さらにバブルが弾けて女性の有職率は悪化していったのである。この4月に一部改正が施行されたことで表向きは変わる。しかし,本音と建前がまかりとおる企業社会では,何かと理由を付けて男でないとできない仕事は多くあるといいつつ,とても一気に解消できるとは思えない。 明治維新が下級武士・公家による革命で,搾取されていた農民の革命になりきらず,表向きの身分制度は,士農工商から四民平等とはなったが,真の平等とはなりえなかった。武士階級の多くのものがいわゆるリストラにあった。一番虐げられた人たちはほとんどかわらなかった。それはいまでも部落問題を始め,病気に関する差別等,人権に対する差別意識は依然として根強くあることでもわかる。 企業という競争社会は,男女平等以前に人間平等という考え方が通用しない。企業社会では,優劣をつけることが,結果として,その人間の価値を決めてしまい,組織の上下関係以上に人間の上下をきめてしまっているように見える。組織を離れても「自分はあれより上だ」と勘違いしている輩が多いことでもわかる。 そういった意味で,副題に「私がアタマにきた68のホントの話」とあるように,女性の目からみた男優位の社会を痛烈に批判している,この本を読み終わっての率直な感想は,男社会が憐れで実に滑稽であり,明治維新の武士階級のような,その結末まで見えてしまう。 「女は楽でいいよなあ」どうぞどうぞ女になってください。「専業主婦は楽でいいよなあ」「OLは楽でいいよなあ」のフレーズから始まる,女の目から見た男社会の矛盾点が容赦なく指摘され,批評は最初から飛ばしっぱなしという感はあるが,あとがきに3年かけてやっと出版にこぎつけたというところを読んで少しほっとした。 ただ,男女格差の矛盾点は,失速する経済・男女雇用に関する法の改正とともに,吹き出してきそうである。日本ではタブー視されてきた部分に遅まきながら,性差別革命により,日本という国全体の根回し体質・もたれあい体質,腐敗体質,経済優先から地域生活優先へと大きく変化することは間違いない。 少しおかしいと思ったのは,男女の性差・役割とか男らしさ女らしさに疑問を持ちながら,本の帯には「どの男よりも男らしい女性評論家」という表現がされている,ということは,編者には,それなりに男女の役割・行動とかの一定の固定観念があるのではないか。 巻末にあるセクハラ訴訟の例示は,いままで声をあげられなかった女性たちが,いつまでも男性優位の企業社会で悶々と耐えていたものがごく普通に出ているのである。 企業社会の中で,女性の人権を無視してきた男の目は,根本から見直すべき事なのである。明治維新においても,なかなか過去の栄光が忘れられなかった武士階級と同様,男社会で優位な位置を武器に生き抜いてきた輩にとっては当分昔の権威にしがみつかざるをえないだろうが。 どのチャプタ−「男の論理は,いつもひとりよがり」「その無神経,女には大迷惑」「体は大人で頭はお子さま」「差別を差別と思ってない生き物」「自分は悪くない,は大まちがい」−の表題を見ても,また,あとがきの「それにしてもこんな男たちをのさばらしておいて日本に未来はあるのだろうか。書いていながらむかつき,むかつきながらまた書き・・・」というアタマにきたとか,むかつくというフレーズが使われているだけでも,毛嫌いしてしまい,忌避して読まない男は多いのではないだろうか。 終わりの章には,「男自身が変われば」という救いがあるフレーズ−「それにしても男はいつになったら気がつくのだろうか。企業奴隷の男たちは,周辺雑務をしてくれるさらなる奴隷を望むものだ。女がなりふりかまわず男のように働く環境を維持し続ける限り,男自身が企業社会の抑圧から解放されることはない。大切なことは男も女も,抑圧されている構造を改善することではないか」−が見える。しかし,いずれにしても抑圧から解放されるためには,まず読んで「男よ目覚めよ」ということなのだ。 そして,筆者が性差のない新しい時代のキーワードを示しているフレーズがあったので照会すると。 「情報化時代のいま,必要なのは,価値観も言語も文化も違う多様な人たちとのコミュニケーション能力であり,パフォーマンス能力だ」「過去から学ぶ男たちには,これから来る新しい時代の,男女共生のノウハウは身につかない。そんなノウハウは,どんな歴史書にもないからだ」「体力勝負では,女性が男性に勝つことは大変であったが,知力勝負となれば男女の差はない。もちろん年齢の差も,国籍,障害の有無も関係がなくなったのだ。必要なのは『知恵』だ」これらのフレーズにあるように「コミュニケーション能力」「パフォーマンス能力」「共生」「知恵」ということになるのである。 |
私の場合,いままで推理小説はほとんど読んだことがなかった。特に歴史小説が好きなのであるが,今回短編の推理小説も結構面白いことにやっと気づかされた。 最近,松本清張作品が売り出されたころの短編作品の中で,歴史・推理小説をそれぞれ一冊ずつ読んだ。今回の作品は主に伝記小説であり12編からなる。 今風の男女関係,悪への道に引き込まれる作品が4つある。従兄妹同士が密会場所からの帰り道で事故に遭い,顛末はおもいがけない心中となる「箱根心中」,二人の軍人が戦争未亡人を奪い合い,顛末は殺人・自殺となる「赤いくじ」,金のない男と不倫関係を続ける女が失職し,新しい職場で初老に給料の歩合の保証を受けながら,三角関係を続け,顛末は男がいることがばれてしまう「喪失」。不倫の弱味を握られた男が汚職の道へ入っていく「弱味」。いずれの作品もいまの時代ではごく当たり前のネタであるが,大きく違うのはいわゆる濡れ場は全くない。 次に推理的要素がある作品のあらすじを照会してみよう。それは「火の記憶」である。主人公の頭の中に山火事のような火の記憶が残っていた。なぜだかわからなかったが,婚約をきっかけに判明した戸籍に記された父の失踪宣言と除籍,そして母の遺留品“ハガキ”をてがかりに自分の過去調査が始まる。火の記憶はよみがえり,忌まわしい過去ではあったが,女の気持ちは揺らがなかったのである。やはり小説の世界なのか・・・ 伝記小説は4作品ある。いずれもモデルが有名な人物とまではいかないが,過去にはこんな人物もいたのかということと,いろいろな生き方があるのだということを感じる。 ただ,それぞれの小説には筆者が主人公の言葉を借りて,自分の考えをしゃべらせる場面が,かならずある。主人公に実在の人物をモデルとした場合,なおさらその言葉には重みがある。臨場感はないが,作品のいくつかのあらすじか名場面を照会したい。 白痴かとみまごう風貌と体が不自由でありながら頭脳が明晰な主人公が母子で,行方の分からない森鴎外の「小倉日記」の追跡調査を始め,一生のテーマとした「或る『小倉日記』伝」,主人公は報われないまま一生を終えた。皮肉にも死後東京で鴎外の「小倉日記」が発見されたのである。主人公にとってはよかったのかもしれないそんな気がした。 「菊枕」−夫への満たされない気持ちから俳句を始め,頭角を著していく女。崇拝する俳人の心を自分に向かせようと,何通もの手紙,そして枕の中に菊を入れた「菊枕」を送る。女は精神の病に犯され入院,ある日夫が面会に「あなた菊枕を作っておきました」と言って布のふくろをさしだした。あさがおの菊枕・・・・圭助は涙が出た。狂ってはじめて自分の胸にかえったのかと思った。−人間の心の中まではわからない。長年連れ添った妻でもそうである。男の心にやっと妻の心が自分の中に入ってきた実感が伝わってくる。 「断碑」−シズエは痩せおとろえた顔に欣びを浮かべて卓治を迎えた。・・・夜は一つ蒲団に抱きあって寝た。生命の火の短さは迫っている。・・・「いいのよ,あなた。病気まであなたと一身なんですもの。あなたは少しでも生きて学問を完成してね。わたしはお先に参って花のうてなをあけて,あなたを待っているわ」−こんな言葉を吐かれたら男としてどうすればいいのだろうと思ってしまう。 「笛壺」−この“笛壺”に竹筒を挿しこむのではないかと言ったのは貞代であった。・・・なんでもないひとことにひとりで感激を覚えたが,,あの時学問に熱中していたおれは,この女に迷信的な幻影をもったのではなかろうか。しかし,要するに人はこの世の現象にそれぞれ勝手な迷信をつくり,錯誤を冒しあっているのではないか。−人生全て錯誤の連続なのだろうか。 「父系の指」−私はナイフを当てながら,くりくりとリンゴをまわしている従弟のの指に,ふと眼を止めた。・・・私にそっくり似た指だった。・・・それまで保っていた平静は動揺した。肉親の血のいやらしさだけが私の胸を衝きあげてきた。父の性格の劣性をうけついでいると,自覚している私の,父系の指への厭悪と憎悪の感情であった。−肉親ゆえに妬みや恨みがあるとかなり激しくなる。 「石の骨」−この裏に裏があるような学界の一部の複雑と煩わしさに,安心できるものは何もないと直覚した。己の洪積世人類骨や打製の石器とともに,“日本旧石器時代”は否定の海の中に没しさろうとしている。己だけが,長い間それを信じてきて,それにかじりついている。が時には,ふと,その否定の大きな波をかぶって全身を沈める瞬間がくるような不安がある。このごろは信じるということの強さよりも,疲労を覚えるのだ。ひとりで三十年間も信じつづけてきたという疲労を!−学者が自説を認められるにはこのように辛いものなのか。 感性を刺激されるフレーズはそれぞれ異なるだろうが,いずれにしても最初から最後まで刺激されっぱなしということはありえない。少しは刺激されるもがあっただろうか・・・。 |
この本は,プロローグが童話を引用した「アリとキリギリス」で始まり,第4章には 「ウサギとカメ」が登場する。現代人の生活を童話で例えながら,先人の声に耳を傾け学び,テーマにあるように金欲・物欲から脱して,時間持ち,ココロ持ちになろうというものである。 多くの気になるフレーズがあり,編集者自身も大きな刺激を受け,自ら生き方を変えようとしている。 筆者は,戦後の日本人が効率を優先した科学的経済至上主義を掲げて進んできた道が,いま現在,大きな壁に当たり,世紀末現象−環境汚染,ストレス,金権腐敗,倫理観の欠如,ストレス,・・・−として現われていることを強く意識しながら,今日まで歩んできた道を分析し,この時代にわれわれはどう生きるべきかを示唆する著書である。 効率優先の社会は,ゆとりとか遊びというものを削ってしまい,個人の利益・個人の欲望達成のみしか考えない人間を多く製造してきた。年を重ね,あるいは大量失業・リストラ時代を迎え,ふと自分の人生を振返った時,いままでの人生のむなしさを感じている40代・団塊世代の人は多くいるのではないだろうか。 ただ,いったん大きくなった欲望をすべて過去の状態に戻すことは困難である。要は「少欲知足」なのであるが,レール上を忙しく走り続け,欲望にたっぷり浸かっている私たちには,生き方について考え直すことなく,ただ漫然と老いを迎えてしまうのではないだろうか。 確かに筆者のように病気や友の突然死がきっかけとなったように,だれしもそれぞれに考えるきっかけは何度かめぐってくる。しかしながら,その機会に要は自分自身が気付き,過去の生き方を振返る以外にないのである。 筆者は,自らの体験をもとに,多くの先人−橘曙覧(たちばなあけみ),ヨハン・ホイジンガ,良寛,新渡戸稲造,福沢諭吉,吉田兼好,西郷隆盛,孔子,老子,荘子等−から学び,それを披露している。これを読んで編集者のように自分自身の考え方・生き方を変える人もある。繰り返すが,この本を読んだことがきっかけになるかどうかは,いま現在の自分の生き方に疑問を持っていないと変わりはしないのである。 先人の中で,特に江戸時代末期を生きた歌人橘曙覧と乞食坊主良寛の生き方・考え方にこころを動かされているようである。二人の生き方を紹介しながら,どこに心が惹かれたかに多くの紙面がさかれている。 まず曙覧に関するフレーズを紹介すると「私はこの橘曙覧が好きで,できうればこの人のような生き方がしたいと思っているのだが,とくに学びたいところは,どんな境遇にあっても『愉しさ』を求めたその心持ちである」「嘘をつくな,物を欲しがるな,骨身を惜しむな」「曙覧の歌はどの歌をとっても名声を得ようとか,他人との幸福感をくらべようなどという視点はない。あるがままの状態をあるがままに歌い,そのあるがままを愉しむのである。だから世間に対する不満も愚痴もまったく出てこないのだ」 さらにその歌を三首ほど紹介してみると。「米の泉(ぜに)なほたらずけり鵜歌をよみ文を作りて売りありけども」「たのしみは銭なくなりてわびをるに人の来りて銭くれし時」「たのしみはまれに魚煮て児等皆がうましうましといひて食ふ時」である。少しでもその雰囲気を感じてもらえただろうか。 次に良寛に関するフレーズを紹介すると「良寛は素朴な農民が好きであった。圧政に耐えながらも,黙々と土とたわむれ,これが自分の仕事と『分』を極め,不平不満をいわず,そうした日常で満足している。農民を見るとき,良寛はそこに仏を見ていたのである」「良寛は僧の形に身を包んでいるものの,経も読まず,道も説かず,まるで地蔵菩薩のようにただ飄然と存在したのである」 さらにその歌を三首ほど紹介してみると。「心こそ心まどはす心なれ心の駒の手綱ゆるすな」「憂きことのなほこの上に積もれかし世を捨てし身にためしてやみむ」「何故に家を出でしと折りふしは心に愧(は)ぢよ墨染めの袖」 そして,死生の句「うらを見せ表を見せて散るもみじ」である。 現在の自分を振返る時,先人の声に耳を傾けることは大切なことである。考えるきっかけを生かし,自分の人生を問い直してきた筆者には余裕さえ感じられる。 ただ先人の言葉の引用が多くありすぎ,日ごろ使っていない頭がいささか疲れるが,それさえ耐えられれば,考えるきっかけ作りを十分に与えてくれる本である。 |
どのような定年後を送ればいいのか,そんな問いかけに応えるような「まえがき」から始まる。いままさに団塊世代がその問いかけを発する世代になっている。 一方で,まだそんな先のことは考えられない考えたくないサラリーマンがほとんどであろう。いつリストラにあうかわからない,年金ももらえるかどうかもわからない,退職金もどうなるか,介護保険制度もよくわからない,来年さえわからないのに10年先が見えるわけがないのである。 まだ会社での出世をあきらめきれない男も多いだろう。家が持てない,ローンがまだたくさん残っている,一度は不倫をしたくてもできない男も,不倫していて縁が切れずに困っている男もいるだろう,子供が何を考えているかわからないため将来が不安等々。 とはいうものの,50代になればいままでの上昇線から,現在の経済のような低迷線に入ることはまちがいない。多くの人は惰性という道を歩きながら,そのまま定年を迎え,サラリーマン生活に終止符をうつのではないだろうか。 この本には人生の先輩としていろいろなアドバイスがあるが,それ以上に「老いと死を自覚せよ」「年よりは出しゃばるな」といった老人としての自覚を促すフレーズもあり,「年より扱いをするな」「老人も恋をする」といった,社会には老人がこんなことをしてはいけない,すべきではないという固定的な観念から老人をどこかにとじこめておけばよいという風潮が依然としてあることを指摘している。 筆者の言いたいことは,年を隠すために若ぶっている老人へのきつい忠告と,「定年を迎えた男たちよ我儘気儘に生きてみよ」ということなのだが,残念ながらはっきりいって長年管理下に置かれたサラリーマン生活からは一気にとはいかない。 ましてや「妻はもうとっくに亭主とは別の人生を」とはいうものの山の神への深謀遠慮がどうしてもある。筆者は「男は身勝手なものだ」「一人残される妻を思うとやはり新しいペットが・・・」といいながら,あるいは妻は別の人生を歩いていると認めながら,どっぷりと浸かってきた男社会の男優先のフレーズ−「亭主に道路を掃かせゴミを出させたりするのは,主婦の恥と知るべきだ。」とか「・・・いつでも食べられるように作り置くよう命じておけばよい」−はささやかな抵抗にしか見えない。また,妻より自分が先に逝くという前提があるような気がするのも気にかかる。 死に限りになく近いところにいるにもかかわらず無駄な抵抗をする老人たちには手厳しく,それでいて過去のものとなりつつある男社会へのロマン(未練?)のようなものが感じられるのである。 いずれにしても,人それぞれの百人百様の定年後でよいのである。 |
一方,読み手側からすると,どの部分に面白味を見出すかによってそれぞれ選択する本・作家は違ってくる。 現実的には3億円事件のように白バイ警官になりすますという大胆な発想による未解決事件・迷宮事件も結構ある。逆に最近では,殺人犯の女性が美容整形を続けながら逃走し,時効寸前で逮捕された事件もあった。 犯罪は,その時代その時代の風俗や社会現象を背景にしている場合が多い。目新しいところでは,子を持つ親たちに衝撃をあたえた少年による小学生殺害遺棄事件,不特定の人間をねらったカレー毒物混入事件や,インターネットを使った昏睡強盗事件等枚挙にいとまがない,特に毒物事件は,昨年のカレー事件をきっかけに連鎖的に発生し続け,いまだにその尾を引いている。 事実は小説より奇なり,松本清張氏が生きていたなら,素材に欠かない現代の人間社会といえるのではないだろうか。 今回の作品には,「陸行水行」のように邪馬台国のあった場所について,歴史を二分する説−大和説・九州説−を,筆者が長年の取材で,温めていたものが結実したものもある。 全体的に見ると,アリバイ工作に凝りながら,思わぬところ−短歌,花の種,遺言書,流行歌,時間誤差−に解決の糸口があり,結末を迎える作品が多い。特に面白かった作品を少し紹介してみよう。 妹が男との旅先で急死,男は妹をそのまま置き去りにした。兄は,その男が妹の上司であることをつかみ,その復習をすべく自分を捜査圏外に置くため,会社も辞め全く違う場所で暮らすこと7年間,その男の情報を得ながら殺害の機会を待つという「捜査圏外の条件」。 酒場で毒殺後,皮肉にもその酒場に流れていた“上海帰りのリル”を聞きながら喋ったその男のセリフを女中が覚えていたところから足がついてしまう。 男は妻にかけた保険金を目当てに殺人計画を立てる。死亡診断書作成のため,妻の替え玉として,自分が癌と知らない身よりのない女を探し偽装結婚。その女の死亡を妻の死亡診断書として医者に書かせる。 そして,その男は愛人と共謀して妻を殺害し,葬儀用の棺おけには妻を入れ,身よりのない女の死体は人里はなれた田んぼに遺棄するという「巻頭句の女」。 この身よりのない女は俳句雑誌に投句していたが,数回に渡って投句しなかったところから,その雑誌の編集者による追跡か始まる。 そのほかにも,予想もつかない妻と愛人が共謀してアリバイを工作し,ハンサムで女にもてると思い込んでいる粗暴な夫を殺害するという「薄化粧の男」 その愛人が別の男と別れたことで自殺し,妻がその愛人の遺書がないかを執拗にアパートの管理人にたずねていたところから,犯罪がひもとかれていく。 愛人殺害容疑の男は自殺,事件は迷宮入りかと思われたが,解剖専門誌の死亡推定時刻の記事から疑問を持ち,その誤差から真犯人を逮捕する刑事「誤差」 最近清張の推理小説を読んだせいか,テレビのサスペンスドラマの展開に鈍感な頭を回転させるようになった。ただ,私の場合,最初から犯人が分かっているものではなく,徐々に犯人を突き止めていくシリーズドラマをどうしても見てしまうようだ。 さて,あなたなら推理小説のどこに興味をいだき,だれの本を買いますか。 |
私自身主人公の名前については初めて知った。(帯)にあるように「天保から幕末、明治と激動の時代のただ中で幕府の命によって被差別民の支配の頭領として生きた」人物とある。主人公の弾左衛門は13代目である。 この本は1985年に発刊され、今回文庫化された。書店で「差別を考える」書として推薦されていたこと、歴史上の実在の人物であったということ、そして長編であるということから読んでみたいと思ったのである。 時代は日本史の教科書に登場する江戸時代の三代改革者として知られている老中水野忠邦、天保飢饉から大塩平八郎の乱が起こり、まさに厳しい財政改革が行われていた頃である。さらに身近にテレビドラマによく登場する遠山金四郎景元が北町奉行として登場する。 読みながら感心したのは、時代の風俗描写が、あたかも筆者がその場にタイムスリップし、観察したごとく細かく記述され、情景が読み手側に伝わってくる。 ひとつそのフレーズを紹介してみよう。「箱根宿は聞きしにまさる殷賑をきわめていた。藁葺きの本陣,旅籠、問屋場、茶店が軒に接し、そのいずこにも人の姿があり、客を引く女子の声に馬蹄の石打つ音がいりまじった。 雨に道のぬかるむのを恐れてか、中央に石畳が敷いてある。そこを馬に乗った侍が通った。富裕の形の商人が通った。女改めから解放された喜びを如実に笑みにあらわした年増女が、はたまた伊勢参りに出かける一行が流行の駄洒落を声高に投げて通った。」いかがだろうか。 筆者はこのように当時の風俗等を膨大な資料収集により、微細に表現することに力を入れながら、いまも続く差別の問題について、読者に考えてもらいたいというのが大きなテーマなのである 差別の根本は、封建社会において、権力者が支配しやすくするために、都合のよい上下関係のしくみを作り上げたものであること。 被差別民の裁きは被差別民でするというルールをも作り、徹底した管理社会にしたことで、社会全体で差別化を行ったことが、現代も根強く続いている差別の大きな要因であることを知ることができる。 差別される側の声を主人公の周囲の人間たちの台詞に入れることにより、主人公に考えさせる形をとりながら読者に訴えかけている。 長年体と頭にしみこまされた差別意識の解消は、行政は言うまでもなく差別される側からの継続した闘いが必要である。 ストーリーの展開も面白いが、一人一人の人間の心の持ち方を問う差別する側の啓蒙の書としてこの本は、とても有意義である。 |
とはいうものの,人は己の身近な人の「死」を体験しない限り,自分の生と か死を考えることはまずしないのではないだろうか。 そんなことを考えていた時,メールフレンドからガンと闘う友に関して一通 のメールをもらった。そして,いつもの書店に出向きいつものように読み本の 探索。 「尊厳死」という言葉,凡人とは離れた位置にあるお医者さんという立場の 人が,飾り気のない率直な言葉で書いていること,また,チャプタの中に立花 隆氏への手紙等があるということから興味が動き,読むことにしたのである。 まず『「殺人」と「尊厳死」の間で』という本の題名から,読み手,患者側 の立場にある私たちはどきりとしてしまう。 各チャプタには,医療過誤の告白,脳死に関する立花隆氏への手紙,増加す る医療費の問題点,逝き方・逝かせ方,作り出される植物(ベジ)人間それぞ れをテーマに,医療側の内側・タブーとされている事項をさらけだし,いま医 者として何を議論すべきかを提言している。 あとがきに「患者と“さん”づけで呼び合えるような風通しのいい医療を築 いていくには,医療の暗部をこそ,医者は語らねばならない,とぼくは思う」 とあるように,筆者は先生と呼ばれる医者側から,患者の目線で話しをすべき であるとする。 “先生”と呼ばれ,普通の人間よりはかなり優秀だと思っているお医者さん にとっては,いささか物議を醸す内容である。 なかでもどきりとしたのは,筆者自らの医療過誤の告白,さらに微細に渡り 資料を収集し,常に隙のない論理を展開している立花隆の著作「脳死」に対す る理論展開の矛盾の指摘,あとがきにあるH教授が進める脳低体温療法の罪と 罰として柳田邦男氏を登場させた,国営放送の誤報の指摘である。 一方、学ぶべきものも多くあった,人に迷惑をかけない死に方,後輩指導の 原点にある実践的OJTの大切さ,家族の死に対する決断の仕方であり,さら に将来の医療制度等の方向性を示すものもあった。 具体的には,インフォームド・コンセント(説明と同意)からインフォーム ド・セルフ・ディシジョン(説明と自己決定)へ,コスト削減の努力が病院に も必要となる競争時代に,これらを裏返せばいい医者・病院は自分で選択し, 死に方も自分であらかじめ考えておきなさいという医者からの提言であり,ま たそれができる時代にもなったということなのである。 おわりに、次のフレーズ「患者(ぼく自身もいずれはその立場にある)に今, 求められているのは、死に際の権利を声高に主張することよりも、人にできるだ け迷惑をかけずに逝く、死に際のマナーではないだろうか」を読んだとき、鳥取 にあった嫁入らず観音を思い出し、いくら医療技術や科学技術が進歩しても、積 み重ねの上に成り立ってきた昔の人の智恵に関心し、大きく頷いてしまっている 自分に気づいた。 |
その願いに叶う,筆者の「史実を歩く」という本を見つけ読んだことがある。 筆者は歴史上の人物でも裏舞台で活躍した人にスポットをあて,過去の資料 収集と綿密な関係者への取材,そしてあたかもその時代のその場面に生きてい たがごとくの描写に感心していた。筆者の新作品が出版されたときには,是非 読んでみたいという気持ちがあった。 「落日の宴」は,そんなときに出版されたが,あまりにも分厚く買うには少 しためらいがあった。このたび文庫本化されたので早速購入したのである。 13のチャプタで構成されているが,表題はない。読み手が読みながら,つ けるとしたらこんな表題かなと楽しむのもいいかもしれない。 私自身主人公の「勘定奉行川路聖謨」なる人を全く知らなかった。読み進め ながら激動時代にふさわしい人物であり,時代が彼をもとめ,時代が彼を育て たということだろうか。 サラリーマンならばだれしも,一生のうち一度は,プロジェクトの中心的な 役割を担うときがあるのではないだろうか。もっとも避けたいと思う人にはチ ャンスはあっても知らぬ間に遠ざかっていくのだろうが。 企業社会において,管理職として活躍しようとする人たちにとって,この本 は多くの学ぶべきものがある。情報収集・分析,仕事の進め方,家族への労り, 人材育成,健康管理,隠退の時期等。 人に優しく自己に厳しく仕事にもきびしい,そんな彼の人物像は彼の日記で の述懐や部下とのやりとり,交渉時の会話,長崎へ向かう途上でのかつての部 下の出迎えぶりからみてもわかる。詳細は気になるフレーズで紹介したい。 物語は,ロシアのプチャーチン率いる親善使節との交渉役として,長崎へ出 向く主人公,50代という年でありながら,雨が降ろうが風が吹こうが,ひた すら歩き続けるシーンから始まる。 その健脚ぶりと毎朝の太刀の素振り,出張中は好きな酒は断ち,余談である が精力減退に備え,風呂では睾丸を塩で揉むことを欠かさない健康管理ぶり。 後半には妻にこわれ,58歳をすぎて側女(18歳)をおき,子二人をもうけ るという精力家でもある。 メインとなる外交交渉の事前確認は,部下の役割と事前の資料分析の綿密な 打合せにより,極めて順調に進み,その交渉すべき事項は,日本・ロシア双方 で合意に達したのである。 翌年いよいよ,本格的な交渉が下田で始まるという段階に,あの安政大地震 が発生し下田は壊滅状態になる。 奉行として,下田の人たちへの緊急援助の配慮もしながら,交渉を進める主 人公。 交渉は困難を極め,交渉項目以外の事項−難破したロシア船やロシア人の扱 い,ロシア船の修復地,ロシア人の帰還方法等,−も次から次へと発生する。 200年以上続いた鎖国日本だったのだから,当然の話なのであるが,国法に触れる 難問ばかりで,しかも即決が必要な事項ばかりなのである。 しかし,彼の継続した粘り強い折衝が,条約締結へと導かれたのは,「この たびロシア側の国境画定要求について,たとえわが国の武力はとぼしくとも, いささかの譲歩もしてはならぬとかたく心にきめている」という確固とした信 念で貫かれていたからではなかろうか。 チャプタ7以降は,だれも知っている歴史の歩みが始まる,井伊大老の登場, 安政の大獄,桜田門外の変,生麦事件,将軍継承問題,和宮降嫁等,テーマの 「落日の宴」に合わせて衰退していく江戸時代,それにあわせるかのように主 人公も落日を迎えていく。 おわりに,この人物について,心から尊敬したいと思ったことがひとつある。 それはこれだけの激務をこなしながら「家族への労り」を常に忘れていなか ったことである。 |