〜 (介護体制の確立パート2(町医者K先生)H.9.8.9記)〜〜

母が体が不調の時、今の町医者先生のところへよく通院していた。
そういったいきさつからK先生に来ていただくようになった。
K先生の訪問を受けても、母は昔お世話になった「O先生お世話になります」という。

このO先生というのは、母が社宅に住んでいた頃、すぐ隣に会社の診療所があったことから、 よく私たちが病気の時にお世話になったらしい。
いまでも、記憶に深く刻まれているようである。
余りしゃべらなくなった今年からは、 「先生お世話になります」「ありがとうございます」としか言わなくなったので、 エミ姉ちゃんも最近ほっとしている。

K先生は週1回金曜日、看護婦さんを連れて軽四輪を自ら運転してやってくる。
「おばあちゃん、どう……」と言って栄養注射をするのである。
この半年、特に血管が細くなったのか注射の名人と言われたK先生も、 老眼のためかどうかは知らないが、母の「痛い痛い」の声の回数もさる事ながら、 注射の跡が朽ちたようになって、実に痛々しいのである。

この注射1本で500円を支払う。
エミ姉ちゃんはこの先生によく気を遣う、母の緊急事態の時、この先生に期待しているから、 中元、歳暮………、本当にこんなことはをしないといけないのだろうかと疑問に思うが。




〜〜 (介護体制の確立パート3(訪問看護)H.9.8.16記)〜〜

母のところには週1回訪問看護ステーションから1名の看護婦さんがやってくる。
月4回のサービスで利用料1,000円、交通費2,000円を支払うのである。
看護内容は、30分程度で床擦れ治療、下の世話、小水管の消毒等をしてくれる。

エミ姉ちゃんは当初このようなサービスは受けていなかった。
寝たきり1年後、床擦れの悪化から、〇〇病院を入退院後、赤旗がついてきたが、 この病院が世話をしてくれたのである。

エミ姉ちゃんが助かるのは、入浴サービスである。
当初特別養護老人ホームの入浴サービスを利用していたが、 MRSAが出るからといって、いつも最後の入浴となる。
福祉事務所に問い合わせると、差別をしているわけではないというが、

家族からすれば同等の扱いをして欲しいと考えるのが当たり前だと思う。
訪問看護でも風呂(自宅の)へ入れてくれるとのことを訪問看護の看護婦さんから聞き、 早速切り替えた。
エミ姉ちゃんは、気配りから訪問看護の方にも付け届けをする。
公共のものを利用しても、このあたりの気配りをしないで、 快くサービスがしてもらえるような時代はいつくるのだろうか。




〜〜 (介護体制の確立パート4(歯科治療)H9.8.23記)〜〜

人間は口から物を食べ、その食べ物からカロリーを吸収して、いらないものを排泄する。
寝たきりが長くなり、体力がなくなってくると口で咀嚼すること、 咀嚼したものを飲み込むことがむつかしくなる。
いよいよできなくなると鼻から栄養分を流動食として流し込むのである。

母が3か月間入院し、同院内で病室を移された部屋には、何人かの老婆がこういった状態で、 言葉にならない喘ぎ声をたえず出していた。
その姿を見舞いに訪れるたびに、3カ月間見ることとなった。

この部屋ではやたらとブザーを押して看護婦さんを呼ぶが、 忙しいナースは少々のナースコールではやってこない。
そうなると自分の見舞い客でなくてもこれをしてくれないか、 あれをしてくれないかと言うのである。

エミ姉ちゃんは、親切心からベッドを起こしてあげると、 古参の見舞い客がそんなことをしてはいけない、 甘えてばかりになるから、いらんおせっかいはやめなさいと言われたのである。
かなりテーマとはそれたが、口からとにかく物が入るということは、 口をきれいにしておかないとすべての菌は口から入ってくると、 月1回訪問治療に来てくれる歯科医師が言ったとか。

年を取ると特に口から菌が入り、肺炎になるケースが多いという。
月1回の歯科治療費の支払いは、たったの300円だが、定期的に郵送されてくる 国民保険の明細によると、医者に保険から支払われる額は、?万円であり、さすがにびっくりしたとエミ姉ちゃんが言っていた。
それも歯磨きをしてもらうだけなのだが・・・。




〜 〜 (母の病気パート1H9.8.30記)〜〜

母は病気をするために生まれてきたようなところがある。
小学生の頃だと思う。
母が自分たちと寝床を共にしない。
そんな状況がしばらく続き、さびしい思いをしていたことを記憶している。

この時の病気は急性蓄膿の大手術でいまだに母の鼻のところには手術の跡が残っている。
この自分が鼻の病気をしたことから、エミ姉ちゃんと私が小さい頃、鼻を患っていたとき、 何度も医者へ連れていってくれたし、いまから思えば、それは、 自分で苦労しているから余計に早く直してあげたいという母心からだったのだろう。

その頃の子供心には耳鼻科が家から遠く、はっきり言って退屈だったのを覚えている。
現在ほとんど鼻の不具合はないので、今から考えれば、母への感謝の気持ちでいっぱいである。
元へ話を戻すが、エミ姉ちゃんの話では、この時父は一切病院に見舞いに行かず、 手術の日は自分の好きな映画を見に行っていたとか。
父には父の言い分があろうが、死んでいないからもう闇の中である。

父は養子で広島からやってきた。
母の父はランドリーを経営していた。
借地ではあったが、母は結構裕福な生活をしていたお嬢様であったとか。

しかしながら、太平洋戦争のときの岡山大空襲ですべて焼かれ、
バラック生活となったのだ。
母が息災のとき、よく話をしてくれていたことに、こんな話がある。
終戦前の岡山大空襲から落命を免れた話だ。

母の住むランドリーの近くには旭川があり、当時旭川には材木が浮かべられていた。
大空襲の際、(父は戦争へ出征中)祖父とその材木の下に体全体をつけ、 顔だけを出すという状態で落命は免れたのだと・・・。
この時母が、落命していれば私の存在はなかったのである。




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