• 柳田邦男作:この国の失敗の本質
筆者は30年以上にわたってノンフィクションの分野で生きぬいてきた。
 事実を真摯に見つめ続ける筆者の目は確かなものがある。ここ数年間に筆者が各種雑誌に発表を続けてきた評論と1980年代半ばに発表した戦史研究(ゼロ戦、ミッドウェー海戦)、そして「この国をどうすればよいのか」を5部にまとめた作品である。
 筆者は、1990年代に多く発生している国としての末期的状況を憂慮しながら、この作品をまとめあげている。
 すでに起こった事例−薬害エイズ、水俣病、阪神大震災、数々の飛行機事故、ミッドウェー海戦での敗北、もんじゅ事故の事故隠し、オウム事件、残酷な少年犯罪−を事例としてとりあげ、なぜその問題が起こり、なぜ大きな事件・大惨事となったのか。
 筆者の目には常に人間はエラーをするものという前提に立った考え方がある。といって決してエラーを起した人間を責めるというものではなく、事実を事実として見つめ、そして改善策−社会のしくみ、仕事のしくみ、政治のしくみ−を工夫することにより、無事故であるいは起こったとしても小さな事故で済むしくみづくりをその失敗から学ぶべきだと主張する。
 これらの考え方から多くの提言がなされてきた。問題も明らかになり、すべきことも明らかにされながら、なぜ動こうとしないのか。問題を先送りにする思想から打ち砕くべき壁を時間の経過とともに大きな壁にしてしまっているような気がする。それは、国の実力を問われている政治経済が立ち行かなくなっている現状からも明らかである。
 筆者は本質的に日本人には失敗から学ぼうとするものがないのではないか、「文化的な欠陥遺伝子」を持っているとしか思えない、といいきる。
 そして、世紀末にたてつづけに発生した総会屋への不正融資、大蔵省、厚生省、防衛庁、日銀の腐敗事件への対応のしかたがそれを如実に物語っているといえる。
 筆者は1980年代は、モノとカネは手に入れたけれど何かを失った。それは「心」。そして1990年代半ばから一挙に噴出した官僚や企業人のスキャンダルの根底にあるのは、「心の敗戦」と位置づけている。
 最後に日本というシステムの隠れた特質−@官僚が隠然と権力を握るシステムになっているA官僚が審議会という隠れ蓑システムを持っているB官僚と業界の「セット犯罪」のシステムが根をはっているC失敗に蓋をする無責任システムが歴史的に根づいている−をしめしながら、戦後システムを建て直す必要条件−@「失敗の調査システム」の確立A「素人が前面に出るシステム」を作るB情報公開の原則を確立C動乱の猛者よ輩出せよ− と提言している。  


  • マークス寿子作:とんでもない母親と情けない男の国日本
長く続く景気低迷に日本、日本人はいますべてに自信をなくしているように見える。経済が順調な時は、何の矛盾も感じていなかったことがこの景気低迷が引き金となり、多くのどろどろしたものが表に出てきている。
どろどろしたもの、過去から引き続きやってきたことをもう一度、振り返ってきれいさっぱりと次世代のためにやり直せばいいのであるが・・・・。よかった過去に未練があり、なかなかふっきれないでいる日本人。
そんな日本人のこころを痛烈に批評している。問題を多く指摘しすぎて受け止められないような感じがするが、筆者の言うところは自分の問題として、子どもの親として真剣に接することを考えることが第一のように思う。
筆者は、日本・日本人の生き方、考え方、世相の病状を18章にわたり、それも人間、男、母親、主婦、子ども、大学生、女性、政治家・・・「たち」という複数形で、単なる少数の人たちの生き方でないことを表現している。
倫理観、しつけ、コミュニケーション、教育、個性、援助交際、汚職、自殺、ガーデニング、男女差別、ボランティア、教養、ウーメンズリブ・・・日本人は多くの言葉の意味をはきちがえているというものである。
前著「ひ弱な男とフワフワした女の国日本」と同様にあまりにも痛快に問題点を指摘しているが、考えれば考えるほど隣人の生き方を意識してきた日本人の多くの悪い面が出てきているように思う。
今回の作品も成熟したイギリス、イギリス人との比較論ではあるが、学ぶべきものが多くある。
私の場合、こんなに多くの悲観論はもっていない。長期化する経済低迷に対し、右往左往する政・財・官界に比較し、庶民はいたって冷静なのである。
また、先日発生したコロンビアの大地震での略奪行為のニュースを見るにつけ、5千人以上の犠牲者を出した阪神淡路大震災での比較的冷静な対応をした住民に「モノとカネ」の面で充足された状態にある日本人を見ることができた。
私は世相、風俗に関しては多分にマスメディアの誇張された報道にあると思っている。今の時代、昔のようなクチコミ、伝聞の手段しか持ち得なかった時代と違い、大衆伝播は実に簡単・迅速なのである。流行に左右されるのはいつの時代でも同じなのである。
いっこうにトンネルの出口が見えない現在だからこそ、いまのライフスタイルでいいのか見直す時期にきていることは間違いない。
筆者は最終章で「第一の敗戦はものを無視し精神力だけで戦った、第二の敗戦はものだけがすべてと信じて精神力も道徳も無視して戦った。そしてこのままでは第三の敗戦を向えかねない」と日本の末期的状況を憂えている。
さらに続けて大切なことは「ものだけでなく精神だけでもなく、その両方の必要性を認識し、そのバランスをとることのできるリーダーの出現」を期待している。
そして、一人一人に対して「自分の知恵と体力」を使うことを提案している。
しかし残念ながら、新しいリーダーの出現は当分ない気がするし、期待できないと思っている。さらに世情が混乱し行き着くところまでゆかないと真のリーダーは出て来ない、モノやカネや名誉や地位や学歴や性差を重視する人たちでは変りはしない、新しい価値観をごく普通に言える人物の登場。
それは、少なくとも私が見える範囲ではまだない。いまはひとりひとりが自立し、知恵が生かされることが大切なのではないだろうか。


  • 童門冬二作:西郷隆盛
「西郷隆盛」に関する本はいくつか読んでいる。林房雄著:西郷隆盛(全11巻)、司馬遼太郎著:翔ぶが如く(全10巻)、五代夏生著:西郷隆盛のすべて、江藤淳著:南洲残影、渡部昇一著:南洲遺訓を読む、と読んできた。この本は「西郷隆盛−物語と史蹟をたずねて」の文庫本である。すでに読んだ本と内容的に特別新しいものはない。
 とはいえ、明君島津斉彬に認められるまでの西郷、江戸幕府を倒すまでの西郷、征韓論に敗れ、鹿児島で私学校を創設、後進の育成をしていた西郷、そして火薬庫移設に始まる西南戦争にやむなくたち、敗走の末、別府晋介の最期の介錯をうけ、首を落とされるシーンは明治維新の英雄西郷隆盛に「平家物語」のようないのちのはかなさを感じてしまう。
 今回の本を読んで、鹿児島に多く残された西郷隆盛の史蹟を是非訪ねてみたいと思う。
一方で、いままでにない隆盛の一面を見ることができた。それは、大村益次郎との戦争のやり方にある。人間と人間の心に重きをおいた西郷は、軍事の天才の戦争のやり方に自分の戦法は時代おくれを感じていた。江戸時代の旧藩との戦いではことごとく大村に先をこされ、西郷が現地へ赴くと戦争はすべて終了していたのである。ライバルとの戦いに敗れ、大村の近代的戦法について大久保一蔵も反対するものではなく、西郷と大久保という盟友のなかもここで袂を分かち合うようになったようである。
 「日本国軍の欧米化」「おれは日本人さ1薩摩人ではない」といった考え方に西郷はついていけなかったことになる。
 筆者は「虫よ虫よ 五ふし草の根を絶つな 絶たばおのれも共に死なん」といった句を引用し「貧しい農・市民のための日本変革が可能であった明治維新を結局は下級武士革命で終わらせてしまったことが、いかにも心残りである。」そして、「『敬天愛人』のことばどおり、愛する身近な人間のためには。『もうよか・・・』という思念がおりにふれて頭をもたげるのである。」もう少し西郷のふんばりを期待していたようである。
 もうひとつ面白い話が書かれている。西郷隆盛は写真を一枚も残していない。上野の西郷隆盛の銅像は西郷未亡人が「似ていない」といったという話が残っているということ、そして本の表紙は庄内藩士石川静正が描いたもので西郷を知る人からは「よく似ている」といわれたものだそうである。いかがだろうか、知るのは西郷さんのみか・・・・。




  • ひろさちや作:わたしの歎異抄
筆者の作品は、「まんだら人生論」「仏教に学ぶ八十八の知恵」「すべては空だ」「福の神入門」等、宗教に胡散臭さを感じている 私にとって、わかりやすい入門書といえる。
人生の折り返し地点や曲がり角を迎えた人なら、かならず死後どうなるのか、いままでの人生はなんだったのかを考えるだろう。
そんな時この本を読んでみると、きっとその人なりのものをみつけられるはずである。猛烈時代に仕事中心で、出世のことやすぐに 会社の上下関係でしか人間を見ることができなかった人は是非読んでもらいたい。ただ、そのような人はこの本に接することがないように思われる。
人生の曲がり角、病気や家族の死を経験した時、自分の人生をふと立ち止まってみた時、その空虚さに驚き壁にあたる、そんな時きっとこの本はちょっとした方向性を示してくれるだろう。
内容については、「悪人正機」<善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや>という親鸞の考え方は、僧籍をもつものでさえ理解に苦しむ。それをわかりやすく解説していたり、また、宗教とは何かという意外な正しい意味を教えられる。
さらに現在の仏教に関する意外事実を知ることもできた。それは、「葬式・墓石に関すること」「先祖供養の思想」であり、そのフレーズを引用すると「たとえば釈尊は、葬式は在家の仕事だと言われました。だが、今、日本では、お坊さんが仏法を説かず葬式を専門にしています」 「そもそも、仏教には先祖供養の思想はありません。それはすべて、儒教の考え方なのです。儒教という宗教の本質は、自分のご先祖さまを祀れということなのです」「棺を使わず、死体をそのまま土中に埋葬していた時代には死者に大きな石を抱かせたり、埋めた土の上に大きな石を置きました。それが墓石の起源です」 ということである。
もっと感心したのは、「個性」「自由」「必要悪」「努力主義」等、多くの日本人が誤解している部分を適確に指摘している。この部分のフレーズは、気になるフレーズで一部紹介したい。
私にとって、「歎異抄」自体が親鸞の弟子の唯円の作品であったことを知らなかった私のレベル、「歎異」−異を歎く、唯円が親鸞の法話でもって当時の人々のまちがいを正そうとしたものであること、そのことを知っただけでも十分に意義がある。
終わりになるが、この本は、機会ある毎に再読したい書物になりそうである。


  • 谷沢永一作:人間「うつ」でも生きられる
おそまきながら,昨年わが企業にも精神的な病に対するケアの相談窓口ができた。
 企業の中では,仕事上の問題や人間関係,また家庭の中では夫との関係,妻との関係,こどもの進路問題,しつけ等ストレスとなる事項に事欠かない現代社会。
 石を投げればかならずこの病の人にあたるごく一般的な病気なのであるが,精神的・・・病というだけで,社会や企業に遠慮しながら,怠け病として嫌がる内なる自分を叱咤激励し家事に,会社奉公にと・・・頑張りすぎている人は多いと思われる。
 特に「うつ」病は「どの人も生涯のいくつかの時期において,うつ症にかかる可能性があることだ」と筆者が言っていることからもごく普通の病なのである。
 ところが,だれにも相談できずに結果として,発作的な自殺へと追い込まれている40代から50代の自殺は,現代の悩めるひとつの社会現象となっている。
 そういった意味からも,筆者が繰り返しかかっている自らの「うつ病」体験をもとに著したこの本は,うつに悩んでいる人たちを勇気付けるいいフレーズが盛りだくさんである。
 筆者の繰り返しの体験談からの症状等から,私自身の過去を振り返ってみると,それらしきことはあったように思われる。ただ筆者のように長期に亘ることはなかったようである。
 これは,「自分はいてもいなくても同じだ」と考えたことがあまりないことや「あまり律義で物事を堅苦しく考える性格の人」でもないからかもしれない。筆者のように常に目標というハードルを高く設定することがないことや,危なくなると酒を飲んでみたり,何もせずに食べたらすぐ寝たり,やらなければいけないことはほっとくということができるようになったからかもしれない。
 加えて,妻からいつもそんなに「こだわらなくても・・・」と言われ続けた結果の産物かもしれない。
 筆者のアドバイスには「うつ症のときはうつの本を読むな」「本は読んだら片っ端から忘れろ」「マイペースの体得」「うつには何百もの段階がある」「抗うつ剤をもっと評価すべき」「サインを見逃すな」「気の強い配偶者が危ない」「環境を変える大切さ」「うつは充電期間」といったフレーズは,将来に備え,ぜひ参考にしたいものだ。
 そして,危なくなったら「疲れたら好きなだけ休めばいいのだ」というフレーズを遠慮なく実行するようにしたいものである。


  • 池波正太郎作:西郷隆盛
経済的に行き詰まり,アジアの中でも世界的にも,日本の経済政策に関心が集まっている。高度成長時代にはなんら問題にならなかったことが,ここにきて政治家の手腕・リーダーシップ次第で世界の信用を得るかどうかの瀬戸際にある。G7での記者会見で平成の高橋是清(私的には大いに疑問)と言われている宮沢大蔵大臣が「やることはやった,今は実施結果を見ている状態」と言っていた,本当にそうなのだろうか。凡人にはよくわからない。経済成長を期待すること自体がおかしい時代ではと思う。いままでのライフスタイルの転換期なのではないだろうか。
 手詰まり状態が続く現在を政界では,江戸末期の状態によく似ているということから,若い政治家の間で,明治維新の英傑の政治行動等を分析しながら,西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・勝海舟等にならんとしようとしているところがうかがえる。
 しかしながら,明治の英傑と現在の政治家の危機管理意識には,国が滅ぶかもしれない,自分は殺されるかもしれないという,国のためなら我が命は投げ出してもよい,常に死が隣り合わせにあった。明治時代と現代の政治家の差はこの死を覚悟したものと,アメリカの核の傘に守られてきた平和ボケしたものの差であり,どうにも埋まらないような気がする。北朝鮮から我が国にミサイルが飛んできて初めて本気になるのかもしれない。加えて明治を代表する政治家たちは極めて清貧の持ち主なのである。
 西郷隆盛に関する作品は,林房雄著:西郷隆盛(全11巻)、司馬遼太郎著:翔ぶが如く(全10巻)、五代夏生著:西郷隆盛のすべて、江藤淳著:南洲残影、渡部昇一著:南洲遺訓を読む、西郷隆盛−物語と史蹟をたずねて,と読んできた。
 今回の作品と,過去読んだ作品について事実と虚構に関し大差はない。西郷自身の人物分析は,それぞれの作品によって違うが,帯にあるように「詩人の魂をもった理想家であり教育家であった」というのが一番マッチした表現のように思う。
 西郷隆盛の一生は,大きく5つの段階に分けられる。藩主島津斉彬に見いだされ,全国的な知名度がアップするまで,斉彬の死と新藩主の後見役島津久光との確執と二回の島流し,江戸幕府との実権闘争から明治維新まで,征韓論の敗北,薩摩での私学校開設と西南の役,いつも話題になるのが,征韓論の真相と西南の役でなぜ西郷は叛旗をひるがえしたのかというところであるが,読み切った作品と今回の作品と大差はなかった。
 西郷の風貌,病気,行動について面白い表現があるので,抜粋してみた。
 桜田門外の変の報を聞いた西郷は「『酒の仕度な,たのみもす』愛子にいいつけ,大盃をあおっては,よろこびの声をあげ,ついには立ち上がって,みずから陰毛をひきぬきあたりへまき散らしつつ,『よかよか!!』わめき叫び,狂人のごとく興奮したという」
 「西郷は焼塩入りの竹筒と,兎皮の睾丸袋と愛読書数冊,兼定の脇差を,片時も身辺からはなさなかったらしい」
 「西郷の病気は,フィラリア症でこれは尿が白くにごり,足や陰のうがふくれてかたくなってしまう。これにホルモンの分泌異常による肥胖病がかさなってしまったらしい」
 「キヨソネ描くところの有名な肖像画とに上野の銅像の立体感をあたえ,さらにそこへ生きた人のあざやかな血の色がみなぎってくることを想えば,いかに西郷の風貌が人間ばなれした見事なものであったか判然としよう。ことに鳶色がかった大きな双眸は相対するものの眼のちからをみな吸い取ってしまうかのように深々と澄みきっていたそうである。」
 というように,島流しの結果,熱帯地区独特の病気を患っていた西郷,人を魅了して離さない風貌と「この動乱期の立役者になろうとか,最後まで生き残って出世しようとか,名誉を得ようとか,そんな気持ちがみじんもないのだ。事に当って計算をしない。自分が死んでも,これだけはやるべきだと考えたら,いささかのためらいもなく死地へ飛び込んでしまう」といった私欲が全くないところに,西南の役で賊軍になったにもかかわらず,いまもまだ多くの人に慕われている要因があるようだ。


  • 松本清張作:西郷札ほか
ひさしぶりに短編小説というものを読んだ。長編の場合,読み進むにしたがって知らぬ間にその中に入り込んでしまうが,この場合,1小説1時間もあれば十分であり,ちょっとした隙間の時間にぴったりといえる。
 松本清張の小説は,推理ものということが頭の片隅にあったが,文庫本のタイトルが「西郷札」傑作短編集(三)と「西郷」と「傑作」となっていたため,読んでみる気になった。
 この文庫は12の短編で構成されている。時代背景は,江戸時代あり,江戸から明治へ移る過渡期あり,そして,テーマは武士道,時代の移り変わりとともに人の行く末がどうなったのか,封建体制や封建体制から明治時代の士民平等への急激な変化はそれぞれの身分の人間たちにとってどんな結末をもたらしたのか。
 西郷札での金儲けが破滅の道へ,老車引きの意外な素性,時の司法卿から謀反による斬首へ,幼馴染みが自由党の論客から一転スパイとして斬殺へ,家康・秀忠将軍の執政としての本多正信・正純親子の結末,妾に産ませた子(別人)を息子が好きになり斬殺・自害,父の殉死へのあこがれから自らも殉死,松平忠輝のひがみと隠遁・蟄居生活,暗黙の許婚が宮殿下へ嫁ぎ手の届かぬところへ等
 結末がどうなるのか,短編ながら予想に反する結末に驚いたり,実に面白い。
 後半は結末を推理しながら,読んでいったが,推理通りにはならなかった。やはり時代背景からか死への覚悟がいつも見え隠れする。人の一生は,いいときもあるが結末はわからないというところか。一生終えてみてはじめて一生がはかれるものらしい。
 12のストーリーの中で,特に,「権妻」は皮肉な運命をサスペンスタッチで描いて,人生の結末は死ぬまでわからないというところが描かれ,実に面白い。ストーリーの展開を書いてみると,若いときに愛人を作り,その子供が生まれたが,行方しれずのまま,本妻はなくなり20数年が過ぎていた主人公の隣家に,皮肉にもその愛人が産み落とした娘を語る女が現れる。その女を自分の息子が妻にしたいというのである。その女は父の形見ということで印籠を持っていた。因縁とは恐ろしいもの,背筋が寒くなるが,その女は芸妓の時の同僚が話していたことをそのまま息子に語り,その芸妓が死んだときの形見の印籠をそのまま見せたのである。主人公は因縁を知らぬ女を斬殺し,自害という結末を迎える。
 また,最後の作品「白梅の香」では松本清張の得意の推理小説的な部分が出てくる。
 歌舞伎役者のような若武者が,殿の供で江戸に出て,暇な時間にちまたの芝居小屋を訪れていたところ,側女に見初められ一夜をともにした。
 朝帰りをした若武者はその所業を上司に知られる事になった。ところが,その上司は,その若武者についていた香の臭いが,わが藩にしかないものでありながら,若武者についていることから疑念を抱き,「白梅の香」を横流しをしている不正を見破るというもの。
 話の展開が見えないから,ついつい最後までという事になる。しばらくは,松本清張の傑作短編シリーズを読んでみたいと思っている。


  • 岩波書店編集:定年後
この本は第一部が「定年後への視点」で、社会でいう先生方からの助言・考察・展望、第二部が公募手記で「私の定年後」、第三部が「知っておきたい手続き・仕組み」の三部構成からなり、5百ページにもわたる。
 「定年後の視点」では、やはり男の定年後について、決まり文句みたいになった「熟年離婚」「粗大ゴミ」「生ゴミ」にならないための心得というものばかりである。
 読みながら,これから10年以内に定年を迎える団塊世代の私にとって、なるほどと思い当たる行動・態度は思い浮かぶが、先生方がおっしゃるようにすれば、軟着陸できるかどうかの自信は全くない。考察という言葉は,学者の世界の専門用語で,あまりいただけないし,あまりにもとっつきにくい。
 一方で、なんとかなるという気持ちはある。確かに仕事ばかりしてきた企業組織の人間から、地域社会の人間へと移行するのはかなり苦痛が伴うだろう。しかし、効率とかスピードを優先してきた企業社会から離れるのであるから、急がなくてもゆっくり考えて助走から入っていけばよいのではないか。
 日本人は、一律に皆がするようなことをしておけば安心できる人種だが、組織の人間から離れた以上、せめて自由にそれぞれが考えてやればよいことで「百人百様の生き方こそ、生き甲斐が感じられ、百人百様の老後にこそ生きる輝きがある」のフレーズが一番耳にここちよく響いてきた。
 先生方のおっしゃる助言は、どちらかといえば立派過ぎて、できそうにもない気がする。定年後の家庭での亭主のタイプを分析したものには、その辺の週刊誌の興味本位の評論でしかない。世の奥様方においても、多くの人は既成の文化教室等々でそれぞれの時間を楽しんでいるのであるが,そのタイプの分析も一緒に載せて欲しかったのだが。忠誠心の塊である男が組織から離れてどうなるのかは,ネタとして結構面白いようである。
 男女での大きな違いは、ネットワークが地域に根差しているかどうかの違いでしかない。亭主どもも定年近くなれば、人見知りをせずに、企業内でうまくこなしてきた人間関係論を気軽に応用すればよいのではないか。
 やはり,公募作品が生々しくて,泥臭くて好感がもてる。その中でも特に女の視点からの定年後の亭主との会話の中に,痛烈な皮肉が,関西弁で軽妙なタッチで描かれている−妻の定年−作品は圧巻である。
 また,「密かなるプラトニックラブ」という作品には,@定年前に内緒の金をつくり貯金をする。Aよい意味での女友達をつくり生涯交際する。実際に食事をしている女友達がいることを吐露している。しゃべってしまえば密かなるにならないと思うのだが,もう時効だからか・・。私の場合,つい異性となれば下半身を意識しすぎて不倫とかを考えてしまうが。この方はそうではない,考えすぎか。
 定年時のセレモニー後の帰宅,家庭のこと地域のことはすべて妻まかせ,この日から妻の長年の鬱憤が爆発していく−妻の逆襲,そして−作品には迫力がある。いい状態になっているから語れる作品だろう。現実は多くの熟年離婚を生んでいるのだろう。
 おわりに,投稿者に学校の先生方が多いのが気になるが,十分に参考になるものはある。同じ生き方はできるものではないが,それは自分自身で見つけていく以外にはないように思う。せめて会社に左右されずこころのままにできればと思うが・・・どうなるだろう。
 
 


  • 松本清張作:傑作短編集(5):張込みほか
推理小説は最近全く読んでいない。書店で文庫の散策をしていると,西郷という字が目に入り買ってみた。読み終わってもう一度本題を見ると「傑作短編集(3)」となっていたことから,シリーズものである事を知り,この短編集を読んでみたのである。
 この推理小説第一集は8編から構成されている。
 いずれも犯人は最初から分かっているのであるが,一編一編を最後までどう展開させていくのか予測ができないため,実に面白かった。
 8編の中には,殺人事件を刑事・新聞記者により推理を展開しいく「張込み」「声」「投影」がある。最近のテレビ版で言えば「金田一耕助事件簿」といったところか。
 犯人自身が主人公になって告白する形をとっている「顔」「鬼畜」「カルネアデスの舟板」,第三者が疑問に思って推理が展開するものに「地方紙を買う女」「一年半待て」がある。
 読者の楽しみ方は,ストーリーの展開として何をキーワード−動機,アリバイ,犯行現場−にしているかにより全く違ってくる。
 最近テレビの推理ドラマは,主人公に検事,弁護士,刑事,OL,芸妓,探偵等を設定し,犯人探しをするものと,犯人はすでにわかっていて犯行のトリックを解き明かし,アリバイをくずしていくものがある。いずれが面白いかは好き好きという事になるが。
 この作品は後者のものである。なぜこんなテーマがついているのかと思いながら,一編ずつ作品を読み終えての感想は,テーマの設定になるほどとうなずいてしまうものが多い。
 特に面白いものをひとつあげよといわれれば,どんでん返しのある「顔」だろうか。
 このストーリーは,顔が気になる商売の役者が犯人であり,主人公である。愛人殺し計画の当日,汽車の中で愛人の客に「顔」を見られたことから,その客の身元調査を殺害後9年間続けていたところから入る。
 主人公は映画の世界で次第に名声を得ていく。さらに名声を得たい,ところが逢瀬を楽しんでいた愛人に子供ができ,堕胎を迫るが受け入れられなかったことが,殺害の動機である。
 9年後,山中から愛人の白骨死体が発見され,役者は自分の面が割れているかどうかが,常に気になって身元調査していた客に会いたい旨の手紙を出す。
 当然,その客は全く知らぬ人間がなぜ自分に会いたいのか分からない。気になり,警察に届ける。ところが,会う当日偶然にも飲み屋で刑事と会っているその客と隣り合わせになり,自分の顔が記憶されていないことを知る。
 これで捕まらずにすむのかと思っていたら,その客に手紙を出したことと,役者が出演していた映画をその客が見,あるシーンがその当時の情景にあまりにも似ていたことから,その客の記憶がよみがえり,犯人の「顔」を思い出したのである。
 人間の記憶は実に不確かであるが,脳の中には残っているから何かのきっかけで再現されるものらしい。たまたま主人公が顔に執着する商売であったことが,命取りになってしまったのである。犯人はやはり現場が気になるということか。
 


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