今週のおすすめ本


ブック名 死ぬための教養
著者 嵐山光三郎
発行元 新潮新書 価格 780円
チャプタ
はじめに・・・なぜ「死ぬための教養」が必要か
@1987年、45歳。生まれて初めて吐血
A1992年、50歳。人生を一度チャラにする
B1945年、3歳。初めて死にかけた
C1998年、56歳。ふたたび激しい吐血
D2001年、59歳。タクシーに乗って交通事故

キーワード 死ぬ思い、本、死、覚悟、死生観
本の帯(またはカバー裏)
「宗教」なんてもういらない
いかに死ぬか、それが問題だ

気になるワード
・フレーズ

・宗教を信じて死ぬことができる人は、それは信じる力を持った人です。死後の世界を信じる ことができる人は、精神力が強く、パワーがある。
・無常を説いた兼好ですら、本心から来世を信じていたわけではなく「信じよう」と努力 していただけなのです。
・宗教に帰依していない人は、自己の死をどう受け入れていけばいいのでしょうか。 私自身は、来世はない、と考えております。死ねばそれっきり。死は人間の終りで、死んだ 時点ですべてが完結し、あとは無です。

・「生きてる人の世の中」とはまことにうまいことを言ったもので、この世は生者のためだけ に存在するのです。生きているうちだけが人間なのです。
・宗教を信じなくとも、平穏に死を受け入れるためにはどのような知恵をつければいいのか。 この本は読者にむけての処方箋であると同時に、私自身へむけての覚悟でもあるのです。
・「自己の死」を受け入れる力は、宗教ではなくて教養であります。死の意味を知るため に人間は生きているといってもいいのです。

・世界でおこっている戦争や爆破テロ事件に対して、宗教は人々を救済しえたでしょうか。 いまほど「宗教の無力」を思い知らされた時代はないのです。
・長い闘病生活のはてに死ぬ人も多く、いまの時代に求められるのは、自分が死んでいく 覚悟と認識である。来世などあるはずがない。いかなる高僧や哲学者でも、自己の死を うけいれるには力がいる。
・いかにして悠々と死んでいくことが出来るか。いかにして安心し自分の死を受容することが 出来るか。自分を救済しうるのは、使いふるした神様や仏様ではなく、自分自身の教養のみである。

かってに感想
最近は、どうしても死とか、病とか、老い、セカンドライフに関する本に目が向く。
この本の題名は、ずばり「死ぬため」の教養。
死ぬのになぜ教養がいるのか、少し疑問に思うのだが・・・。

帯には、「『宗教」なんてもういらない」とある。
これなのだ、世界各地でいがみ合い戦争まで起して相手を殺さないと済まない宗教。
信ずるものは救われる、相手を殺しても救われるというのがよくわからないのだ私には。

このあたりが、はじめにを読めばわかってくる。
要は死を受け入れるための覚悟なのだ。
宗教を信じられない人たちに必要なのは「教養」なのだと。

死を身近に体験しなくなった私たちは、生に固執しすぎて死を遠ざけてしまっている。
この本には、筆者自身が「死ぬ思い」を体験しながら、その病の床でひも解いたいろいろ な本を紹介している。
筆者は、この死ぬ思いを5度も体験していることにまず驚くのだが・・・。
この本の中では、全部で41冊もの本が紹介されている。ちょっとだけ題名を紹介してみよう。

まずは、「ミニヤコンカ奇跡の生還」一緒に登山した仲間は死に、本人は奇跡的に助かった話。
「死をめぐる対話」、「大往生事典」、「死の淵より」、「人間この未知なるもの」、
「たけしの死ぬための生き方」、「死と愛」、「楢山節考」、「人間らしい死にかた」、
「おだやかな死」、「死ぬ瞬間」、「私の死生観」。

どの本を読めばいい死に方の処方箋が得られるのかわからない。
またどの本を読めば死に対する覚悟できるのか、これもわからない。
死ぬ思いをした人からのメッセージなのだが、体験のない、少ないものには本音を言えばむつかしい。 やはり近親者の死を体験するか、自分自身が死ぬ思いをするしかないと思うのだが。 それはごめん被りたい。

もともと自分に照らしても、「死」「老い」をテーマにした本を読み始めたきっかけは?
やはり、母の長い闘病生活とやがて死を迎えた過程からである。
死に直面しても動じず、こころがやすらぐまでには、まだまだ教養が十分とはいえないようだ。


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