今週のおすすめ本


ブック名 ふぉん・しいほるとの娘(上)
著者 吉村昭
発行元 新潮文庫 価格 821円
チャプタ 18のチャプタからなる キーワード 出島,オランダ,国禁,蘭学,女性の職業,混血の扱い
本の帯 幕末の長崎で最新の西洋医学を教えて,神のごとく敬われたシーボルト。・・・シーボルトは遊女・其扇を見初め二人の間にお稲が生れるが,その直後日本地図の国外持ち出しなどの策謀が幕府の知ることになり・・・シーボルトは追放されお稲は残される。

気になるワード
・フレーズ
・お滝は金銭に対する執着はきわめて薄く,シーボルトを苛立たせぬためにうなづいてみせた。
・シーボルトの蒐集・・・塾生に論文を提出するように求める。それがすぐれたものであった場合は,免状をあたえて表彰する。その論文を必ずオランダ語で書かせることを条件にすれば,長崎奉行所の役人にも発覚する確率は少なくなる。
・日本近海は鯨が多く,それを求めてアメリカ,イギリスの捕鯨船がしきりに進出してきていた。
・其扇にとってシーボルトは職業上やむを得ず肉体をゆだねる異国の男にすぎなかった。愛情などみじんも感じられず,ただ経済的な恵みをあたえてくれる存在にすぎなかった。
・シーボルトは,吉雄権之助に依頼して1個の小包を江戸に送った。この中には間宮林蔵宛のものもあった。間宮は,シーボルトと深く交わることは幕府の疑惑を招くおそれがあると考え,それをまぬがれるためには自分宛てにおくられたものを,そのまま手をつけずに幕府に差し出すべきだと判断した。
・シーボルト追放・・・この子を産むのではなかった。と彼女は思った。混血児として生れ,生後2年半にして早くも父と別れ運命を背負ったお稲がどのようにして生きてゆくのか想像しただけでも恐ろしかった。
・「母の言うことに従えぬのか。学問などやめるのだ。女らしくするのだ」「・・・なんの用にも立たぬ学問のために大切な灯油を使っては世間様にも申訳が立たぬ」
・お滝は,二宮敬作がお稲を買いかぶっている。・・・「一般の女子とちがう身なのだから学問をつづけさせるべきだと言っているが女には学問で身を立てるなどということはできない。

かってに感想 この小説は,1823年,野母(のも)遠見番所から海面を見る若い遠見番が,はるか先に船影を見つけるところから始まる。
歴史小説の舞台は,鎖国令の続く江戸幕府の封建体制の中,学問を修める人間たちにとって,唯一,海外情報が得られていた長崎である。
港に入ってくるオランダ船,その船でやってくる商館員たちは,妻とも恋人とも一緒に住むこともできず商館のある出島からも一歩も出られない。
そのため,日本行き・唐人行き・オランダ行きに分けられた遊女がその慰めとしてあてがわれていたのだ。
上巻は家の破産で遊女になったお滝(其扇)とシーボルトの出会いから,
主人公のシーボルトとお滝の娘・お稲が,学問を修めたいと母のもとを離れ,シーボルト事件で長崎を追われて,四国宇和島に住むシーボルトのかつての弟子,医家二宮敬作を訪ねるところまでである。
吉村昭の歴史小説の面白さは,歴史の裏側で活躍した主人公を,一番活躍した時代からではなく,活躍の芽が出そうな種のころから始まることである。
最初はなぜこんなところから始まるのだろうと思いながら,読み進めるにしたがいなるほどと思い,そしてどうなるのだろうかもっと先を早く読みたいとこうなるのだ。
筆者の長編作品は,いつもこうなってあっというまに読んでしまう。
人間・人間の一生とはと考えたとき,いつも芥川龍之介の言葉を思い出す。日本で初めての女医お稲という主人公は,女として学問も医者もだめな時代に「運命」「遺伝」「環境」から医者になるべくしてなったのだと。
それはシーボルトとお滝の子供として生まれ,お滝が5才からお稲を寺子屋に行かせたこと,オンランダ語の先生として近所に通詞松村直之助がいたこと,混血でも生きられる時代になっていたこと,お滝再婚後は時次郎の子として14才まで暖かく育てられたこと。
筆者のこの時代の作品として面白いのは,旅立ちから目的地までの行程を描いたところである。上巻ではシーボルトが出島を出て江戸へ着くまで,そしてお稲が長崎から宇和島の二宮宅に着くまでである。
特に宿場の風景や人の出会いの描写は読んでいてあたかも自分もそこにいるような気持ちになれるから不思議である。
そして,読んでいて痛ましかったのはシーボルトの国禁事件である。自分の成果を執拗に求め,その犠牲となった人たちに冷徹なシーボルト,学問上最新情報を得たい学者たちの報われない悲しい終末がそこにはある。
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