世界最低最悪の旅 すべて海外旅行に関するものだ。 この年になって、筆者のような旅をしたいと思っているわけではない。 ただ、実際の体験はできなくても、話のタネとして読んでいる。 今回は、筆者の実体験ではない。 筆者が長年発刊してきた個人旅行者のための雑誌「旅行人」に寄せられた体験記で、 世界で最低最悪の話が集められたものなのだ。 と言っても、この世界で、それも最低で、最悪が気になる。 それについては、親切な編者の解説がある。 本書の「最低最悪」とは、「100ドルなくなっちゃったりすると『サイテー!』と 涙し、まずい屋台で腹をこわして『最悪〜っ!』と怒るレベルである」だから 決して構える必要はないのだ。 と思いつつ読みすすめると、後半に行くに従い、ほんとにたまげる体験記に でくわす。 本の構成は、最低・最悪のレベルが後半に行くに従いアップしていく。 表現としておかしいかもしれないが、ようは命への危険度が増すというところだろうか。 所謂パック旅行嫌いで個人で旅行するのが好きな人。 そんな人、またこれからしたいと思ってる人は、必読の書である。 もちろんただ単に旅の面白い話が知りたい人にとっても大いに薦めたい本なのである。 それぞれのチャプタの最初に編者が解説を入れている。 それを十分に読んでかみ砕いてみる。 そうすれば、編者の意図がわかり、期待以上の読み外れはないのだ。 チャプタ1〜4までは、ほんとに小話だからすぐにそれも気楽に読める。 チャプタ5〜7は、とんでもない体験でかなり長文だから、話の展開が面白い。 でも、いずれの話も体験者が生きて旅をしてるからこそ届いた話なので、ご安心あれ。 |
男どき女どき 最近、また買う本の選択に苦労している。 単行本の値段なら、文庫本が3冊買えるなんて思ってしまうと、最新本に手を出さなくなってしまう。 というわけで、店を変えて買うんだと意気込む。 ところが、なかなか決められない。 そこで店内をぐるぐる回って、 向田邦子フェアーなんてのを見つけた。 向田・・・「おおテレビの脚本家で飛行機事故で亡くなった人だ、小説書いていたのか」 ということで、えいやーでやっと買った本なのだ。 もちろん、筆者の作品は初めてである。 20数年前の短編小説とエッセイが編集されている。 短編とエッセイこれで買ったのだ。 短い文章の塊だから、空いた時間にちょこちょこと読めばすぐ読める。 エッセイについては、特段コメントがかけるフレーズもないのでやめておきたい。 1・2チャプタに入っている6編の小説のうち1編だけについて、ちょっと書いてみたい。 感想を書くより、前置きが長くなってなってしまった。 長くなったついでに、帯に「向田さんの描く女性がこんなに魅力的なのは、 恋を発見するのが上手だから」 なんてあったが、魅力的に描かれた女性は、この6編の 中にはなかった。 これは、「向田邦子フェアー」で同一の帯なのだろう。 少し楽しみにしていたのだが。 その1編は「鮒」である。 男のやましい過去をからかうかのように、3人の女性がからみ、 ただ何もわからず男の味方のように振る舞う息子がからむ。 引越しに際し、「鮒」を台所にそっと置いた女(主人公が1年前に 不倫した女)、不倫を知らない妻、妙に耳がいい娘、そして置かれて行った鮒を飼うと言う息子。 小説は、耳がいい娘の「あ、誰か来た」で始まる。 鮒がかってに置かれたこと、我が家ならすぐに捨ててしまうが・・・。 鮒を置かれたことでわかった勘のいい夫と、夫が「鮒吉」と呼んでもわからぬ 勘の鈍い妻、これは逆転でちょっと気になり面白い。 娘の耳のよさはわかるが勘のよさが出て来ない、その点、息子は男に 連れられて不倫した女のその後を調べについて行くが、勘がいいのか、感がいいのか 父への忠誠なのか、食べ物につられて黙っているのか、考えてみると面白い。 いずれにしても、おんなの鈍感さが気になった、我が家ではそうはいかないだろう。 たった20ページほどの文章なのだが、「鮒吉」の嫌いな人間を見分ける所作等、その鮒吉 にからんで男の「不倫」がばれそうでばれない、人間模様が面白く描かれているのです。 |
おやじ丼 今回のはどうだろう、「おやじ」という言葉である。 それも丼にするほどいろいろなのがいるようだ。 おそるおそるページをめくってみた。 笑うに笑えないのである。 いくつかあてはまるところがある。と言っても1事例のすべてにぴったしということではない。 それはもうすでに過去のものとなったもの。 どうもこれから先に起こりそうなもの。 そして進行中というものに当てはまりそうなもの。 と言って、この本に特段気になるフレーズ、そんなものはないのだ。 つまり、フレーズに予防策、対抗策がない、ただひとつだけ違う対応策を とっているのがあった。 「うすい人」のチャプタ。 禿、髪が薄い仲間で癒しあい、お互いが対策を持ち合う何とも涙ぐましい ものなのである。 読むに従いわかったことがある、キーとなる、オヤジの敵となるのは、 どうも妻であり、娘のようであり、職場のOLが主のように思えるのだ。特に娘は強敵である。 亭主関白だとか、頑固オヤジとはほど遠いおやじ連が多い時代、 いかに女性連を味方に入れるしかないようなのである。 まあ読んで笑い飛ばして済ませて、この本をごみ箱に捨てるか。 おおここにも仲間がいたかと、お互い戦士として同情し合うか。 総じておやじそれぞれで対応するしかないようである。 さてさて、と言ったところで、この事例をもとに、脚下照顧してみると。 ありますあります。 周りに、キーとなる敵ももういないお年頃になったので、ちょっと、一人 楽しみながら書いてみることにしようっと・・・。 抜け毛が気になる頭が薄いオヤジもの、これは同じ仲間として抵抗せずに 微笑ましく読んだ。 家事一切を妻から奪った定年男、これはもう少し先の話だが、心したいものである。 オヤジ臭で娘に嫌われる男、ウンチが臭いと言われるので、「消臭力」でクリアしたい。 子もない夫婦、妻に先立たれる男、男やもめ、これは神様だけが知ること、心したい。 そして、ベンチで太股丸出しの女学生・OLを見て楽しむオヤジ、電車でつい覗き過ぎて 女の彼氏に蹴られるのだが、まあできるだけ通勤電車に乗らないようにしたいものである。 終わりに、同じ仲間として、この丼に入れられ、哀らしくもあるが、一生懸命生きているオヤジ たちにささやかな拍手を送りたいものである。 |
ヘタな人生論より徒然草 この最初の言葉しか知らない私のような古典なんて大嫌い人間のために、 現代語訳を付け、さらにその解説がされている本なのだ。 この解説も筆者の身近な事例を織り交ぜ、よりわかりやすく表現されている。 人生も後半に入り、もうへたな人生論よりと言っても、いつ死が訪れても可笑しくないお年頃。 さてさて、賢者の知恵が身につくというのだが・・・。 読み終えて、セカンドライフをどうするか、そんなお年頃でもなるほどと 考えさせてくれるいくつかの教訓がある。 その教訓は後回しにして、そもそも兼好さん、坊主でありながら、世間の人間を よくよく観察していたものだと思う。 私が、かってに抽出したキーワード「女、酒、うわさ、迷信、友、欲、老若、住まい、 ペット、品性・・・」について、どのように情報収集したのだろうか、そのほうが気になる。 それに約700年も前に書かれた本なのに、当時の人間の生き方と 現代の情報化社会に生きる人間の生き方と大差がないことに気付くのだ。 ただ、当時は高齢化社会ではないから、現代人より圧縮された生き方をしていたかもしれない。 私のように歴史に弱く、知識の少ない人間からすれば、兼好が生きた時代背景。 あるいは、兼好さんに関するお話も織り込んで頂けるならば、よりうれしいのでありますがね。 そもそもこの「つれづれ・・・」の言葉さえ知らなかった。 どうも静止状態、ひとつの状態が連続することを言うらしい。 そして、兼好さんは、ひとりの時間をつくって心を静め、心を清めることを勧めているのだ。 忙しげな現代人にとって、耳の痛い話である。 と言っても約700年前もさして変わらないようである。 「蟻のように集まって、東へ西へと急ぎ、南へ北へと走る。・・・いくところがあり、帰る家がある。 夕べには寝て、朝には起きる。忙しそうにしているのは何事なのか、生命の続くことを貪り求め、 利益を求めて、止まるときがない」こんなフレーズがあるのだから・・・。 余談だが、この解説本は、「観る、つき合う、捨てる、暮らす、高める、極める、生きる」の 7つのチャプタからなっている。 原本も徒然草もこの構成なのだろうか気になった。 筆者が、まとめられたというのであるなら、実にわかりやすくお見事であります。 さてさて、気になる教訓。 まずは、「どんな女であっても、朝夕暮らして顔をつき合わせているとずいぶんと気に障ることもあり、 きっと憎々しくもなるだろう。・・・他所に住んだままで、ときどき通い住むなら、そのほうが年月 が経っても絶えない仲となるだろう」なんてある。 なんと単身赴任を奨励しているようなのです。ありがたやありがたや。 次に、「未熟な初心者こそ一流の人に混じって学べ」なのだ。 どういうことか、さらにくわしく「芸能を身につけようとする人は・・・まだまったくの未熟なうちから、 上手な人のなかに混じって、貶されても笑われても恥ずかしがらず、平気で押し通して稽古に励む人は、 生まれつきの天分がなくても、稽古の道で立ち止まることなく、また勝手きままにすることなく年月を 送るから、器用だが稽古に励まない人よりも、最後は上手といわれる地位に達し、人徳も備わり、 人に認められて、並ぶ者のない名声を得るのである」となる。 我流が好きな私、貶されても笑われても恥ずかしがらず、 セカンドライフでの芸事を先生について学ぶ教訓にしたいものである、なんて・・・。 次に気にいった短縮系フレーズ(小見出し)を羅列してみよう。 「なにもしない批評より偽善でも行動を」「人を質す愚かさ、わが身を正す大切さ」 「余りある財産は苦労と愚行をもたらす」「心を狂わす深酒、心を通わす一献」 「自然を感受する心が人間らしさを育む」「点でとらえずプロセスで見る」 「風に散る花のように人の心は移ろいやすい」「人生は一日として思いどおりにならない」。 「一生は一瞬の積み重ね、ひたすら今を大切に」「短い一生だからこそ、ものごとに優先順位を」 「大事なことを成し遂げるには、まず環境を整える」「悲愴な決意は空転のもと、重い決断こそ 静かな心で」 最後に「死と向き合って一日一日を丁寧に」、いかがだろう。 気になった方は、是非読まれるべし、きっと気になるフレーズが3つ以上は見つかるよ。 |
生きるかなしみ その編者が選んだ「生きる」ということがこんなに辛い、悲しい、哀しいものなのか。 それを考えさせてくれる作品が12編収められた文庫本なのだ。 その最初に編者が「断念するということ」の中で、いかに断念するかを説く。 他人より少しでもいい暮らし・地位を求めようとする現代人、昨日より今日、 さらに刺激的なことを求めようとする現代人、老いを認めずいつまでも若くありたいと 願う現代人。そんな現代人の生き方に、警告を発し、こんなフレーズを送る。 「大切なのは可能性に次々と挑戦することではなく、心の持ちようなのでは あるまいか?可能性があってもあるところで断念して心の平安を手にすることなのでは ないだろうか?」いかがだろう。 私は、極めて楽天的である。と言って「老い」とか「死」を意識してないわけではない。 でも、しっかりとした「死生観」があるわけでもない。 毎年、3万人以上の自殺者を出す日本という国、多くの人が頑張り過ぎて「うつ」等の 精神的な病に苦しんでいる、そんな人たちに、「そんなに頑張らなくていいんだよ」 、それは自分だけではなくもちろん家族にも過度の 期待をするものではないんだよと教えてくれているのだ。 どの作品が、より「生きるかなしみ」を教えてくれるというものでもない。 それは、読んだ人それぞれが感じればいいこと。 ただ、気が重くなることがはなから嫌いな人は直ぐに投げ出してしまうかもしれない。 こんなことは、自分には到底起こりえないこととして、身近な問題かどうかで捉えてしまう。 そんな作品には、貧乏の余り子どもにせがまれ殺してしまう親子を描いた「山の人生}。 あるいは、シベリア抑留生活が描かれた「望郷と海」。 復員の事務に携わる人が、父の戦死確認に来た幼い子に涙するのを描いた「ふたつの悲しみ」。 自国の姓を奪われ、母国語も憶えることなく生きてきた在日朝鮮人が書いた 「失われた私の朝鮮を求めて」。 「重い」・・・よく考えて欲しい。 そこには、生きるということの本当のかなしみが見える。 私は、「ふたつの悲しみ」に涙を流さずにはいられなかった。 おわりに、楽天的な私が一番素直に読めた作品は、佐藤愛子著「覚悟を決める・最後の修業」である。 その中のこんなフレーズ−これからの老人は老いの孤独に耐え、肉体の衰えや病の苦痛に耐え、 死にたくてもなかなか死なせてくれない現代医学にも耐え、 人に迷惑をかけていることの情けなさ、申しわけなさにも耐え、そのすべてを恨まず悲しまず 受け入れる心構えを作っておかなければならないのである−が、これから高齢化社会を生きる 私に大いに肝に銘じなければいけないことだと思ったのだ。 そして最後に、忘れてはいけない編者のこのフレーズ「目をそむければ暗いことは消えてなくなる だろうと願っている人を楽天的とはいえない。本来の意味での楽天性とは、人間の暗部 にも目が行き届き、その上で尚、肯定的に人生を生きることをいうだろう」を取り上げておきたい。 |
今日の芸術 またまたいい本に出会えたという感じなのである。 というのは、やっと決意して、いま自由な表現の楽しみに没頭しているからなのだ。 決して、うまいといえない自分の作品が次から次へと出来あがっている。 人真似でなく、へたななりに自分のこの手が作りあげたものなのだ。 作品作りが、なんでこんなに楽しいのか、この本を読んで初めて教えられたのだ。 「芸術は爆発だ」とまではいかなくても、作っても作っても、また作りたくなる。 いままでこんなに仕事以外で燃焼したことはない。 少しぼや程度にエネルギーが燃えているようである。 書き出しは、「あなたはかつて耳にしたことがない、まったく思いもかけないこと、 いままでの常識とは正反対のことばかりを聞かれると思います」で始まる。 この書き出しの通り、思いがけないことばかりが書かれている。 気位が高く、手の届かないと思っていた芸術を筆者は、 「古い考えにわざわいされて、まだ芸術をわかりにくい ものとして敬遠し、他人ごとのように考えている人があります。私は、このすべての人びとの 生活自体であり、生きがいである今日の芸術にたいして、ウカツでいる人が多いのがもどかしい」 という。 そして「あなた自身の奥底にひそんでいて自分で気がつかないでいる、芸術にたいする 実力をひきだしてあげたい。それがこの本の目的なのです」というのだ。 誰にでも芸術的センスはあるのだ、と思わせてくれる。 なぜ、こんなことまで言えるのだろうか。 そのあたりを、読み進めていくほどに「理路整然」と説いてくれる。 「芸術なんてなんでもない」、「芸術と芸ごと」の違い、「技能と技術」の違い。 芸術はわからないと思っている自分たちが、この世界での 物事を混同していることを教えられるのだ。 さらに、こんなことまで筆者は言い切る。 「芸術のばあいは、ちがいます。技能は必要ないのです。無経験の素人でも、感覚と たくましい精神があれば、いつでも芸術家になれる・・・」 そして「芸術は決意の問題」なのだと。 いかがだろう。 少しでも刺激を受けた人は、「見ることから描くことへ」。 とにかくやってみることなのであります。 この本は、1954年に発刊されたものである。 読み進めるごとに、その力強さに圧倒される。 文庫本という小さな本なのに、エネルギーがどんどん伝わってくるのだ。 最後に、そのエネルギーをもらえた多くのフレーズがあるが、ほとんどは「気になる フレーズ」に譲るとして、それでも20フレーズもあるのだから、よっぽど 感動したようである。 特に感動したフレーズをひとつ披露しておこう。 「ほんとうに自由な表現の喜びというものを体得されたならば、パチンコやおしゃべり 以上に、さらにすばらしい生命の燃焼する場所がそこにあることがおわかりになると 思います」 へぼななりに、大いに勇気付けられたのでした。 |
こぼれ種 「ごく身近にある木を草を、改めて足を止め、心を寄せて見れば、まだ見ぬ方の 花に誘われて、大そうな道草を続けてきた気がする。ふり返れば今までにない 楽しい仕合せな時を恵まれた」 道草、今までにない楽しい仕合せ・・・これに引かれたのである。 筆者「青木玉」は、幸田露伴を祖父に、幸田文を母に持つ。 それぞれのチャプタの中には、植物好きだった祖父・母の想い出を訪ねながら、 改めて樹木の長い生に思いを馳せる。 若い頃はさほど感心のなかった四季折々のいろいろな植物の出会いを 祖父・母の思い出を織り交ぜながらエッセイで描いたものなのだ。 各エッセイごとに訪ねた木々・植物の写真も添えられ、 さらに巻末には、娘から「ハンカチの春を待って」の一文も寄せられている。 本を求めた私自身、3年ほど前から始めた散歩で、鳥観察に楽しみを見出した。 そして、鳥だけでは飽き足らず野花・小さな生き物等々、自然の移り変わりに 目を凝らし、耳を傾け、鼻を効かす散歩道になったのだ。 そんなところから、この本をヒントにもっと自然・四季折々を楽しめるものはないかと、 目を輝かせながら読み進めたのであるが・・・。 おのれの知識のなさから、言葉の壁に当ってしまったのである。 少しその言葉を書き出してみると。 風倒木、実生、花序、照葉、板根、萼、苞・・・・・ さらに、写真があってもすべて同じように見え、 木々の名前も見分け方もさっぱりわからないから、大困り、筆者もかなり苦戦している部分も あるにはあるのだが。 これは今でこそわかるようになったが、鳥の見分け方よりさらに厳しいような!! と言っても、読んでて時間がゆっくり動いてると感じられたり、家族の暖かさを感じて 和むものが大いにあり、各チャプタが実に印象深い。 ということで、薄学の我がもらった楽しい話しを2・3紹介しよう。 まずは、初めの「目の前の椋」、母の家の前にある4メートルもある「榎」に間違われた 「椋」の写真が載せられている。 祖父から「榎」と教えられていたこの木、木に精しい人たちは目の前のこの木に関心を持ち、 「榎」だ、「椋」だ、とまちまちなのである。 そんな疑問から、母娘の勉強が始まり、行き着いたのは「椋」だったという話なのだ。 「露伴」も思わぬ波紋に笑っているのではなかろうか。 次のお話は「柳絮舞う」であるが、まずこの字が読めない。 そして、柳にも二種類(柳「シダレヤナギ」・楊「タチヤナギ」)あること初めて知り、知らなかった楊について、筆者がヘルシンキの公園で 体験した楽しい話。 梅雨の頃、訪ねたその公園に、白いふわふわと浮遊していたものが、「柳絮」(りゅうじょ)なのだ。 13年振りにその「柳絮」(りゅうじょ)を求めて、都立水元公園での童心にかえる体験話。 読んでて思った大切なことがひとつある。 自然の中で「樹のささやきや草のつぶやき」を聞けるようになるには、 童心のような気持ちになれるかということなのだ。 童心にかえって、自然を見てみると、いままで動いていたけど見えなかった木々・植物たちの 「生」の声が聞こえるのである。 だから、生活に忙しく、自然に耳を傾け、目を凝らす、そんな余裕のない、 興味もない人には何の楽しみも見つけられないのである。そこのお父さん少し一休みしてみては・・・。 |
老いてこそ人生 でも、ベストセラーになるだろうから、文庫本になるまでと、ほっておいた。 ちょうど1年で文庫本化されたわけである。 早速、「老いこそ」がなぜ人生なのか、貪るように読んだ。 最終章の「死は忌まわしく、恐ろしい。されども」に至るまで、どの章にも老いの先に来る こんなフレーズがこれでもかと出てくるのだ。 「人間誰しも必ず年をとるのだし、その先にやがては死なぬ人間などいる訳がないのだから」 「老い」やがてかならずくる「死」。 しかし、誰もがわかっていながら、自分が死ぬとは信じていない。 そんな人のために、何度も繰り返して、死を意識せよ、意識して 経験と培ってきた冷静さで老いを迎え討てと説くのである。 各チャプタは、筆者自身が自分の人生を回想しながら、 どんな時に「老い」を感じたかが書かれている。 それは、突然の耳鳴りであり、航海での肋骨骨折であり、子供の成長であり、弟裕次郎のアル中であり、 サッカーで腰を痛め、持病となった腰痛であり、友の死なのだ。 筆者は、読む限り、人の数倍に当る貴重な体験と師と言われる人との出会いがあるようだ。 その出会いには、肝臓病治療での漢方医・矢数道明・圭道父子。 腰痛治療での鍼灸師・岡田明祐、その他にも整体師・野口晴哉、そして気功師・熊井滋、 あるいは政治家として尊敬してきた賀屋興宣。 病気といったものに無縁な私には、いくら名医だと言われてもわからないが、 やはり、腰痛という持病を持ちながらも、今もかくしゃくとして第一線で活躍する 筆者の健康維持方法が分かり過ぎるほど分かるのである。 さて、何度も「死を意識せよ」と説く筆者、ではその結果どうなると言ってるのか。 それは、「死というものを恐れの対象として意識しだしたことで、 人間の感覚、官能は鋭敏になってきてすべて味覚が鋭いものになってくる。 性愛の味わいも食べ物の味覚もすべてが今まで以上に、甘美なものになってきます」 この一文でわかるのだ。 すなわち、生きてることの喜びを知ることができるのである。 では、老いに対する秘策、死の迎え方はあるのか。 そんなものはありはしない。 要は、「死の受け取り方、死の迎え方は当人の自由による、いい換えれば当人の心得、 覚悟次第だということです。そしてそれを作り与えるのは、それぞれの老いをいかに 受け取り、過ごすかということでしょう」ということなのである。 セカンドライフを前に、少し死を意識し始め、ひしひしと老いを感じ、もんもんとしている団塊世代には、 必読の1冊ではないかと思われる。 |
元気が出る患者学 この本の題名は、ずばり「死ぬため」の教養。 死ぬのになぜ教養がいるのか、少し疑問に思うのだが・・・。 帯には、「『宗教」なんてもういらない」とある。 これなのだ、世界各地でいがみ合い戦争まで起して相手を殺さないと済まない宗教。 信ずるものは救われる、相手を殺しても救われるというのがよくわからないのだ私には。 このあたりが、はじめにを読めばわかってくる。 要は死を受け入れるための覚悟なのだ。 宗教を信じられない人たちに必要なのは「教養」なのだと。 死を身近に体験しなくなった私たちは、生に固執しすぎて死を遠ざけてしまっている。 この本には、筆者自身が「死ぬ思い」を体験しながら、その病の床でひも解いたいろいろ な本を紹介している。 筆者は、この死ぬ思いを5度も体験していることにまず驚くのだが・・・。 この本の中では、全部で41冊もの本が紹介されている。ちょっとだけ題名を紹介してみよう。 まずは、「ミニヤコンカ奇跡の生還」一緒に登山した仲間は死に、本人は奇跡的に助かった話。 「死をめぐる対話」、「大往生事典」、「死の淵より」、「人間この未知なるもの」、 「たけしの死ぬための生き方」、「死と愛」、「楢山節考」、「人間らしい死にかた」、 「おだやかな死」、「死ぬ瞬間」、「私の死生観」。 どの本を読めばいい死に方の処方箋が得られるのかわからない。 またどの本を読めば死に対する覚悟できるのか、これもわからない。 死ぬ思いをした人からのメッセージなのだが、体験のない、少ないものには本音を言えばむつかしい。 やはり近親者の死を体験するか、自分自身が死ぬ思いをするしかないと思うのだが。 それはごめん被りたい。 もともと自分に照らしても、「死」「老い」をテーマにした本を読み始めたきっかけは? やはり、母の長い闘病生活とやがて死を迎えた過程からである。 死に直面しても動じず、こころがやすらぐまでには、まだまだ教養が十分とはいえないようだ。 |
死ぬための教養 この本の題名は、ずばり「死ぬため」の教養。 死ぬのになぜ教養がいるのか、少し疑問に思うのだが・・・。 帯には、「『宗教」なんてもういらない」とある。 これなのだ、世界各地でいがみ合い戦争まで起して相手を殺さないと済まない宗教。 信ずるものは救われる、相手を殺しても救われるというのがよくわからないのだ私には。 このあたりが、はじめにを読めばわかってくる。 要は死を受け入れるための覚悟なのだ。 宗教を信じられない人たちに必要なのは「教養」なのだと。 死を身近に体験しなくなった私たちは、生に固執しすぎて死を遠ざけてしまっている。 この本には、筆者自身が「死ぬ思い」を体験しながら、その病の床でひも解いたいろいろ な本を紹介している。 筆者は、この死ぬ思いを5度も体験していることにまず驚くのだが・・・。 この本の中では、全部で41冊もの本が紹介されている。ちょっとだけ題名を紹介してみよう。 まずは、「ミニヤコンカ奇跡の生還」一緒に登山した仲間は死に、本人は奇跡的に助かった話。 「死をめぐる対話」、「大往生事典」、「死の淵より」、「人間この未知なるもの」、 「たけしの死ぬための生き方」、「死と愛」、「楢山節考」、「人間らしい死にかた」、 「おだやかな死」、「死ぬ瞬間」、「私の死生観」。 どの本を読めばいい死に方の処方箋が得られるのかわからない。 またどの本を読めば死に対する覚悟できるのか、これもわからない。 死ぬ思いをした人からのメッセージなのだが、体験のない、少ないものには本音を言えばむつかしい。 やはり近親者の死を体験するか、自分自身が死ぬ思いをするしかないと思うのだが。 それはごめん被りたい。 もともと自分に照らしても、「死」「老い」をテーマにした本を読み始めたきっかけは? やはり、母の長い闘病生活とやがて死を迎えた過程からである。 死に直面しても動じず、こころがやすらぐまでには、まだまだ教養が十分とはいえないようだ。 |
文人悪食 1冊目は「ざぶん」という題名で、副題に文士・温泉・放蕩がキーワードになっているものだった。 今回は、文士が好きだった食べ物をメインテーマに、37名の好み等を調べ上げている。 ある意味興味本位の話題である。 興味のない方からすればどうでもいいことなのだ。 自分がよく読む本の作家のことをもう少し知りたい人にとっては、話のネタ本としてはもってこいである。 また、食・メニューという観点から、材料とか、どんな味がするのか、どこの店で食べていたのか? 調べてみたい、実際に食べてみたい人は多いに受けるだろう。 ただ、その当時の店がいまだに味も変わらず商売してるかどうかは保証のかぎりではないのである。 そんなところが気になる読者のために筆者は、現在の店を訪ねる。 そして、実際に味を確かめているのだ。 その感想が書かれている部分は、ちまたでよく売れている「食べ歩き」本のようでもある。 さて、さて目次にはどのように書かれているか、文士の名とその代表的な好みの食なのだ。 この目次を見ただけで、明らかに変な奴だと思う人が何人かいる。 それは、森鴎外の饅頭茶漬であり、萩原朔太郎の雲雀料理などだろう。 この本を書くまでに、筆者は5年を要し、参考とした文献はなんと7百余りと「あとがき」 に書かれている。 これだけ読めば、完全に文士情報本といえる。 書かれている内容には、各文士の癖、女癖、男癖、単なる癖、死に方、酒、煙草、ドラッグもある。 筆者、これらの情報をどのようにして得たのか。 それは、各文士が書いた作品、その中にちりばめられた食に関する情報。 あるいは、夫人・娘・息子や文士友達が残した本から木目細かに探している。 それは、抜き出された情報から明らかなのだが、ほんとに気が遠くなる作業なのだ。 ただ、そういった情報入手とは違う文士のものもある。 それは、彼自身が編集者という立場から得た情報や弟子であった時に得た情報である。 その文士には、檀一雄、深沢七郎、池波正太郎、三島由紀夫である。 これらの文士の好み食を語る筆者は、過去を懐かしむかのようである。 懐かしみながら、その料理店を訪れて、いまだ健在のご主人と昔の話をしながら、 あたかも隣にその文士がいるかのように話が進む。 終わりになるが、いろいろな文士の好きな料理を調べながら、時には 想い出にひたる筆者、彼の一番の好みは何なのか聞いてみたい気がした・・・・。 |
快楽生活術 それは、筆者もまえがきで触れているが、「繁華街の風俗店でお金で買う さまざまな快楽・・・、タイトルを見て本書を手にとることをためらった人・・・」、 でも私の場合、全く買うのにためらいはなかった。 というのは、偏った快楽も嫌いではないからである。 この本は、ここ数年、私が求めてきたセカンドライフについて、どのようにすれば自分のしたいこと が見つけられ、どのようにすればうまく実行できるのか、それに十分すぎるほど応えてくれた本なのだ。 読み進めながら、自分のものになるよう、するよう何度も読み返しながら前に進んだ。 さらに合点がいくように、過去、現在、未来の快楽活動を、 お茶の間プロジェクト用紙の順序に従い、書き込んでみた。 なんとなんとスムーズに書き込めるではないか。 いままでいろいろなノウハウ本を読んだが、実にやさしい解説なのである。 問題は筆者が言うように「着手」するかどうかなのだ。 本の構成は、T部では「快楽生活をすすめ」を説き、U部で具体的な進め方を説いている。 読者はまず、こんなフレーズにハッとさせられる。 「わたしたちは、本当にやりたいことや好きなこと、心底から楽しむことが意外とできなくなっています。 それは、『無趣味な人間と言われたくないから』とか『健康のため』とか『定年後のために』など、 純粋でない動機でやっていることが多いからです」、気付かれされた人が多いのではなかろうか。 さらに、「快楽活動を純粋な動機で楽しむことの正当性は、またしたくなるからするという人間の 基本的な要求にあります」と続く。 この「またしたくなる」この言葉なのだ。 それが本当の自分に合った「快楽活動」なのである。納得できた。 そして、快楽生活は、活動に必要な諸条件を、恩恵に浴する(援助される)→自助努力する→ 援助するという相互依存の行為によって、依存段階から自律段階そして貢献段階へと ステップアップするというのだ。 さてさて、わが快楽活動は、このような発展段階を踏んでいくのでありましょうか。 まあ、あまりむつかしいことは考えずにどんどん動いて、続けて見ようと思う。 5つの快楽活動要求についてちょっと書き出して見よう。 自然に対する欲求、人・社会に対する欲求、知識に関する欲求、体に対する欲求、心に対する欲求。 これらの欲求からやりたいことが、過去したこと、現在してること、新しく挑戦したいことが 出てくれば、もうしめたものである。 次のステップで次の諸条件の整備を進めるのだ。 目標→技能→体調→態度→仲間→用品→空間→時間→情報→資金 セカンドライフでやりたいことが見つからない人、過去快楽活動に挫折した人、 少し興味が湧いてきた人、是非一読をお勧めしたい本である。 最後に、自分への戒めとして、 押し付けられた情報(テレビの視聴率稼ぎの暴力やセックスの快楽、インターネット等々) に惑わされて、自分が本当に楽しいことが何なのかを忘れないようにしたいものである。 |
バカの壁 過去何冊か脳に関する本を読んのだが、どうしてもこのバカの壁に当たってしまうのだ。 要はわかったようでわからないのである。 そうしたら、日曜日のテレビ番組で筆者が石原慎太郎と竹村健一とを交えながら、この本の 話をしているではないか。 その話を聞いてるときは、「わかった」かのように頷きながらであった。 やはりもっと知りたい、で買ってしまったのだが・・・。 この本、筆者の話を編集部の人たちが文章化したとはいえ、やはり自分の「バカの壁」に当たる。 こんなことが書いてある、「あることについて『知ってる』ということは『わかってる』ということではない」というのだ。 さらに読み進めると、実際に身体が実体験し、自分のこととして学ばない限り、 「わかった」とは言えないのであると。 ということで、自分の実体験に照らして見ることにしてみた。 それは、散歩して鳥や花を観察するようになってから、初めて気づいたことなのだが、 自然は動いているということがやっとわかったということである。 野山、川端、道端、田端、鳥の声、咲く野花・・・。 季節の移り変わりとともに、いろいろな鳥が飛び、相手を求めて囀り、魚は川で泳ぎ、産卵する、 野草は芽を出し、花を咲かせてやがて散る。 長年日常生活をして道を歩いているときは、ただ単に鳥が鳴いてるなあ、どんな鳴き声のどんな鳥なのか、 なんで今の季節か、なんて思ったこともなかった。 それは野草とて同じで、ただ咲いてるなあだけだった。 確かに季節が変わってるから、自然も変わってる、それは知っているよ、わかってるよ。と思っていた。 でも、実際に散歩をし始めて初めて、自然の動きはこういうことだったのかとわかったのだ。 やはりいままで壁を作っていた。 それがバカという壁なのである。 ただ私の脳は、読んでる途中までまだよくわかっていなかった。 なるほどと思ったのは、「知るということは、自分がガラッと変わることです。したがって、 世界がまったく変わってしまう。見え方が変わってしまう。それが昨日までと殆ど同じ 世界でも」これでやっとわかったのである。 それをわかりやすくするため、この本では脳内の一次方程式で表している。 y=ax、入力情報xに脳の中でaという係数をかけて出てきた結果、反応がyという 出力情報になる。 筆者はこのaを「現実の重み」と呼んでいる。 つまり、この重みがゼロ、限りなくゼロに近いならば、 知っていてもなんら行動に影響しない、感想なんかもてないと言うこと、 「知ってるがわかってはいない」ということなのだ。 そういえば、いくら話をしてもわかってもらえない。 わかろうとしない。 それは、人の話を聞く前からこのバカの壁を作っているのだ。 だから、この壁を作ってる人には、話してもわからないのである。 明治の宰相、「話せばわかる」という 言葉を残して暗殺された犬養毅、バカの壁を作っていた陸軍兵士、彼の暗殺者にいくら話しても無駄だったのである。 もう二つ面白い話があった。その1つは、「『個性を伸ばせ』という欺瞞」という話。 人間として生まれた以上、みんな遺伝子の配列が違う。 違うということが、そもそも個性なのであるという。それでも「独創性豊かな子供を作る」 「個性を発揮しろ」とか言われている。 しかし、世の中が求めているのは、「共通了解」、「共通」を追求するのが自然の流れだと すれば、おかしな話なのだ。 芥川龍之介の作品「侏儒の言葉」の中にある人間は「遺伝・環境・運命」で決まるとあるように、 当然みんなそれぞれ違うのである。 もうひとつは、第4章の「万物流転、、情報不変」である。 私は大きな誤解をしていた、情報は変化するが、人は変わらないと。 それは、全くの逆なのだ、情報そのものは変わらないが、人は変わるのである。 最終章では、筆者の考えはここに行き着くのかという感じがしたのだが、それは「一元論を超えて」 である。 「現代世界の3分の2が一元論者だということは、絶対に注意しなくてはいけない点です。 イスラム教、ユダヤ教、キリスト教は、結局、一元論の宗教です」「一元論にはまれば、・・・ 向こう側のこと、自分と違う立場の人のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなる」 このフレーズを読んで思い出した。 それは、梅原猛著「梅原猛の授業『仏教』」の本にあるこんなフレーズである。 「一神教では今の世界はどうにもならない」、「多神論の復活です。 神道も仏教も多神論です。もちろん自分の信じる神や仏も大切にしますが、 他人の信じる神や仏も大切にするという精神です」、いかがだろう、同じ考えなのである。 終わりに、愚問かもしれないが、読んで「わかった」かと問われれば、 安易には「わかった」とは言えないのである。 確かに読んだが、むつかしいところは飛ばしたから、やはりわかってないのである。 やはり「バカの壁」はなくならないのだ。 |
もうひとつの日本は可能だ とはいえ最近はご無沙汰で、3年前に読んだ「浪費なき成長」以来である。 今回の作品は、前回の作品発表後の世界、日本の政治経済を検証し、より一層新しい真の構造改革 の必要性を説いた作品なのだ。 またすでに起りつつある、新しい概念のニューエコノミーを自ら調査し、内橋理論の 方向性の正しさを確信しているようでもある。 だから、チャプタを読む毎ににその力強さに圧倒されてしまう。 いつも、不良債権の早期処理の連呼、さらなる経済成長を期待する声、 先日読んだ、堺屋太一の「高齢化大好機」に疑問を感じながら、この作品に行き当たった。 まず前書きの「読者へ」で訴える。 生き物としての原点に戻らないかぎり、人々が望む経済もないと強く言い切る。 35ページに渡るこの中で、規制緩和一辺倒論、市場競争原理至上主義、 新自由主義的グローバリゼーションに対し、警鐘を鳴らしているのだ。 スーザン・ジョージの「WTO徹底批判」とヴィヴィアンヌ・フォレステルの 「経済の恐怖ー雇用の消滅と人間の尊厳」の考え方に大いに賛同 しながら、ミルトン・フリードマンの市場競争原理至上主義や日本に蔓延る グローバリズム宿命論をスパッと切る。 そして、次のように、 「競争一本やりから人びとの連帯、参加そして共生へ。フーズ(食糧)のF、 エナジーのE(エネルギー)、人間を慈しむC(ケア)、 すなわちFECの地域内自給自足権(圏)確立。このような方向へ向けて大きく 舵を切り換えることこそが真の『構造改革』なのである」と持論を展開するのである。 経済と言えばどうしてもむつかしい用語、理論がある、だから何度か読み返しても よくわからないところは飛ばして読み進めた。 中途半端だったかもしれないけど、大意は十分掴めたと思っている。 第一章では、私たちを襲っている無力感はどこから来るのか、根元の 「ご破算主義」−既得権の破壊、競争至上主義、一人勝ち−と、 構造改革論者の教祖ミルトン・フリードマンの考え方を分析して、矛盾を 指摘しながら、痛烈に批判している。 さらに、人口減少時代を怖れるなら、もっとやる事があるはずだと次のように日本の政治に訴える。 いまを生きる人びとが精一杯働ける機会、目的、場を用意する努力をしないのかと。 第二章では、最近の日本経済を分析し、三つの虚説、課税スタンダード「定説」の虚妄、 もはや修復不能・日本の財政毀損、日本国債の格付けから「一喜一憂資本主義」を超えて。 それぞれで分かりやすく説明を加えながら、そして、市民資本の形成の必要性を説くのである。 特に、「三つの虚説」は実にわかりやすい。 @個人金融資産が1400兆円もあるのだから、という決まり文句A不良債権処理が進まないから 景気が回復しないB高齢者が大きな資産を持っている。 これを読みながら、いつも同じ事を連呼している経済学者はどう反論するのだろうか、と思ってしまうのだ。 第三章では、揺らぐアメリカ社会の分析に、エンロン、ワールドコム、ゼロックス・・・を引き出し、 特にエンロンの商売の仕方をスッパリと切るところは見事なのだ。 これら企業は古い概念のニューエコノミーの旗手だと。 そして、新しい概念のニューエコノミー企業としてベン&ジェリー社を登場させ、まさにこの企業が 筆者が説く未来型の消費者と企業のあり方の共生モデルだと。 最終章では、新たな発展モデルとして、食料・エネルギー・ケアの自給国デンマークを登場させ、 日本も国家政策の大きな転換をと、強く促すのだ。 そして、少しずつ芽生えている、新しい形のニューエコノミーとして、タオル業界、地産地消運動、 「水」を生み出す一枚の膜を開発する企業、廃棄物を原料にエネルギーを創出する 「九州エコタウン」を取り上げている。 キーワードは、提唱者グンタ・パウリがいう「ゼロ・エミッション」(廃棄物ゼロ)なのである。 この本は、現自民党に変わる勢力が読むべき本である。 現在の政治家たちが、将来の日本進むべき方向性をどう考えているのか。 人間を原点に考え、地球環境の中で生きるための経済のあり方はどうあるべきかの作品なのである。 そして、小泉構造改革によく見えない、旗振りだけでどうもおかしい、将来の日本が見えない と感じている人たちには必読の書だと思う。 |
第一阿房列車 作品は2冊目、一冊目の「百鬼園随筆」が面白かったので、他の作品を探していたのだ。 会話の部分が少ないので、文庫本の割に、読み切るのにやや時間を要した。 また、ひたすら汽車旅の他愛無い話なのであるが・・・。 列車内での、話し相手のヒマラヤ山系との会話に始まり、旅先での鉄道関係者、知人、 旅館での女中とのやりとり等々。 いずれもかみ合ってるようでかみ合ってない話。 それは、あたかも落語、漫談の世界のようである。 例えば、その内容と話し相手は、「D51の愛称」での駅員同士、「人の行く所」での婦人との やり取り、「乗り継ぎ」での助役とのやり取り、 さらに、「石と岩の境目」での山系とのやり取り、「お結び」や「無人島」での女中とやり取り、 ・・・といろいろと取り揃えられている。 文庫本化が、昭和30年5月だから、題材としては50年前。 風俗は様変わりしたとは言え、読んでもなんら支障なくイメージが描ける。 この話し相手の人物に、体の特徴・所作等?から付けたらしいあだ名の、 ヒマラヤ山系だ、夢袋だ、椰子だ、誰何(すいか)だ、 懸念仏だ・・・と登場させるところは師匠の漱石「坊ちゃん」を意識してのことなのだろうか。 その他、このエッセイを読んで、感じたことをもう少し書いて見ると。 まずは、百關謳カは岡山出身である。私もそうである。懐かしいその頃の風景と 昔の思い出が車窓を通して書かれている部分、たった4ページなのだが、 何とも言えぬ哀愁を覚えてしまうのだ。 それは、「古里の夏霞」という題で書かれている。私が50代という年齢に達しているから 余計なのかもしれない。 さらに、読み進めながら、当時は時間がゆったりと過ぎていたのだと言うことである。 それは、いろいろな人との会話であり、一番面白く読んだのは、時間待ちに床屋を 探して散髪までするところである。 そして、宿泊をする駅に到着した時は、必ず駅長室を訪ね、駄弁をしていくのだ。 もうひとつ、当時を偲ばす風俗。 それは、どてら、中折帽、水菓子、鉄道唱歌、番傘、外套、懐中時計・・・。 懐かしく読んだ。 最後に笑ったのは、この旅程−東京、大阪から始まり、古里も経由して、鹿児島、 東北、奥羽−が当時どのぐらい日数がかかったのかはわからないが、初めから、前歯がぐらぐらして 始まった旅。 ぐらぐらさせながら、食べにくいはずの食べ物もなんとか食べこなし。 なんとなんと終わりの旅までそのままだったのだ。 もう1つ付け加えるなら、百關謳カは百關謳カなりの旅の法則があるようである。 人が行くような所へは行かない、かならず旅費は人から借金して出かける、駅長室を訪ねる、 宿泊地で名所周りをせず、朝はゆったりと起きる(もっとも二日酔い)、 旅館での女中とのやり取りを楽しみ、そして真髄は「なんの用事もないけれど」とふらっと 旅に出ることなのである。旅好きな方たちへ、こんな旅はできそうですかな!! |
高齢化大好機 気になるわがセカンドライフの時代を見通した話である。 「高齢化はニューフロンティア、長寿はめでたい、そして楽しい」 と言った「はじめに」の見出しで始まる、「高齢化大好機」という題名だが、 一筋縄ではいかぬ市場のようである。 世の中の悲観論を吹っ切るかのように、「消費市場の拡大」という字が躍る。 帯にも「団塊の世代」のビッグウェーブがまた来る! 「金持ち・知恵持ち・時間持ち」の高齢者は、「老人」ではない! 「70歳まで働くことを選べる社会」を提唱する、なんてある。 思うに我ら団塊世代は、筆者の言うように自分たちのための消費行動に移るのだろうか。 公的年金も、企業年金も、保険も、預金も、退職金も、どう考えても安心できない状況なのだ。 将来の方向性さえ安心できるものがあれば落ち着くのだが。 もうひとつ気になることがある。 それは、家庭のことを考えれば、何がなんでも大学へという世代ではなかった、だからその反動で、 子供たちには思い通りにやらせてやりたいということで、大いに投資してきた。 投資するために、会社のため、家族のためにがむしゃらに働き、いまいささか燃えつき症候群 状態である。 会社のために働きすぎ、自分を殺して生きてきたのだ。 だから、選べるとはいえ、 70歳まで働くなんて乗る気はしないし、健康ブームの時代、体に自信がないのである。 というのは、いろいろなブームを作ってきた世代とは言え、それは単に乗せられてきただけ という冷めた目で私はみているからだ。 確かに停滞する経済からすれば、ビッグウェーブが起きることにより、活気を取りもどしたい。 それは大いに分かる。 だが、決して自分がとって来た行動から見ても、消費は美徳とは思っていないのだ。 給料が伸びるという安心、平和という安心、貯蓄に回せるほどの収入。 高成長率の時代を経験した時代と多いに状況が違う。 ずっと続く低成長率を見れば、とても大きな変化が来るとは思えない。 男は企業社会で生き、女は家庭を守るという生き方をしてきた。 男が家族のために組織に埋没しきっていたころ、 子供たちから解放された女たちは、大いに余暇を楽しみながら過ごしてきた。 この差がこれからの高齢化時代の男女差になって出てくるだろう。 もうひとつ気になるのは、「金持ち、知恵持ち、時間持ち」と言うが、確かに 時間はあるだろう。 問題は、子供のために使い果たしてしまった金、組織に埋没するための知恵で、さらに 消費行動に移れるのだろうか。 あくまで受動的に生きてきた組織の一員でしかないのである。 自分の楽しみを見つけるこれ自体もいささか不安なのではなかろうか。 それは、セカンドライフ助走運転中の私の趣味の世界で同世代を見かけることは稀でしかないのだ。 元気なのは老若とも女性なのである。 前置きが長すぎた、読み感の本題に入ろう。 第一部の「高齢化を活かそう」。 間違いなく団塊の世代が、そのまま年を取れば高齢化時代である。 問題はこの高齢化したわれら団塊の世代が、どのようにして生きようとしてしているかなのだ。 筆者は、「われら世代が職場を去る頃、職縁社会は急速に減退し、新しい個人需要 生み出す、好縁社会へと移行する」と言う。 どうしても経済に結び付けたいのだ。 好みの縁でつながる「好縁社会」つまり「テーマコミュニティ」の群がる世の中だ。 確かに、大きな塊が企業社会からいなくなるわけだから、新しい何かが生まれてくるだろうが、 本当に、日本人は新しいコミュニティに入っていけるのだろうか。 町内会の役をして、とても男どもがコミュニティという世界へ入ってくるとは思えなかったのだが。 第二部の「高齢市場の実例と分析」。 分析にはなるほどと思えるものが多くある。羅列してみよう。 習い事では、楽しみと社交のためで、上達よりは確実にできることを目標に。 スポーツは楽しみ、安心、健康を目指して。 市場の特色は個性的であり、自分が正しいと思う権利。 大部分は「管理されない純消費者」。 求める贅沢、好きな場所・・・自我の通せる所。 好きな行動・・・気ままにできること。 思うに要は、適度に小金があって、適度に働く場所があって、適度に健康であって、 自分が楽しめることがあることなのではなかろうか。 問題は、健康が持つのか、そして楽しめる自分が探せるのかということではと。 特に気に入ったフレーズを書いておこう。 「多少の金を惜しむことなく、より自分を 魅力的にする投資を考えるべきだ」 第三部は、高齢市場を掘り当てようとしている企業の紹介である。 ヤマハ、ミズノ、大和ハウス、ユーリーグ、ワールド航空サービス、京王百貨店、パソナ。 終わりに、各企業のキーワードをあげると、大人の楽しい時間、健康と楽しさ、 リフォーム、人生の伴走者、テーマ性のある旅、日常性、個人社会への橋渡し、いかがだろうピンと 来るものがあるだろうか。ビッグウェーブを起すのはあなた自身なのである。 |
大好きなことをしてお金持ちになる 「大好きなことする」それでいて金持ちまでとは言わないが、それなりに生きていく だけのお金がもらえないのか。 セカンドライフを迎える前にそんな気持ちで買ってみたのだ。 筆者はチャプタ3で4つの生き方に分類している。 ビジネスオーナー、投資家、自営業、従業員。 私は、どう考えてみても「従業員」として、安定した収入を得るために生きてきた。 ただ、50代に入って、このままの生き方でいいのか、自分の大好きなことは何もなかったのか。 少し疑問を持ち始めている。 第二の会社に出向し、役立たない自分だから余計にそう思うようになった。 この本は、「あなたは自分の大好きなことをやって生きていますか?」なんて問いかけから始まる。 さらにきつい問いかけ、「もしそうでないなら、あなたはなんのために人生を生きてるのでしょう? 生きていくため?家族のため?両親のため?会社のため?それとも何となく?」 ここに至り、もう自分の好きなことをして生きてもいいのではないかと思ったのである。 お金持ちという言葉はあまり好きではないが、自分の半生を振り返って見て、どうも筆者がいう 「小金持ち」という言葉の響きが好きなように、結果としてそんな人生を生きてきたようだ。 問題は、ライフワークとしての大好きなことなのだ。 別にだいそれたことをしたいわけではない。 組織に縛られず、大好きなことをして小金がもらえないか、ただそれだけなのだ。 大好きなこと、いいヒントがある。 「自分がどれだけワクワクできるか」 「朝から晩までやっても飽きない」「自分らしさが生かせる」「面倒くさいことが気にならない」 これなのだ。 では、その大好きなことをビジネスにするには。それがまさにこの本の真骨頂なのだ。 それは、成功する人の7つの特徴、成功の方程式、大好きなことで成功するメカニズム、 あなたの才能をお金に変える6つのステップ。 さらに、ビジネスシステムをつくる5つのポイント、これからのサービス型ビジネス成功の3つの 条件、「普通の人々」から「お金持ちの人生」への4つのステップ、移行期をうまく乗り切れない 5つのパターン、へと続く。 その他にも「あなたの中に眠る才能を知る」なんてある。 と言って、いまさら自分に埋もれた才能があるとも思えないが、確認のつもりでアンケートに 書き込んでみたのだが・・・。 思ってた通り、たいした特性は出てこなかった。 20代から30代の血気盛んな人は、客観的に自分を分析してみるのにいいかもしれない。 読み終えていずれにしても、表紙の裏にある6つの質問の1つでもチェックがついたら、一読の 価値はあるとそう思えたのだ。 ということで、その6つの質問を書き出しておこう。 @今やってる仕事は、心から好きなことではない。 Aこのまま今の仕事を続けても、バラ色の未来はない。 B自分の好きなことが何か分からない Cもう一度人生をやり直せるとしたら、今とは絶対違うことやる。 D独立したいと思っているが、なかなか勇気が出ない。 E好きなことを仕事やビジネスにする方法が分からない。 いかがだろう? |
いつも旅のことばかり考えていた 時間に追われる旅より、時間の過ぎるままゆったりとした旅。 それはだれもが求めているものだろう。 この本は、旅好きの筆者が、旅先で体験した知ってはいけない、見てはいけない裏話や、 思いもよらない体験談、何でこんなものが売られてるのか、日本では決して見られない お国柄、旅に関するアドバイス等々の面白くて、楽しいエッセイ全75編である。 少しだけ題名を紹介して、内容を想像していただこう。 知ってはいけない裏話には、コーヒーの水(インドの列車での話)、機内食の食器(台湾から 香港行きの機内),パスポート裏話、偽学生証、そして両替の話。 思いもよらない体験は、巨大コピー機、屋台のヤキトリ、蜂の攻撃、無念の中華料理、サハラを 運転か? 何でこんなものが?には、ニューヨークでの露天商、ベトナム土産、壊れた傘、古い日本食。 日本では決して見られない お国柄では、イランでのイスラム暦、ネパールでの深夜の国境、アフリカ・マリ共和国での 物々交換、インドでの耳掃除男と道路工事、ガーナでの屋根の子羊、エジプトでの 列車への滑り込み。 短いエッセイなので、読みやすい。 加えて、1話1話に写真ではなく筆者作のイラストが載せられ、妙に暖かみがあるのだ。 さらに、そのイラストのコメントを読むのが面白いのである。 さらにさらに、チャプタ5では、「旅」をキ−ワードにアドバイス等が書かれている。 小見出しを抜き出してみると、「旅に出たいが出られない」「生きていくのに必要なもの」 「僕の楽園」「子どもでいられない子どもたち」「本当の旅って何?」 読んでて、いままでの人生とか生き方を考えさせてくれるものなのだ。 それで、私が一番面白かった話は何だったかというと、トイレとウンコの話である。 それも、イラスト入りなので想像しなくても分かるし、コメントを読むとさらに笑ってしまう。 その中でも、次の3つの話は、最高でありました。 まずは、シルクロードのバス旅での小休止トイレ。 「板を張り合わせただけの電話ボックス大の小屋が、崖に張り出して設置されていた。 トイレの下は目もくらむほどの絶壁、排泄物は、中国4000年の深い谷間へ落下するのだ」 出ると爽快でしょうが、出るまでが勝負ということでしょうか。 次は南インドのトイレ。 「トイレに入ると必ずブタが集まってきてエサ(?)が出てくるのをじっと待つのであった」 地球環境にやさしいエコロジー社会、循環型社会に脱帽であります。 終わりに、インドで航空会社が世話をしたレストラン。 「ソファーの上に堂々としたウンコが鎮座していたのです」 野糞ではない、なんていうのでしょう。 加えて、カースト制度やらで、掃除をする身分以外の従業員は片づけないのです。 やった方も見事、片づけないインド人にはあきれます。 終わりに、旅好きの筆者ならではのフレーズを紹介しておこう。 「何年も旅をするーこの言葉のなんと魅惑的、なんと眩惑的なことだろうか。 旅好きな人なら、この言葉に憧れてため息をつく人も多いことだろう」いかがでしょうか。 |
天に遊ぶ いろいろな書店に出かけても、何も買わずに帰ることが多くなった。 一つには、仕事上で読んでみたいという本があっても、もう読んでも関係ないと思ってしまうのだ。 もう目の前に、定年という二文字がぶら下がっているせいかもしれない。 それに、なんとなく買って読んでみても、読まなければよかったという本が続いたからかもしれない。 第二の人生に関するものも多く読んできた、もうその段階に自分が入り、ただ「動く」しか ないから、人の話を読んでもしかたないと思ってしまうのだ。 年と共に、読みたい本も変る。 変るというより、変る部分もあるが、やはり特定の作家に傾いている。 もうひとつ傾いているのは、生きていくうえでの、ちょっとしたノウハウ本である。 前置きが長くなった、ということで今回読んだのは、「吉村昭」作品である。 それも初めての超短編小説である。 あとがきにもあるが、原稿用紙10枚という制限で、21編が収められているのだ。 どれから読んでもまったく問題なし。 このくらい短くなると、うまく完結するのかと思うが、さすがプロである。 ただ、読んで感銘を受けるというものは1編しかなかった。 どうしても、吉村作品の他の作品、長編歴史小説やエッセイと比較してしまうからだ。 と言っても、歴史小説、短編小説等を書く前の取材過程で接してきた人たちとの話、5編ほどが気になった。 この編を読む時には、あああの話だ、こんな裏話があったのかと納得しながら面白く読んだ。 それは、「鰭紙」「頭蓋骨」「梅毒」「サーベル」「偽刑事」である。 中でも、「梅毒」は、桜田門外の変の現場指揮者「関鉄之助」の病について書かれたものである。 その病は、顔に出た吹き出物から「梅毒」とされていたのだ。 筆者は、関の日記に書かれていた、「北条幽林」の処方がどのような意味をもつのか、順天堂大学の蔵方 先生に確認する。 そして、意外な真実が出てくる。 「ミツニョウ病」、蜜尿病と書く、現代の糖尿病だったのだ。 筆者は、取材した関の孫の夫人に、「真実」を伝えに訪問する。 夫人は、「『本当でございますか。鉄之助が梅毒であったときいて身の縮むような思いがしておりました。 世間様に顔向けができない気持ですごして参りました』と、眼を輝かせてはずんだ声で言った。」 常に真実を求め続ける筆者だからこそ、明かされた事実なのだ。まさに小さな感動である。 |
余生堂々 どうも読後感がすっきりしない。 第二の人生の考え方の違いからだろうか。どうもそれがすべてではない。 読み進めるにしたがい、住む世界が違うと感じる。 これは、エリートの人たちのための本だと思ってしまう。1週間に2度ゴルフというのが 受け付けない原因かもしれない。 サラリーマン生活を長くやって、一杯飲み屋でなんだかんだと仲間と話すことを楽しみにして 生きてきたからかもしれない。 やはり、私が求めているのは、いま第二の人生の助走路で何をしておくべきなのかということ。 第一の会社の延長上にある第二の会社でその助走路で飛べる飛行機になりたいのだ。 ちょっとすっきりしないことを3つあげてみよう。そうすれば、その逆が自分の考えになるということ。 まずは、序章で「余生を『黄金の人生』にする『五つのリッチ』」である。 「『タイムリッチ』・・・1分1秒も無駄にしない」というのがある。 1分1秒こんなフレーズを読んでしまうと効率化とスピードばかり気にして生きてきた会社人生の 延長上に思えてならない。 「『フレンドリッチ』・・・性質の違った友人」というのもある。 転勤ばかり続けてきた人間に60歳過ぎれば、 そんな友人がすぐにできるというものでもない。 「『ヘルスリッチ』・・・ゴルフと人間ドック」というのもある。 ゴルフと人間ドックという言葉が、本質的に好きになれない。気が重くなってくる。偉そうにした 医者との出会いしかないからかもしれない。 「第二の人生では、やり残した好きなことだけを、奥さんと一緒に思いっきり楽しめばいいのです」 なんていうが、長年愛想をしてこなっかった女房殿は、すでに自分の輪を作っているのである。 さらに、やり残した好きなことだけをと言われても。仕事が趣味で、無趣味を自慢してきたもの にやり残しも何もないのである。 実に困った人たちなのである。 次に三人の主治医というのがあり、第一は自分、第二が配偶者、第三が主治医、ここまでは なるほどと思う。 次が、その主治医、「よいお医者さん」をどう選ぶかなのだが。 14項目もある。うんざりである。これといって病気をしてこなかったものにとって、 どうやって探せというのだろう。アメリカと違い医者のデータベースが公開されていない以上、 至難の業である。ましてや14項目も合致する医者などいるわけがないのだ。 最後に、「夢の医学」である。列挙してみよう。 ガンを退治する、遺伝子診断・遺伝子治療、難病の特効薬、臓器移植、臓器機能の再生、 ウイルスの特効薬、抗ストレス剤の発達、女性の老化とホルモン、男性の性、 ぼけ防止の医学発達、老化防止。 体が不自由に生まれた人たちとっては、夢でもなく一日も早くこういった医学の発達を 望んでいるだろう。 また、夢の医学の行き着くところは不老不死かもしれないが、それで人間はどう生きるのか、 いつから第二の人生なのか、 どう死ぬのかということになるのではなかろうか。死とはなんぞや老いとはなんぞやである。 気に食わないことばかり書いた。でもいいものも大いにある。 まずは、七つの「快」で健康法。 快食、快眠、快便、快尿、快汗、快声、快精、詳しくは本書を読まれたい。 次に、第一と第二の人生の違いを明確にしていること。 それは、仕事、仕事上の付き合い、家庭、友人、帰宅、年休・夏休、金銭、行動、 心のゆとり、メンツ、詳しくは本書を読まれたい。 そして、黄金の人生をつくるコツ。 家庭こそオアシス、ユーモアは平和と長寿の源泉、旺盛な好奇心・豊かな感性・そして生きがい、 怒るなかれ、詳しくは本書を読まれたい。 最後に気に入ったのは、本文中にある森繁久やの「人間の生きがいや情熱の対象は、 どこにでも転がっているんだ。それに気づくかどうかだ」の言葉と、筆者が常に奥さんを大事にしている ところである。 |
縁起のいい客 一冊は、司馬遼太郎の「春灯雑記」という本だが、歴史小説ではない。 書かれてることがむつかしくて、頭がついていけなかったのだ。 次に精神科医が書いた「人生にはしなくてもいいことがいっぱいある」という本で、 「うつ」の人と接する方法なんてことが書かれていると思い 買ったのだが、序章が20ページにも及び、 ポイントがつかめずこれもあきらめた。 こんなに、立て続けに中途で諦めることはないのだが、そろそろ それなりに自分の好みができてしまったということらしい。 3冊目でやっと最後まで読んだ本。 吉村昭の作品である。と言っても、歴史小説ではない、エッセイ集である。 過去発表された57編のエッセイ。 エッセイは、いつものように、どこから読んでも全く支障がないから肩が凝らないし、 短いのでちょっと空いた時間にも読めるから気楽である。 いつものように、小説を書くために史料を探る、その過程での人の出会いと事実に 行き当たったときの充実感が伝わるエッセイが特に好きである。 史料探索を終え、訪れた町で小料理店を見つけて酒を飲む、これにまつわる話も好きである。 この当たりは、今回の題名「縁起のいい客」でもわかるが、この題はエッセイの1題にすぎない。 筆者がエッセイに何を書くのか。 それは、「あとがき」にこうある。「人間を書くことにつきると思っている」。 「エッセイの一つ一つを読み返してみると、私の生きてきた時間がよみがえる。 私自身、多くの人たちと生きているのを感じる」これなのだ。 今回のエッセイの中で、筆者の少し違った面を見つけた。 それは、人を観察するところではなく、歴史の事実を追いかけるところでもない、クスッと笑えるユーモアのこころなのだ。 そんなエッセイには、読者から「事実」かという手紙などがくるらしい。「事実」なのだ。 クスッと笑えたものを少しだけ紹介してみたい。 「エッセイは事実です」の中にある、二つの話。 ひとつは編集者と飲んでいた時の話である。配管工事会社の社長と間違われ、「配管工事を して欲しい」と言われたのだ。どうも編集者と話していた時の「廃刊」という言葉が 耳に入ったのである。 もうひとつは、ハシカに未感染かどうかを実際に知人の医者に診察してもらう話である。 今回のエッセイの中には、このユーモアエッセイが結構あるのだ。 あまり、紹介すると、エッセイで餃子屋とそば屋を紹介して、筆者のように 大騒ぎになって迷惑をかけたように、本が売れなかったら困るので・・・。 面白エッセイ一つだけにいたしました。 と言いながら、もうひとつ「物忘れ」である。 これを読むとほのぼのとして、「同じだ」と思いながら、次の会話で「プー」と吹いてしまったのでした。 「『ほら、あの刑務所を出所した男を演じていた俳優、ほらあの・・・』 と言うと妻も名を思い出せず、『ああ、あれ、あれですね』などと相槌をうち・・・」 |
寂聴生きる知恵 だが、古い時代の人のことばであればあるほど、現代人にとってはどうしても疎遠になってしまう。 その道の人に解釈してもらったり、具体的に現代の事例で示唆してもらえばありがたいことなのだ。 この本は、10年前に「寂庵だより」に掲載された「法句経」(ほっくきょう)を再構成し刊行、4年後に文庫本化 されたものである。 家の宗教が浄土真宗とはいえ、宗教というものに関心を持って生きてきたわけではない。 せいぜい、祖父、父、母、親戚、知人の葬式、法要の時に僧侶のお経を聞く、その程度なのである。 だから、「法句経」というお経も初めて聞く。 だったら、なぜ買ったのか。 生きている以上「生きる知恵」が欲しい、「死」を意識し始めた50代だからということなのだ。 とはいえ、いままで生きてきた生き方がそんなに急に変るものでもないのであるが、とにかく 読んでみることにした。 <はじめに>では、「お経」とはお釈迦さまが歿後、その教えを語り、筆記係が書いたもの。 「法句経」はその中でも一番古いもので、全篇423の詩で構成されているのだ。 もちろん、漢文であり、私の知識が全く及ぶところではない。 競争社会に生きる現代人は、いつも時間に追われ、効率化を重視して生きてきた。 私も含め、生きてきた行程を振り返ってみても、人の勝ち負けや、地位の上下、 男女の愛欲に悩まされ、自分さえよければと人を押しのけ生きてきた、生きている のではなかろうか。 「生、死、愛、欲、賢、愚、善、悪」をキーワードに57篇の詩を寂聴流に意訳し、 私たちの身の周りの問題に当てはめ、解説されているため、凡人には実に分かりやすいのである。 特に私の場合、欲が気になり、注意深く読んだ。 行き着いたことばは「欲望の花を摘むのに、夢中になってる人を死がさらっていく、 眠りのおちている村を洪水が押し流していくように」である。 寂聴解説に寄れば、「そういう生活に溺れている間に、死は突然やってきて命を奪い去ってしまいます。 食べすぎ、飲みすぎ、遊びすぎ、セックスしすぎ、働きすぎ、すべて自分の欲望の花です。 それと気づかず花の毒にあてられていて、ある日、突然取り返しのつかない病気になり死んで いくのです。ちょうどぐっすり眠りこけている村が、突然の洪水で一挙に押し流されるように」 「生者必滅」「会者定離」、 いつ死が訪れるか誰もわからない、それは突然やって来るのだ。 だから、常に「少欲知足」でこころの準備をして生きよ、ということなのだ。 もうひとつとても気になる詩があった。 それは、愚かな戦争が始まったからなのだが、それを最後に抜粋してみよう。 「わたしたちはここ、死の領土に住んでいる、この真実を他の人々は知ってはいない、 このことを人々が知れば争いは止むだろうに」。 私たちは厳然たる人間の命の宿命を自覚しなければならないということなのだ。 |
汝みずから笑え それは私の頭のせいかもしれない。 いつものことなのだが、土屋ワールドに入ると、抜け出てもしばらくは、可笑しな 頭のまま回転している自分がいる。ほんとに可笑しな話である。 最近、職場でも、家庭でも、面白いことから疎遠になってしまった。 笑いを求めに本屋へ行った。 髭を生やした著者の教授が背広でストレッチ体操をする姿と、 酔いたんぼで服のままうつ伏せで寝た姿が描かれているこの本に出会った。 買おうかとパラパラとめくると、著者作の例の童画いや幼児画が、読み手を遠ざける。 やはり買うのはよそうか、でもと思い「まえがき」を読んだ。 「あなたは幸運だ。千載一遇のチャンスといってもいい。そのままレジにもって いきなさい。今を逃すと本書は出版社の倉庫に返され、入手困難になる」 イラク戦争が始まった今をおいて、この本を買うチャンスはないだろうと思い、 家人の支払いでレジに向った。 あとから思った、もう少し「まえがき」を読んでおけばよかったと。 「ちょっと中身を読んでから、と考えてはいけない。・・・ 購買意欲は三分後にはゼロになることが判明した」とあったのだ。 読み終わった、不思議なのだ、私の頭が可笑しいのかもしれない。 最後の「解説」を読んでみた。 エッセイによく登場する助手とやらが、ただ匿名と書いているから怪しいのだが、「この本を 買わないようにお願いします」とあった。やはり買わないほうがよかったのだ。 このまま感想も書かないまま終わってしまいそうである。というわけにいかないので続ける。 珍しく、気になるフレーズがかつての本より多いのだ。 思い出すものがあった、それは、かつて読んだ本に、木村晋介著「遺言状を書いてみる」 というのがあった。 その中の遺言状の事例として掲載されていたものがある、「遺書ー友人の娘Z子様」である、 ただそれだけである。 この本をもう少し早く読んでおけば、娘を大学に行かせなくて済んだし、家人に無駄な抵抗をしなく て済んだのだと思うものが。 「大学に何が期待できるか」、人格を練磨する、一人前の大人を作る、レジャーランド、高収入の 未来を約束する、文化の担い手、産業の基盤、真理の探求から考察した結果、 「真理の探求」を除き、いずれの役割も果たしていないという極めてまともな考察なのだ。 なぜ、「真理の探求」が除かれているか、筆者が哲学者で暮らしていくためである。 「中年女が最高」というのがある。 もしもわたしが行き倒れになったら、なぜ中年女は明るいか、中年女のおおらかさ、 中年女の欠点から考察している。 明らかに地上最強の動物だと知ることができよう。 今回も大いに笑った、ただ仕事中に読んだので、心の中だけである。 おお、危うく書くのを忘れるところだった。 「死は簡単なものではない」という死に対する奇妙な考えをいくつかあげながら、 極めて真面目に考察しているところがある。 いきつくところは、「死に対するわれわれの態度は決して簡単なものではない」ということなのだ。 ここだけは何度も読んだ、二度もである。 |
三屋清左衛門残日録 実在の人物ではない。 だから、司馬遼太郎の作品や吉村昭の作品に比べれば、その迫力にはかけるかもしれない。 また、そんな歴史小説が好きな私にはいささか物足りないものがあるようだ。 この小説の主人公の時代のように、「隠居」という文字と、 今の時代の「定年」とはかなり違うのではなかろうか。 ある意味、効率とか時間に追われて生きている現代とは違い、ゆったりと場面が動いていた ような気がするのだ。 小説の第一編では、息子に家督を相続し、「隠居してあとは悠々自適の晩年を過ごしたいと 心からのぞんでいたのだ」なんてあるが、このままほんとに隠居なら小説にならないのだ。 だから、そこに同じ年代だが、まだ隠居していない藩の佐伯奉行を登場させ、藩内の 派閥争いを絡めて小説を面白くさせている。 最後には、派閥争いも解決し終わるのだが、本当の意味での主人公の「隠居」はこのあとかもしれない。 読み進めながら、勇退してもしばらくは組織と関わり続けていたいという、男の願望が描かれている。 だから、もうすぐ自分が迎える、セカンドライフにはほとんど参考にならない。 しかしながら、佐伯奉行といつも飲み交わす小料理屋、そしてほのかに心を寄せる女将との関係。 若い頃、剣の道を志していた、再び一念発起して道場通いを始め、そこでの 新しい人との関わり。 そして、昔の仲間が絡んだいろいろな事件に関わり、解決していく結果から生れる人の縁。 過去藩主の側近をしていた関係から、藩主の求めに応じて藩士の行動を報告した結果、左遷になった ことが、ずっと気になっていた主人公。 そんな諸々の人との関わり以上に、妻を亡くし何かと世話を焼いてくれる嫁との絡みが微笑ましい。 藩との絡みを除いて、「隠居」を考えてみると。 第一編に多くの「隠居」した人間の心情が吐露され、大いに参考になる。 「隠居」一言で言うならば、「それまでの清左衛門の生き方、ひらたく言えば暮らしと習慣の すべてを変えることだったのである」なのだ。 いままさに、団塊世代が定年を迎え、組織を去ってセカンドライフをどうするかの瀬戸際である、 心したいものである。 |
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