ブック名 こんなふうに死にたい
著者 佐藤愛子
発行元 新潮文庫 価格 340円
チャプタ

@父の死から学んだこと
A屋根の上の不思議な足音
B佐藤家の過激な血脈
Cさまよう霊たちからのメッセージ
D大いなるものの意志
E前世の我が故郷・ウラカワ
F死後の世界を考える
G煩悩の頭剃りかね昼寝する


キーワード 死生観、霊魂、死後の世界、前世
本の帯 北海道の別荘で聞いた、屋根の上の不思議な足音・・・・・
気になるワード
・フレーズ

・苦しむ父を見ると、私は父のために、父が「無の世界」へ消えていく日が早く来ればいい、と思うのだった。
・父の死を看取ってきた私は、人間は死ぬために死を受け容れる覚悟を決めなければならないものだということを知らされた。知らされはしたが、ではどうやって覚悟を決めるかということは考えなかった。
・死にたい死ねばらくになる、死んだ方がマシだと。だが死んだ後も無にはならず、肉体は滅んでも意識は消えずにいつまでもさ迷いつづけることがあるとしたら、安易に自殺など出来ないのである。
・天国があるのか、地獄があるのか、私にはわからない。私にわかることは、肉体は滅んでも人の「意識」は残るらしいということである。霊魂というのは、意識なのだ。
・しかしいずれにしても、我々が知ることが出来るのは現世と来世の境い目へ行くまでであり、その境い目を越えてからのことは誰にもわからないのである。わからないから死後の世界などない、と思い決める人がいる。また何らかの霊的体験を重ねたために、あると思わざるをえない私のような人間もいる。
・年を重ねるに従って、死と自分との距離が縮まっていっていることは自覚している。死はいつか、あるいはもうすぐ確実にやってくる。もしかしたらすぐ隣に来ているのかもしれない。そう思いながら、それでもやっぱり死は遠くにいるのである。
・我々は長命を与えられた。それでいてなかなか枯れない。死は悪であるかのように拒否されている。
・成仏するには、欲望執着、怨み嫉みを剥ぎ落し、自分を清浄していくことだという仏教の訓えは正しいのであろう。だがこの世に生きるということは、おおむねそれに反することなのである。・・・社会の発展も際限のない人間の欲望によってなされてきた。欲望こそが人間が生きる活力の源泉なのである。

かってに感想 いままで買った本の中で価格が一番安くて、分が薄い文庫本である。
筆者自身が父の死や友人の死、霊魂との出会いなどの体験を通して人の死に対する考え方をまとめた実に内容の濃いものである。
最近読んだ老年を生きる筆者のユーモアたっぷりの作品からはとても想像できない。
まずは、父の死から死の受容を学んだが、「私はまだ若く、死は遠方にあった」死を身近に意識するまでには至っていないのだ。
次のチャプタでは、昭和50年に北海道に家を建て住むようになってからの話になるのだが、霊体験など無縁の私を含めた読者には「ラップ音」「天井の足音」などの話しには考えが及ばない。
読み進めるに従い、取材先の宿泊ホテルでの霊体験の内容は身体の変調をきたしたり、次から次へと起こる不思議な現象、内容はさらに濃くなってくる。
この不思議な体験を解決するため「霊能者、美輪明宏」氏に電話で相談、その時に出てくるのは「先祖霊」「前世」の話しになってくるのだが、読みながら筆者の先祖のことを知らない美輪氏になぜ見えてくるのか。
筆者の家には、たまたま先祖にどんな人物がいていつ死んだかなどの情報がある、それらをすべて当てるのだから、それも電話を通じてである。
聞き入るというより、読み込んで、入りこんで、ただただ不思議だと思う。さらに、前世はアイヌの女酋長の生まれ変わりだとなるともう仏教で言うところの因縁を感じざるを得ないのだ。それは霊魂は不滅であり、死後の世界・意識の世界はあると考えれば、不思議さは解決できるのだが、私には体験できない以上、ある域を超えてということにはならないのだ。
人間のすべてがまだ分かっていない、死後の世界もだれもわかっていない以上、ただだれしもそれなりにあるのだが、鈍感なために気づいていないのかもしれないが、私にはない霊感の強いひとには死後の世界との何らかの交信はあるのだと思っている。
筆者はこういった体験を通じて、自分の死生観を形成していっているが、家族の死から自分自身の死を考える機会しかない、霊体験を経験できない人間たちは、どうやって死を受容し、死生観を形成すればいいのか。
いま私は、老いとか死とか仏教に関する多くの本を読んだりしているが、まだまだ死を隣に座らせるだけの覚悟ができていないのだ。
もうひとつの不思議は、第三チャプタ「佐藤家の過激な血脈」のフレーズであり、なぜかというと、それは最近筆者が出した本の題名が「血脈」なのだ。これも因縁か・・・。

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