<<彫刻家:辻晉堂>>

しゃべり人

ポイント


△語り:アナウンサー
〇サグラダファミリア主任彫刻家:外尾悦郎
□陶芸家:宮永東山
◎辻晉堂


<<辻晉堂(1910〜1981>>)

△若くして写実を極めた木彫りで周囲を驚かせます。手がけた肖像は人柄まで写し取ったと評判に
△しかし、ある時、晉堂は前代未聞の彫刻を作り始めます。子供の背丈ほどある巨大な作品ー 焼き物に使う土を使って窯で焼いた「陶彫」と呼ばれる独創的な彫刻でした。
△作品は海を渡り「第29回ベネチア・ビエンナーレ」で絶賛されます。晉堂は陶彫で新たな技術の可能性を切り拓きました。

〇(世界遺産「サグラダ・ファミリア」主任彫刻家:外尾悦郎)常に背中を押してくれたのが、辻晉堂でした。
偉大な人というのは、中に見えないすごいマグマのような、人間としての偉大な力をもっておられる。
△この夏、晉堂の故郷で行われた(米子市美術館)生誕110年の展覧会。陶彫と呼ばれる 陶土を用いた作品を中心に行われた展覧会。彫刻刀で彫り出した大胆な造形を空気抜きの大小の穴が生み出す力強さと軽やかさ。
△子供の頃から美術の才能に優れていた晉堂でしたが、卒業後は大工に弟子入りします。 その一方で独学で写生や彫刻の創作を続けていました。昭和6年21歳で上京。 美術の道へ進むことを決意。新聞配達をしながら独立美術研究所で美術を学ぶ。

△その日々の中から絵画から立体へと。独学で彫刻を始めてわずか2年。日本美術院展へ 初出品。精力的に木彫り作品を発表、たびたび入選する。
△そんな晉堂をとりわけ高く評価したのが、彫刻家平櫛田中。 昭和24年晉堂は「田中」の推薦で京都市立美術専門学校の教授となる、39歳。
△晉堂は考えました。彫刻を窯(登り窯)で焼いてみたらどうだろう。京都での登り窯との出会いが晉堂の彫刻を変えていきます。

□(宮永東山)辻さんの作品を入れるのは登り窯の一ノ間、二ノ間、(三ノ間、四ノ間 まである)火前という場所。
△火前とは、本来焼き物を置かない狭い場所。火力が安定しないため、時には炎で煽られて作品が倒れ、壊れる 危険があった。それでも登り窯で焼いた理由は、灼熱の炎が生み出す人知の及ばぬ美しさでした。
□理屈で割り切れない美しさみたいなものを感じてしまう。
△アカマツの薪を使うことで窯の温度は1300度まであがる。炎の中で晉堂独自の陶彫が生まれました。 晉堂の製作は土作りから独特でした。長く使ったサヤを粉にして陶土に混ぜる。
□2割5分縮む。それに耐えるだけのものを作るにはどうすればよいか。土そのものが 縮まないような土にしたらよい。
△サヤを粉にして入れることで、割れない工夫をした。

△晉堂は運搬時に割れた作品(牝牛170cm)をそのまま窯に入れ、なんと焼成後に接着剤で繋ぎ合わせた。 焼き物は割れたら終わり。しかし、晉堂にはその概念はありませんでした。
□焼き物では絶対やらないようなやっちゃいけないと言われることをやる。彫刻だったからできた。 晉堂の陶彫に込めた美学です。
△昭和33年ベネチア・ビエンナーレへ7点ほど出品。沈黙など「彫刻の自由な言語の再発見」と高い評価を受けた。
△昭和40年代京都の焼き物業界は大きな危機を迎え、登り窯の煙が公害とされたのです。 高度成長期の公害問題で様々な規制が始まりました。この頃、晉堂は不思議な作品を作りました。 「目と鼻の先の距離について」(1965年)。目と鼻の先は距離がとても 短いはず。でも、視点を変えるとこんなに長くなってしまいます。実はこの作品は 電気窯で焼いた初めての作品。

□悩みが見えます。登り窯がなくなることは想定したであろう作品。何をどうしたらいいのか。自分はこれから何を作ったらいいのか。 目と鼻の先の長さは晉堂の悩みの大きさ。
△登り窯がなくなってしまう不安。昭和43年大気汚染防止法により、 京都市内の登り窯は廃止に追い込まれます。晉堂は自宅に電気窯を設置。試行錯誤を繰り返した。
△火力の弱い電気窯で登り窯のような作品を焼くにはどうすればよいのか。登り窯で使うアカマツの薪を電気窯に放り込む、試行錯誤をする晉堂。
△「カラカサのオバケ」(1974年)高さがわずか30cm。「オマンマの塔」(1977年)

◎作るものの大きさも以前のようにむやみに大きなものを作ろうとしない。焼き物は自分の両手で持ち上げられないようなものを作らない方がいい。 彫刻という考えを放棄することによって、自然に無理をしないでものを作る事になった。
△焼き物でも彫刻でもない。「老人の日の老人」(1979年)。晉堂曰く、粘土細工。線だけで刻まれた目と鼻、それは、 晉堂自身の姿です。どの作品も薄くなりました。
◎忘れるだけ忘れてしまい。肝心なものだけ残るだらう。その残ったところを描け。見たすぐ後で描いたら駄目だ。

△酒が好きな晉堂でした。