<<音楽家小椋佳さんのメッセージ2015.4.24発信>>
<NHKEテレ:団塊スタイル「”今”を生きるとは?」>

 だ れ 

どんなこと


音楽家:
小椋佳さんのメッセージ(生前葬コンサートを終えて)


<はじめに>
@小椋佳(本名:神田紘爾(こうじ)、妻(佳穂里))
A1944年料亭の長男として生まれた。
BNHKホールにて生前葬コンサート:2014年9月12日(金)〜15日(月)
CS席:1万円、A席:8千円
D上記を香典として、お葬式の祭壇をバックにして唄う。

E70歳で生前葬(料金「香典」)コンサートを実行した。
F2000曲の中から100曲を選んで演奏した。

<<1.家族・環境から>>
@父は生業が済んだ後、琵琶(師範)を弾き語っていた。幼いなりに「ああいい歌だな」と思って聴いていた。
A母は江戸っ子気質で男勝りな性格、「ため息なんかおつきじゃないよ」というのが口癖で、終始元気でいないと気がすまない人でした。
B父は仕事から10時頃帰ってきて、私(長男)を夜中から朝方4時頃まで説教(きょうは何をしていたか、時間を無駄にしていないかなど)していた。(小椋の長男談)

C小椋43歳の時、小椋の次男は(中学二年生)、突然、学校で脳梗塞で倒れ、右半身マヒ、言葉と記憶を失った。
Dこの次男の機能回復は、10年以上に及んだ。

E小椋は、その際、次男の耳元で歌を唄ったら、それに反応を示すようになり徐々に機能回復していった、歌を唄っていてよかったと思った。
F僕は、小学生の時、成績は悪いし、運動も大したことはなかったが、中学にいったら、突然優等生になった。よく勉強するようになり、 夜中の12時を過ぎると母が怒鳴り込んできた。「おやめおやめ」と言い、「勉強なんかしていると病気になるからやめろ」と。

G僕は、現在の妻に失恋したと思い、大学三年生の夏休みに司法試験を目指して福島県早稲沢村に民宿していた。(この村は小椋姓が半分) そこに妻が来て一週間同居していた。(柱に「永遠の愛の花咲き初めし所」書き込む。それがいまだに残っている)
Hデビューのころは、表舞台に全然出なかった。(銀行員とシンガーソングライターの二束のワラジ)初めてコンサートをした時には、顔やスタイルに自信がなかったので、「覆面をかぶって」出ようと思った。
I(銀行時代の話)昔部下で現在の女性執行役員は「ルーチンに逃げ込むな、半年に一個でいいから、自分を追い込んで 新しいことをひねり出せ」と言われたことがある。

J57歳で胃を4分の3切除、食べる量が相当に減った。だが、たばこはいまだにやめられない。(40本以上/日)
K哲学をやりすぎて一時期ノイローゼになり、信号機が赤から青に変わっても渡れなかった。どちらの足から踏み出すかどうでも いいことで悩んでいた。

<<2.ライフワーク>>
@日記を中学二年からつけはじめ、前日に明日はこうすると考えるが、いまだにその内容はいつも自分を責めることばかりだった。
Aやがて、その日記の言葉にメロディーをつけて唄うようになった。
B東大法学部卒業間近進路に悩んでいた。寺山修司のラジオ番組に出たことをきっかけにして、寺山主催の芸術家サロンに出入りしていた。 サロンの仲間と話していても、とても僕は芸術で生計をたてることはできないと思い、人間疎外をされる側の大手都市銀行に入った。

C室長や支店長まで昇りつめたのに、役員を前に49歳でなぜ退いたのか、「取締役、常務、専務、副頭取、頭取」膨大なエネルギーを必要とする。 企業内にいるとずっと栄達を求める。「見るべき程の事を見つ」(平家物語第11巻)。これから後の人生を送るのは私の生き方ではない。企業内のことは見終えてしまった。
D退職後、半年して、やり残したことのため、人生を納得させるため、6年間再度大学に入り、哲学を学んだ。

E生前葬以降は、余生と思って新しい人生を生き直している。76歳ぐらいで死にそうな予感がする。
F世の中すべての人が、政治家、弁護士、評論家などそれぞれがその立場の意見しか言わなくなった。すべて組織人(インサイダー)化してしまっている。「個」としての意見を言わなくなった。
G歌作りを生業にするのではない(好きでなくなるから)。あくまでも歌は「好き」でやっている。

H例えば、歌作りの注文を受けて「中年の女性を泣かせるような歌」をと言われてもお断りしてきた。
I死は理不尽に訪れる。約束もなく理由もなく。だから、いつ自分の生命が絶えても、もういいという生活ができているかどうか、ということは、 終始テーマですね。

J家では、白装束(作務衣)で
K芸術家というアウトサイダー(組織外)から、そういう時代を眺め予見して物を表現する。
L人生に所与の意味はない。意味を探していてもない。欲しければ自分で作るしかない。
M1曲作るのに3時間、年間50曲ペース