ブック名 沈黙
著者 遠藤周作
発行元 新潮文庫 価格 499円
チャプタ


キーワード 神、殉教、こころが弱い、こころが強い、生と死、痛み
本の帯
島原の乱(1637年〜8年)が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制のあくまで厳しい日本に潜入したポルトガル司祭ロドリゴは、
日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩し、ついに背教の淵に立たされる・・・。

気になるワード
・フレーズ

・なんのため、こげん責苦ばデウスさまは与えられるとか。パードレ、わしは何も悪いことばしらんとに
・この不気味な静かさのうしろに私は神の沈黙を、神が人々の嘆きの声に腕をこまぬいたまま黙っていられるような気がして・・・
・一人になった時、体が意志とは関係なく震えだしました。怖ろしくないと言えばウソでした。どんな信仰をもっていても、肉体の恐怖は意志とは関係なしに襲ってくるのです。
・人間には生れながらに二種類ある。強い者と弱い者と聖者と平凡な人間と。・・・そして強者はこのような迫害の時代にも信仰のために炎に焼かれ海に沈められることに耐えるだろう。
・むきだしの中庭に白い光が容赦なく照りつけている。真夏の白い光の中で地面に黒い染みがはっきり残っていた。片目の男の死体から流れた血である。さっきと同じように、蝉が乾いた音を立て鳴き続けている。 風はない。さっきと同じように一匹の蝿が自分の顔の周りを鈍い羽音で廻っている。外界は少しも違っていなかった。一人の人間が死んだというのに何も変わらなかった。
・それほどまでに英雄になりたいか。お前が望んでいるのは、本当のひそかな殉教ではなく、虚栄のための死なのか。信徒たちに褒め讃めたたえられ、祈られ、あのパードレは聖者だったと言われたいためなのか。
・彼は遠くこちらに背を向けて役人の言葉を聞いている。ガルペに向って心の中で叫んだ。(転んでいい。いいや転んでならぬ)・・・今から起こる出来事から卑怯にも司祭は眼をそらそうとした。あなたはなぜ黙っているのです。
・神は本当にいるのか。もし神がいなければ幾つも幾つもの海を横切り、この小さな不毛の島に一粒の種を持ち運んできた自分の半生は滑稽だった。
・主よ、あなたは今こそ沈黙を破るべきだ。もう黙っていてはいけぬ。あなたが正であり、善きものであり、愛の存在であることを証明し、あなたが厳としていることを、この地上と人間たちに明示するためにも何かを言わねばいけない。
・「お前は彼等より自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き揚げられる。苦しみから救われる。・・・」
・この足の痛み。その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためこの世に生れ、お前たちの痛さを分かったため十字架を背負ったのだ。
・「切支丹の申す救いはそれとは違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるだけのものではなく、信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。してみるとそこもとや、やはり切支丹の教えを、この日本と申す泥沼の中でいつしか曲げてしまったのであろう」

かってに感想

面白いエッセイをいくつでも書く「狐狸庵先生」とはまったく違う。
芥川賞を受賞した遠藤周作その人なのだ。
人間の本性を氷のごとく冷静な目で見つめ続ける。
江戸時代、島原の乱が治まったころ(1638年)、はるかポルトガルからパードレ(司祭)三人がキリシタン弾圧の続く日本に渡ろうとするところから始まる。
すでに日本では布教活動を続ける司祭はことごとく捕まり、強制的に帰国させされたり、拷問により棄教させられていた。
日本に渡ろうとした三人の司祭は、日本で長年布教活動に貢献のあったフェレイラ司祭がなぜ棄教したのか、あるいはいまだ生きているのか、それを確かめるため、命を省みず渡日する。
物語は、マカオからキリシタンであることをひたすら隠す「キチジロー」を案内役に島原に上陸をこころみるのだ。
そして、上陸に成功しその後、こころの弱者である「キチジロー」というより、信仰に命まで捨て切れない人間と、こころ強き主人公ロドリゴ司祭とのこころの動きとかっとうを最後まで描き続けるのだ。
強き心、強き信仰心、司祭であることの自尊心、おのれの前で次々と処刑される信者を助けられない自分、殉教する司祭仲間の死。
そういったシーンを何度も見せられながら、神に救いを求めるが、何も言わず、沈黙を続ける神に強きこころもたえず揺れるのだ。
最強のキリシタン弾圧者、井上筑後守との出会いは、そのあまりにもゆとりのある態度にこころはさらに揺れる。
さらに、棄教したフェレイラ司祭との再開と司祭から耐えられぬ拷問と棄教をすすめられるのだ。
そして、迫りくる自分への拷問、絶えず聞こえる囚われし信者の苦悶の声、どのシーンにも登場し、いつも告悔(コンヒサン)・許しを請う「キチジロー」にユダのような裏切るを感じる主人公。
やがて、銅板のキリストからの声が聞こえる「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かったため十字架を背負ったのだ」
ついに主人公は転んだ。
転んだ司祭は日本での隔離された生活でこんなことをつぶやく「迫害と拷問の嵐が吹きすさばぬ場所でぬくぬくと布教しているマカオの上司にはわからぬ」と。
ひとのこころを二区分して、簡単に強い弱いで割り切れぬ揺れるこころの動きを見事に描いていると思う。
信仰するこころはここを超越して初めて得られるのだ。私のような中途半端な人間にはとても耐えられないようである。
簡単に神頼みをしたり、ただ単に仏さまに手を合わせるだけしかしない私、多くの日本人には殉教の精神を理解することはむつかしい。
だが、かつて神の国と言われた日本、この国で言う「神への信仰」とはいったいなんだろうかと考えさせられてしまう。

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