今週のおすすめ本


ブック名 あと千回の晩飯
著者 山田風太郎
発行元 朝日文庫 価格 630円
チャプタ @あと千回の晩飯
A風山房日記
B風来坊随筆
Cあの世の辻から
キーワード キーワード 老い,病,死,ブラックユーモア
本の帯 「長生きはめでたいが,モノには限度というものがある」巧まざるユーモア,独創と卓見にあふれたエッセイ!
気になるワード
・フレーズ
・僕のアイデアでは,ボケ老人を一堂に集めて,集団でトワの眠りについてもらう。毎年8月15日に戦没者追悼式を行う日本武道館か,いやこのセレモニーのために5階建てくらいの森厳豪華きわまる神殿を造ってもいいかもしれない。
・度を越えた長生きはよろしくない。志賀直哉はいう。「不老長寿という。不老で長寿ならいいが,老醜をさらしての長生きはいやだね」
・来世があるなら,それは誰にもあるにちがいない。来世で逢いたいと思う人はむろんあるが,二度と顔を見たくない人はそれに倍してある。こんな来世はふっつりごめんだ。こういうわけで私は,来世はないものと決め込んでいる。卑小な私にないばかりか,あらゆる人間に来世はない。
・だいたい人間が死を恐怖するのは,死に伴う肉体的苦痛,自分の仕事の中断に対する無念,あとに残す愛するものたちへの執着などのほかに,自分だけがゆかねばならぬ一人旅の不安などのためだと思うがね。
・神が女性のほうに多量に与えた忍耐力と復元力は,肉体のみならず精神力にも影響を及ぼした。死に対する態度である。女性は死に対して男よりも平静なものではないか。
・偶然そのものについては,私の考えるところは,私たちが個人的人生あるいはこの世の歴史の半分以上は,必然よりも偶然の分子から成り立っていると思うことしきりである。それを思うと私は一種の無常観に誘われる。
・それにしても十代からタバコは飲み放題,酒も飲み放題で,70過ぎまで肺ガンにも肝硬変にもならないのはいったいどうなっちゃっているんだろう。
・しかし,法律に禁じられていないにせよ,実際に散骨するものはめったにあるまい。愛する人の骨を山野にばらまいて,罪の意識を感じない者がそんなにあろうとは思えないからだ。で,遺骨の始末法としてやはり墓は要る。
かってに感想 実は,この本が単行本で発刊されたとき,その題名「あと千回の晩飯」から,おなじみの不治の病にかかり,その痛ましい闘病生活を記録したものだとかってに思っていた。
だから,本屋で散策する目はすぐ違う本へ移っていたことを覚えている。
であしのフレーズから,そうでないことがわかる。ただ,老いとは死と隣り合わせであることと思いながら,「死は諦念をもって受け入れても,老いが現実のものとなったときはるかに多くの人が,きのうきょうのことと思わなかったと狼狽して迎えるのではあるまいか」
と筆者がいうように,それでは自分の老いていく姿を観察してみようかという,第三者的なエッセイのようである。
筆者はブラックユーモアが極めて好きなようで,まだ全く読んだことはないが,筆者の作品には,「人間臨終図鑑」「半身棺桶」「死言状」と死をテーマにしたものが多いようだ。この手のことを得手としない人・死を遠ざけていたい人にとっては,読み始めから本を投げ出してしまうかもしれない。
痴呆,排泄,老い,病,死に方,葬式だと終末期に向けて経験する言葉のオンパレードは,もちろんきれい好きで若作りのおじさんおばさんも敬遠すること間違いなしなのだ。さらに筆者は老いや死を考えるとき,地球死滅・人類滅亡をあわせて考えるらしい。
これは,ひとりで死ぬのがいやという以外のなにものでもないような気がする。
これは私でも全く同じである。あの有名なノストラダムスの大予言を夢中でずっと読んできて結局何も起こらず,安心しているのか,さらなる大予言を探索している自分がいた,その背景には死ぬなら今生きている人間一緒にというのがあるらしいと気付いている。
といっても,平成6年から8年に朝日新聞に発表されたエッセイだから,知らぬ間に読まれた人は多いのかもしれない。
四部構成で「あと千回の晩飯」以外のチャプタには,同じようなフレーズが出てくるので余り新鮮味はない。
筆者の随筆には,ブラックユーモア的要素が多分にあり,また無神論で無宗教であちらの世界はないという考えが基本にある。
一方で「死は無だ,そう信じないわけにはゆかない。ところがふしぎなことに,そう断定しても心事晴朗でない何かが残るのである。そう断定した口の下からヒョイとまた来世があるようなせりふがもれるし,またどこか来世を思考の中にいれているのを感じる」といったフレーズや散骨ではなく墓が必要とか,ところどころに「愛」という言葉が出てくる。
頭に浮かんでくることを素直に表現しすぎてよくわからない。まあどちらでもいいか。
・老いへもどる