• 司馬遼太郎作:坂の上の雲6
第6巻は、話がかなり飛んだり、くどくなったり、足踏みしたりしている。 筆者が日露戦争における勝敗のやま場をこの小説の中心課題としている以上、 いたしかたないことかもしれない。筆者はそのやま場を陸軍は奉天、海軍はバ ルチック艦隊との決戦においている。
 この巻では、ロシアが大攻勢をする前の将軍の権力闘争、冬季にはロシア軍 は大攻勢をかけないだろうという日本参謀の思い込みからの混乱、最西端に位 置しロシアの南下を防ぐため拠点式陣地法という戦術をとる好古、最後の戦略 予備軍立見第8師団の最初からの苦戦、バルチック艦隊の航海とマダガスカル 島での足止め、明石大佐の諜報活動、旅順陥落後のロシア将校の回想と参謀人 事をした乃木軍の遼陽への移動、東郷連合艦隊南朝鮮の錦海湾へ、ロジェスト ウェンスキー・バルチック艦隊印度洋へ、優勢を保ちたい日本陸軍の奉天作戦 へと続く、一方で仲裁役をアメリカの大統領ルーズベルトに頼むための外交政 策も進めている。
 小説のやま場の決戦場に向け、日露陸海軍の位置、士気、組織、作戦、兵員、 火器、艦船数、その準備状況が克明に記されている。
 特に面白かったのは、児玉総参謀長の秘命を受けながら、他の仲間からはそ の才能を認められていなかった明石大佐の諜報活動のチャプタである。
 活動をするための資金は十分にあった、帝政ロシアを倒すための地下活動の 支援、どの国のだれを諜報活動の中心に据えるか、ロシアで知り合った学生の 情報だけで、大胆にもフインランドで地下運動をしている大物カストレンへの 直接のメッセージを書記官に携えるところから始まる。
 そして諜報活動のネットワーク作り、着々と面白いようにでき上がっていく。 スパイとしてロシアのスパイにいつ命をねらわれても不思議ではない。これは、 腹を決めた明石大佐の大胆で繊細なそして天才的な能力と風貌によるものだろ うか。
 後に首相の器と言われながらその実現をみないまま56才で他界した。
 このチャプタを読みながら、明治時代は諸外国に強い国際感覚を備えた人材 を輩出していたことにあらためて感心した。
 これは、明治維新という大きな時代の流れに古い体制での古い考え方では列 強の植民地政策により、国が滅亡するかもしれないという危機意識を20代・ 30代の若い世代が持っていたこと、国全体を動かせるかもしれないという大 望も描ける状況にもあったからだろう。歴史はその時代にあった人材を生むも のなのである。
 とすれば政治・経済が行き詰まり、産業革命以来の新しい革命−情報通信革 命−が起こりつつある現代、傑出した人材の輩出が期待されるのではないだろ うか。  


  • 五木寛之作:蓮如
学校からの延長線上で、蓮如についていえば一向一揆を思い出し、体制に立 ち向かい続けた宗教家というのが、私のイメージの中にはある。
 筆者は、弾圧を受け、布教の地を変えながら信者を拡大し、蓮如生誕5百年 たった今も「蓮如さん」と親しく呼ばれているこの宗教家に着目し、多くの書 を著している。
 6才で母との別れ、42才まで庶子として部屋住みの生活、本流としてすた れる一方の浄土真宗の立て直し、布教地での他派からの圧力により転々とする 一生、そして4人の妻の死を看取る等、多くの逆境の中で親鸞の原点に返り、 新しい仏法思想・蓮如思想を築いていく。
当時としては長寿の85才まで生き、、5度の結婚で13男14女をもうけ、 子供たちに多くの自宗派の寺を継がせている。一般人からすればこれだけでも 精力的な人間であると言えるのではないだろうか。
 親鸞は自己の「苦悩」を出発点に、蓮如は「悲苦」を原点として、仏教の一 般大衆化に成功しているという。確かに戦国時代に、浄土真宗がブームになっ たのは、蓮如が考え出した「御文」「御文章」によるPRと@既成の権威に抗 して闘いA常に底辺の人々とともにあってB胸にしみこむ平易な言葉で教えを 説いたということにあるのかもしれない。しかしながら、ブームが生まれるの は現代においても女性が主役であるように、蓮如は布教活動において、女性に 対しても平等な扱いをしていたことにあるのではないだろうか。それは、次の フレーズ−「現代でもまだわれわれのなかに根強く影を落としている女性に対 する偏見をわが身のこととしてふり返ってみるにつけ、あの中世において自由 なまなざしを女性に注いだ人物として蓮如は忘れることのできない人物」−で 裏付けされているように思う。  ところで、私は、今年のチャレンジテーマの中に「蓮如を知る」ということ を掲げている。なぜかというと、わが家の宗教は浄土真宗、しかし、なぜ南無 阿弥陀仏という念仏を唱えることで救われるのか、宗教とは何なのか。その入 口として蓮如を知るということ、そして浄土真宗を一般大衆に解放したのも蓮 如ということで、蓮如に関する何冊かの本も購入し読んでみた。
   私自身お経をあげるわけではないが、「白骨の御文」をそらんじながら、人 生のはかなさを感じ、この年にしてやっと死を身近に感じ、死の恐怖心が念仏 により少しでも和らげられるのであるという気持ちが出ている。現代人は核家 族化や死を病院で迎えることにより、日常生活の中から人間の厳粛な死を遠ざ けてしまっている。最近発生した中学生の小学生殺人事件や一連の毒入り事件 は、死に対する畏敬の念が薄れているために起こっているような気がしてなら ない。
 生あるものはかならず死を迎える。しかしながら、私も含め、死を自分のこ ととしてなかなか受け入れられないでいる現代人が多いのではないだろうか。
 


  • 山根眞一作:デジタル産業革命
未来学者アルビントフラーは「第三の波」の著書の中において、農業革命・ 産業革命の次にくる情報革命について、アメリカではすでに1956年から始 まっているといっていた。
 この本の著者、「デジタル産業革命」というテーマ、世紀末の日本、経済低 迷・人間不信の中での明るい方向性が見える本としてすぐに読んでみたい気が したのである。
 それぞれのチャプタに、きたるべき21世紀の情報化社会におけるキーワー ドがある。インターネット、ホームページ、電子メール、サーチエンジン、電 子新聞、SOHO、情報用語としては決して新しいことではないが、着実に新 しい社会がやってきている。
 江戸時代から明治時代への移行時には西洋文化の波−産業革命の波−が一気 に押し寄せてきた。情報化の波はそれと同じ勢いである。
 そして、この革命の中心となるネットワーク、またその中心となる個人、個 人と個人のつながりが、心の豊かな社会実現に向けて動きはじめている。
 ネットワーク上での人と人のつながりには、無料で提供されるソフトウェア により、モノとカネで動いていた「商品経済」から情報と人の情が地球を結ぶ 「情品の時代」へ移行しつつあると筆者は言う。
 筆者のいう情品とは@情報の製品、デジタル時代の経済活動の柱になる生産 物A生産者が消費者から金銭ではなく賞賛や感謝の情を対価として受け取る製 品である。
 確かにカネは人間の心をみにくくし、それによって人が動き動かされていた 20世紀、新しい時代は仕事を離れたところでの人と人の心からの結びつきが、 コンピュータのネットワーク上に沢山生まれつつある。
 特に興味を引いたのは「アサヒコム」の編集作業が時差を利用してアメリカ 西海岸で行われているということ、多品種少量生産時代ということで自分の腕 時計がインターネット上でできるということ、中古車販売のHPにアクセスし てもらうための雑誌の選択とデジタルカメラの活用・・・・・。
 情報化時代は人間関係の信頼によって成り立ち、その結果としていい副産物 をもたらそうとしている。
 それは上下優劣に関係のない人間関係、人の能力が担保となる時代、個人的 な結びつき、21世紀に向け「モノ」から「ヒト」を大切にする確かなものが 感じられる。
   




  • 司馬遼太郎作:坂の上の雲7
第7巻は陸軍戦闘のメイン奉天会戦、ロシア・クロパトキン将軍の不可解な 退却命令、英米における日本外交、そしていまだ艦影が見えないバルチック艦 隊艦長の心の動きと、その進入経路に悩む東郷艦隊の真之を含む参謀たちの姿 が描かれている。
 第6巻と同様、もっぱら日本とロシアのリーダーの指揮官ぶりを分析し、陸 軍では、その指揮結果が勝敗の優勢さを決定しているという。特にロシア軍の リーダー・クロパトキンとロジェストウェンスキーの両将軍、彼らの揺れ動く 心理状態が再三再四書きつづられかなりくどくなっている。
 くどい中でも面白かったところがある。それは@好古の戦略A金子堅太郎の 外交交渉Bバルチック艦隊の進入路に悩む真之の3シーンである。
 クロパトキンは奉天会戦で、旅順を陥落させた乃木軍が、自分たちの背後に 突然現われるのではないかという不安を常に持ち、また、一番西に位置する秋 山好古騎兵旅団の牽制活動が彼の闘争心を萎えさせていた。
 西側から大軍で再三攻勢をかける包囲作戦や退却するロシア軍の追撃戦に対 し、騎兵でありながら土嚢を築いて、防御戦法に徹したり、勝者でありながら 騎兵や徒歩兵で追撃せず、砲弾と機関砲弾をもって追撃、そして逆に退却した りする好古の柔軟な戦略はロシア軍を翻弄したのである。
最終的に日露戦争では日本が優勢なうちに講和条約が結ばれることになるが、 戦後、戦史をまとめるべく好古へ取材をしても彼は一切自慢話や自分の指揮ぶ りを話さず、彼の部下からしか取材できなかったという。現在のように、政官 財界のトップに位置するものは、名誉に飢え、年老いて勲章がもらえるよう奔 走する姿とは格段の違いがある。
そして、外交の話になるが、伊藤博文の命を受け、外相小村寿太郎の舞台裏 で動く金子堅太郎、ロシアのように金で米世論を動かすのではなく、2冊の本 −新渡戸稲造著(英文)「武士道」とイーストレーキ著「勇敢な日本」−を持 って単身米国に乗り込む。
 親友であるルーズベルトに講和の仲介役になってもらうべく動き回る金子堅 太郎は、講演活動を続けながら米世論の支持を受けていくのである。歴史の表 舞台では外相小村寿太郎の話は出てくるが、金子の話は、歴史の教科書には出 てこない話だから実に面白い。三流といわれる政治屋しかいない現代の日本政 治にない力強さを感じる。
 一方で、主人公真之は、バルチック艦隊の艦影が対馬海峡に現われるのか、 太平洋を回航して津軽海峡に現われるのか依然として悩んでいたのである。
 「この思案のために人相が変わるほどに憔悴してしまっていた」「顔色は冴 えず」「挙動が奇妙であった」「はじめて途方に暮れた表情をみせたことであ る」の表現にあるように、真之は、バルチック艦隊の航路選択想定に翻弄され ていたのである。
 これは二者択一ではあるが、「・・・幕僚の判断によって国家の存亡がきま ってしまうという心理的重圧感が、かれらを羅針盤の針のようにこまかくふる えさせつづけていたのである」というフレーズにうかがえるように、参謀とし て判断するには余りにも事が重大すぎたのだと思う。
 戦後、アメリカの核の傘に守られてきた日本には、こういった危機意識を持 つ必要ががなかったのか、平和な時代なりの人材しか育ったなかった。北朝鮮 のミサイル、中国・台湾問題等のアジア地域の安全保障やアジア全体を巻き込 んだ経済危機は、経済だけで生きてきた日本にとって、大きな壁にあたり、真 の危機意識を持ったリーダーが待望されていることだけは間違いない。


  • 加藤仁作:定年百景
10のチャプタと66の景色・人生ドラマがある。登場人物は百人をくだら ないだろう。表面だけとらえれば、人生の勝利者のように見える。
 自分を見つめ病気・失敗を重ねながら、継続した積み重ねの中に新しいこと へのチャレンジが明るいものへと開けているようである。
 チャプタごとのキーワードには、50才という転機の時期、変身、開業、自 立、趣味、病気、旅行、それぞれのきっかけから第二の人生をスタートし、美 事に自分のものを確立している。
 中高年は体力は落ちても、知力は衰えないと言われてきだした。しかし、い ずれの編も、ご本人次第ということではないだろうか。
 フレーズの中に詩人相田みつを氏の言葉があった−「ともかく動いてみるん だね。具体的に答えが出るから」−このとおりである。とにかく、動かなけれ ば何も起こらないのは間違いない。
 ただ、団塊世代というのは猛烈に働いてきて、それも会社・組織のためにひ たすら働いてきたと思っている。定年を迎え、多くの空白の時間ができた時、 組織とは一体何だったのかとたぶんを思うのだろう。
定年後の人生は一人旅からのスタートになる。特に心配なのは、燃え尽きシ ンドロームで、退職時には、抜け殻になっているのではないだろうか。
 いずれにしても、ルポルタージュは面白い、この本には、自分もこれならや れるかもしれない、とにかくとっかかれば何かがみえるかもしれない。そんな 気持ちが起きてくる。やはり短編であり、少しの飾りはあっても事実であると いうこと、いいことばかりでなく失敗もふんだんにあるということからだろう か。
どの編も味があるが、自分が気になったものは、11編ほどあった。
 一人雑誌作成、表具師、仏画教室、シルバー会社創立、自転車旅行、フラダ ンス、創作人形教室、国際交流、パリ滞在で絵画、税理士試験パス、とにかく 多岐に渡っている。
 ほとんどの定年退職者は、15年かけて税理士試験パスという編の次のフレ ーズ−魅力的なひとであるが、その魅力を具体的に叙述するとなると難しい。 お会いし、かもしだされる人柄や雰囲気に接し、胸をうたれ、なかなかの人物 であると感じても、このなかなかを伝えにくい。
これまで数多くの定年退職者を取材してきていざ書く段になると、このよう な思いを抱くことがしばしばあった。−にあるようにほんとうに小さな、目立 たないチャレンジで取材対象になるものではないのではと思う。
 そして、あとがきにもあるように「定年退職者の多くは充たされない思いを 口にする。仕事がない、立場がない、行き場所がない、カネが足りない、趣味 ・ライフワークが見つからない、元気が出ない・・・・」といったないないづ くしの話なのである。
 いずれにしても第二の人生のキーワードは、あとがきにあるように「そのひ となりの『役割』を手にすることが望ましい」ではないだろうか。会社では知 らぬ間に分担が決められ役割が決まる。家族の中でも同じである。ただ、定年 後の役割は、現代のサラリーマンが一番不得手な地域社会での役割なのである。
 さらに言えば、その役割発見のためには「人の出会い」が大切である。それ にはまず自分でいろいろ興味と探求心を持って動いていみることなのである。 といまもう一人の自分に言い聞かせている。


  • 司馬遼太郎作:坂の上の雲8
最終巻は、バルチック艦隊の航路、連合艦隊との日本海海戦、東郷の指揮と 真之考案の七段戦法の展開、ロシア最後の降伏・第三艦隊ネボガトフ、敗将の 姿と傲らぬ勝者東郷とその参謀たち、そして主人公(好古:71才、真之50 才)たちの最後が描かれている。
 第6・7巻は単にこの日本海海戦までの序章にすぎなかったことが、最終巻 を読んでいくとわかる。
 完全な連合艦隊の勝利、それはバルチック艦隊の全滅に対して、連合艦隊の 損害は水雷霆3隻ということだけでなく、ロシア側の死者が5千人に対して、 日本側の死者が百数十人といったことでも分かる。
 もともとロシア南下によるアジア侵略が日本に脅威をあたえ、国家滅亡の危 機意識からやむなくこの戦争に突入したのである。
 負けることなく対等に戦い、タイミングを見計らってのアメリカの仲裁を期 待すべく積極的な外交政策を展開していた。
 日本海海戦の圧倒的な日本の勝利は、金子堅太郎が説得工作を続けていた、 アメリカのルーズベルトの仲裁により、一機に講和条約へと進むことになる。
この戦争は国際外交の舞台へのアメリカの登場と好古が予言したロシアの社 会主義化へのきっかけともなったのである。
 江戸から明治へ、封建社会から四民平等の中央集権国家への移行、その間、 植民地政策を進める列強の脅威があったにもかかわらず、占領されることもな く、国家建設に合わせながら軍事力も着実に整備し、日清日露戦争を勝利する ことにより列強と肩を並べるまでになった。
 最終巻で印象的なのは、この時代の軍人には、戦争は国家存亡の危機以外に すべきではなく、勝利しても傲ることなく、敗者に対する礼節がある。
 陸軍大山大将・児玉参謀総長、海軍東郷大将・加藤参謀総長、そして主人公 の好古・真之の勝利後の態度・生き方でわかる。特に東郷が敗将ロジェストウ ェンスキー提督を慰問したとき、寡黙なはずの東郷が語った言葉に戦争には 「勝負は時の運」ということ、そして敗将への労りの言葉で十分くみ取れる。
 勝者は人間的にも上であるとか、すべてに優劣をつけないと気がすまない自 己中心的な今の時代にはとても考えられないことのように思う。
もっと印象的なシーンがあった。敗将ロジェストウェンスキー提督を乗せた 駆逐艦ベドーウィを佐世保で見たとき、真之の目から涙があふれ、頬をつたっ て流れたという情景が戦争のむなしさを一層際だたせ、さらに戦後「坊主にな るといい」同僚からとめられやむなくとどまりながら、息子に僧侶になって欲 しいと懇願、現実に真之の息子は無宗派の僧侶になったという事実。
 戦争とは「戦争というのは済んでしまえばつまらないものだ、軍人はそのつ まらなさに堪えなければならない」(黒木為禎陸軍第一司令官)に集約されて いるように実につまらないもので決してすべきものではない。


  • 横尾忠則作:死の向こうへ
死後生、霊界・天界・異界、四次元、カルマ、霊体、輪廻転生、臨死体験、 超常体験、涅槃、前世、カルマこれらの言葉をみると宗教でも少し違う世界 に入ったように感じてしまう。
 しかし、基本的に筆者の頭の中にあるのは、死をまず意識した上で生を考 えようとしているところにある。現代人は死から遠ざかっているため、あた かも特に自分には永遠の命があるかのように、生しか意識していない。
 だから、この書を読むと入り口のところから、おかしな世界に入ったよう な気になってしまう。
自分はなんなのか、死んだらどうなるのか、死は怖いものなのか、いずれ の質問も多くの人が避けようとしている哲学的質問である。筆者は「死を客 体化するより、むしろ恐怖の対象である死の側に立って考えたほうが、死の 恐怖から逃れられるのではないか」と考えている。
他人を意識するが、自己愛・ナルシズムが強く、相手の立場に立ってとい うことはなかなかむつかしい。生きている存在でありながら、コミュニケー ションもうまく図れず、多くの不幸な死がある。ましてや経験することがで きない「死の側に立って考える」とはどういうことなのか。
 死後の世界を経験して、死後はこうなるから生きている間はこうしなさい と言えればいいのであるが、臨死体験というのはあっても疑似死にほかなら ない。
 とは言っても、生前の地位、財産、名誉、業績、知性が死後の世界に役立 つとは思えない。しかし死んだ時に墓、墓標に刻まれる戒名まで値段がある 現世であり、またそれを求めるのも人間なのだから、やはり死んでも権勢を 示したい欲への満足とその欲が突っ張った坊主がまるもうけということか。
 読めば読むほど奥が深い書である。いかがわしい似非宗教の話でないこと は、筆者が子供時代から恐怖心のある死を精一杯考え、凡人の私たちにその ヒントを与えてくれているところでも十分わかる。
 筆者は子供時代の経験や夢の世界と現実の世界の一致等過去の経験からし て一貫して死後生を信じ、それがベースとなっている。
 だから、夢の世界と異界の世界の結びつき、度重なる霊体との出会い、と いった話に真実かうそとかといった話は、読者自身が受け入れられる話かど うかでしかない。私は、まだ現世には自分ではわからない世界が多くあり、 あまりにも人間が科学知とか合理主義に走り、自然界から離れていったこと で得るもの以上に失ったものが多くあるような気がしてならない。
 若い頃はほとんど意識しなかった死も、こういった真剣に死を考える書に 出会えば、死を考えながら現世の生が充実してくるような気がする。それに は筆者が言うように「人間は本当に死ぬ存在であるということがインドでた くさんの死を見てやっと自分の死についてもリアリティを持って考えるよう になった」、現代のように死を日常生活から離れたものとしている世界では、 死を意識しない欲望にまみれる以外しかない現世なのかもしれない。
 21世紀は心の豊かさを求めるといわれるが、現実には限りなく欲望(出 世、エゴ、金、ものへの執着)に満ちた現世を追い求める人と、こころの目 が少し開かれ、違った世界を考えてみようとする人とが極端に別れるのが 21世紀という時代なのかもしれない。
 私個人としては、この書からとてもいい言葉をもらったような気がする。 多くは気になるフレーズの中で紹介するが、二三列挙すると、それは「苦し んで死を迎えるのもその人に与えられた、あるいは自らが選んだ生き方かも しれない」「人間は死んだら終わりだとよくいうがそれは違う。死は未来を 生き未来をつくることになるからだ」「死んだら金持ちも有名人も美人もし ゃりこうべである。地上にはしゃりこうべしか残さないが、死後まで持って いくのはその人の物質以外の人生である。」である。
 いずれにしても、死後の世界の真偽は別として、いろいろな人の死から学 ぶべきもの、残されたものの課題がある。そう思うことが大切なのではない だろうか。


  • 宮本政於作:危機日本の「変われない病」
精神分析医による政治家・官僚・企業トップに代表される日本人論といった ところである。筆者の分析結果のキーワードを少しあげてみよう。「マゾヒズ ムの連鎖」「作法」「しきたり」「妬み」「全体の和」「みんな一緒に無彩色」 「恥」「みんな同じ」「個を確立させないこと」「恥」。筆者による日本人の 深層心理の分析結果には、自分にも思い当たるものが多くあり耳が痛い。
日本人は特に「没個性」、組織の中で目立たないように全体の和とか横一列 の行動をする傾向があることは、トンネルの出口が見えない継続した不況に対 する政治家、官僚、企業人の発言や行動を見ても分かる。企業の中にいる自分 も「寄らば大樹の・・・」で全く同一カラーである。
また、横一列の思想は、天才タケシが言ったように「赤信号みんなで渡れば こわくない」といった的をえたギャグでも明らかである。
 過去筆者の「お役所の掟」を読んで痛快さと官僚の仕事のしかたに唖然とし ていた。官僚の相次ぐ不祥事から筆者にとっては追い風が続いていたが、数年 後筆者は現場へ転勤し、その後、休暇(無断?)でアメリカ出張し講演会の講 師で日本の官僚批判をしたとかで、懲戒免職されたという新聞記事か、雑誌の 見出し記事を見た記憶が残っていた。
 その時には、やはり日本では組織の中では出る杭は打たれ、お固い官僚組織 を批判するものは何か理由をつけて早くに抹殺されると思っていた。その後、 筆者の出版本もないのでどうなったのかとも思っていたのである。
 しかし、自律した筆者には、全く関係なかったようであり、今回の精神分析 面からの日本人論に健在ぶりがうかがえ、一方的にしか伝わっていなかった懲 戒免職に至る経緯は、形のない組織というものに忠誠心を抱く日本人の嫌な行 動面ばかりが露呈している。
 ナイフを持ちたがる少年、いまだに精神的な病に異常に反応し、表に出さず 隠すべき事項としてしまう社会、カレー事件以後、頻発する毒入り事件、最新 の情報機器を活用した毒物販売、伝言ダイヤル薬物強盗等、最近発生している 事件を見ても、筆者の言うようにいまだに日本人の中にある深層心理に変化は ないようである。
恥をかきたくないだからなるべく新しいことには挑戦しない、それでいて成 功者を妬む、嫌なことから遠ざかりたい、関わりたくない、でも気になる。人 間だれしも弱い面を持っている。逆にいいものも沢山持っているはずである。 それが組織の中では没個性を押し通さなければいけない日本の社会風土では、 いいものを持っていても個性はくそくらえなのである。それは増えるばかりの 子供のいじめの世界でも、サラリーマン世界でも同様のようである。
 ではどうすべきなのか「われわれが本当に豊かな人生を送りたいと思うなら 行動することだ。それにはまわりの目など気にせずに、また掟、作法などにと らわれることなく、自由な発想の中で暮すことが必要だ。」のフレーズにある ように、自分の信ずるところは自分が責任を持って行動を起こせばいい、そし て「心のビッグバン」で古い価値観の総入れ替えが大切なことであるというこ とらしい。


  • 西村公朝作:仏像の声
学校の課外授業で行った遠足、修学旅行、会社勤めをし始めてからの社員旅行。
観光目的の旅程にかならず寺巡りがある。
その寺巡りで由緒ある仏像についていろいろ説明を受けたのだが、ほとんど記 憶に残っていない。
なぜだろう。金箔がはられた姿、像の大きさ、耳の大きさ、手の長さ、厳しい 表情、やさしい表情、蓮台に坐した像・立った像、百の顔、千の手、背の光輪。 その種類の多さにいつも感心していたような気がする。
 すべてに死と隣り合わせの世界、厳粛さとか荘厳さからくる一種独特な雰囲 気を感じていた。
新興宗教団体の中には、やたらでかい仏像を作って、ただ人を寄せ集めるだけ のためにといったものがあり、このようなものをみるとやはりあちらの世界も 金次第かという感じを抱いてしまうのは私だけだろうか。
この本を読んで仏像にはそれぞれ、顔の表情、手の形、姿、手足の位置、手足 の組み方、それぞれに意味があることを知った。これからはそういった目で鑑 賞できるようになれそうだ。
僧であり、仏師でもある筆者のイラスト入りの解説は実にわかりやすい。
「仏作って魂入れず」という言葉があるが開祖の考えが、仏師により仏像に表 現されているかどうか、信仰できる対象物なのかどうかは、眼力のない凡人に は判断がつきにくい。
ただ、この本を読んだことで仏像の見方が変わってくることは間違いないだろ う。
特に印象に残っているフレーズは、「仏像がその形から人々に伝えようとして いる、仏教の神髄、仏の慈悲の心には変わりはないということです」である。
そして、仏像の姿に三種類あり、結跏趺座は「まあ坐ってよく考えろ」、半跏 趺座は「一度とりあえず行動を起してみろ」、そして、立像は「決断を下せ」、 と迷いの多い凡人にそれぞれ語りかけているという。
ただ、その姿をあらためて観察したいのだが、老いを重ねた現時点では、自分 でそのチャンスを作らない限り、お目にかかれない。
仏像の姿には釈尊が王子の頃の姿(菩薩)、悟りを開いたときの姿(如来)、 武勇に優れていた勇ましい姿(明王)、そして釈尊のそばにいた妃、家来、侍 女たちの姿(天部)を表現したものらしい。とはいうもののやはり現時点の自 分の目で観察したいものである。
いずれにしてもこの本は、死の世界や仏教の世界を学んでみたい人や仏像を描 いてみたいと思う人にとっては大いに参考になる。


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