ブック名 | インドへ |
著者 | 横尾忠則 |
発行元 | 文春文庫 | 価格 | 500円 |
チャプタ |
18編の紀行文 @静止した時間・・・自然がぼくの体内に浸透する A子供の頃へ・・・インドの旅は不思議な時間旅行だ B人類の巣窟・・・無数の目がお前は誰だと問う C北斗八星・・・スリナガルの夜空を走った実体は何だったろう D夜明けのラーガ・・・河辺で見る輪廻転生 Eインドがわからない・・・オンボロバス蝿の話 Fなぜぼくはインドへ行くのか・・・ビートルズ、三島さん、道元禅師 G理想境・・・ソノマルグで旅の疲れを覚えた Hぼく自身への旅・・・インドはぼくの幻想の王国だった |
キーワード | 悠悠、時間、死生観、乞食、性愛、自然、動物共存、 |
本の帯 | なし |
気になるワード ・フレーズ | ・とにかくインドの時間は奇妙なのである。一日の時間がぐ〜んと拡大され、ひとつひとつの動きがスローモーション・カメラのように、またヒマラに端を発するガンガーのように悠悠と、時間がインドの大地を地球的時間を無視しながら流れているのである。 ・インドはこのように過去だけではなく、未来、現在、過去が同居し、そして変化、進展しながら大きな輪廻転生のサイクルの中を悠々ととどまることなく流転しているのである。 ・自分が誰であるか?ということがわかれば悩みも苦しみもないはずだが、このことがわからないために多くの人が迷っているのであろう。 ・自分を知ることは、自分から自由になることである。自分のことをよく知らないで、本能の赴くままに行動して自由だと思っている人は、欲望の奴隷に過ぎず真の解脱という意味での自由を知らない人々である。 ・欲望の支配する本能は、どうしても己の肉体を優先し、肉体を守るための物質を崇拝し、この世界を唯物的に見る傾向がある。つまり肉体の死が己の死でありそのことがまた世界の消滅と考える結果である。 ・生あるものは必ず死ぬ、という大自然の摂理を、どのように受け止めればいいのだろう。この道理が解らないためにぼくは苦しんでいるのだろう。 ・水が透明で水底の小石が樹々の間から漏れる陽の光を受けてキラキラと宝石のように輝いている。氷河の溶けた水だろう。まるて゜人工庭園のような美しさだ。思わずバスから降りて素足で小川の中を駆け回りたい衝動にかられた。 ・ストイックになればなるほど、ぼくは自我意識によって苦しめられた。そういう意味では悟りを求めた時点より、さらに自我は粗雑となり悪化していた。しかし、座禅に打ち込むようになってからというものは、なにかしらわだかまりのようなものが、少しずつ剥落していくのを発見した。 ・禅にはヨーガのような科学的な理論もなく、ただ只管打坐という教えに打ち込めばいいのだ。「ただ黙って坐る」ことに専念すればよく、悟るという意識さえも頭から捨てろと教えられた。 ・人間と動物達が共存するインドには、なにか大自然の摂理にかなった原理があるような気がした。人間と動物の間に差別はないが、人間同士の間に差別のあるインドのカースト制をどのように解釈すればいいのか。 |
かってに感想 | インド、メル友にこの地に旅行へ行かれた人がいる。書店で文庫本を漁っていたらこの書「インドへ」があり、頭の隅にあったのだろう、なんとなく読みたくなった。 インドと言えば思い出すのは何だろう。ガンジス川(ガンガーというらしい)、無抵抗主義者ガンジー、タジ・マハール、カースト制度、牛、最近ではIT技術者の供給国。 表紙には、筆者が描いた眉が濃くて目が大きくてふっくらとした顔のインド女性、そして巻頭にはこの旅行記のネタの写真・画像・イラスト等々。 もともと旅行というものはその地を訪れているご本人しか、なかななその感懐に、思い出に浸れないものである。 だからせめて、インド旅行記なのだから、現地の景色と文章が一体になっていれば、少しでも旅行気分が味わえるかもしれなかったのだが。 当時(1977年)の「週刊プレイボーイ誌」掲載された頃は、多分簡単なコメント入りの写真等が同時に掲載されていたのだろう。 もしかしたら、男の悩み相談室に今東光坊主や柴田錬三郎が登場したり、ヌード掲載のプレイボーイ誌は、当時よく買っていたから、読んでいたかもしれない。 二十年以上前だから、いまとなっては残念ながら、記憶の引き出しからは何も出てこない。 筆者は当時幻想的なイラストを描く有名なイラストレーターとして活躍していた。確か同時期筆者による作品で曹洞宗永平寺での修業を描いた「わが座禅修業記」を読んだ記憶がある。 筆者は当時特に、自分とは何かとか死生観に正面から取り組んでいたような気がする。 さらに「死の向こうへ」という作品も読んだ。筆者は死とか生という区分ではなく死は生の単なる延長でしかない。死後の世界、精神世界を説いていた。 自然の中に人間も動物も違和感なく共存する光景や到るところで出合うさまざまな死の光景、インドは人間の根源的な問題−人間はなぜ生まれて、そしてなぜ死んでいかなければならないのか−を投げかけてくる、これに尽きるようだ。 そういえば、メル友の旅行記にも遺体が道路に無頓着に置かれている、とかというフレーズがあった、死は生の隣り合わせにあるのだが、ただ現代の日本・日本人は死を忌み嫌う傾向があり、かなり遠ざけてしまっているのではなかろうか。 おなじはずなのだが、ゆったりと動くインドの時空間、忙しくスピード・効率を求める日本人にはすでに死語となりつつある、こんな言葉でうまく表現されている。「悠々」「感覚世界」「五感が心から離れ」「悠久の流れ」いかがでしょう。そろそろ急ぎ足を時々休めてみてはどうでしょうかいね、お互い。 |