいたことがあり、そのまま歴史好きの師に事実はどうなのかと聞いて みたことがあったのだ。 この質問はしばらくそのままになっていたが、最近この本とともに、「実在」 という答えが師から返ってきたのでありました。 で早速読んでおります。 新しい作家の小説はどんな構成・展開になっているかで読み手は最初力がいる。 いままでの歴史小説なら、主人公の人生にあわせてストーリーが構成・展開されていくのだが。 全く意に反していきなり脱藩した主人公が戦いに敗れ、満身創痍でたどり着いた 先が自藩の屋敷、そしてその屋敷の責任者の幼馴染に切腹を命じられるシーンから入り、 それも会話は、南部藩の方言なのだ。 人生の結末からストーリーに入るのである。 さらに展開もまったく違う。 切腹を命じられた主人公が回想するシーンを挟みながら、 明治以降に生き延びた元新選組隊士 (名前不詳の元同僚、桜庭弥之助、稗田利八[池田七三郎]、藤田五郎[斎藤一])や教え子を訪ね取材し、その時語られた主人公の 生き方と語り手との関係を描いていく。 あたかも、取材者がその時代に生きていたかのように語られていく。 この小説を読んで驚かされるのは、人殺しの話ばかりである。 どうやって腹切りをし、どう首切りの介錯をするのか、と言った惨たらしいシーンや、 どちらの剣が実践に強いのかということばかり描いているように思える。 そんな中で、動乱の幕末、新選組という常に死と一番近い世界で生きながら、主人公の頑な生き方が 浮き彫りにされているのだ。 それは妻と子を思う心、人に教えるということ、子に慕われ、部下に慕われる ということ。 本の構成に戸惑いながら、さらに題名の「壬生(みぶ)」が何のことかわからず状態。 やっとわかったのは、上巻を読み終えて、インターネット検索をしてからなのだ。 京都の地名だったのであります。 各所で語られる主人公の人物像。 書き出してみよう。 「俺達みんなの良心だったんだ」「やさしい人であった・・・ にっこり笑い返す顔ばかりが思い出される」「文武両道に秀でた武士の鑑」 「若いわたしたちをほっとさせてくれた」 と言った話の一方で、・・・ 「要領の悪い不器用な人物」「人斬り貫一、鬼貫」「身なりも悪いし、言葉もひどく訛っている」 「道化中の道化」「見映えはしないし、お金はないし、口下手で、上の人たちからは小馬鹿にされていた」 「銭にきたなかったんだ」 この人物の判定は、読み手のものだ。 元隊士らが語るところと、本人が述懐するところをどう考えるかなのだろう。 しかしまあ介錯シーンは、テレビや映画で見るより、 リアルと言えばリアルだが、なんとも惨たらしい。 こんなシーンが苦手な方には、あまりお勧めできない。 |
いちばん大事なこと 馬鹿なりにほっとした。 200万部も間近の2003年最大のベストセラーとか、 それにあやかってか、書店では筆者の 作品コーナーが設けられるほどである。 読み手の気持ちとして、「二匹目のドジョウ」的同じような内容なら買わないのが 私の信条である。 いつもの書店で立ち読みしたら、まったく中味が違う。 むつかしいことを書いてるようなのだが、安いので買った。 「あとがき」にこんなフレーズがある。 「私の本がたまに売れると、ひょっとしたら次もと思うのであろう。そんなに同じ著者の 本が売れるわけがない。ともあれ私にしてみればドサクサ紛れにいいたいことをいってしまえ、 それでできたのが、この本である」ということなのだ。 あまりに売れすぎると、いろいろとあるらしい。 「序」では、現在の自分の立場から肩書きに触れ、少年の頃の自分自身を振り返る。 今も続けている昆虫採集の話から、なぜ環境問題に関わるようになったかを書いているのだ。 そして、2001年「21世紀『環の国』づくり会議」の委員になったという。 序の終わりに、家に入り込んできた「マイマイカブリ」に託された使命を感じながら書いたのだと。 マイマイカブリに成り代わったとはいえ、読むにしたがい、内容のむつかしさに また「バカの壁」ができ始めた。 困ったものだ。 帯にある「環境問題こそ最大の政治問題」がわからないのである。 壁は崩せそうにない。 壁にぶつけてもどうにもならない頭でそれなりにかってに解釈すると。 「問題は田舎か都会かではない。われわれの生き方、それに対する考え方の問題なのである」 みんなが生き方を変えるには、政治問題にしないかぎり変わらないと言うことだと思うのだが。 さらにもう少し具体的に言うならば、次のフレーズになるのだ。 「田舎に住む利点はなにか。体を使い、日々必要なことを自分でする。こうした作業を続けることで、 まさに『体が丈夫になる』。それが頭を支えるのである。それによって考え方が変わる」 ではそのためにどうするか、「参勤交代をすればいい。1年に3ケ月は、田舎で暮らす。・・・ 都会で残りの9ケ月を過ごす」これを提案しているのだ。 頭で考える都会思考だけではなく、体感しない限りだめであると言っているのだ。 いかがだろう環境問題に興味がある方は、必読の書ではないだろうか。 終わりに私なりに、一番興味があるフレーズを二つをあげてみたい。 それは、「人間の脳は都市を作りたがる」 「なにかをしたら、おかげでこういう結果になった。こう考えたがる人間の性向を、私は『 ああすればこうなる』型の思考と呼ぶ。じつはこれが脳化社会の基本思想である」 |
敵討 彼の歴史小説は、 江戸から明治にかけて歴史の表舞台から少し離れたところで活躍した実在の人物 を取り上げたものが多い。 そういった点から言うとこの作品は異質なものに入るのではないだろうか。 この小説を書いたいきさつが、あとがきにこう書かれている。 すでに読んだ作品なのだが、「夜明けの雷鳴」の中に登場する栗本鋤雲、「彼が書き残したものを 読み漁った。その中に思いも書けぬ事柄が書かれているのに驚き、さらに史家の森銑三氏 もそれを記述しているのを知った。思いもかけぬこととは、ここに私が書いた敵討が老中水野忠邦 の手足となって動いた鳥居耀蔵が深く関与したもので・・・この敵討が単なる個人と個人の刃傷 事件ではなく、その背後に幕末の政争、それによる社会情勢の変遷があるのを知ったのである」 単なる個人の話ではなく、この小説の主人公の敵とされた本庄茂平次がやがて 南町奉行鳥居耀蔵失脚のもとになっていくのである。 もうひとつの「最後の仇討」については、こんなことが書かれている。 これは、「『敵討』の後に起こったもので、・・・当時の日本人の意識の中には依然として江戸時代 の敵討に対する考え方が尾を引いていて、私がこの小説を書いたのは、明治という新しい時代を 迎えた日本人の複雑な心情を描きたかったのである」 といずれも、あとがきに明快に小説の描かれた理由が書かれており、 特段浅学非才な私がコメントなど挟む余地はないようである。 ということで、このままこの「読み感」を終らせたいところだったが、 やはり気になるところがあるので、そのあたりを少し書いてみたい。 敵討、仇討、現代社会ではやくざの世界ではあっても社会一般ではない。 しかし、家族の一人を突然殺され、残された家族の無念さから復讐したくならないのが おかしいほどの事件が頻繁に発生している。 なんとかしたい、なんとかしなければという、復讐する側の心境が見事に描かれているのだ。 特に10年以上のながきに渡って敵を探しながら、 その間いろいろな方法で自分を励まし敵を捜し求める虚しい日々を送るシーン、 時折目に焼き付いた父・母が殺された惨状が目に浮かぶシーン、 やっと見つけた敵をいつどこで討とうかとはやる心を抑えるシーン、 長年の怨念がさせる凄まじい復讐シーン、そして敵討をした後、激しい虚脱感・無力感に 襲われる主人公。 いずれのシーンも、主人公の怨念から生じるエネルギーは凄まじく、読むに耐え難いものばかりである。 復讐もできない被害家族となった現代人にあてはめて考えてみると、裁判が済んで スポットライトがあてられ、コメントを求められた家族の心境がたった一言で言いきれる ものでないことは明らかであろう。 被害家族の真の心の苦しみを知らずに、いかに短くコメントを求めるマスメディアの世界が、 表面だけを伝える愚かな行為であることがわかるのではなかろうか。 |
ソクラテスの口説き方 毎度表紙を飾る土屋教授の人物イラストと、もちろん今回も ふんだんに出てくる土屋画伯の幼稚園生の作品かと 思わせる素晴らしい作品群に圧倒されてしまう。 これは、イラスト発表の本なのかと思い込まされてしまい、読み終わると 頭の中にはエッセイの中身は何も残っていないのだ。 唯一印象的で頭に残っているのは、筆者の縁者、実弟によって書かれた解説「困った」である。 解説を頼まれた実弟が、苦し紛れに書いたこの解説は、このエッセイは説明のしようがない笑激の笑い の世界であり、解説・解読不能であると。 うまく絶賛したものである。 今回のエッセイ群は、どういう意味があるのかよくわからないが、 「戦」「意」「喪」「失」の4つに分けられ、それぞれ14〜15のエッセイが収められている。 あきらかに、助手、学生、妻を意識したもののようである。 それも女性群を意識したものである。 多くのエッセイには、かならずこの3群との会話が出てくる。 ああいえばこういう論理の展開というか見事な裏返し。 思わずうならせられる。 今回の感想は読んで2週間以上も過ぎてしまい、おまけに正月の酒ボケ。 すっかり、読んだことも筆者の名前さえ忘れてしまっていたのだ。 よく漫談とか漫才とか喜劇とか笑いの世界のようにその場では覚えているのだが、 翌日なんで笑っていたのかそんな感じなのだ。 その場が面白ければ、これである。 いつも思うのだが、最近「笑いは癌にいい」と言われるように、 この本は大いに病・老いの世界では貢献するのではなかろうか。 是非、老人ホームに寄贈してもらいたいものだ。 ただ、老人にとっては、字を読むのは苦痛だろうから、CD形式でホームに流すのはどうだろうか。 もちろんイラスト群は拡大してホームに張って欲しい、きっと少年の心を呼び覚ますものに なるだろう。 どうもいけない今週の「読み感」はなんだろう。 中身がないので、ここらで反省して少し内容を取り上げてみたい。 と言っても、題名の「ソクラテスの口説き方」に期待してはいけない。 哲学というより、会話がかけあい漫才のようなものなのである。 しかし、なんと言ってもなるほどと思わせるものがいくつかあるはずである。 すっかり忘れたので、もう一度拾い読みしながら、目を皿のようにしてやっと見つけたのだが。 巻頭の「女の論法の研究」である。 早速、家人との実践で確認してみた。 心憎いほど的を得ているのである。 やはりここではそのフレーズを紹介するしかない。 「女の論法は反論しにくい構造になっている。たとえば、女はよく『3年前に約束した』 などといい張るが、過去のことは検証できないため反論不可能である。さらに、 未来も検証できないことを利用して、『給料が上がったら小遣いを増やす』 などと誓う。実際に給料が上がったら再び過去か未来に話をもっていく」なのだ。 いかがだろう、もっとくわしく知りたい方は、是非一読され実践に備えるか、あきらめの 境地に達してもらわなければならないようだ。 他にも、「老人の優位の文化」「不合理な感情」 「神の性質」「軽蔑の効果」「何が自分の望みか」「人生は無意味か」 などあるが、やはりもうひとつあげるなら「神の性質」であろうか。 これを取り上げるのはなぜか、「日本人の神」に対するいい加減さを見事に論じているのだ。 ここで取り上げられている、9つもある神の性質なるものを書き出し、この「読み感」を終わりにしたい。 「神はたいてい男である、また神は老人である」「老人であるが、神は耳が遠い。 神を呼び出すのに、鈴などをガランガランと鳴らす必要がある」 「美女・美食を好む、・・・人身御供にされるのは美女だし、供え物は一番おいしい食べ物だ」 「当然、神が慈愛に満ちているはずがない」「神は偏狭である」「神は多忙である」 「神は不公平だ」「友達がいない」「意外に馬鹿である」。 いかがだろう、「もう買わなくていい」。 それは困った、大ベストセラーが誕生しないではないか。 |
東電OL殺人事件 事件後、2・3カ月して「新潮45」に10回に渡って連載され、3年後に単行本で発行された。 当時、あまりにも分厚いこの本に、かならず文庫本化されるだろうと、待つこと3年。 今年やっと手頃な値段と厚さになり買ったのだ。 事件から6年、この間、被告ネパール人ゴビンダは、2000年4月14日、 東京地方裁判所で無罪を勝ち取りながら、 強制国外退去の手続きが取られながら、東京拘置所に勾留され続けたのだ。 そして、2000年12月22日東京高裁で有罪の無期懲役、 さらに、ごく最近2003年10月20日最高裁で上告棄却、無期懲役が確定したのである。 なぜ、筆者はこの事件を取材することにしたのか。 「あとがき」にこうある、「冤罪の疑いを濃厚に秘めていたからばかりではない。 追えば追うほど事件の謎と殺された渡辺泰子の謎は深まっていった」 この謎を謎として、読者に届けたい。 そんな気持ちから描かれたノンフィクションなのだ。 さらに、「土地の物語を描きだすことだった」とある。 これは私にはよくわからないが、取材に当たり彼女が娼婦として立った場所、殺された場所、 父親の実家等の土地の風景が妙に符合する。 これを、「暗合」という言葉で筆者は表現している。 この謎を追い続ける取材活動には、何かに取りつかれたような感さえある。 何度となく殺された場所に赴き、ネパールでの超ハードスケジュールをこなし、 学生時代の仲間、東電時代の主人公の父と主人公の仲間、目撃者の取材。 主人公渡辺泰子のエリートOLとしての表の部分と円山町に娼婦として立つ裏の部分を対比させながら、 「なぜ娼婦として殺されたのか」の謎を追い続けているのだ。 筆者は事件を追いながら、主人公の母への手紙をしたためて取材を試みるが、何の音沙汰もなかった。 死者の墓探しをしながら、主人公の家庭環境を推量していく。 なぜ娼婦になったのかという核心は、何となく見えてくるのだが・・・。 それは、東電で重役候補だった溺愛していた父親の死に起因する拒食症、 東電でのライバルのハーバード大学留学と 出向先からの復帰での何らかの挫折に起因する拒食症。 父を溺愛するがゆえに、重役を前に逝ったその無念さを果たせない 情けなさから自責の念にかられ、自分を「もの」にしてとことんまで堕落させているのだと。 文中このことを、坂口安吾の「人間は生き人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な 近道はない」という言葉を引用している。 見えた核心については、 第4部の最後の7章「対話」の中で精神科医斎藤学との話として載せられている。 ただこれも直接本人と面談しての話ではない、過去の非常に似通ったケースに 当てはめたものなのであり、真実は彼女の死と共に墓場の中なのである。 この本は、有罪となったもう一方の主人公ゴビンダの裁判について大きな問題を投げかけている。 日本の裁判の恐ろしさ、もどかしさをこんな言葉で筆者は言っているのだ。 「一度犯人と決めつけたら絶対にそれを見返ししようとしない日本の司法制度の硬直性に、 私はいまさらながら肌に粟だつものをおぼえた。 こんな暗黒裁判がまかり通っていいものなのか」 ゴビンダの無実と真犯人は、結審の時に述べられた弁護人のこんな言葉から・・・ まずは、ゴビンダの無実に関しては、「残留精液が被害者殺害の日のものかどうか、 殺害現場の鍵の返却時期、現場に遺留された陰毛とショルダーバッグの把手の付着物のDNA、 犯行の動機、退店後犯行時間に間にあったかどうか、事件発覚後の言動、定期入れの発見場所等」から 明らかに無実であると。 そして、真犯人は、 「現場に落ちていたB型の陰毛と、使用済みの精液の入ったコンドーム、現場から遠く離れて発見 された被害者の定期入れ、被害者のショルダーバックに入っていたイオカードの使用のされ方。 これらを総合して被害者の一見の売春客であったことが明らかです」これなのだ。 詳しい内容を全く知らなかったこの私でさえ、この本を読めば明らかに真犯人は別にいることがわかる。 6年前、真犯人は「殺ってもどうせ娼婦だから」と思っていたに 違いない。 殺ってからなかなか死体が発見されなかったことで「なんでだろう」と不安になり、 発見されたらエリートOLだったこと、 メディアが大騒ぎしたこと、容疑者が捕まったことで、 一目散に国に帰ったのではなかろうか。 |
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