<<1.はじめに>>
@上を向いた皿のような顔、胴体にはくねくね波打つ模様(筒形土偶「画像1」)。何か思い出しませんか?
そうあの「太陽の塔」です。岡本太郎が太陽をモチーフに作った大阪万博のモニュメント(「画像2」)です。
A岡本太郎縄文の造形を日本を代表する芸術と評価し、強く影響を受けました。
B縄文土器の荒々しい不協和な形態、紋様に心構えなしにふれると、誰もがドギッとする。
(岡本太郎「四次元との対話」−縄文土器論)
C岡本太郎を魅了した縄文の造形。最近そのテーマは太陽ではなく意外なものだったという説が囁かれているのです。
<<2.世界でが縄文時代に注目>>
@いま世界が縄文に注目しています。(大英博物館「画像3」)怖ろしく古くて、とても複雑でそして美しいものです。
A土器としては人類最古、一万年以上前から作られてきた不思議な造形。しかもそこには大きな
謎が残されています。
B出土する土偶は、ほとんどがこわれているのです。一体なぜ
Cしかも縄文土器の多くは底が尖り、立てることができません。これらの形に込められた縄文人の「切なる願い」とは。
縄文アートに刻まれた様々な暗号を巡って「月」「縄目」「へび」「正中線」「涙」専門家の意見は分かれています。
考古学者は「月を眺めている」。美術家は「大地の子宮」、「大地の母体」。
D一万年もの間、人々は何を祈ったのか?遥かなる謎にせまります。今日の舞台は縄文時代。
私たちの先祖が地面を掘りくぼめた竪穴住居に住んでいた時代(AC1万1千年〜AC4千年)
E世界では農耕生活が始まっていた。紀元前6千年ころ、さらに紀元前4千年ごろには
「メソポタミア」「エジプト」「中国」「インダス」四大文明が誕生。文字や貨幣が使われ始めました。
Fところが、世界でも縄文の人々だけは、一万年変わることなく狩猟や採集を基盤とした持続的な生活を送っていたといいます
G縄文文化は、世界に先駆けて土器を作り始めた文化。そのほかにも始まって間もない頃に漆製品を発明します。縄文文化は、狩猟・漁労・採集を生業としていました。
自然の恵みを受けながら、一万年間安定した生活を送ります。こういったことが、今我々が生きる自然の保護と重なる部分があって
注目されている。(国立博物館:品川研究員)
H世界的にみても珍しい縄文時代、どうして私たちの祖先は一万年変らない生活を送ったのか?その手がかりこそ、土偶や土器。縄文人が残した
造形物です。
Iまずは、土偶のカタチをヒントに縄文時代の日本人の姿に迫ってみましょう。
<<3.エピソード1:土偶に秘められた願い>>
@AC2000〜1000年。ハート形土偶(「画像4」群馬・東吾妻町:郷原出土)
くびれたウェスト。きれいに整ったハート形の顔。よく見るとその先には口まで表現されています。
A一方こちらは実にスマートなシルエット。縄文の女神(「画像5」山形・舟形町:西前遺跡)
AC3000〜2000年。四角い両足は丸みを帯びた腰に滑らかに繋がっています。厚みを
極限までそぎ落とした結果、かえってグラマラスに見えます。
Bそれとは対照的なふくよかスタイル。縄文のビーナス(「画像6」長野・茅野、棚田遺跡)
AC3000〜2000年。どっしりとした足とお尻とお腹が抜群の安定感を醸し出しています「画像7」。
帽子なのか少し不思議な頭の表現です。
Cそしてこれらの土偶、胸や腰、お尻の特徴から女性を表すと言われています。だとすれば
一万年前の女性の姿を土偶からイメージできるのではないでしょうか。
D今回専門家の協力を得て再現に挑みました。まずは髪型。私たちが参考にした土偶は三つです。
女性と考えられる人物像の頭にいずれも髪を結ったという表現が合います。
板状土偶(青森、三内丸山遺跡)みみずく土偶(埼玉、滝馬室遺跡)漆塗土偶(福島、荒屋敷遺跡)「画像8」
E普段は祇園の舞妓さんの髪を結う結髪師が古代の服飾専門家の監修のもと髪を結います。
F奮闘すること二時間。編み上げたおさげ髪を巧みに組み合わせた立体的なスタイル。こちらの髪型は真ん中で分けた髪を横で
まとめて左右にボリュームを出します「画像9.10」。後の時代(平安時代、飛鳥時代)の髪型と比べると
スポーティでより動きやすそうです「画像11.12.13」。
G土偶の頭には髪の他にも木ぐしが表現されています。実際当時の墓から真っ赤な漆が塗られた逸品が出土されています。「画像14.15」
するとまとめた髪を高く盛り上げ、櫛をいくつか刺したスタイルが復元できます。日常の装いというより何か特別な日のハレの姿かもしれません。「画像16」
H続いてアクセサリー、土偶には耳に丸い形が表現されています。(土製耳飾り、群馬そう東村:茅野遺跡)
現在のピアスと思われます。事実墓からは女性が耳につけた状態で耳飾りが出土します。
つまり縄文時代の女性は直径5cmほどのピアスをしていたのです。大きさからすると幼い頃から耳に穴を開け、その穴を少しずつ
広げていったのでしょう「画像17.18」。さらに土偶からはメイクが、服の模様さえ推測することができます。
I当時使われていた顔料は、赤いベンガラ。塗ってみると、土偶から復元した縄文時代の女性は、
実に華やかな姿になりました。
J特別な日とは何か?そのヒントが土偶にあります。例えば有名な「遮光器土偶」(「画像21」青森・つがる:亀ヶ丘遺跡)。紀元前1000〜400年。
縄文人が遭遇した宇宙人?という珍説も。
Kこちらは「ポーズ土偶」(「画像22」山梨・南アルプス:鋳物師屋遺跡)紀元前3000〜2000年。
三本の指をお腹におき、なんだか得意げに見えます。ユーモラスな表情はマスクをしたプロレスラー?のようです。
Lそして「合掌土偶」(「画像23」青森・八戸:風張T遺跡)。紀元前2000〜1000年。
少し奇妙な図形ですが、膨らんだ胸、正中線、女性器。実はこれらの土偶は女性を表現しています。
M土偶に表現されているのは「ハレの日」の女性の姿。みな妊娠しているとすると、縄文時代の人々の妊娠した女性に対する
特別な思いが伝わってきます。
N会場で大変ユニークなものを見つけました。土器と土偶が合体したような不思議な造形です。
「顔面把手付深鉢形土器」(「画像24」山梨・北杜:津金御所前遺跡)紀元前3000〜2000年。
縁の顔は母親、側面の顔は子。つまりこれは出産の瞬間を捉えた光景。縄文の人たちの切なる思いが込められている。
O当時は医療や衛生環境が悪くそのため子供だけではなくて、時には母親も命を失うことがあった。
あえて出産の場面を造形として表し、安産や子孫繁栄を祈った。(東京国立博物館:品川研究員)
P縄文人の心に迫るもう一つの手がかりがこうした土器です。そこにはどんなメッセージが込められているのでしょうか。
<京都橘大学、猪熊教授>
@土偶は左右対称でシンメトリーですが、髪型も左右対称ですね。
Aすき櫛はないし緒(髪を止める紐)もありません。木の皮を紐のように使ったかどうか。
B縄文人の女性はおしゃれといったらいいんでしょうか。そういったものに関心があったんだろうと思います。
この髪型についてはあまりにも複雑ですので、何人かの集団がいたのか、あるいは専門の
こういうスペシャリストがいたのか考えられます。
C日常的にはこういう格好をして歩いていたというのは考えにくい。特別な日であったろうと。
<土偶再現:猪風来美術館「画像25」「画像30」「画像31」>
@土偶は当時どのようにして作られていたのでしょうか?粘土を積み上げ内部に空間を作ります「画像26」。
火が通りやすいとも、子宮を表しているとも言われています。次に表面に縄をころがします「画像27」。
縄目模様が生まれます。その後、土偶を磨き上げながら「画像28」、1カ月自然乾燥させます「画像29」。
A高い温度の窯がない時代、土器や土偶は野焼で作りました。割れないために温度管理には、
細心の注意が必要です。焚火は最初遠巻きに段々近づけていきます。縄文の人の思い出を乗せた
土偶はこうして完成します。
<<4.エピソード2:不思議なカタチ、土器の謎>>
@今回の特別展では、岡本太郎が魅せられたという土器が展示されています。
「火焔型土器」(新潟・十日町:笹山遺跡)紀元前3000〜2000年。
複雑な飾りが燃え上がる炎をイメージしているように見えます。ただし、こうした土器は沢山作られた日常の品、煮炊き用土鍋。
でも、多くは頭でっかちで水や食材を入れれば動かせないほどの重さ。料理を食べるにも飾りが邪魔になったりして、
少し大変そうです。縄文人はなぜ使い勝手の悪い形に作ったのでしょう?
Aこの謎をさらに深めるのが、火焔型土器よりもさらに古い時代の土器、底が尖っています。
「微隆起線文土器」(「画像40」青森・六ヶ所村:表館(1)遺跡)。紀元前11000〜7000年。
世界でも最古クラスの土器(自立できない土器の謎)地面に立てるならわざわざ穴を掘って埋めたかもしれません。(なぜ生まれたか
よくわかっていない)ところが、こういった土器は全国で出土し、考古学者を悩ませてきました。
B<考古学大島教授>尖り型土器のカギを見つけたと言います。縄文人は鍋だとかそういう意識ではなく、何か特別な意識があって作って
いるんじゃないか?要するに再生のシンボルとして。再生につながるんだという考え方を色々な形に表現すると、様々な土器につながっていく。
C土器で再生?を祈るというのはどういうことなのでしょうか。そのヒントとなるもの。
「神像筒形土器」(「画像41」長野・富士見町:藤内遺跡)。紀元前3000〜2000年。
側面にはまるでエジプトのファラオ像?のようなデザイン。逆三角形の背中のようなデザインですが、
列記とした日本の造形です。
D小松・井戸尻考古館長は「土器のモチーフは月」だと言います。小松さんが着目するのは人物像の
反対側。土器の縁に何やら大きな穴。これが月の表現だと言います。滴形の穴は新月、丸い穴は
満月なんだそうです。「一晩ごとに光が満ちていく。やがて満月になる。満月になった後、一晩ごとに
やせ衰えて東の明け方の空に消えてしまう。三日の闇の夜を超えると、180度、時間と空間
を飛び越えて東の明け方に消えたものが、西の夕空に蘇るわけです。月の姿を表している」
E縄文人たちは月の満ち欠けに自らの一生を重ね合わせていたのかもしれません。さらに29.5日という
満ち欠けの周期もなじみ深いものでした。札幌医大大島教授「女性は29.5日で生理周期を
迎えている。実は同じ周期をとっているのは月の満ち欠け。生というサイクルを持っているのは
月だというのは誰もが理解した」「半人半蛙文有孔鍔付土器」(「画像42」長野・富士見町:藤内遺跡)。
確かに月のデザインは縄文土器の様々な場所に表現されています「蛇文装飾深鉢」
(長野・富士見町:藤内遺跡)。
縄文の造形のテーマには「月」が入る。これを最初に指摘したのは
、ドイツ人の日本学者ネリー・ナウマンでした。「永遠に循環する月の死と復活によって、
月はこの世あるいは別世界での再生を保証するものとなった」月と同じように人もあらゆる命
も再生を繰り返している。
F土器からも再生をよみとることができます。あの満ち欠けする月を裏から見ると何かに似ていると思いませんか?
そうへびのとぐろです。実際土器のデザインにはヘビの姿をかたどったものが沢山あります。
「蛇体把手付き深鉢」(「画像43」長野・茅野:尖石遺跡)「野椎文鉢」(「画像44」長野・茅野:下原遺跡)
Gさらに縄文という言葉。縄目の文様のことですが、実はこれ「蛇の鱗」を表すとも言われています。なぜ縄文人は蛇を
好んだのでしょうか。それは蛇の特異な生態に理由があります。死んだように固くなった後、
脱皮して動き出したり、交尾の時には2・3匹がからまりあって数時間離れなかったり、
こうした不思議な生命力を持つ蛇は、再生の象徴だった。
大島教授はそう考えました。
「まさに再生あるいは誕生の象徴として蛇を登場させたのではないか。古い神社に行くと
鳥居の注連縄にまさに蛇を使っているところがある。もとを正せばやはりそれは再生のシンボル
として私たちきちっと理解していた」
H土器に表現された月や蛇は再生のシンボルだったとして、あの尖り底「画像45」には一体どんな意味が
あるのでしょうか。「私がある時に気づいたのは月の水を溜める容器ではないか」
満月の夜は「大潮」最も潮の満ち干が大きくなります。月は水と関わっていることを縄文人も知って
いたはずです。
美しい満月が輝く夜、空気中の水分が夜露となってよく葉っぱにつきます。
縄文人はこの夜露を「月の水」と考え、再生の力があるとみなした。「縄文人にとっては
切実な問題で、あの夜露がどこから来るんだろうと、やっぱり考えた。これはあくまでも
イメージですけれども夜露を尖底土器の尖り底に集めたい」
I縄文時代には「月の水」を得ようとする儀式が行われていた。その時「月の水」を貯めるため、
あの形の土器を地面に埋めた。大島さんはそう考えた。そして土偶にもまた月の祈りが込められていると言います。
「土偶もそう全部再生とか誕生をイメージする。ほとんどの土偶が正面を向いているか、
むしろ正面より上を向いていたり、真上を向いている。月を眺めているというふうに思っています。
再生ということを持ち出すと土偶も土器も、縄文時代の人たちが作ったいろんなものが解釈できる」
再生を祈ること一万年。世界での特異な文化が続いたのは、縄文の人たちがただ再生を繰り返す
ことを願い続けたからかもしれません。
<<5.エピソード3:破壊された土偶と大地>>
@(東京国立博物館:品川研究員)「これまで縄文時代の土偶2万点ほど見つかっている。
実は完全な形で見つかっているのは一割もしくは5%に満たない。「壊れた土偶」
(「画像46」山梨・笛吹:釈迦堂遺跡出土)ほとんどがバラバラ。村の家であったり、捨て場であったり、実は
いろんなところから土偶が見つかる。土偶の使い方、役割についてはまだ謎が沢山ある。
A岡山県新見市の山間に縄文人のこころに迫ろうとしている人がいる。竪穴住居を作り、縄文時代
の暮らしを再現しています。(縄文造形家:猪風来さん)縄文時代に魅せられ、美の再現に40年に渡って
取り組んできた猪風来さん。縄文のこころに迫るために自給自足の生活を実践する徹底ぶりです。
「尖型の土器はかまどの圧に押し込めばむしろ煮炊きに適している。「縄文人は自然の理に
合わせて土器も作っている。下がペタンとしているより尖っているほうが動かない。安定性がある」
Bでは他の土器や土偶は、何のために作られたのでしょうか。「狩猟民族にとっては、獲物は
同時に神聖な霊を持つ神である。それはまた激烈な闘争の相手であり、敵なのだ。ところが、
彼らはそれを糧にして生きている」(岡本太郎)。縄文人たちが美に込めたのは、日々の糧
、自然への崇拝だというのです。
猪風来さんは縄文に向き合う中でさらに考えを深めました。
日本人の崇拝の中心は自然の中でも日々の糧や土器の材料をもたらす。「大地」である。
「大地の子宮であり大地の母体である。一度食べた命たちはもう一度大地の底から湧きたって、
命がこの世に溢れるようにしていただきたい」大地を崇拝しているとすれば土偶が壊され埋められていたことも理解できる。
「村人が自分たちの願い、思い、祈りを土偶に託してこれを作った。自分たちの孫や息子が命を
咲かしていくように。そういう願いをひとつひとつ分割する。だから土偶を破壊したのではなく、願いを分割した。村人の願いというものを
ひとつひとつ要所に埋めて、自分たちみんなが恵みを受けられるように、そういうふうに思って
作ったり分割した」ばらばらに埋められていた土偶、それは命をずっと咲かせていたいという再生
の願いを人々は共に描いていた証かもしれません。
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