諸富祥彦著
さみしい男


最近、世の中どうみても私を含めた男たちが元気がない。
うすうす感じてはいた、この本はそんな男たちのさみしさの内容を分析し、何が足らなくなったのかを 指摘している。
そして、そんな男たちの生きる方向性を指し示しているのだ。

とはいえ、このくらいのはっばではどうにもならないところまできているのが、今は昔の男社会なので はなかろうか。
さてさて、単身赴任でそろそろ膝を抱える季節、さみしい男のひとり、勇気をもらうために一気に 読むぞ。
まずは、(はじめに)の中で「次のようなことに思い当たりはしないでしょうか」とある。 読者自身の「さみし度」をチェックしてから、本文へといざなうのだが...。 ちょっと羅列してみよう。

働く意欲が落ちている。できれば働きたくない。家の中に居場所がない。セックスとか恋愛に どこか投げやりな姿勢。男特有のギラギラした感じがまったくない。言外の切なさが、 からだから漂ってくる。
全面的までとは言わないが、十分にその兆候はある。
本文の中には、インターネットから検索してまとめられた「さみしい男」の連関図まである。

この中に自分に該当するものだけを選んでみると。
あるある、単身赴任、髪の毛がない、窓ぎわ、妻と娘に相手にされない、マジメ一筋...。
おお、ほんとにさみしい男なのである。

しかしねえ、髪の毛がなくても、単身赴任でも、妻や娘に相手にされなくても、俺は元気である。 明るく前向きに生きてるぞ。まあいまさら空元気はよそう。
この本が、真実味があるのは、やはり異性の目、女性の目から現代のふがいない男たちを 見た事実がケースとして報告されていることである。動かぬ証拠なのだ。
筆者は、「私たちの思考と感情とを暗黙のうちに支配している”隠れたイデオロギー”のようなものが、 いくつか存在している」というのだ。そして、それに苦しめられているというのだ。

それは、労働至上主義、仲間至上主義、恋愛至上主義、家族至上主義である。
詳しくは、まあ本を読んでいただくとして、筆者はこの4つの問題を取り上げ、それぞれの イデオロギーから男たちの解放をこころみるわけである。
まあ私のような、単純で頑固さが出てきた人間の解放はむつかしいでありましょうが、 少しでも「さみしい男」から解放されたいと思う人は、どうみてもおすすめの本である。

私の場合、特に気になったのは、不倫とかセックスという四文字でありました。
でもねえ、お年をめしたせいか、昔は赤面しながら、隠れながら読んでいた本、真剣に 書かれた本ゆえに余計に赤面していたころとは随分と違ってくいいるように見させていただきました。
この4文字が気になる方、どうもセックスに関心が?という方は、是非読むべしでありますよ。

最後に、飛び切りの気になったフレーズをひとつ。
「男っていうのはどうしてあんなにセックス、特に射精にこだわるものなのですか」
ガツーンでありました。いかが。



竹内久美子著
小さな悪魔の背中の窪


筆者の作品は、二冊目である。今回は、世の女性が一番気になるところの血液型と性格の 相関関係について書かれた本である。
固い頭を無理矢理、軟らかさそうにして読んでいる。
と言って面白くないということではない。

過去発表された学説・仮説をひも解きながら、筆者なりの結論を導き出そうとしている。
それが、ハードランディングだったり、ソフトランディングだったりする。
正解かどうかというよりは、読んだ人がなるほどと思えばそれでよし。いつかだれかが検証 するのかもしれない。しないかもしれない。

まずは、直接、血液型とは関係ない話の方が面白いので、書いてみよう。
筆者にとって、まず一番気になるのは「背の高い男はなぜ持てるか」。
それは、「カッコいいとはどういうことか(・・・外見は中身以上に大切)」でくわしく論理の 展開がされている。
もともとは、狩りの能力から女は身長の高い男を選び、やがて実質的な意味を 失い、それでも女は身長の高い男をえらび続けるというものだ。それはなぜか。

ついでにもうひとつ関係ないこと、「美をしかけるもの(・・・女の魅力はどこから生まれるか)」
”色の白さ”と”プロポーション”にしぼって論じられている。
この二つ、男の身長と女の美の結論は、「腸管寄生虫」の全面撤退なのだというわけだ。

まず、男の身長、「彼らがすんでいるのは、腸である。もし足をよく成長させるとすると、どうしても相対的に 胴の長さの伸びを控えざるを得ないだろう。大切なすみ場所である腸のスペースにしわ寄せが来る。 それは困る。やはり胴を長くして、腸やその他の臓器をゆったりと収められるよう取り計らうべき なのだ」

そして、女の色の白さとプロポーション、「女の腰のくびれは、妊娠していないことを、そう正しく は反映しないだろう。・・・腸管寄生虫、などがそうたくさんいませんよ、というウソ偽りのない 証明なのである。一方、肌の色が白く、透明感のある女の場合、寄生虫のいる、いないは 一目瞭然である。・・・」
確かに、私たち団塊世代が子どもの時代は、多いに寄生虫と仲良くしていた。
当時は、口から茶碗いっぱいの寄生虫を出した、なんてこぼれ話も聞いたことがある。

さてさて、本題の血液型と性格の相関関係なるものはどうか....。
結論から言えば、ないようであるが、ただ一点注目するものはある。また、面白い話もある。
まずは、面白い話の方から、それは血液型といくつかの病気との相関関係なのだ。

病気全般について、O型が強くA型が弱いのだ。それも「今やもう疑う余地がない」とまで筆者は 言っている。さて、みなさんはどう思われますかいな。
血液型と性格の相関関係は、R.B.キャッテルが考案した、「一六性格因子質問紙法」による 性格検査とP式血液型による相関なのだ。
まあ、さらにくわしく知りたい方は、この本を読まれてみることだ。



永六輔著
悪党諸君


筆者の作品は、初めてである。
かつて「大往生」という本がベストセラーになったが読んでいない。
ベスセラー嫌いの私には当然のことだったのかもしれない。

本といっても、中身は刑務所での講演集である。ただ、なぜだか、 刑務所の場合は、慰問になるらしい。
なぜ、加害者側なのに慰問となるのかわからない。
実に読みやすい。それは話し言葉のせいだろうか。

漫談のようでもあるが、実にウィットに富んでいて、聞いてる側によりわかりやすくする ために、繰り返し繰り返し話、最後にポイントをまとめる。
また、会場で聞いてる受刑者の表情が、括弧書きで拍手、笑、爆笑を入れてる だけで伝わってくる。
この括弧書きの多さからその説法の面白さはすぐわかるし、本で読みながら いたるところで笑えてくるから、その話法の素晴らしさに感心してしまう。

ただ、聞いてる諸君が、説法に聞き入るだけでなく、心を入れ替えて再度受刑者になっていないか どうかは定かではない。
それを確かめるために、筆者はあえて15年後に同じ刑務所に行ったのではなかろうが...。 反応がなかったのでどうもいなかったようではある。

それでは、この説法の面白かったところをあげてみよう。
まずは、人間は、すべておんなが原形であるということ。
七週間を経てチンポコが出てくるということ。
つまり、受精した段階ではすべて女なのである。
仏教で言うと、死んでから、七週間(49日)して、魂が彼岸に行く期間と同じで、 妙に不思議さを感じてしまう。

そして、老いる私にぴったりの面白い話、「老化の兆し10項目」と昭和一桁生まれの男が、 トシをとったなあと思う28項目に及ぶ話。これは思い当たるものがたくさんありすぎて困ったものだと思いましたとさ。
まだあった黒柳徹子の検便の話。これは大いに笑いましたです。

さらに、母親に救急車を呼ぶ話、ノミのサーカスの話。
座布団3枚の、爆笑もの、昭和一桁の「長生き会」の話。
会員が毎年一万円出して、最後に生き残った人が総取りなんだって。

一方、ボケを感じ始め、ボケないためにも、自分にいただきの話があった。
それは、三項目にわたるもので、そのひとつは、何でもいいから何かを作り続けることで、 それも失敗を重ねながらが良い。
二つ目は、できるだけ歩くことで、あいさつを交わしたり、自然を感じることが良い。
三つ目は、異性を意識するということで、無理をしない若々しさが良い。

おわりに、もちろん更正する人のために良い話。
覚醒剤から抜け出した作曲家中村八代の話、
次に、計量法に違反して、曲(かな)尺と鯨尺を売って歩き、どこかしこの警察へ捕まえてくれ と出頭していく話。
ほとんど本の内容を話してしまったかなあ。すみません、書店さん。
まあとにかく、軽妙洒脱な話し振りには、すぐに引き込まれてあっという間に、 受刑経験者・弁護士との「面接」のチャプタに行ってしまうのだ。読んでみてくだされ?!



竹内久美子著
男と女の進化論


筆者の作品は、初めてである。
書店ではいつも気になっていた本だった。
動物行動学から,人間の行動を分析する。

極めてまじめな本だが、読み手が興味がない仮説ならなんということはないものだ。
だから、「カバーに目から鱗が落ちる」なんてあるが、もともと鱗のない人には何も起こらない。
特に、なぜ自分は持てないのかとか、どうもホモッ気がとか、他人より年を取るのが早いとか。
なんてことに興味がある方は、読んでわかってもどうにもならないけど、それなりに納得できるかもね。

各チャプタの論理の進め方は、見出しに対して、筆者の仮説を出して、推論を展開する。
推論の展開に当たっては、筆者の専門分野の動物行動学、いろいろな主に類人猿を登場させるのだ。
チンパンジー、テナガザル、ゴリラ、ピグミーチンパンジー....。

動物行動学を例示するに当たっては、いろいろな学者の動物実験が出てくる。
いままでにほとんど聞いたことがない人ばかりである。
人間はやはり考える動物だとつくづく思う。

ただ凡人の我は、考える元の疑問さえほとんど持たないのだが。
いろいろ出てくる仮説は、いまさら女に持てたいとか、若くなりたいとか、同性愛に興味がある なんてはないので、おいておこう。
興味を引いたのは、インプリンティング(刷り込み)とネオテニー(幼形成熟、つまり、子どもっぽい性質を 保ちながら性的成熟すること)という言葉と、チャプタで言えばダーウィンのことを書いた 「ウェッジウッドの進化論」、アルキメデスのことを書いた「アルキメデス輩出の原理」である。

特に「アルキメデス輩出の原理」で、アルキメデスがいろいろな武器を考案して作り出ししていたことも まあ面白いが、どんな社会がアルキメデスのような人物を輩出するかという原理が気になったのだ。
それは、女に厳しい条件を要求しない、強い淘汰をかけない文化と関連が深く、
もうひとつ言うなら、生活のためにあくせくと働く必要がない特権階級の社会にあるといことらしい。

ということは、まさに今の時代なのだが、そういえば、最近続けて日本人がノーベル(物理学化学)賞を 受賞しているのは、この原理によるものなのだろうか。
おわりに、実は一番気になったのは、あとがきにあった、 「男を恐怖のどん底に陥れるハゲ−その真相に迫る」なのだ。
いつものことながら、この二文字は常にアンテナが敏感に反応する。

そして、書かれている真相は、「中年になっても精力が強くしかも無責任に繁殖することをあまり 得意としない男は、彼自身の扶養義務のある子の生存を保障するため、女に嫌われなくてはならない。 ハゲはそのための手段である」なのだ。
要は、セックス好きのスケベエは、早く若い女性達の周囲から追い払うためにそうなっ てるっていうことかいな。
しかも「ハゲ」はその手段だって。
やっぱスケベエは アデランスをすべきではないのである。



吉村昭著
島抜け


史実に基づく、ストーリーの展開は読み手のこころを掴んで離さない。
そんな吉村作品は、いつも書店に出かけると気になる本である。
今回の本は、江戸時代の講釈師たちの流刑・脱島・漂流・逃亡を扱ったもの、 同じく江戸時代の飢餓を扱ったもの、そして、明治の草創期において、大きな変化を 迎えつつある解剖学における献体への道を扱ったものの3つの小説からなる。

「島抜け」は、吉村作品としては短いものである。
筆者の作品には、同じ漂流もので「アメリカ彦蔵」「漂流」というのを読んだ。
これらに比べれば、罪人だから、結末としてはハッピーエンドとはいかないのだ。

「1844年6月2日、大阪の町の一郭にあわただしい人の動きがみられた」 という書き出しで始まる。
遠島刑に処せられ、駕籠に乗せられた囚人たちが、島送りのため 船着場に連れて行かれる場面である。
主人公の講釈師「瑞龍」は、徳川側にたって掛かれた講釈本「難波戦記」に不満を抱いていたのだ。

それを豊臣側のものに脚色して、講釈をすると客から大いにうけ、人気を博すようなになる。
おりしも天保の改革の真っ最中であったことから、役人の耳に入るようになり、捕縛される。
時代が違えば、所払い程度の刑だったのだろうが、結果種子島への遠島となったのだ。

通常の罪人であればこれで終わりなのだが、 送られた島の生活に耐えられず小船に乗って島抜け、唐の国に流れ着き、 そこで漂流民と偽って、日本に行く船に乗り長崎にたどり着くのだが、偽名を使っているので 素性がばれることをおそれ、脱牢。

長州まで逃げ、自分のかつての生業だった講釈師をしながら、密かに暮らしていた。
とはいえ、やはりその講釈がその地方で有名になり、役人に嗅ぎ付けられ、捕縛、そして 斬首の結末となるのだ。
ストーリーの展開としては、面白いが、長編と比較すればどうしても時の流れが 早く感じられ、すぐに読み切ってしまい、どうしても物足りなさを感じてしまう。

二つ目の「欠けた椀」は、江戸時代飢饉にみまわれた甲州のある村のある夫婦のひもじい 生活ぶりと、やがて食べるものがなくなり、息子も亡くし、嫌がる妻と村を出て行く。
欠けた椀を持って...。
行く先々での寺での施しを受けながら、海のある村へとたどり着く前に、 旅先で妻を亡くすまでを描いている。

この作品は、筆者の作品の中に「彦九郎山河」というのがあるのだが、主人公の江戸時代の 儒学者高山彦九郎が東北地方で見た、天明の大飢饉で多くの人 が餓死したことや、人間が人間まで食べて生き抜いた話を描いたところを、一家族に スポットをあて描いたものといえるだろう。
短編小説だから、展開を楽しむ間もなく終わる。
ただ飢饉の苦しみを鋭く描きながら、人間が人間を食べるまではしなかっただろうと...。

三つ目は、明治時代が始まったばかりの頃、開放政策とともに西洋医学が入ってくる。
医学が進展するためには、人間が人間の体をさらに知る必要があったのだ。
小説は「明治元年11月、大病院に提出された一通の『願い書』が、大病院とその周辺に大きな波紋 となってひろがった」という場面から始まるのだが、鎖国をしていた江戸時代には、解剖というのは 杉田玄白と前野良沢がターヘルアナトミアを翻訳し著した「解体新書」以来、 なされていなかった。

もちろん、この願い書が提出されるまで一般からの献体というものはなかったのだ。
結局はこの提出者の解剖はされなかったのだが、医学進歩のためにはと、献体を求める 活動は続けられたのである。

その解剖の献体特志第一号になったのが、梅毒の末期患者「遊女みき」であった。
話は、その後、獄則の法改正により、引き取り手のない刑死人の解剖。
そして、日本最初の特志病理解剖「官吏、郷貞一妻おいね」へとつながる話。
以上の、昔映画舘上映であった三本立てでした。



加藤諦三著
(詩)ドロシー・ロー・ノルト
(訳)石井千春
ドロシーおばさんの「大事なことに気づく」


この厚さで、この値段の単行本は、最近ない。
そして、私の好きなテーマ「こころ」の問題を取り上げている。
「はしがき」を読んで、最初のチャプタを読んでいても非常に読みやすい、 ということで買い求めたのだ。

読みながら、自分の中に潜んでいる「ナルシスト」ぶりが炙り出されてくるようでもある。
大事なことに気づかない、気づけないキーワードがある。
一方で、そのキーワードを解きほぐし、大事なことに気づくための「キーワード」がある。

まずは、大事なことに気づかないキーワードをあげてみよう。
自己執着、自己陶酔、閉ざされた心、神経症者、憎しみ、大袈裟な、誉められたい・好かれたい、 自分がどう見られているか、人に頼る、過度の謙遜、人を責める、悩んでいる人、焦り、近親相姦願望。

次に、大事なことに気づくための「キーワード」は、正直、本気、自分を飾る気持ちを捨てる、 待つ、好きなこと、人の目を気にしない等、である。
この大事なことに気づかない「キーワード」が、自分の中にあると気づけば、新しい道は見えてくる。
それが第一歩のような気がする。

人生を変えたいと思っている人は、まずは読んで自分の悪さ加減を直したいと思うことのようだ。
そして、自分に正直になり、本気で何かに取り組み、捨ててもいいと思い、少し待ってみようかと思い、 人に頼るのをやめ、人の話を聞き、新しい出会いを求め、.....。ちょっとした変化の行動を あなた自身が決断する。
やがて、「あなたは気づくあなたは出会う本当の自分に」ということになるのだ。

各チャプタには、よりわかりやすくするために、童話の桃太郎、 イソップ物語の猪と馬と狩人・ライオンと牡牛、「戦争と平和」におけるロシアの将軍等の 話を取り入れている。
私たちが、「大事なこと」に気づかないのは、 人生を変えるための一番の障害は、何と言っても「ナルシズム」ということらしい。

この「ナルシスト」ぶりの基準・判断基準なるものが最後のチャプタに載っている。
以下、そのままあげてみよう。
いつも自分は他人にどのように映っているかを考えている。自分は他人にどのような印象を 与えているかを気にしている。

人から笑われちょっと注意をされると、すぐに傷つく。
自分のことをよく話す。自分のした経験、自分の感情、自分のアイデアについて、よく話をする。
とにかく注目の的になることが好きである。

「私は特別な人間である」と思っている。
他人にいろいろと期待する。
人の幸運が羨ましい。私が値するもの全てを得なければ満足できない。

いかがだろう。思い当たるふしがあるだろうか。
「おわりに」では、「どんなとき大事なことを忘れるのでしょうか」というのがある。
棚からボタ餅式の出世をしたとき、泡銭のように財産が入ったとき、

思わぬ幸運があったとき、人と競い出したとき、派閥争いを始めたとき、いい気になったとき、 ということらしい。
さいわい私の場合、出世もせず、財産もいただかず、競うこともなく、 派閥もなく、また思わぬ幸運もなし、しいてあげれば時々「いい気」になったことがあったかもし れないということだけである。

いずれにしても、50代になって、これからの人生をどうしようかなんて、考えている人。
過去の自分、現在の自分を反省して、「本当の自分」探しをやってみたい人は一読 の価値は十分にあります。



岡本太郎著
自分の中に毒を持て


「岡本太郎」という名で思い出すのは、1970年の大阪万博EXPOでの「太陽の塔」と 「芸術は爆発」という言葉である。
30年以上も前、団塊世代が青春時代の真っ只中の頃、著者はよくテレビに出ていた。
それも、目をランランと輝かせて、「芸術は爆発だ」と言っていたのを特に思い出す。

原色で現代抽象画を描いていた。
見ていてもよくわからなかったが、
とにかく元気が出てくる絵だったように思う。

この本の中にも、その抽象画が挿し絵として、そして彼のメッセージが添えられている。
このメッセージを読んでも、彼の内から出てくる生の自分の情熱・爆発の表現なのだ。
今風に言うなら、なぜあんなにエネルギッシュだったのか、それはこの本を読めば分かると いうものだ。

この本は、彼の人間として生きる原点がある。
それは、現代人というか文明人が忘れかけているものである。
そして、副題にもあるように「常識人間」を捨てられるか、なのだ。

この本の最初は、「自分の大間違い」という見出しで、「人生は積み重ねだと 誰でも思っているようだ。僕は逆に。積みへらすべきだと思う。 財産も知識も蓄えれば蓄えるほど、かえって自在さを失ってしまう」
というフレーズで始まる。
これが自由な人間であり続けたい作者の心の中のすべてであるような気がする。

情報化社会とか管理社会と言われて久しい。
組織に縛られ、他人の目を意識しすぎ、失敗しないように安全に、他人と比較しながら、 常に条件を気にしながら、さらに目的を持って生きてきた。
それは、人間がほんとうの自分を出しきって生きているというのにはほど遠いということなのだ。

彼に言わせるならば、失敗なんて気にしないで危険を求めて、他人の目も自分の目も気にしないで、 無条件に無目的に生きてみよということなのである。
思うに、当時の目をおもいっきり前に突き出して、「芸術は爆発」だと言っていた、筆者からは この極めて哲学的な「人生論」は想像できなかった。
読んで行くに従い、私自身が自分の中にある自分とは違う生き方をしていることに気づかされる本だった。

裏返せば、他人の目を気にしながら、失敗を恐れて危険を冒さず生きてきた、自分がそこにはいる。
私は当時の爆発という言葉を誤解していた。「音もしない。物も飛び散らない。全身全霊が宇宙に 向かって無条件にパーッとひらくこと」ということのなのだ。
私がこの本からもらったことは、そのときどきを、過去にとらわれずほんとうにやりたいことを他人の目と 失敗を恐れずにチャレンジするということだ。

終わりに、この本は、「爆発せよ」という若者に向けたメッセージで一杯のものである。
でも思うに、長年働き続け、組織に埋没してきた団塊世代にとって、ふと「自分は何のために働いて きたのだろう」という思いに至っているあなたにとって、
きっと何か方向を指し示してくれる本に違いないと思う、是非一読して。「毒」を持って欲しいものだ。



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