老いに関して医師が書いた文庫本を2冊買った。 先日紹介したのが「老いの盲点」である。 そして、もう一冊は、すでに、定年を迎えた医師が定年前の準備段階で書いた本が、この本である。 「老いの盲点」に比べ、第二の人生は「楽しい」ことがあるが、 それなりの準備と、老いへの戒めの言葉が多く盛り込まれている。 どちらがどうなのかということはない。 私自身は、それなりに自分に合うところもあるし、自分に合わないところもそれぞれある。 いずれにしても、私のような凡人は、定年と言われてもあまり構えていない。 それなりに年をとっていくのだろうと思っている。 だから、適当に自分がいただけるところだけというか、都合のいいところだけをいただこうという、 トンビ派なのだ。 まずは、いただけるところを書こう。 それは老いへの戒めの言葉である。 「肩書きから解放されよう」である。団塊世代は、長年同じ職場にいれば、 それなりの位置を占めている。 ここちよき地位にたいてい居る。 このここちよき地位から離れた時に、では長年ほったらかしてきた家庭でその位置を占められるか というと、それはあきらめた方がいいということ。 もちろんOB面をして、組織にまだハバをきかせようなんて思わないこと。 特に家庭では婦唱夫随に切り替えること、大賛成である。 ただ、私の場合、いまでもそうなっているのだが。 そして、「子供は老後保険ではない」である。 ついつい金を投資してきたから、当然親の面倒を見てくれるだろうなんて思わないことである。 一番いいのは、つかず離れずだと私は思っている。 ただ、その前に私の場合、二人の子、特に息子には一日も早く自立して欲しいと思っている。 もっとも思えば思うほど、離れていかないから困ったものだ。 その変わり娘はどんどん離れていく。 思うこととは逆になるとはよく言ったものだが、でも思い続けたいというのが、ホンネである。 もうひとつある、それは「足るを知る」である。飽食の時代、物質的に豊かな時代、だからこそ、 余計にそう思う。 ただ、これは過去そのような生き方をしていない限り無理なのだ。 人間の欲には、際限がない。 ただ、老いていく(ボケてくる)人々は、それぞれどれかひとつの欲が かなり突出してでてくるように思う。 もちろんすべて出てくる人もいるようではある。 毎度書くのだが、私が気になるのは、「性欲」である。 少し気になることがあった。 まずは、組織からの去り方である。 「印象に残る去り方」とか「座を譲る美学」 というのがあるが、私の場合、ただ去るのみでありたい。 時が過ぎれば、その人間がやってきたことなんて、風化してしまう。 ましてやスビード時代、人間関係が希薄な時代だから、風化がさらに早くなっているのだから。 歴史に名を残せる人物なんてのは、ほんの一握り、あとはその他大勢なのだと、思っておけばいい。 そして、「三つの自立・・・経済的、精神的、日常生活上」の中で、筆者は経済的な自立を言うが。 私は、日常生活上の自立である。 団塊世代は、まだそれなりに金の面とか、こころの面ではいい方ではなかろうか。 やはり、すべて家庭・子供を妻任せにしてきた、家庭での日常生活での自立が 一番だと私は思っている。 もう一つある。 定年後のことを語っている人が、こんなことを言っている部分である。 「こんな楽しいことはないと思うんですよ。いま考えているのは、これまでほとんどしたことがなかった 妻との旅行を年中行事にすること・・・」 大きな勘違いをしていると言いたい。 いままでほったからしにしていた妻がえらい迷惑であること 間違いなしだ。 妻は、すでに夫から離れ、遊びとか趣味の部分では、それなりにともだちの輪が できているのだ。 もちろん旅行の輪もである。 だから、思っているなら定年の前から やっていないと、「いまさら何よ、お好きにお一人でどうぞ」と言われるのが関の山なのである。 おわりに、すでに定年を迎えた筆者の意味深なフレーズを載せておきたい。 「定年後の生活は、現役時代に想像していたより、はるかに単調で孤独で寂寥たるものです」である。 このフレーズを読んで、第二の人生をいまから(50代から)考えるかどうかは、貴方自身の問題なのだ。 |
「依願退職」の表題から連想していたのと少し中身は違っていた。 副題の「愉しい自立のすすめ」と、依願退職とリストラ転職と起業家の話である。 最初のチャプタは、筆者本人が二足のワラジをはくようになったいきさつから、 やがて、小説家へと転身するまでの話。 第二のチャプタは、自主廃業した山一証券でやむなくリストラされた人たちの、 悩みに悩んでの転職するまでの話。 第三は、辞めるための準備段階として「サロン」作りの提案である。 第四は、自立にあたって一番大切なこと、それは家族、特に妻との話し合いである。 第五は、会社を辞めることはたいしたことではないという話である。 この中には、人事は業病に始まり、ひねもすのたり病、人徳欠乏症、肩書きってなんだ、 同窓会の序列など、サラリーマン独特の病気を解説したものである。 さらに、現役時代とは違う、退職者後に起こるさまざま変化、生活のリズム、 金銭感覚、情熱、年賀状、読書・・・・・・・・などについて書かれている。 そして最終章は、会社勤めから実際に起業した人たちの話なのだ。 いつもながら、ノウハウ本だから、いいとこどりでいいのである。 第二の人生に関する本を読んでいると、いつも出てくる話題は三つある。 「趣味」「妻」「自立」であ。当然、この書でもふれられている。 身がつまされたのは、山一証券マンが突然のリストラにあい、転職するまでの話であるが、 読みながら、転職というのは一般のサラリーマンでは、こういったいきさつがないとむつかしい ということだ。 ただ、それは、30代以上の人間が思うことであって、筆者がいう職業多段階時代の今日においては、 転職しながらステップアップし、自分に合った本当の職業を求める世代がすでにできていると いうことなのだ。 この世代は、会社に対する未練とか帰属意識は薄く、きっぱりと割り切れる世代のようだ。 たぶん私のように何もなくそのまま定年を迎える輩には、次の話がとても参考になりそうである。 一つは、辞めるための準備運動として、「サロンを作る」「地域社会にとけこむ」 「転職後の友人を作る」「サロン名人になるためには」ということ。 作る、とけこむということはいずれも主語は自分からである。 「サロン名人になるためには」の中には、4つの条件があるから、書き出してみよう。 好奇心がきわめて旺盛、棟梁の資質がある、骨おしみしない、女性の友だちがいる、 だそうである、みなさんはどうだろうか。 もう一つは、企業を離れた時、一番気になる存在−妻−のこと。 書かれているキーワードは、「妻の言い分」「妻という名の他人」「自立への道」。 やはり忘れてならないことは、専業主婦であれば長年の生活の中で、すでに妻の世界が 家庭の中にはできている。居場所ひとつとってもそうであることを、まずよく認識することなのだ。 さらに、妻は地域社会とか友達の輪を亭主抜きで作っていることも忘れてはならないことなのだ。 さてさて、筆者は愉しいというが、準備段階を無視して突入するようなことになると、厳しい反発を 招くことだけは、明らかなようである。ご健闘を祈りたい。 |
1990年に単行本、97年に文庫本化された作品である。 すでに12年も過ぎているから、ゴミの量もさらに増えていることだけは間違いない。 登場してくるそれぞれのモノの最終処分地がどのように変わっているか。 ゴミに関し、変わったことと言えば、リサイクル法が成立し、家電製品の有料回収や 粗大ゴミの有料回収、モノを分けて収集する分別回収、市町村によっては、生ゴミ とか燃えるゴミについても有料回収をしているところもある。 相変わらずの不法投棄は、ニュースにならないことはない。 私たち団塊世代は、モノのない時代から、モノが溢れる時代を生きてきた。 いまだに、モノに対する欲はおさまる気配はない。 「少欲知足」には、ほど遠いようである。 実質的に消費を基本とする文明、経済成長率優先の世界である以上、どうにもならない。 それは、環境問題における取り組み、地球温暖化に対してCO2を減少させようとしても、先進国のエゴ、 特にアメリカからして、「京都議定書」にいまだに批准しないことからもわかる。 モノを消費することから逃げられないのなら、いかに再利用、再資源化するか、ゴミを出さないよう にするしかないのであるが。 このルポは、12のモノの最終処分段階から見た日本社会なのだ。 そのモノは、自動車、ファッション衣料、OA機器、紙、電池、ビル、水、医療品、 食べ物、器、生き物、そして物騒な「核」まで入っている。 作られた時の華々しさ、その時の価値に比べ、売れ残ったり、使い古された結果の価値、 そのギャップがあまりに大きすぎる。 もともと人間が住む自然界は、人工的なものがなかった時代には、循環型社会が作られていたのだ。 それをいまさらかえせとは言えないが、循環型社会にするには、ライフスタイルを変えない限り どうにもならないことだけは確かである。 各チャプタまずは、各地にあるモノごとの最終処分地のゴミ風景から入っていく。 そして、日夜最終的な処分や再利用に精出す企業を紹介しながら、その企業の人たちからの 悲痛な声を取り上げ、ゴミ問題の核心に触れていこうとしているのだ。 見えてくるのは行政の怠慢以上に、作って売ることだけに目を向けている企業エゴが見えてくる。 もちろんお客さまニーズの多様化という言葉で括られる、人間の欲望の結果、なのだろうが。 ただ、循環型社会をめざしての容器リサイクル法施行が1995年6月、 家電リサイクル法施行が2001年4月、21世紀に入り、大きな変化は起こりつつあるように見える。 やはりゴミ問題は、有料化しないかぎり抑制がきかないし、最終処分段階での企業側の責任も明確に しないかぎり、改善は見込めないのではなかろうか。 そのうち、アメリカの火葬場で何年も焼かれず放置されていた遺体の話のように、 一番人間の多いわれら団塊世代、モノを使い過ぎた世代には、高齢化社会の廃棄物として、 火葬もまともにされずに放置されるような笑うに笑えない時代がやってくるとか、 ゴミに埋もれた社会がやってくるような、 プラックユーモアも信憑性がある、そんな気分にさせる本である。 それは、筆者が消費と廃棄との落差をルポしながら、モノの行き着く最終処分地 と人間世界の話を比較しているこんなフレーズからもよくわかる。 「カツラや養毛剤のコマーシャルが洪水のように流され、死ぬまで若くあれ、死ぬまでハゲるなかれ、 と絶叫する社会は、永遠に若づくりしなければ世間から疎んぜられる、息苦しい社会の同義語 であろう。現代ニッポンにおいては、若さだけ賞揚され、老いはひたすら忌避される。 まだ充分使える製品を容赦なく廃棄していく社会の有りさまは、老いという理由だけで社会システム から排除していこうとする社会構造と、どこか通底していないだろうか」 いかがだろう。まさに消費文明を享受している現代人、モノを大切にしないこころが そのまま人の老いからの忌避と死生観を持ちえない多くの人たちに如実に現れているという、皮肉な 結果からも分かりすぎるほどわかるのである。 |
何冊目だろう。帯に「中毒性がありますので、・・・服用にご注意」とあるが、 どうもおかしいと思っていた。 本のカバーを見ていると、うっとりとして、軽い痴呆状態となる。 と言っても喉とか、肩とか、熱があるわけではない、書店へ出向いて買う本がないと、 つい手が出て買ってしまうのだ。 やはり中毒だろうか、読んでためになると思って買ってるわけではない。 暇つぶしに苦労している時とか、気持ちがイライラしている時とか、便秘の時に どうも手が出てしまうようだ。 いつものことなのだが、職場では読めない、けたけたと笑いそうなので漫画本を 読んでいると勘違いされるからだ。 もっとも仕事に役に立つとは思えない。 良書ぶりをほめるのはこのくらいにして、本題に入ろう。 あまり真剣に読むとはぐらかされ、適当に読むと思わぬ収穫がある。 人間は、生きていく上でそれなりに「こだわり」というものを持っている。 そういう「こだわり」というものはよくよく考えてみるとたいしたことではない。 ということが読めば読むほどわかる。 でも人間は、こだわりからは離れられないのだ。 そういった観点から読むとほんとに面白い。 もちろん笑い話として読んでもいい、くれぐれも真剣に読むと疲れる。 だから、思う存分笑って、あごを外さず、こだわりをはずして読めば、あなたも 明日から哲学者になれるのだ。 まず、読み始める心得としては、チャプタの表現はもっともらしいものになっているが、中身を 期待してはいけない。あくまでも笑い本として。 もう一つ、問題に対して不真面目だとか、この人はホントに哲学者なのかと疑ってはいけない。 それでは、その論理性というか、話の展開が見事なところを紙面の関係上、誠に心苦しいが、 一個所だけにしぼって紹介したい。 「所有の概念」のチャプタである。まさに禅問答のようである。気になるフレーズを取り上げてみよう。 「わたしは色々なものを所有している、と思っていたが、よく考えてみると、病気、邪心、悪妻などは もっていると断言できるものの、たいしたものはもっていないと認めないわけにはいかない」 さらにこれだと思われる哲学者たるフレーズは、「どうしても所有したいのなら、美術館の絵画や 公共の庭園や大自然を自分のものだと思ってみてはどうだろうか。管理は他人にやらせて いると考えればよい。このように簡単に思い違いをするだけで、所有欲は十分に満たされるのだ」 である。 いかがだろう。所有欲とはこんなものなのである。 このフレーズでだれもが、この本をすぐに買って、金とモノから開放されるノウハウ を得たいと思うにことは間違いない。そう思うのは私だけだろうか。 |
題名・帯からなにかいかがわしい本のようにみえる。 誰かの匂いに興奮、ブルセラ、ボンデージ・・・となるといわゆるフェチシズムである。 内容は極めて、示唆に富むことが多くある。 そもそもなぜこの本を買ったか。 簡単な話なのだが、二つある。 ひとつは人間の欲望の中で、どうもまだ消せそうにない「性欲」への関心。 もう一つは、娘が思春期を迎えた頃、おやじの匂いが臭いとよく言われ、最近よく 言われるのは、家人からウンチが臭いと言われ、それは当たり前の話なのだが、どうも匂いに関し気になっていた。 口が臭い、腋も臭い、身体も臭い、足も臭い、屁も臭い、このくらいでやめておこう。 どうしたものだろうか。 さらに、最近のニュースでは、老化と共に出る匂いがあるという。 潔癖志向もあまりいただけないが、匂いについてもなぜこんなにうるさく言うようになったのだろうか。と疑問を持ちはじめていたのである。 般若心経の中に「無限耳鼻舌身意。無色声香味触法」なんてのがあるが、人間だけだろう。 大脳で考えて、耳で声がうるさい、鼻で香りが臭い、舌で味がまずい、身体を触れないと生きていると感じない。 もともと匂いを嗅ぐためにある鼻、人間の身体から出る匂いはなんのためということも、知りたくなった。 そういえば、ブルセラで汚れたパンティを買うお方もいたなんて・・・。 この本にはなんとなくタブー、秘め事のようになっていたことまでちゃんとまじめに書いてあるのだ。 筆者はなぜ匂いにこだわるのか、それは長年パフューマー(調香師)として活躍してきたからである。 それでは、興味津々という個所を箇条書きしてみよう。 チャプタにもあるように鼻とセックス、人間の嗅覚退化論、臭いイロイロ、古代の薬物の用途、 媚薬の原型は体臭、腋臭と香水、人間発情の通年化、ラブ・アップルなるもの、イメージと発情、 匂わないフェロモン、性器をナゼ隠すようになったか、性器を見たい欲望、ハナとアソコは一蓮托生、 フェティシズムの4つのレベル等々。 まあ、興味本位になりすぎて、読むとなんだということになりかねない。 いたってまじめな本であることは、保証できる。 あまり内容を書くと、興味が薄れてはいけないので、あえて書かないことにした。 「気になるフレーズ」でイメージを膨らませて読むともっと楽しいものになるだろう。 ただ、私が匂いに関し思っていたことは、まさに筆者が言う 「衛生思想や潔癖志向を何の反省もなく受け入れて、生活空間から悪臭や匂いを追い だしていったわれわれの姿」ということなのだ。人間として大切なことを消してしまったから、 人間関係があまりにも気まずくなりすぎ、ぎすぎすした社会になってしまったので はなかろうか。 確かに、「清潔」と言う目的は達成したのかもしれないが、失ったもののほうが大きいのではないか。 |
えらい難しい本を読んだものである。 いつごろから、こんなことを考えるようになったのだろうかと振り返ってみる。 筆者の場合、あとがきにはこうある。 「40歳をすぎた頃から、死を身近に感じるようになった。大病を患ったり、世をはかなんで 死の誘惑に取り憑かれるようになったからではない。ある時期に連続して、身近な人間を 喪ってしまったからである」 では、私の場合どうだろうか。私も大病を患ったり、世をはかなんで 死の誘惑に取り憑かれたような経験はない。 40歳を遥かすぎて、仕事に少し余裕ができた頃からだと思う。 それ以前はどうだったか、祖父が中学生の頃、脳卒中でしばらく寝たきりになった後、 自宅でなくなった。父は22歳の時に病院でなくなった。 それから以降は「人の死」を目の当たりにすることはなかった、この間全く死について 考えることはなかったのだ。 仕事に余裕ができた頃は、ちょうど母が介護状態になった頃に一致する。 老いて母のような状態になったら自分はどうするのか、 というところから 入っていったように思う。 だから、その頃読んだ本には「生と死の接点」「臆病な医者」「楽老抄」 「定年前後の自分革命」「老残のたしなみ」「俺たちの老いじたく」「恍惚の人」 「あと千回の晩飯」「楽しみながら年を重ねる簡単な工夫」「海も暮れきる」 「我が老後」「あなたは老後,誰と,どこで暮らしますか」「老年の愉しみ」 「定年ゴジラ」「こんなふうに死にたい」「死ぬための生き方」「断崖の年」 「男と女の老い方講座」「中陰の花」「医者の目に涙ふたたび」 「老後の大盲点」「定年の身じたく」「散骨代とお駄賃を残しておきます」 「定年で男は終わりなのか」「『殺人』と「尊厳死」の間で」「定年後」 「死の向こうへ」「定年百景」「最期は思いのままに」「やさしさ病棟」 「江戸老いの文化」「人は成熟するにつれて若くなる」「いつのまにか私も『婆あ』」 「完本戒老録」「幸せなご臨終」「黄落」「ご隠居のすすめ」「寝たきり婆あ猛語録」 「生き上手、死に上手」 定年とか老いとか介護という本が中心で、明確な死生観ができあがってきたわけではないし、 いまだにうろうろしている。 ただ、死に床で妻や子供たちをあまり煩わせたくないという感じだろうか。 昨年母が生涯を全うしたのを期に、何かこころの中にある不安というか、もやもや 解消のためにもう少し死生観について考えてみる本として「遺言状を書いてみる」 「死ぬことが人生の終わりではないインディアンの生きかた」等を読み、 今回この本に至ったのである。 まずは「延命治療」と「尊厳死」、自分の死についてどこまで決定権が・・・に始まり、 日本で起きた安楽死事件を追いながら、死に対するいろいろな国と日本の考え方の推移へと移る。 そして最終章では、告知、インフォームドコンセント、痛みモルヒネ投与、ホスピス等の 終末期医療とリビング・ウイルについて書かれている。 しかしながら、リビング・ウイルについて、日本では法的なものはないが、 それなりに延命処置に対する意志表示宣言は社会的に認められている。 すでに現段階では、世界でも日本でも、積極的な安楽死をどうするかというところに移っているのだ。 具体的に言うならば、重度の痴呆、精神的苦痛を訴える人の場合である。 とはいえ、日本では、「死をタブー視する傾向があり、家庭内で死について話し合う機会は ほとんどなかった。一人の死が家族におよぼす影響の大きさを考えると、自分だけで終末期 の迎え方を決めることはできない。死は自分だけの問題ではないからである」ということになるらしい。 いずれにしても、突然の死は別として、死に際しての準備というか、自分の考えを 常日頃から妻と話すか、それなりに残しておく年頃であることだけは間違いない。 |
今回の作品は、「甘え」という文字と副題にあった「大人のための依存法」というところに 引かれて読むことにした。 この本は、精神分析の視点が変わった、というところから入っていく。 あの偉大なフロイト、フロイトの考えは、「精神分析の目標は、心理的に自立した個人になること だった」この考え方が80年代まで続き、その後、アメリカでは、 すでに「自己の分析」を著したハイレンツ・コフートなる人の理論が主流を占めているというのである。 その理論とは「自己愛的な要素のない愛などというものはあり得ないと明言し、本質的には人を 利用しようと思ったり、人に依存したりする他者への愛は、精神分析の視点から見て、健全な ものと宣言したのだ」 最近、アメリカの影響をもろに受け、自由化の波が押し寄せている日本。そうした中で日本企業では、 能力主義だ、効率主義だ、つぶれるべき会社はつぶせ、リストラだと毎日のように言われている。 さらに国民一人一人には、自立せよと「甘え」は許さない、そんなぎすぎすした環境に職場も社会も 地域も家庭もなっている。 事実、われわれ大人が子どもにのたまう言葉は、私も含めこの「自立」の二文字のようだ。 確かに筆者の言う視点というのは、どうも一方向からしかものを見ていない、アメリカに躍らされている、 日本人のよさがなくなりつつあるという、危機意識のようなものがあるのではなかろうか。 この本は、1冊で2冊の楽しみがある。序章では、日本人にとっては新しい?理論の紹介、 第1章では、その理論でいうところの「成熟した依存関係」、第2章ではこの関係で大切なこと、 それは共感できる能力であると そして、第3章、ここから思わぬ展開、この「共感」からわが国の政治は、 国民の共感を得ているのか、 さらに次のチャプタでは、いまの経済政策は、間違っている、さらなる累進課税を直間比率は、 消費税をあげない等、の政策をすべきであると。このあたりが実に面白い。 ちまたでは実に多くの経済学者、評論家が長引く不況と初体験のデフレ対策に、いろいろな 理論を発表しているが、この筆者の考え方はただ、採用されるかどうかは別として、 逆転発想で実にユニークである。 なるほど、これも筆者が言うところの共感できて相手の立場に立てる能力の賜物なのだろうか。 最終章、これはたぶん筆者の命題なのだろう。 世界にない急速な老人大国日本がどのような施策で切り抜けていくのか、模範を示すべきだというのだ。 もちろん本来の精神分析の本としては、タイプ別分析とかの専門用語がいろいろと出てくる。羅列してみよう。 鏡自己対象機能、理想化対象機能、双子対象機能、認知心理学、EQ、自己愛、対象愛、 メランコ人間、シゾフレ人間、ひきこもり、メシア型人間、カリスマ型人間等々。 この中で面白いと思ったのは、メランコ人間、シゾフレ人間。 メランコ人間とは、「周囲より自分にこだわり、自分が頑張ってダメなら自分を責めるのが 基本パターンである」。 シゾフレ人間とは、「移り気で、流行に乗ることを厭わない、周囲と合わせることを基本形とする いわゆる一般的な大衆型と言える」。 まあこういったタイプ分けも、それこそ筆者がいうところのなるほどという共感できる人たちが、 大勢をしめる流行もののようなものなのだと思うのだが、読む側にとっては実に面白い。 終わりに、筆者が「甘え」はいいといっても、その意味合いはかなり違う。 「成熟」したものということなのだが、世界的に成功した 人たちの事例を紹介しているのでそれのほうがわかりやすいかもしれない。 ここでは具体的に書かれている部分を、載せておこう。 成熟した依存関係とは、 @こちらの言いたいことや感情を、言語的、非言語的手段を通じて、上手に相手に伝える一方で、 相手の感情や心理的ニーズをわかってあげる関係をもてて、それを通じて自然な人間関係が 築けること。 Aお互いの心理的なニーズを満たし、満たされるというギブアンドテイクの関係が もてること。 B依存の程度が相手にとってあるいは社会的に見て妥当なものであること。 ということなのだ。いかがだろう。 みなさんの親子関係、友達関係、企業での人間関係に照らしてみてはどうだろう。 くっ付き過ぎているか、離れ過ぎているか、ギブアンドテイクの状態、 それなりに面白いが、ただ社会的に見て妥当というのはむつかしい、素人的・私的には、 レベルごとの評価基準のような「ものさし」があれば、なお結構という事なのだが。 |
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