土屋賢二作:われ大いに笑う、ゆえにわれ笑う

今年最初の読み感、というのは12日更新分までは昨年読み切ったものである。
年明けから読みあぐんでいるというか、最後まで読み切れずに、また新しい本を読んで、読み切れずが続いた。
まずは佐野眞一著「日本のゴミ」を読んでそのゴミの多さと数字の羅列に頭がパンクし挫折。 次に同じ著者の「ニッポン発情狂時代」を読んでコンドームの発展の歴史と製造量の多さに唖然とし、口が開いたままとなり挫折。 そして、「心の不思議を解き明かす」を読んで心の病の多さに、最後まで読んだが、 どうまとめていいのかわからず、また自分もたぶん病気だと思い挫折。

結局、たどり着いたのがこの本「われ大いに笑う、ゆえにわれ笑う」で土屋の笑いのツボにはまることにしたのだ。
筆者の作品は「ツチヤの軽はずみ」「人間は笑う葦である」に続き三冊めである。
実に読み応えのある最後まで息を抜かせない作品のようなので、たえず金魚のごとく口を開けていた。
ほんとに最後まで存分に笑わせていただいた。こころに残るものがあったかというと、笑いすぎてすっかり忘れてしまったので、何も残っていない。

だから、この「読み感」を書くに当たり、もう一度気になるフレーズを探しながら、もう一方でまた違う筆者の作品を買いたいと思う気持が強くなった。
ちょうど漫才とか、落語とか、吉本新喜劇の劇、笑いのパターンとしては同じなのだが、ついつい見てしまう、読んでしまうのだ。
その表現のパターンは、人間が口でこう言っているが、その裏では全く別のことを考えているということを、表に出してしまう。

次に、教養溢れるもっともらしい表現を使いながら、終わりにどんでん返し、そしてもう一つは、 博学の知識で関係用語を羅列しながら、最後に似て非なるものをそっと入れ込み笑いを取る周到さ。
今回の作品には、ピカソの作品と間違うような素晴らしくも幼稚なイラスト付きだからファンには たまらないもので、思わずわが子、わが孫の幼稚園の絵画作品を彷彿とさせるものになっているのだ。

とは言え、取りかかった以上は、さらに素晴らしく思わず読み飛ばしてしまうところを見つける必要があるのだ。
ありましたありました。
確かに「わたしのギョーザをとって食べた人へ」は絶賛に値するが、あえてはずしたい。
なんといっても「想像と現実の間」これである。どんでんがえしもなく、まともに最後まで哲学的に書いているように思える。

極めて禅問答の要素というか、仏教でいうところの「色即是空、空即是色」、現実と思っていることは想像かもしれないし、過去の事実と 思っていることは、想像で作りあげたことかもしれない。確かに読み終えた後、想像の世界に自分は生きていると思えるから不思議、不思議。
まじめにいうと「こだわるな」ということのような気がする。だがしかしこれさえ想像なのだが。
あえてもうひとつあげるなら、「趣味は苦しい」である。その中のこのフレーズに思い当たるところがあった,ただそれだけである。

「『趣味は実際には楽しい気分を与えてくれないのに、なぜ人は趣味をもつのか』・・・考えられる理由は次のようなものだろう。 @人々が趣味は楽しいものだといっている。A始めるときは楽しいように思われる。B自分が選んだ以上、メンツにかけても苦しいとはいえない。」
えいおまけでもう一つ「ロバなのか暴力団なのか」である。実はこれも思い当たるフシがあるからなのだが。

それは私自身が,時々息子を怒る理由としてぴったり当てはまるものがあったのだ。
「『怒れば自分の思い通りになる』、『怒れば自分の威信が保たれる』、要するに『怒れば何とかなる』という子供じみた根性の持ち主である」。
笑いが好きでない人には、むつかしい哲学の本に見えるかもしれないが、まちがいなく笑える本である。
決して、漫才や落語や喜劇とかの脚本家が書いたものでないことだけは確かである。だと思う。




佐野眞一作:ニッポン発情狂時代


1980年から1981年にかけて「週刊文春」に、<ドキュメント・ニッポンの性>として連載されたものの文庫本化である。
筆者は、あとがきにあるように、「『性』という分光器を通して現在の日本の<世相>と<文化>の位相を一瞬でもかいまみてもらう」ということ にポイントを置き、そしてそれぞれのチャプタでは、次のようなことをねらいとして描いているという。

まずは、「コンドームの20世紀」では、避妊具に反映された性意識の変遷、「買春ツアーの構造」 では、東南アジアと日本の歴史的か関わりからくる性の歪みの構造、「ソープ村の社会学」では、 高度成長による性の地殻変動、「セプテンバー・セックス」では、高齢化社会の到来による性の地殻変動である。
この時代から20年以上たった現在では、「テレクラ」「性感マッサージ」「ホテトル」「援助交際」隠微な世界の話だったものが、 いまではあっけらかんと性を楽しむ時代になってしまっているようだ。

これはゆきつくところまでいってしまったのか、さらにまだ変遷をし続けるのか。
それはさらに20年後を見てみないとわからないことはないように思える。
それは時空間を超越したインターネットという時代になって、さらに様変わりしているように思える。
ただただ、することは同じなのに、古くて新しきことなのだと・・・。

過去性をテーマにした本はいくつか読んできた。「アメリカの性革命報告 」「江戸の性風俗」 「男と女の『欲望』に掟はない 」「飽食時代の性 」「男の性解放 」「悩み多きペニスの生涯と仕事 」
私自身の気持ちの中に、人間の本質を見極めたいとする意識が、常に性に対する興味を持たせているようだ。

たんなるスケベエーといわれるかもしれないが。
4つのテーマのうち、50代を過ぎ特に興味深く読んだのは、 コンドームの話題でも、買春ツアーの話題でもなく、ソープの話題でもない。
さらなる少子高齢化時代を迎えている21世紀、いまのまま生きていることが続くならば 間違いなくくる高齢化。

ずばり高齢化時代のセックスをテーマにした「セプテンバー・セックス」なのだ。
老いの性は不潔なものとして隔離されていた時代から、少しずつ変化していく時代を、 40代以上のシングルを対象にした集団見合い会場、各地の老人ホームを取材して描かれているチャプタである。
なぜかといえば、老いるに従い人間は、それぞれ自分の根底・潜在意識の中にあるものが、 表に出てくると、私は思っている。

それは性欲であり、金欲であり、出世欲であり、名誉欲である。
特に私の場合、いくら呆けても性欲だけが無くならないような気がしてならないからだ。
そんな自分を勇気づけるというか、なぐさめてくれる言葉が、 老人たちが吐く多くのホンネの言葉や介護をする人たちの言葉に表現されているからなのだ。
清潔好きで、外見にこだわる若者、老いを特に嫌い若く見せたいと 思う老人(?)たちにとっては、たんなるスケベエ爺の叫びにしか聞こえないかもしれないが。
ただ恋する老齢の男女は、いつまでもいきいきと元気であることには間違いないことらしいのだが。


ロバート・シュラー作**稲盛和夫監訳:いかにして自分の夢を実現するか


最近はビジネス書なるものをほとんど読まなくなった。
なぜだろう、いくらあがいてみても、先が見えすぎていてどうしようもないという諦めからだろうか。
なぜ、この本を読む気になったのだろうか。

「夢」を実現というテーマに引かれたようだ。
たいていの人は、年が変わって何かにチャレンジしようと思っているはずだ。
新しい年も1カ月がすぎ、はやそのチャレンジに挫折しかけているころではなかろうか。

そして、ああ今年もだめのようだ。となっているころではなかろうか。
そんな自分にも刺激をあたえたくこころして読みました。
人が気持ちを動かされるのは、実際に行動を起こし体験した事実が書かれたものとか、話ではなかろうか。

ただ自分がするか、できるかは別として、もう一度自分もやってみようかという気になるのではなかろうか。
そんな体験談の話や先人のいいフレーズがちりばめられている。
ただ比喩の話が出てくるのは、残念ながら私の頭がついていけない部分があった。

いつもながら読んで自分がいただけそうなヒントだけをもらえばいいのだと読み進めた。
何かをしようと思う時、いつも私が思っていたことは、とにかく始めたら続けるということでやってきた。
1年間に3つの新しいことにチャレンジすることでやってきた。そのハードルの高低は別として。
確かに、この本には、続けることの大切さがとかれている。

特になるほどと思ったのは、「失敗は終点ではなく、成功は終わりがないということを心にとめ・・・」 といった「積極思考」の考え方である。
とかく日本人は、失敗を極端に恐れている人が多い。それは最近までの企業での成績評価でも、 企業を倒産させた経営者の末路をみてもわかる。
これは極めてアメリカ的な、チャレジするものに対する考え方であり、日本ではまだまだである。
各チャプタの裏には、格言がある。その中のひとつに「機会を逃がすな!人生はすべて 機会である。いちばん先頭を行く者は、やる気があり、思い切って実行する人間である。 『安全第一』を守っていては、あまり遠くへボートを漕ぎ出せない」(デールカーネギー)がとても印象的だった。

自分のアイデアを自分でつぶす人のせりふに「できるわけがない」「そんなのは論外だ」 「危険すぎる」「誰もそんなことをしていないよ」「今のままで十分さ」 まだまだあるが、思い当たるふしはないだろうか。
そして、いちばん気に入ったフレーズを最後に書いておこう。

「小さな第一歩からはじめる。
お金なんかなくても、夢と祈りさえあればスタートできる。
小さな歩幅で十分だ。ただ向こう側を見ないで性急にジャンプしてはいけない。
一貫性のある行動で、自分をコントロールしながら正しい方向に進む確信ができるまで、 足をしっかり大地につけておこう。あまり欲張って口にほおばるとむせてしまう。
あせらずに少しずつ、かみくだいていこう。落ち着いてゆっくりやれば、できないことはない」
とにかく夢を実現するには、まずは一歩を踏み出す、そして着実に継続する、欲張らなくてもいい、 あわてなくてもいいかならずできるということを信じてということになるようだ。

もちろん「夢」をもつこと、見つけないことには 何も始まらないことだけは確かであるが・・・。



嵐山光三郎作:ざぶん


先日、NHKテレビを見ていたら、嵐山光三郎が「課外授業」という番組で、芭蕉が旅した奥の細道を題材に「不易流行」 をとりあげ、自然にある変わらないもの変わるものを見つけて、俳句を詠む話を後輩たちにしていた。
その後、書店に寄っても別に意識することなく時が過ぎていたが、題名に目が行き、 何気なしに見つけたのがこの本「ざぶん」である。

買ってしまったのは副題の文士・温泉・放蕩のキーワードのせいかもしれない。
明治の文士は、男も女も性について自由奔放である。
男と女それも私たちが教えられ、いまだに記憶に残る文豪たちがくっついたり離れたり、 新しいネットワークを作ったりと。

この時代の文士の人たちには、行き詰まったり、不倫したりの結果、自殺というのが結構、多いのだ。
いまではワイドニュース的なことを載せない大新聞も、昔はどうでもいい情事、自殺、 不義密通を生々しく伝えていたようである。
筆者は、こういった当時のワイドニュースを収集し、文士たちがよく通った温泉と、 その温泉に展開されたであろう、文士の裏話、艶話を面白く小説にしたものなのだ。
そして、発表された小説に描かれた裏話を表に出したものでもあるようだ。

当時の文士は互いに評論・議論しながら自分の小説作りの発奮材料にしていたのだ。
どの話も温泉が絡ませてある。その温泉に自分を癒す部分から、やがて性欲をもよおす文士たちの オープンななすがままの男女の情事が描かれている。
男も女も温泉に入ると性欲をもよおすものがあるのだろうか。

温泉の成分だけでなく、ほのかに染まる女の肌に男のスケベエな目と下半身がどうにも 止まらないようなのだが、みなさんはいかがだろう。
最近の風呂好きの日本人、温泉好きの日本人には「健康」という文字だけで、 そのようなものは見えてこないのだが・・・。

この本を読んで、思ったことが3つある。疲れた男女の仲、これからの男女の仲も、 下半身に自信がなくなった時も、精神的に疲れた時も温泉が一番。
当時は自殺を江戸時代の「心中」の延長のように考えていたこと、そして、 温泉・風呂での裸の付き合いが、コミュニケーションの場になり、 また作品を作るヒント・ネタがあったということか。

意外な事実(?)は、ずっと胃痛持ちだった夏目漱石、極道者で絶倫男与謝野鉄幹、 淫女与謝野晶子、ナルシストの谷崎潤一郎、姦通罪北原白秋、 多くの男に結婚したいと思われていた樋口一葉、祖母に頭の上がらなかった泉鏡花、 大恋愛の末に結婚し女房に逃げられた国木田独歩、女中毒症の島崎藤村、 たかりや石川啄木、精力絶倫の幸徳秋水。

このような話は、文士たちの作品を読んでもわかるものではないことだけは確かである。
また、明治の文士たちの名前と作品を思い出すにはこの文庫は大いに役立ち、 疲れ果てて老い過ぎたこころをリフレッシュさせてくれる数々の温泉場での濡れ場を 想像させてくれるだけでもなかなかのものであったようだ。
もう一つこの本には、楽しみがある。文士の濡れ場 (浴場での欲情を少しだけ気になるフレーズに入れもうした)もさることながら、温泉好きの 人なら文士と温泉場を結び付けた旅をするのも結構面白いようだ。

そこでそのデータを少し羅列して、お終いにしたい。
信州渋温泉(紅葉、思案、美妙)、函館湯の川温泉林長舘(露伴)、南志賀の山田温泉藤井屋(鴎外)、
熱海小林屋旅館(紅葉)、道後温泉(子規、漱石)、栃木県塩原温泉(独歩)、
仙台作並温泉(美妙、稲舟)、北海道定山渓温泉(武郎、独歩)、信州中棚温泉水明楼(藤村)、
摩周温泉(啄木)、山梨県の岩下の共同湯(鉄幹、晶子)。


フレデイ松川作:老後の大盲点


老いに関して医師が書いた文庫本を2冊買った。
一冊は、定年を前に定年後に向けての身じたくをすすめ、万全で定年を迎えた医師の話。
もう一冊は、私と同じ年の医師で、老人医療を続ける実際の現場からの事例を踏まえてのエッセイ、 それがこの本である。

まずは、老人医療現場からの実際にあった生々しい体験談。多くの先人からの教訓である。
これは、読んでもらえば、なるほどと思うか、自分には関係ないと思うかだけだろうが、 思うに老いると、過去、自分が思い続けていたことがこの時期にそのまま出てくるということのようである。
自立、といっても働いて金を稼ぐという経済的な自立ということではない、家事全般の話である。

妻に頼りきりの輩にとっては耳の痛い話である。
定年を迎えてからやり始めてもどうにもならない、趣味は、50代から始めよと筆者は言う。
こればかりは、やってみようかと思う本人の気持ち、意欲にかかっているのだ。

まずは、教訓のフレーズをとにかく羅列したい。
老いては子に従うな、子供が多いと「たらいまわし」にされる、死んでも遺体を取りに来ない子供がいる! 金を使わない老人の悲劇、「老後は外国で・・・」は無謀すぎる、「定年後の田舎暮らし」は快適なのか、年金をあてにするな!、 定年後あれもやりたい、これもやりたいは、何もできない、年をとったら女房が面倒みてくれるというのは、錯覚!、

会社で出世した人ほど、奥さんの復讐が怖い!、「ワシ族」の末路は悲惨、 長患いは嫌だ、ポックリ死にたい・・・後が大変、金を持った人が幸せだったか、社会的成功者が幸せだったか。
このフレーズを見ただけでも、自分自身の老後計画におやっと疑問を感じた人は多くいるのではなかろうか。

そう思った人は、是非一読をお薦めしたい。
普通老いての自立とかスケベになれなんて誰も思わないはずだから・・・。
おわりに、なるほどと思ったフレーズが3つあげておこう。
ひとつは、いまさら女性に持てたいとは思ってはいないが、本心は??、 「年をとって女性にモテる男性の条件 に『ウイット』『ユーモア』のセンスがある人」である。
次に、「散歩は最高の運動である」であり、そして、「まかせない、頼らない、甘えない・・・、 老人が健康で、ボケずに21世紀を生きる秘訣」である。いかがだろう。



博報堂作:インターネットマーケティング


インターネットの世界が開けても、日本のIT化はなかなか進まなかった。
21世紀に至り、ブロードバンドという高速高容量化時代になって、個人へ の普及率もやっと先進国から遅れていたが、急速に追いつき追い越しそうな勢いである。
マーケティングの世界では、「新しいカテゴリーの商品やサービスが市場として成立するためには、 世帯普及率が15%を超えなくてはならない」ということらしく、2000年に それを超え、この世界では急進的なツール・技術として脚光を浴びているのだ。
仕事柄、インターネットをもっと活用したいが、どんな活用法があるのか気になっていた。

企業でもまだまだ十分に活用しきれず、横並び状態であることは、それとなく分かっていた。
ただ、メディア自体が、一方向で不特定多数を相手にしていたものから様変わり してくることだけは間違いないのだ。
そんな中いつも気になっていたのが、「インターネットマーケティング」という言葉である。

個人でもインターネットを利用して情報発信ができるようになったから、いままで メディアというのが何か遠くに感じられていたものが、近くに感じられているのではなかろうか。
その一方で、情報に対する自己責任というか、情報を信じて自分が判断したことは自分で責任を 持たないといけなくなったのである。
もちろんのこと、情報保護とセキュリティに関しては言うまでもなく、情報が商売になる時代、 いままで情報は「ただ」だと思っていた日本人にとっては、実に耳の痛い時代になったのではなかろうか。
この本は2000年版、世の中スピード時代だから、企業のホーム ページで顧客に見せる情報技術はさらに進んでいるのだろう。

インターネットで活用できるツールを羅列してみよう。
「ユーザー登録」「登録フォーム」「サイバー広告」「プレゼント懸賞」「ネットイベント」 「メールマカジン」「アンケート」「フリクエントポイント」「メンバーズコミュニティスペース」 「パーソナライズドウェブ・メール」等々。
いろいろな技術はあるけれど、いかにマイホームページへアクセスしてもらえるか、「常連客」 を作るかがポイントのようである。

特に最近は、「『テクノロジー主導発想』が急速に後退し、『ビジネスモデル発想』 『マーケティング発想』」ということらしいのだ。
ただ、もちろんのこと「マーケティング活動のルール」、「知ってもらう、興味を持ってもらう、 理解してもらう、好きになってもらう、他のものも買ってもらう、人に勧めてもらう」 は変わりはしないということらしい。

インターネットで企業にとって、大きく変わった点は、顧客との関係であるという。
いままでのマスメディア環境下では、たくさんの人々には届くが、「顔」はまったく見えない。
インターネット環境下では、たくさん、かつ、一人ひとりの顔も見ることができる、ということなのだ。

したがって、雪印のように「うそ」の繰り返しで、信頼が地に落ちたように、Webの世界では 顧客の囲い込みさえできれば、これだけ力強いものはないが、ひとたび 信頼を失うことをしてしまえば、さらに早いスピードで顧客を失うことになりかねないのである。



川北義則作:中高年のマーケットを狙え!


長引く不況、景気を少しでも上向きにするためには、金のない・就職にあえぐ若年層に期 待するのはむつかしい、やはり中高年の消費がキーとなることは間違いない。
しかし、思うに中高年、われら団塊世代はこの作者が分析するようにこの不安な時代に、昔の特徴をそのまま 持ち続けて消費行動を起こすのだろうか。少し疑問である。
まずは、筆者がいう団塊世代の特徴的傾向の中で消費行動に結びつく項目を取り上げてみたい。

「『仕事より家庭が大事』という内なる意識を持っている」「夫婦は対等で互いにパートナー意識が強い」 「親子のコミュニケーションが密で、しばしば共に行動する」だが、どうだろう。
残念ながら、組織に埋没し、ひたすら忠誠を尽くしてきたはずだ。ゴルフ接待漬けだから、 休日家庭に居た時間は少ないのではないか。家庭では、テレビ族のゴロ寝なのだ。家庭を大事にしてきたとは 思えないのだが。

第二の人生で家庭のために時間と金を消費するのだろうか、 すでに子供は手が離れている。
と言って、ほったらかしにしていた妻とのコミュニケーションを もとに戻すのはむつかしい。
妻は地域での輪を作り夫を必要としていないと思われ、パートナーシップとはほど遠い。
だから、定年前の助走、今の時期をどう考え、 組織を少しでも離れて地域での活動できるかどうかが、消費へと結びつく可能性はある。

いま現在、町内での役をしながら感じるのは、会合に出てくるのはいつも女性なのである。
男で出てくるのは、公共の場で働いている人か、会社人生を終えた人しかいないのだ。
次に「積極的にレジャーを楽しむ」「新しいモノやコトを貪欲に取り入れ、つねに消費をリード してきた」なのだが。

これとて、21世紀に入り気になることばかりなのだ。
リストラ、雇用不安、医療保険の値上げ、賃金カット、税金の引き上げ、厚生年金支給 開始時期が65歳からと、レジャーを楽しむとか消費を増やすとかの余裕が生まれるどころではない。
いままさに、新しい消費行動を起こしているのは、いわゆるすでに60歳以上で第二の人生を 送っている人たちであり、その妻達なのだ。

団塊世代は、資産もあるが借金も十分にある。やはりお国の政策が安定しない限り、 われら団塊世代の財布のひもは硬くて、なかなか開かないように思う。
まして団塊と名がつくように、一塊で行動しないと不安なのである。
われら団塊世代が、必要としているのは、地域のネツトワークであり、 心のネットワークなのではなかろうか。

この本は、趣味を持たずにひたすら働いてきた、われら団塊世代に、 先が見えたいまから、第二の人生について大いに考えさせてくれるヒントがあるようだ。
商売をする側からすれば、一塊で行動する傾向のある団塊世代の 消費行動をどうくすぐることができるかであろう。

そういった意味でいくらでもビジネスチャンスはあるということか。
登山、旅行、ダンス、映画、楽器、学び、パソコン、バイク、カメラ・・・・・
あなたは何をやってみたいか。まずは、あなたが過去に「忘れてきた物」を探すことから始める ことだろう。


・メニューへ(ここをクリックしてください)