〜〜 (兄の善意:H13.6.30記)〜〜

6月4日
エミ姉ちゃんへ電話する。
兄に次のようなことを頼まれたらしい。
兄は母の腎臓が弱っていることから、 腎臓透析する人もよくなったという粉末を栄養剤に混ぜて注入して欲しいと。

早速、エミ姉ちゃんはやってみたのだが、うまくまざらず、
粉末がおわりに残ったらしいのだ。
私にはよくわからなくなった。
確かに、母は長く生きてて欲しい。
でも、医師が精一杯の治療を施している。

そこに、兄の善意の行為はほんとにすべきことなのか。
いくら考えても結論は出なかった。
母はもう8年も寝たきりで、自分の体を自分で動かせない。
言葉もほとんどしゃべらなくなった。
これ以上の「生」を母は求めているのだろうか。
でも母はしゃべってくれないのだ。



〜〜 (医師の言葉:H13.7.7記)〜〜

6月9日。入院して1カ月が過ぎた。
それなりに安定している。
相変わらず微熱が続いている。
だから、氷枕は離せない。
肩で息をしている。

話しかけても全くしゃべらない。
担当医がやってきた。
若い医師である。
聴診器を胸に当てる。

「病状は悪いなりに安定していますが、お年がお年ですので、
いつ急変するかはわかりません」の言葉だった。
流動食も順調に終わった。
点滴をやめたので、足の腫れはひいているようだ。



〜〜 (鼻の吸引・退院・続く介護:H13.7.14記)〜〜

6月16日。
入院先でエミ姉ちゃんと鼻の吸引の話になった。
寝たきりになると、喉に痰がおり、自分ではどうしようもなくなる。
鼻から長い管を挿入して吸引する、これが誠に痛いらしい。

看護婦さんも自分でやってみるのだが、とてもじゃない耐えられないそうだ。
だから、自分でうまくできるまで練習するのである。
なぜこの話をするのかというと、

入院直後この吸引で新米の看護婦さんが母の喉を傷つけたらしいのである。
物言わぬ母だからわからぬまま、それをいままで黙っていたのだ。
それを退院前に医師が話をしたのである、
悪いことに一度傷つくととにかくなおりにくいらしい。

6月21日。
母は退院した。
決してよくなったわけではない。
悪いなりの小康状態である。
肺炎はどうやら治ったようである。

でもいつ再発してもおかしくない状態である。
腎臓も悪いなりに働いている。
浮腫んでいた顔も足も普通にもどった。

相変わらずの微熱が続いているため、氷枕は離せない。
夏になれば余計に体温調節がきかないため、クーラーはかかせない。
エミ姉ちゃんの介護はまだ続く。



〜〜 (退院後の栄養剤:H13.7.21記)〜〜

6月23日、母は肩で息をしている。
浮腫みがとれていた顔がまた浮腫んでいる。
退院後の栄養剤の量が増えた。
胃からの栄養剤投与時間がさらに時間を要するようになった。
エミ姉ちゃんは5時起きの投与開始となった。

腎臓が弱くなっているため、その関係のものも含まれているのだ。
医師によれば、腎臓の悪い人は、多少の浮腫みがあったほうがいいという。
そういえば、エミ姉ちゃんからこんな話があった。

8年使用してきた、エアーマットの空気送りが機能しなくなったらしいのだ。
介護も長期になればいろいろあるものだ。
早速、何時も来る介護センターの方に相談したところ、レンタルでいくようすすめられた。



〜〜 (レンタルベッド:H13.7.28記)〜〜

母の介護にエアーマットは欠かせない。
エミ姉ちゃんの介護も8年を過ぎようとしている。
2年目からエアーマットを購入し、いままで使用したわけである。

耐用年数がきていたのか、最近思うようにモーターがエアーを送風できなくなっていた。
訪問介護センターにレンタルベッドをお願いしていた。
6月末そのベッドが届いたのだ。
介護保険で10分の1負担だから、レンタル料は月600円である。
モーターも実に小さく音も実に静かである。



〜〜 (母の寝息:H13.8.4記)〜〜

7月7日、退院してはや二週間以上が過ぎた。
入院先で喉に傷がついてから、その傷は治る見込がなく、 いつも喉にものがかかったような咳をしている。
いつもの町医者先生に聞いても治るとは決して言わない。

肩で息をし、いつも咳き込んでいるせいか、声をかけても全くものを言わない。
和みは、猫のプーニャンの動作である。
最近は、母のベッドの近くにあるタンスの上の箱が定位置になっている。
私たちが訪問すると、尻尾を立てて挨拶に来る。

身体を摺り寄せてくるのだ。
このプーニャンにも母を見守ってもらっているようでもある。



〜〜 (病状悪化再入院:H13.8.11記)〜〜

7月19日
エミ姉ちゃんはいつものように栄養剤を入れるが、水のようなウンチの連続。
さらに悪いのは、小便がほとんど出なくなったのだ。
このような状態の時、訪問してくれた町医者先生からは、 残念ながら何のアドバイスもなかったのである。

午後いつも訪問してくれている「さくらんぼ」の訪問介護センター の方と相談のうえ、いつもの病院とは別の病院へ救急車で入院することとした。
7月20・21日と入院先へ。
一進一退ではあったが、 それなりに落ち着きを取り戻してきてくれていた。



〜〜 (黄泉へ:H13.8.18記)〜〜

私が、病院へ着いたのが午後3時前(7月23日)。
母の息は、潮の満ち干のように一定の呼吸でそれなりに安定していた。
お医者さんの話によると「きょうあすでしょう」ということだった。

兄姉私、義兄、義姉、義妹、叔母、義叔父とのご対面は、生前にすんだ。
と言っても、母本人が喋れる状態ではないので、
生きている息をしている顔を眺めるだけである。
死後の世界は、だれも経験がないので、
母の魂が天井あたりで見ているかもしれない。

脈のリズムが段階的に小さくなり、そのたびに痙攣が起きる。
不慣れな私たちは、そのたびにヘルプボタンを押す。
二度押し、「これは痙攣です」と死を幾度となく見届けている看護婦さんが言う。
三度目の時は、ボタンを押さなかった。
順番に仮設ベッドに寝ながら、こんな状態が、翌朝まで続いていた。

そして、私と姉がうつらうつらしているほんの一瞬、
兄と義兄が見守る中、母は黄泉へ。
担当の医師・看護婦がバタバタと病室に入り、脈拍を確認し、
「ご臨終です」と医師が告げた。

母は私たち兄姉私に8年の寝たきりの生活で、その仲をとりもち、
そして「今、死に方はこうだよ」と教えてくれたのだ。
ただ、私は母の額を撫でながら、ご苦労様の一言をかけ、
「ゆっくりと休んでください」と声にならない言葉で言っていた。

7月24日午前3時46分、母逝去。
寝たきりになって約8年、エミ姉ちゃん、長い間ありがとう。



<母追悼駄句>
母絶えてなにもなきよう朝が来る
母寝顔か細き息に潮満ち干

ボタン押すあふれる涙あわせ泣く
母死して心に入る手軽さよ

うつら寝て母息絶えてたださみし
先生の去りし間に間に母黄泉へ

母焼かれ残りし骨の少なきよ
のどふるえ声なき声を声と聞き

集めてもやっと一壷母の骨
眼をつむり浮かぶは母の立ち姿

長き日々ご苦労様のひとことよ
姉に言う長き介護をありがとう



<満中陰法要母追悼駄句>
墓の下 開けて驚く 大家族
この世の身 軽きおもさを 知らされて

壷持ちて しばし歩くよ 丘の上
法要に 暑さ戻りて 御坊汗

法要に 母いつもだした リポビタン
法要に 姪をからかう 色御坊

母死して 思い出話 懐かしく
お経あげ きょう境に 先祖なり

幼憶え 姉の多さに 目をみはり
母を看た 姉の介護に こうべたれ




〜〜 (母一周忌法要:H14.7.20記)〜〜
はや1年が過ぎた。
暑い一日だった。
母が亡くなった日もうだるような暑さだった。
仏前でも墓前でも御坊の頭に玉の汗でございました。

人間は忘れるから生きていられるというが、まさにその通りである。
初七日、49日と親族が会えば、母の思い出がわくように出ていたのだが、
不思議と母の話題に移っても、すぐにとぎれてしまうのである。
親の見送りが済み、今度は私たちが「生き方の総仕上げ」する番なのだ。

<母一周忌法要追悼駄句>
年取らぬ 母の遺影に 笑みを見て
はや歳を 重ねて想う 彼岸かな

此岸に 貪るものの つきる日の
目連の 御坊の話に われ想う 母いずこへ もう住みよるか

法要の つきぬ想いに 手を合せ
人憶え 忘るる日々の 早きこと

盆踊り 由来を知りて 一知識



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