子母沢寛作
「勝海舟」第一巻



戦中戦後6年を費やした作品、文庫本初版は昭和43年、 平成14年3月20日発刊のこの本で58刷目ということからして、超ロングセラーと言える。
現代人から言えば、一昔前のこの筆者の作品、私にとっても、もちろん初めて読む本である。

初めての人の作品は、読み手としてその癖というか、展開と言うかそれに慣れるまで ちと時間がかかり、場合によっては投げ出してしまうことだってある。
ただ、久しく長編歴史小説は読んでいなかったので、飢えた状態で比較的スムーズに入っていけた。
比較的時代が近く、歴史上の人物としては、申し分ない。

本を読みながら、50年以上前の作品だから、古い言葉使いのため、少し慣れるまで力が要る。
それに、生っ粋の江戸っ子の江戸弁・ベランメー調がなんとも小気味よいのだが、言い回しに慣れるのに、 これまた少々時間を要す。
ストーリーとしては、歴史好きな私は、ついついのめり込んでしまうのだ。

主人公のおやじ「勝小吉」の江戸っ子ぶり、貧乏と宵越しの金は持たないというか、 面倒見のよさ、気風のよさが、まずは笑いあり涙ありのストーリーの初めとなる。
時代背景は、黒船来航前後、武力もなく、官僚化した江戸幕府、人材登用もままならない中、 下級武士から蘭学をキーに大きな変化が起こりつつあったのだ。

物語の始まりは、剣豪島田虎之助に弟子入りし、武術に励む主人公麟太郎の日常風景から。
そして、おやじ小吉の背中(人情味あふれ、面倒見がよく、いろいろな人から慕われる)を見ながら、 蘭学の師永井青崖との出会い、蘭学を学ぶものへの逆風も経験しながら、成長していく麟太郎。

新しい出会い(纏持ち岩次郎、妻おたみ、杉純道)とおやじの死、虎之助の死を体験し、やがて、
幕府に見出されて鉄砲を作り、そして小普請勝麟太郎として長崎伝習所へと出かけ、 オランダ人から航海術等を会得していくまでの話である。

いつもながら、歴史小説は、ついついのめり込み、あっという間に読み終わり、次の巻が読みたくなる。
歴史の裏舞台で活躍した主人公を描く、吉村昭とは違い、誰もが、明治草創期に活躍した人物を挙げる としたら、たぶんこの人をあげるだろうと思われる人物なのだ。
偉くなってしまうと面白さは半減してくるのだろうが、 歴史が大きく動いている時代に出てくる人物と言えども、その下積み時代の激しいほどの努力があって こそと思わされる、第一巻である。

読みながら、ついつい涙を誘われてしまったり、麟太郎がこれからどんな問題にぶち当たり、どんな 解決をしていくのか、、本屋に急ごうっと。



ウィリー・バジーニ作
川本英明訳:ありすぎる性欲、なさすぎる性欲



イタリアのセックスカウンセラーが診てきた患者たちの事例をもとに、 「正しい性欲」のあり方について、書かれたものなのだ。
私自身、異性を意識し始めて、初体験をしてから以降、性に関する風俗と申しましょうか、 人の意識も、オープン度合いも、急激に変わってきた。
特に、インターネットなるものが登場してさらに、過激な映像が簡単に見られるようになってから、 性に関するものはなんでもありの世界になってきたようだ。

そんな中で「正しい性欲」と言われても、私のような性欲に対して下り坂と言いましょうか、 散ってしまったような年齢のものにとって、「性欲」はいまだ興味深いキーワードなのだ。
特に老いの性欲に関しては、まだまだ知られていない部分と、60歳を過ぎたおじさんが 女高生と「援助交際」をしたなんてのがニュースに出て、みんな驚くぐらいだから、老いの性は はなはだいかがわしいもののように思われている。

女は死んでもとか、灰になっても女なんて言われるが、それは男だって同じなのだ。
「正しい」という時、その基準をどこにおいて見るのかが、実にむつかしい世の中になってしまった。
要は、最愛の伴侶・親しい異性とともに性に関して、楽しめる範囲だということのようである。

ただ、一応性別はあるとは言え、同性愛、??フェチ、身体は女でこころは男、身体は男でこころは女、 なんてのもあり、さらに複雑多岐にオープンになってきているのだ。
はじめにもあるように、「相手の立場立って考えることができるかどうか」そして「ほどよいバランス」 ということなのだが、この世界も行きつくところは「少欲知足」というところか。
そして、若い時は若いなりに、年をとれば年を取ったなりの工夫が必要ということになる。

まあ、とにかくいろいろなカウンセリング事例が記載されているから、性生活について気になっている方も、 気になってない方も興味深く読んで見たらいいと思う。
決して嫌らしいものではないので、そのてを期待している方には、お勧めできない。
この本を読むとまずは、性生活でまじめに悩んでいる方がたくさんいることを知るだろう。

そして、日本人は、こう言った相談をオープンに他人に話すこと自体ないから、驚いてしまうかもし れない。
さらに意外に思うことは、「異常な欲望は、以前に体験した苦しみを乗り越えるために 生まれたもの」だそうである。

「今の若いものの性の乱れ、結婚についての考え方に目くじらをたててる方」その前に、結婚後の性生活について まじめに書かれたこの本を読めば、その乱れもおのずとわかってくると思われる。
私自身、「物欲」「金銭欲」「出世欲」「名誉欲」はほとんどなくなってしまったのだが、 いまだに、なぜかこの「性欲」がなくなることだけが、生きてることへの強迫観念が働くのだ。

筆者が「結び」で性欲について4つの注意点(@性欲についての知識を持つこと A性欲の知識を交換することB性欲に耳をかたむけることC性欲を持続させること)、をあげている。

これは守れなくても、できなくても、訳者の言う「人間に生の躍動を与えてくれるこの性欲の 火種を消すことなく大切に育てることこそ、豊かな人生を送る条件」と言われると、 いまだ火種を消せぬ自分からして、その通りだと言わざるを得ないのである。



内田百闕:百鬼園随筆

「内田百閨v岡山出身と知っていたのだが、昭和の初期に活躍した文筆家であるということから、たぶん その本なんて読むことはないだろうと思っていた。
たまたま新潮文庫が「今月の掘り出し本」フェアというのをやっていて、 書店で目に付き、さらに題名が随筆となっていたので、買ってみたのである。

ペンネームの「百閨v、この本からは何もわからないが、彼が卒業した六高(現在の朝日高校)、 この近くを流れている川に百間(ひゃっけん)川というのがあるから、これをもじったのだろうか。

当時は、どうも随筆とは言われていなかったようで、漫筆、漫録などと言われていたようだ。
「まんぴつ」と読むらしい。そもそも随筆は、思いつくまま、とりとめもなく書くこと、
という意味からして、どちらがいいのか。

読みながら、思ったことが三つある。
昭和初期の風俗が見えてくること。
金もなく借金をよくした人物であること。
随筆は、ほんとに思いつくままでいいということ。

まずは、金の話、
高利貸のところへ借金に行ったり、ともだちに借金したりと金の話だけでも、100ページ はくだらない。
今のはなしに置換えてみると、こんなに借金をさせてくれる友もだちの輪もむつかしいだろうし、 いわゆる自転車操業みたいに利子を返すのに精一杯なら、大学教授なんてやってられないだろうし、 ゆっくりとこんな小噺書いていられるわけもなく、債権回収者に追われて、 もうとっくに夜逃げしているのではなかろうか。

次に風俗に目を向けて見ると、あるページを見開きしただけでも着物、下駄、赤帽、一等車、
なんて出てくる、まだ言葉としては戦後生まれの私でもわかるから、当時が偲ばれて、なつかしさ さえ覚える。その他にも、髭、フロックコート、風呂敷、・・・なんていろいろと出てくる。

「思いつくまま」書かれているということで、 内容をちょっと挙げてみると、松脂と琥珀、コレラ流行、汽車の中、風邪のまじない、 髭の流行、進水式、などなど。読んで見るとほんとに身近な話なのだ。
自分でも書けそうと思えてくるから不思議、ただ面白く書くにはかなりの熟練が入りそうには思う。

特に面白いと思った話をひとつだけ書き出してみよう。
「居睡」という題名のもの、筆者の学生時代、ある先生の講義の時は、春夏秋冬いつも居睡りをして で始まる話なのだが、 いざ自分が大学を出て陸軍学校の先生になると、自分の面前で生徒が眠るのである。これだけでも 笑えてくる。

まあこれだけなら、「因果応報」でしょうがないのじゃないかと思うのだが、話はまだ発展する。
転任して少尉、中尉、大尉のいる砲工学校で教えることになった。
そこで、論読をさせるのだが、その論読を聞きながらご当人が眠ってしまうというオチがあるのだ。



吉村昭作:漂流

久しぶりの吉村作品である。
依然筆者の作品で13歳で漂流してアメリカ船に救助され、アメリカで生活し通訳 等で活躍した「アメリカ彦蔵」を読んだ。
今回の作品は、時代をさかのぼること、65年前の江戸寛政時代の話である。

小説の本題に入る前の「序」では、終戦後何年も経て日本兵が帰還した話から入る。
昭和生まれの私が知っているのは、せいぜいグアム島から帰還した横井庄一、ルバング島から 帰還した小野田寛郎であるが、どうもその前に二組もいたらしいのだ。
そのうちこの「序」では、昭和26年アナタハン島から帰還した20名の話にふれている。

もともと31名の男と1名の女が居たのだが、ピストルが手に入ったことから、女の取り合いが始まったのだ。
本題の無人島での生活者とは、いささか生き方が異なる。
生きていくための物(水と食糧)を探すところから始まるのとは違い、生きるためのものが、 ある程度満足している時、人間は何を欲し、また諍いが起きるのか・・・。

物語は、土佐ノ国の主人公水主の長平と仲間の音吉が、1785年1月28日舟宿で一夜を明かしたところから始まる。
二人は、飢饉に苦しむ村にお救け米を運搬する船乗り、積み荷を下ろした帰りに、吹雪に遭い、 漂流する。
行き着いた島は、八丈島、青島よりさらに南端の鳥島だった。

幸い、食糧は、アホウドリや魚、貝、コンブを食べることで、水は雨が多くアホウドリの 卵を容器にして、雨水を溜めてしのいだのだ。
しかしながら、火山島で無人島のこの島へはアホウドリ以外近づくものも、救助船が来ることもなかった。

幸いと言うか不幸にも、二隻目、三隻目と漂流者が増え、いろいろな道具が増えたことが、 八丈島への奇跡の生還へとつながったのだ。
この本を読んで、まずは感動して涙が溢れたことから書こう。
それは、漂流した材木や釘等を集め、2年がかりで船が完成した時であり、 その船に生きていた14名と7人の遺骨を乗せて出帆するシーンである。

あまりにも過酷なそれぞれの無人島での生活、13年、10年、7年、何度も何度も挫折しそうになりながら、 勝ち得た、生の道。
もう一つは、人の出会いである。最初に漂流した長平とほか3名、そして次に儀三郎ほか10名、 そして最後に栄右衛門ほか5名である。
まさしく運命的であり、漂流はしたものの、生還するためにここに集まったようなものである。

もっとも筆者が漂流から生還した主人公にスポットをあてない限り、ほとんど忘れ去られた 過去の話と言うことになるのだが。
この時代は、時化にあえばまず生きて帰ることはなかったからだ。
さらに、この本を読み感心したことがある。
主人公は生きるということに対して積極的な考え方の持ち主であり、こんな状況の中で、 漂流者全員の能力とか性格を見抜き、彼らそれぞれに的確に役割を与えている。

そして、挫折しそうになると、生きる励みを与え、生還への道筋を着実に積み重ねていく姿である。
これは危機の時に本領を発揮するリーダーの条件を満たしていた人物と言える。
読み進めながら、経営指南書のように思えてくるから不思議である。
忘れてはいけないことがある、確かに主人公は漂流した長平であるが、 間違いなく登場時間の長いアホウドリもその一人ではなく一匹である。

筆者がその生態を知り尽くしていないと書けないストーリーの展開なのだ。 もうひとつ筆者の知識に感心させられるのは、船に関するものである。
おわりに、主人公たちにこれでもかこれでもかとおそいかかる 自然は厳しい、しかし逆らわなければ、生きるためのいろいろな恵みを、 自然はやさしく人間に与えてくれるということだ。



ジョーエレン・ディミトリアス (訳者)冨田香里 作:この人はなぜ自分の話ばかりするのか

翻訳書は、原書がよくても、その翻訳の仕方というか、日本語の表現にかなり影響を受ける。
読んでいて、すんなりと入れていけたから、それなりに読みやすかった。
筆者は、アメリカで裁判の当事者に、陪審員の選定に際して、どの候補者を外した方がいいかなど、 アドバイスを与える陪審コンサルタントである。

原書の題は、「人の読み方」で、アメリカではベストセラーになった作品らしい。
日本語のこの題名は、陪審員候補のひとつのパターンを出し、より具体的なものにしているようだ。
長年、コンサルタントとして積み上げてきた、人間観察のノウハウ・法則を 具体的事例と共に、公開したものである。

「訳者のあとがき」には読んだ日本の読者からの反応が書かれている。
「就職面接をする時に役立った」「恋人をよく理解できるようになった」 「上司との関係がよくなった」など人間関係の悩みを解決する手助けになったという声である。

人をパターン化し、どのような対応をするかは、直接お客さまと接する仕事の場合、最低限 必要なことである。
ひとことで言えば、そんなにうまくいくものではない、失敗を重ねながら、乗り越えていくもののようだ。
そういった意味からすれば、そのヒントが多くちりばめられている。

特にチャプタ表現の後にある、戒めの言葉、それにピントくるようであれば、あなたにとって十分活用できる 本と言えるのではなかろうか。
ちょっといくつか書き出してみよう。
「あなたの心構えの見直しから」「木だけではなく森を見るために」「直観力も見逃せない」、いかがだろう。

ただ、それがまさに自分が探していたもの、実践できるものであるかどうかは、その人次第ということになる。
そういった全部が全部ということではなく、ノウハウ本は、ちょっとしたヒントをもらうのだと言う感じでいつも私は読んでいる。

おわりに、自分自身、いま気になっていることからいえば、応用編の「素早く決断するために」であろうか。
その中でも「SPEED」というノウハウである。

ただ、「時間をかけて慎重にじっくり分析してパターンを浮かび上がらせるという、
これまで述べてきた方法ほどは頼りにならない」信頼度は低くなることを覚悟の上で使えと言うことらしい。
忙しい時代とは言え、近道した判断は、結局後で自分の首を絞めることになるのではなかろうか。


結城昌治作:死もまた愉し

題名を見て、こんな心境になれる筆者のこころを覗いてみたいと思った。
現代人の多くは死を体験することがなく、身近なこととして感じてはいない。
高齢化社会になり、どちらかと言えば死の前の「老い」に目が向いている。

衰えていく、精神と肉体への不安の方が気になるのである。
この本を読みながら、淡々と語る筆者には、常に「死」が同居しているように見える。
それでも、これだけの病に侵されながらも、生き長らえる生命力にもただ感心するばかりだ。

肺結核を患い療養所で知り合った俳人石田波郷から、句を教わり、自ら詠んだ多くの句が、 定本「歳月」の中にある。
若いということ、死の病ということから、厭世観、死神に取り付かれた筆者の心境が ひしひしと句から伝わってくる。
淡々と語る筆者の心の内は、大病の経験が少ない、私には実に重苦しく感じるだけなのだが。

「死」だれしも同じ様にやってくる、ただいつくるのかは誰もわからない。
筆者は盛んに言う、生きていることへそんなに構えてみてもと。
このフレーズは、いま生きていることが辛くなっている人にとっては、ちょっとした救いの言葉の ような気がする。

競争社会、人間に上下があるわけではないのに、あたかも勝ち負けが重要になり過ぎている 資本主義という社会。
すべてに勝たなければ、生きているというラベルを貼ってもらえない社会。
人一人が生きるということって、そんな目的が必要なのと、趣味でもそうだが「ただ楽しければ いい」のではと。

淡々と語る文のチャプタの流れには、死を予感し、生きるということを知り、そこから人生の始まりと 遊びへと、そして、病の再発から人間らしく死ぬために、へと移る。
そのチャプタの始めに一緒にある句は、実に意味深く、読めば読むほど筆者の心の内が見えてくる気がしたのだが。
チャプタの中に入れておいたのでご覧いただきたい。
そして、題名のように、死もたのしを「楽し」と言わず「愉し」という筆者に、死を乗り越え、 死生観を確立したこころを見たような気がする。

と言っても、筆者が死を体験したわけでもなく、「若いころにくらべれば、すこしは死にたいする処し方が わかってきたような気がする」なのだ。さらに言うなら「いつ死ぬかわからないということが、死の いちばん大事なポイントじゃないかと」ということになる。
おわりに、いつ死ぬかわからない、だから筆者は50歳に「遺言書」を書き、それからは、 毎年書き直しているのである。

終わりに、二つのフレーズを紹介しよう。
まずは、勇気付けられるフレーズがある。
「この世に顔を出したからといって、とたんに目的が生まれるわけもないんです。目的なんぞもつ 必要ははないんですよ。なまじ変な目的をもつから、ガリ勉をして、人を蹴落とすのを何とも 思わない人間になってしまう」、嫌な意味での競争が人間関係を醜くし、勝者でないと生きられない ような現代、改めてあなたの人生の目的はと、問われると何もない自分があるからだ。
もう一つは、趣味を楽しむ極意である。
「俳句が楽しいのは趣味だからです。あるいは遊びだからといってもいいでしょう。遊びというのは、 社会や家族などのしがらみから、ともかく解放される時間です。誰のためにとか、何のためにとか 制約がない。目的がないから楽しいわけです」いかがだろう。


ジョージ・フィールズ作:「日本型経営」再生論

テレビの「ブロードキャスター」という番組で、日本人以上に日本語にたけ、独特の日本人論と いつも小気味よい政治・経済評論を展開する筆者。
本を出しているとは露知らず、表紙にご本人さんが写っているので、 買って読んでみる気になった。
加えて、デフレスパイラルとかいうわけの分からない経済用語に振り回され、 「構造改革派」と「景気対策派」、既得権益者の果てしなき抵抗をネタにする マスメディア、景気回復に悲観論が多い中、めずらしくまともな題名にも 引かれたのでありました。

まずは、70歳超えの筆者の年齢に驚きながら、久々に読んだリーダーシップ論と人材論である。
もちろん結論は帯にあるように、龍馬型経営者と野茂・イチロー型人材論なのだ。
いままでの日本型教育ではなかなか輩出しない人材であり、一世代待つ必要があるとも言う。

企業組織としては、少しでもそういった人材が外部に逃げない、個性ある活動を望む社員を育成する組織が これからの日本を引っ張っていくということなのだ。
そこで登場するのが、「融合」というキーワードである。
筆者の持論は、アメリカ的な「個人主義」を好まない日本人にとって「協調精神」との融和がキー になるということなのだ。 それは、龍馬の「海援隊」であり、近藤勇の「新撰組」ではないということなのだ。

いずれにしても、「不良債権が精算され、膿を出して企業がクリーンになれば、当然廃業は増えるだろう。 それに対応するためにセーフティーネットを作る必要がある。一方、それと同時に開業も増えてくるだ ろうし、そうなれば、潜在力、人的資源、ものづくりの能力に長けたこの国が再生しないわけがない」 ということのようなのだが。

筆者が期待する人材はちまたにはあまりいなくても、 なぜ再生への道につながるというのか、 「企業は突出した人材の出現を持つ余裕はない。持ち駒をいかに生かすかが、 経営者に問われる手腕だ」というのだが、それで乗り切れていけるのか? はなはだ疑問で、最後までよくわからなかった・・・。
適度な競争に耐えうる組織に変化しつつあるということなのかなあ。要は人材カットとコスト削減、 新しい事業の創生と人材の移転。
個人主義と協調性を適当に使い分けながら、「和魂洋才」でなんとかやるということなのかなあ。ようわかりません。

前回読んだ「『甘え』の成熟」の筆者も、古い企業の倒産と新規事業が 芽生える間に大切なのは、この「セーフティーネット」、特に失業者への対策が肝要であると。まあ長らく預金者保護の「ペイオフ」の凍結もしていたのだから、 金ばかりではなく、これ以上自殺者を増やさない、減らすためにも、過渡的措置として 「セーフティーネット」は是非とも必要なものなのではなかろうか。
おわりに、やはり時代はインターネットなのであるということ。

「勝者は、その『移動性』『同時性』『迂回性』『多質性』の活用にあり、産業革命の三大発明の 『印刷機』に変わるものであり、インターネットは貧富の差を広げる新しい『読み書き』だ」ということになるらしい。

しかしまあ日本人の気持ちの中には、自由化自由化と言われながらも、過度の競争というのは、 苦手のようでして・・・ということのようです。



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