筆者の精力的な活躍はその年齢を全く感じさせない。 この本は8年前に出版され,昨年文庫化されたものである。 「孤独」という本のテーマに引かれ,書店で素直に手が伸びた。 人は誰しも生きてきた過去を振返ったとき,いわれぬさびしさ・孤独感をいだいたことが 一度はあるのではないだろうか。何がきっかけでどんなことでかは人それぞれ違うだろうが。 仕事がうまくいかなかったり,男女関係がもつれたり,家族に不幸があったり,そんなとき人はどうするのだろうか?「誰も分かってくれない」と愚痴をこぼしたり,相手といさかいをしたりと,私も含め多くの人は「相手に厳しく自分にやさしい」という,外に向かってはけ口を求めるものである。 逆に自己を厳しく反省するあまり,ときには孤独感にさいなまれて,心も体もぼろぼろになり,最期には「死」を選ぶ人もいる。自殺者の多い現代は,孤独に押しつぶされた人たちの叫び声なのかもしれない。なぜの言葉より,その人たちに救いの手がさしのべられる位置に常にある筆者は仏様のような存在かもしれない。 「そんなときは内なる自分とよく相談する時間が必要となっているのである。自分を見つめ,結果として人を大切にやさしくできるようになるのではないだろうか」と筆者は言う。「孤独」という文字がいくつも出てくる。「孤独」を生ききるヒントが発見できそうである・・・・。 身の上相談のため,寂庵を訪れる人たちや,電話や手紙で相談をかける人たちに,やさしく説き聴かすように書かれている。はじめに「人間は生まれて死ぬまで孤独な動物だということが,70年生きてきた私のゆるがない感想です」とあるように「孤独」をテーマに13のチャプタで構成されている。 タブー視されている「死」を意識する年ごろになった現在の私にとって,自分のこころに問いかけるフレーズが多くある。また,自由気ままな自分が人にいかに迷惑をかけてきたか,いままでの自分を反省するいい材料にもなる。「愛もこころも,無常である」と筆者はいい,かわらない愛・こころはないものと理解しなさいと言う。 そして,「孤独でないと出来ない愉しみを思い出しなさい」ともいうのである。 読み終わって率直な感想は,愛を知らない人への「愛の講座」と思えた。 若くして夫を亡くした未亡人,妻子ある人を愛してしまいその間で苦悩する人,三度目の結婚相手とも別れたい人,母の期待が重荷になっている娘,愛に悩み孤独感を味わっている 人の多いことか。寂聴さんはそんな女性たちのために,大きく心を開いて待ち受けているのである。 一方で、ひたすら仕事に忙しく生きてきた男たちへ、愛のメッセージを送っているうら寂しいチャプタもある。 第十一夜「男の方が孤独」は、50代の4人の女性による座談会形式の話、少しフレーズを紹介してみよう。 「定年退職してもお弁当を持って、朝、時間通りに出て、時間通りに帰ってくる。その間電車に乗っている」「日本の男の人って、仕事だけだから、定年になって家にいるようになると、話題もないし、身の置き所もないのよ」「よくテレビで単身赴任の特集なんかして、留守の奥さんが『淋しい、淋しい』って言ってるでしょう。あれは嘘なんですって、スポーツセンターで聞いたけど、実はそうじゃないのよ、奥さんは大のびするの」 いつも仕事を理由に家庭をほったらかしの男たちよ、女房の演技は話半分と心得たがよろしい。定年後は会社も妻も面倒はみてはくれないのです。だったら、いまからでも遅くはない。自分が好きなこと探しをして早速やってみよう。定年後の孤独な毎日を生ききるためにも……。 おわりに,「生ぜしもひとりなり,死するも独なり。されば人と共に住するも独な り。そひはつべき人なき故なり」(一遍上人)の言葉をじっくりかみしめたい。 |
豊富な読書量に,読書好きに合わせた自分の仕事選びに,本のフレーズの整理の仕方に,ただ驚きである。特に本の読後感のためのネタの整理が気になるところだが,そのノウハウは明かされていない。 エッセイの多くに,女性に対しての決断力のなさ,いい加減さを反省している。一方で年数がたっても過去の女性からの電話で酒を飲んだり,喫茶店で話をしたりという再開のシーンを楽しんでいるようでもある。 学生時代を懐かしみながら,昔の女友達や恋人を思いだし,完全に過去の人になろうとしている。 子供の話も多く出てくる,小説の家族の話を引用しながら,二人の子供にはせめてこうあって欲しい,という言葉を率直に吐露している。 一方で,仕事・読書,マージャン,競馬は止められず,家族サービスに対しては十分といえるものはまったくないともいう。 気になったエッセイの題名を見ると「遠い記憶」「マドンナ」「人生もう一度」「通信簿」 「何もない日々」「贈る言葉」「16歳の夏」「50歳」「ろくでなし」「教師」「本当の相手」「記憶」「墓参り」 筆者は50歳にして,人生を達観しているようにも見えるが,過去を振返り,何か忘れ物をしてきたのではないかと,その忘れ物を子供たちには分かって欲しいという,そんなところがエッセイのところどころにちりばめられている。 だれしも人生の後半を迎える頃,いままでの自分は何のために生きてきたのだろうか,と考えざるを得ないときがあるのではないか。ないというなら,それは逆に避けて通ろうとしているのではないか。 筆者の場合,自分がしてきたことは好きでやってきたこと,やめられないしやめるつもりもない,過去の断面でああすればよかったと思うことはあるがどうしようもない。 ただ,子供たちへの関わり方にはもっとなにかがという感じ。 あとがきにある次のフレーズ「50歳を過ぎると過ぎ去ったことがすべて美しく見えてくるのだ。友人との喧嘩も失恋も,仕事の失敗も,若き日の出来事はすべて愛しく思えてくるのである」に筆者の思いが凝縮されているようである。 惜しむなくは,多くの女性との出会いがあり,なぜ奥さんとの出会いがどうだったのかがどのエッセーにも入っていない。でもこのフレーズ「『本当の相手』と出会うことは待つことではなく,いま目の前にいる人を『本当の相手』にしていく日々の暮らしそのものを愛することが,私たちの物語ではないのかと」から察すると,人の縁から自然に出会い,いまその物語り作りの仕上げをされているようでもある。筆者の結びつきなどはのぞき見趣味的で,まあどうでもいいことではあるが・・・・。 |
・いまの世の中,フリーセックス,援助交際,不倫が大はやり,さらに離婚も増加傾向,と性がみだれ気味で,さらに人間関係も希薄と言われているが,昔はどうだったのかいつも気にはなっていた。江戸時代は性に関し,とてもオープンで,離婚の正確な統計はないが, 1890年に来日したドイツ人宣教師C.ムンチンガーは,日本の離婚率の高さ(4割強)に驚嘆したという。 ・この本のベースには,川路家の明るい性談義がある。そして,切り口は,良寛の歌の中にある「世の中にまじらぬことはあらねどもひとり遊びぞ我はまされる」の裏解釈の失敗話で始まり,江戸末期ロシアとの外交交渉で活躍した勘定奉行の日記「川路家の猥談」話,京都宮家の雅びとエロス,春画の効用,性の回数と健康療法,風俗にも時代のブーム,言葉の意味の変遷,情死の美化,そして自慰に悩んだ先人の話で結ばれている。川路家の猥談については,さわり程度をフレーズで紹介したい。 ・性風俗と聞いただけで,興味本位に下半身の話ばかりと思いがちであるが,事実そうなのであるが,多くの有名人の著書やその日記をひもとき,当時の性に関するものをきわめて学術的に分析している。 ・特に勘定奉行川路の日記の話は,吉村昭著「落日の宴」で主人公となっていたことから,彼の仕事ぶりとか,健康管理とか部下育成で感心し,一部あった「睾丸を塩で揉む」「58歳にして側女に子を生ませた」という下半身の話の延長線上のような先入観をもって読み進めたが,いささか内容が違った。 ・川路は,江戸の母親に,奈良で起きた日々の出来事や面白い話題を伝えるため「寧府(ねいふ)紀事」という手紙のような日記を書いていたのである。当時はごく普通に「家庭内で性的な話題がためらいなく交わされ,のみならず男女の区別なく皆でそれを楽しんでいた」という。勤勉実直ぶりの外交官の姿からとても想像できないが,その猥談の内容を読んでも実に健康的な話である。しかもその猥談が一家団らんの食事の時に行われていたというのだから,そのオープンなところになおさら驚く。 ・いまの時代,性に関する物は,社会悪として多く氾濫しているが,家庭内では話題にしにくいし,職場でしようものならセクハラで訴えられかねない。変れば変るものである。 ・この本はたった200ページ程の物であるが,有名人やその日記,性に関する言葉が実に豊富である。少し列挙してみよう。まず人の名,菱川師宣,貝原益軒,谷崎潤一郎,松浦静山,植木枝盛,三田村鳶魚,大田南畝,松平定信,荻生徂徠,徳冨蘆花等,次に書物,「全盛七婦玖腎」「宴遊日記」「ひとりね」「辛丑日録」「延寿撮要」「千金方」「視聴草」「女閨訓」「坐婆必研」「稚児草子」等そして一番多い私の知らない言葉,笑い絵,枕絵,おそくずの絵,痴(おこ)絵,わ印,肉屏風,房中補益の術,アンコ,等々さらに興味のある方は是非読まれてみたらいい。 ・また,男の性に関し悩んでいる人,いた人,そして私も一時期悩んでいた。それは,偉人でも同じ経験をしていたのだと改めて思えるフレーズに出合い,なにか男の郷愁のような物を感じている。 ・この本を読んで一番共感したのは,第6章の性風俗の言葉の意味の変遷から,筆者が江戸時代の人間関係の温かさを感じさせるというところに言及している部分である。不倫は,人妻の恋や妻帯者の浮気を言うのではなく,単に「相応しくない」「不適切」「不合理」を意味するとか,痴漢は「性格劣悪」「愚かな奴」を意味するとか ・そして,「これらの言葉が私たちに示唆しているのは,人と人との関係が現代のように疎遠になる以前の社会では,性愛の営みは,人間相互の深い親しみや信頼関係と不可分のものだったという事実にほかなりません」「性の悩み,恋の患いすら,周囲の人々は個人の秘め事として放っておいてはくれませんでした。性の話題は皆で考え,あるいは楽しまなければならないというわけです。だからこそ,茶の間でもさりげなく猥談が飛び交い,老いも若きも哄笑したのでしょう。一人で悩む性より共に笑う性」この二つのフレーズにまったくと頷きながら,スピードと効率化社会に生きる自分の家族との接し方について,いま私自身が反省の材料としている。 |
いつも行く書店で,文庫本ということで何気なしに手をさしのべた。その本の副題にある瞑想という言葉と序章の朝旦偈辞(ちょうたんげじ,この意味がわからない)の中に「やれ神だ仏だ,といっている者は,安直な気休めを人生に求めている哀れな人だといわざるをえないのだ」「第一,もし,あなた方が考えているような神や仏がこの世の中に存在したら,この世界に戦争などあろうはずがないではないか」「神仏に対する信仰は,いつも自己本位な自分の生命や自分の運命の安全ばかりをこいねがうだけが目的になっていはしないか・・・そのような信仰を持っている人間は,何となく神があり,仏があるように思い,その神や仏がこの宇宙を創っているように思っているが,それは違う」等のフレーズがあり,こころが動いた,ちょっと買ってみたのである。 また,神はそれぞれの心の中にあるという考え方は,アメリカ今世紀最大の予言者エドガーケイシー「我が信ずること」の著書を思い出す。「肝要なことは自分自身の心の持ち方で自分の中にある内なる神を呼び醒まし目覚めることにある」「キリストを信ずるが,同時に神を自分の中にあると信ずるその心のあり方がケイシーの精神世界を創り上げていった」というフレーズである。 まえがきに天風の生い立ちが書かれてある。特にこの人は本物だと思ったのは,不治の病を背負いながら,初めはその病から逃れるために,日本だけでなく世界へと,いろいろな宗教や先生と呼ばれる人に救いを求める。求め続けながら,最期にヨガの師との出合いが,その答えを見つけるきっかけとなる。 そして,病をなおすことから発展し,自ら何をすべきか,何のために生まれてきたのかにまでたどりつく,病から宗教を乗り越え哲学に,その紆余曲折は,人物伝になるだけのものを多く含んでいる。 また,随所に仏教とか禅とかヨガ(?)とかに関する独特の言葉や天風的言い回しがある。さらに,哲学的なたとえば「人間とは何だ」「心とは何だ」とかがあり,とっつきにくい所もある。物事の根源にかかわる部分は多くの人が避けて通るところでもあるが,最初から最後のチャプタまで常に言われていることは,「人間の健康も運命も心一つの置きどころ」「心の思考が人生を創る」である。 さらに,私自身の貧困なボキャブラリーで,天風氏の人生哲学を,一言でまとめると,人間は存在を感じる肉体が中心ではない。人間ひとりひとりのこころが,宇宙霊と結びつくことにより,活きる力をあたえられるのである。だから,「こころを常に積極的に働かせなさい」ということになる。 このあたりは読んでもらって,読んだ人なりに感じてもらう以外にないのだろう。こころの置きどころはすべての人間が違うのだから・・・・ 読み終わって,いつも何かに追われている自分,あれをすればこんな失敗をするのではないかという不安,そのこころの動きに,「もっとゆっくり考えてごらん,そんなことは考えてもしょうがないことだよ」と言ってくれているのである。笑われるかもしれないが,首をかしげられるかもしれないが,こころの重荷がすーっととれていった。 おわりに,多くの気になるフレーズがあった。そのひとつをここで紹介したい。 「いったい,こういう貴重な真理に無自覚なのは,あまりにも物質主義で生きているからである。物質主義で活きると,自分では気がつかぬかもしれないが,どうしても人生が物質的法則に縛られることを余儀なくされるものだ。すると,どうしても何事にも,足らぬ足らぬの悩みをのべつ感じ,常に,いい知れぬ不平と不満とに心が燃える。同時にそういう人はとかく,依頼心のみが熾んに燃え,価値のない迷信や陳腐な宿命論に自然と心酔し,果ては人生の安定を失い,うろうろと少しも落ち着きを感じない人生に活きることになる」 21世紀は心の時代といわれている。いま,世紀末を向かえ,ものが溢れ,金に目がくらみ,欲望の限界がわからず暴走する人間・それも知識層に実に多い。ほんとうに心の時代,そんな時代が来るのだろうか。 |
「ぼくは,自分でいうのも何だが,優柔不断の能力には恵まれている方だと 思う」という書き出しで始まる。この書き出しに,走りながら決断する時代を 生きぬいている現代人,点滅信号で思わず走ってわたる現代人,ドアーが閉ま ろうとしているエレベーター・バス・電車に駆け込み乗車する現代人,スピー ドと効率を優先する時代の現代人にとって「何悠長なことをいってんだろうか」 という声が聞こえてきそうである。 でも実に平易で読みやすい文章,発想の違いからか,思わず失笑してしまう。 たいていの本には読めない,あるいは意味が解せない漢字があるものだが, 一語もなかった。ただ,文意はぐるり頭の中をめぐって???でかえってくる ところもある。そのあたりは気になるフレーズで紹介するとして,本当に肩の 凝らない面白い本である。 決まりそうで決まらない,決められそうで決められない,そしてじゃあまた あとで,じゃあとではいつになるのか「あとはおてんうとさまにまかせて・・」 ということになる。神さまに結論をあずけてしまうのが日本人なのであるとか。 また,その神様の存在もだいぶ違う。キリスト教の世界では「神は私生活を 見ている」というように神は,すぐそばに裁判官的な存在としている。 一方で,日本の場合「おてんとうさまはお見通し」,実にほんわかとして, あいまいで,いるのかいないのかという存在なのであるとか。 そういえば,このお天道様・・・というフレーズは子どものころよく使った 覚えがある。昭和30年代はみんな貧乏ではあったが,こころはゆったりとし ていたのである。 圧巻は千円札裁判の話,芸術か,模造か,偽造か,まじめに考えれば考える ほど極めて灰色に近い黒なのだろう。 神聖な裁判所を演技場に変えてしまう,傍聴人参加の洗濯ばさみによる芸術 作品創りのパフォーマンス。写真は勿論ないが,あっけにとられた裁判官の表 情が浮かんできて,これまた失笑してしまう。 ほほえましいところもある,それは少年時代のオネショの話,童話の世界に 入っているような表現,夢の中に出てくる各種便所の情景になるほどとうなづ いてしまう。 ものの豊かさが飽和状態になっても,際限のない物欲が突出し,こころをど こかに置き忘れ,となりのひとにも関心が薄れ,我先にという利己主義が横行 するいまという時代に,ほのぼのとした明るく温かい灯りをともしてくれそう な本である。 |
この本は,平成元年・平成4〜6年にかけて,人生相談所の主催で行われた 夏季大学およびカウンセリング講座での話が載せられている。 講演の話し言葉で書かれているため,実に平易な文章になってわかりやすい。 人は,子ども時代,青年時代,中年時代,老年時代,だれしもがそれぞれ時代 に悩みをかかえ,それなりに克服し,生き抜いていることがよくわかる。 悩んでいるときは,なぜ私だけがこんなに悩まなければいけないのか,とい うのが本音の部分だろう。 私の場合はどうだろうか。知らぬ間に中年を過ぎ,老年時代に入ろうとして いる。過去の自分,人の親になり,子どもが青年期をむかえ,妻と二人,中年 と老いをむかえ,この本に書かれているそれぞれの時代の悩みを,過去のもの, 現在のものとしてかみしめている。 もっと早く読めばよかった,いやいま読んでちょうどよかったというこころ の動きがある。なぜだろう,自分の子供に対して接したきた態度への反省と, あの時なんでわが子が反発したのか妻が病気になったのか,自分の子と妻への 接し方への反省の気持ちがいま読んでよかったという,これからやってくる老 年へのアドバイスが素直に受け止められるということからだろうか。 筆者はユング派の分析家の資格を取得している。ユング時代,この臨床心理 学では,子どもとか青年期の分析に対するカウンセリングは,ケース分析とし て方向が見えていたが,生活の満たされた人たちの「自分たちは何のために生 きているのか。」については,ユング自信も一緒に考えるより仕方がなかった のであるという。 そういう意味からすれば,ものが豊かになり,生活が豊かになった今の時代 は,ユング自身でもすぐに適切なアドバイスができるものではなく,聞きなが ら一緒に考え,方向性を見出すということなのだろう。 21世紀は心の豊かさを求めると言われるが,子どもから大人まで悩みを抱 える時代に,物欲に凝り固まった20世紀の末期を向かえ,本当にこころの豊 かさなんて期待できるのだろうかと思う。 それぞれのチャプタにある人間の一生の段階ごとにつけられた言葉−素晴ら しい,悩み,危機,考える−人生のそれぞれの時代を適切に表した言葉に,年 を重ねるごと,死が近づくに従い,考える時代に入ったのかという感慨深いも のがある。 筆者は,子ども時代を心を開き本音を言う小学校一年生の詩,「ふたりのロ ッテ」という小説で,青年期をその時代の青年像を写す小説−「限りなく透明 に近いブルー」「なんとなくクリスタル」−でそして,中年期を山田太一著「 異人たちとの夏」の小説で,そして老年期は筆者自身の体験,カウンセリング 事例やユング自身の言葉から話を展開している。 特に老年期の話の中で,自分なりの世界,大切なのは心の持ち方,好きなこ と「よい年をして」を逆手に,へたでいい,誰か悪者,まわりが自分を支える, と話を展開していくところは,会社人間の多い団塊世代にとってとても適切な アドバイスといえる。ただ出世のため,仕事・成果一筋で生きてきた人たちが 本当にこんな考え方ができるかどうか。 リストラとか,赤字の健康保険・年金支給時期の繰延とか老後に不安を抱え る世代であることからも,常に人間を競争相手としてしか意識しなかった人た ちにとって,人にこだわらない生き方が本当にできるのか,素直な気持ちで受 け入れられるのかどうか・・・・・ また,定年後粗大ゴミ扱いされている亭主たちにとって,本当の夫婦の関係 のはじまり,夫婦の問題を子どもがかぶる,いやなことが起こるとき,ひっく り返してものを見る,存在の意味,といった話の展開についていけるのか,ひ たすら家庭に帰ればただお茶,新聞,めしと対話のない夫婦となればむつかし い問題なのだろう。団塊世代の方には,是非一読してもらいたい本である。 |
夏の暑さのせいではないが,文庫本を読んでも,感想を書く気になかなかな らず,パソコンのハードディスクが壊れて,ホームページの更新材料の蓄積も しばらく怠けていた。久しぶりに買った単行本の感想ということになる。 人間老いるに従い,健康,仕事,自分・家族の将来等,何事にも不安をいだ き始める,不安を抱く時期,ターニングポイントが中年ということになる。 その中年について,いろいろな辛口の言葉が出てくる。少し列挙してみよう。 一本の老木,撤収,消える,いなくてもいい人,自分がいなくても誰も困らな い,体力の衰え,失う,いずれも企業人として社会的にそれなりの地位に位置 してきた男にとって,耐え難いフレーズの世界なのかもしれない。 辛口であればあるほど,企業組織で凝り固まった固い頭には,刺激的でいい。 企業では外向けには人材育成とか,人を大切にとか,言っているのだが,現 実は効率優先・コスト至上主義であり,個人優先の地域社会での生き方・考え 方とは,180度違うのである。 中年以後は,組織の中で自分の先が見えてくる,いつまでも組織にしがみつ いているのではなく,一人の人間としてどう生きていくのか,そんな迷いが出 てきた時期にある人にはとてもいい書といえるのではないだろうか。 一方,中年から老年への過程は,どうしてもしぼんでいくイメージを強くも がちであるが,それなりにいいものはあると,筆者は聖書の教えを引用しなが ら固い頭の私たちに問いかけている。それらは気になるフレーズにゆずること として。 大切なことは,「金権主義」「算数通り」「外見」「健康オンリー」「権力 追求病」から一日も早く脱することのように私には思える。 |
江戸時代の幕府の政策として士農工商のさらにその下の身分として位置づけられた人々の生活が細かに描写されている。穢多・非人と呼ばれ,特定の地域に隔離された生活を強いられ,平民に戻ることさえ許されなかった人たち。 穢多・非人を統括する頭領として12代目弾左衛門の養子となり,やがて13代目となった主人公は,年を重ねていくに従い,ひそかに自分の果たすべき使命をおのれの中に築きながら一日も早い身分差別解消の申し入れの機会を待ち続けていた。 そして,幕末江戸幕府の典医松本良順の力添えにより一部平民にもどれたものの,幕末の動乱時期,明治の始まりは,彼らの身分差別の全面解消にはなかなか至らなかったのである。 賤称廃止のため,主人公は新政府の要人へ継続した嘆願の苦闘を続けながら,一方で新しい時代の自分たちの職業を模索していく。 やがて,一気に身分差別は廃止されたものの,動物の解体等のかれらだけに与えられた職業は,その独占が許されず,職業選択の自由という名のもとに,切り捨てられた格好となっていく。 主人公は新しい職業模索のため,アメリカから革靴製造職人を招聘しその技術の習得に力を入れ,軍隊の軍人用靴を作ることを目指し,着々と準備を進めていくが,差別的身分制度の賤称廃止は,その靴工場に必要な皮がだんだんと仕入れできなくなるという弊害もたらしていった。 6巻にわたる長編小説,自ら被差別民の頭領として自由と平等をかちとるため闘い続ける主人公の姿の中に,差別は差別される側が立ち上がらない限り解消されず,根強いものであることを思い知らされるとともに,身分差別は国策として実施されていたことが明確に描かれている。 いつの時代も歴史の表舞台に登場する人物は,小説の主人公として大きくクローズアップされてきた。しかしながら,その裏舞台でいわれのない差別的扱いを強いられてきた人たちが,小説の主人公として扱われることは皆無に等しい。 ほとんどの人は弾左衛門の名さえ,そして,その名が何代も続いていたことさえ知らないだろう。ましてや江戸・明治時代の被差別民の生活も知らないだろう。 主人公やその周辺の人物がもらす言葉−「本願寺さまは来世でわしらを人間なみの仏にしてくださる。だが,この世でも人間なみにしてもらわにゃならんよ」「わいは自分でも,よおわからへん。わいが皮多か非人か,それとも野非人という行き場のないもんか,よおわからへん。そのどれでもない,いうふうに思うときもあるし,どれでもええと思うときもある」 −に国策として行われてきた身分差別に苦しみ続ける人間の姿が見えてくる。 |
だれしも人に対して「いい人」でありたいと思う気持ちは少なからずある。 よく言われるのは「外面がいい」という言葉がある。 いずれの書も,老いて人に甘えるのではなく自らに厳しく,常に自立してい ること,することが念頭にあるようだ。そうであるなら人に対してあまりいい 格好をする「いい人」になる必要はないということだろうか。 人は誰しも誰か甘えられる人を一人ぐらい作りたいものであるが,甘えられ る人というよりは,率直にものが言える相手が必要と説く。その相手には,気 を遣わなくていいし,縛られないし,話していても疲れない,・・・という本 の帯にあるつきあいができる。それが大切ということになるのである。 といったところから,「性悪説のすすめ」「非礼」「他人の生き方が気にな らない」「憎しみによって人は救われる」といったチャプタのフレーズになっ てくるのだと思う。 この本は決して新しく書かれたものではない。いままで作者が発表した小説, 随筆,新聞,雑誌の中のフレーズをピックアップしたものである。 特に気になるフレーズが多かったのは「自分の顔,相手の顔」という随筆か らのものであった。そのフレーズについては気になるフレーズで照会したい。 筆者がまえがきで「いい人をやめたのはかなり前からだ。理由は単純で,い い人をやっていると疲れることを知っていたからである。それに対して悪い人 だという評判は,容易にくつがえらないから安定がいい。」「いい人はちょっ とそうでない面を見せるだけですぐ批判され,評価が変わり,棄てられるから かわいそうだ。」「いい人を続けるのに飽きるか疲れてしまった方に読んでい ただければ,こんなにうれしいことはない。」というように,肩に重い荷物を いつもしょって疲れを感じている人には読めばすっとその荷物がとれていくか もしれない書である。 |
それは,サラリーマンで転勤生活を続け,多くの人間関係を経験している人な らだれしも納得できることだろう。 この本を読めば心の問題が100%解決するというものでもない。 筆者の講演の集約作品「こころと人生」を読んだ後,いらいらしたものや不安 や気になること,こころにかすみがかかってみえていたものに,少し明かりが見 え,こころが軽くなった感じがした。 そして最近,頭が飽和状態で本を読みたいという気が起らなかったが,それで もと思い,本屋へ出向いて探索,筆者のこの本に出会ったのである。 内容はこころに関する55の話。どのチャプタから読んでも全く支障はない。 気になるチャプタから読めばよい。加えてとても読みやすい。筆者はユング心理 学を修めた権威者であり,心理療法家として,長年多くの悩める人たちの相談に のり,すべてとはいかないまでも多くの道しるべを示してきたことが分かる。 最初のチャプタで「人の心などわかるはずがない」と筆者がいうように,他人 の気持ちなど,わかったような顔をして対応する人がいるが,実際のところはつ かみどころがないのである。 だから,こころの問題は,学校の勉強のように,100%正しい答えを期待す ることは無理なことがわかる。 相談相手となる人にとって大切なことは,100%正しいことを出すことでは なく,とにかく相手の言うことを根気よく継続して聞くことのようである。 筆者のこの作品は,チャプタの言葉で自分が不安や気になっていることをズバ リ見透かされているようでどきりとさせられる。そして,その内容を読んでほっ としたり,元気づけられたりする。この本の中には不思議に元気の源がある。 特に何度も読み返したチャプタは「自立は依存によって裏づけられている」「 心の新鉱脈を掘り当てよう」「家族関係の仕事は大事業である」の3つは私にと ってとても大切のことのように思えた。 |
ここまではいいのだが,気を遣い後始末のティッシュを渡そうとすると,いきなりその老女から「チカチカ・・」と言われウンコを顔になげつけられる。汚物を飲み込み,顔はクソまみれという。なげられた本人は臭気と屈辱感で一刻も早く自宅に急ぐが,体が思うように動かない。 ようやくたどりついた自宅で自分が直接痴呆老人を目撃したことにショックを覚え,あんな風に自分がボケたらどうしようかと思い悩む。この日(65歳の誕生日)を境に筆者にボケの徴候がでてくるというものである。 人は老いるに従って日常の中で予想していないショックをうけると,突然にボケはじめるという話はよく聞いたことがある。 ボケにも初期,中期,末期とあり,最終段階では徘徊症状が悪化し,ついには寝たきりになるという。もっとも寝たきりになれば徘徊がなくなり,看病する側からすれば助かるのであるが,当の本人は全く何をしているのかわかっていないから,人はボケたくないし家族に迷惑をかけずに死を迎えたいから,「嫁いらず観音様」がもてはやされるわけである。 50代からは5倍速と筆者がいうように老いに向けての準備は早い方がいいし,ただ予想しないことが発生した場合たえられるかどうか。筆者のように自立し一人暮らしで頑張っていても,老いることボケることの不安があるのである。 文中に浮いた話が織り交ぜられているが,筆者は年以上に若くて魅力的な女性ではないかと思われる。 また,読み進めるにしたがい筆者の65年間の人生で生き方を考えなければいけない経験を幾度としていることに驚く,自分の回想を交えながら語る内容には「人間かだれしも予想しない転機をむかえることがありうることを覚悟しなさいよ」といっているようでもある。 ボケ症状,ボケ退治法,ボケやすい人,人それぞれの生き方,実例,老後の生きがい等,人生経験豊富でいろいろな危機を乗り越えてきた筆者の言葉は実に重みがある。 老いの性を考えると,日本人はヘタだがスキンシップの大切さ,そして「何事にも感謝の気持ち」これは自分自身でも大切にしていきたいものである。 |