今週のおすすめ本


ブック名 いのちと生きる
著者 重兼芳子
発行元 中央公論社 価格 1260円
チャプタ @不意の知らせ
A肝臓に影が・・・
B夫の狼狽
C長女の決断
D羽田の別れ
E札幌の病院で
F病名を知らない人々
G東京からの見舞い
H手術前の検査
I夫の葬儀
J若き日の出会い
K生死の引き綱
L突然の麻痺
M外泊の夜と朝
N大地に癒されて
O第九を唱う
キーワード 死に仕度、いのち
本の帯 突然の告知、手術、夫の急死、ホスピス設立に力を注いできた著者が自らの闘病 体験のなかでみつめた生と死。いのちとは何かを問う感動の記録
気になるワード
・フレーズ
・夫の臨終の際に,44年間も連れ添ったわたしが傍にいなかった,それは44年間の夫婦生活が幻かあるいは錯覚で成り立っていたからなのか。わたしは夫にとって必要な人間だと思いこんでいたが,夫の死の床で必要とされていなかった。
・生を断たれるかもしれない予感は,確かに恐怖に満ちたものであるけれど,ホスピスで逝った人たちは,決して恐怖におののいてはいなかった。此岸から彼岸へ渡るとき,此岸への未練や執着を示さなかった。ホスピスで暮らしたわたしの先達と同じ道を辿ることに一抹の安らぎと慰めを感じるのだ。わたしは知らぬ間に自分の死の準備をしていたのだろう。
・ようやく気持の整理がついたわたしは,夫への思いやりを持つ余裕ができた。夫がすでに老いの坂を降りつつあることを現実として受け止めざるを得ない。老いるとはわが身だけに感心が集中してしまうことである.
・夫も長男も企業社会の中では活躍しているが,わたしの病気に直面しては意外に脆い側面をさらしている。頼りにしたい男手であるにもかかわらず,当分は頼りにならないことを知らされた。
・肉体的特徴はデータによって克明に明らかになってゆくが,それに反比例して個人的特徴は隠されていく。個性,人生観,価値観あるいはわたしをわたしたらしめている人間性など,一切がデータの外に振り落とされてゆく。肉体と精神は完全に分離されて,肉体のみがクローズアップされてゆくのである。
・年齢によって人生の量を測るとはなんと愚かなことだろうと自分をたしなめながら,眼は死者の年齢を追うのである。手術が成功し,そのあとのトラブルもどうにか鎮静したにもかかわらず,わたしの意識下には死への恐れがつきまとっている。
・いのちを軽く、はすかいの視線で眺めることによって、生への執着をごまかそうとしていたのだろう。
かってに感想  最近,書店へ行くと,どうしても死生観とか,人生論を書いた本に目がゆく。この作品は,テレビで筆者のことが紹介されていたことと,題名にひかれ是非読んでみたいと思った本である。
 人は生について,ほとんど意識することなく此岸にやってくる。
 また,それぞれに寿命というものがあり,死は突然であったり,徐々にであったり,だれもその選択はできないが,かならずやってくる。
 平和な今の時代,人は死を意識すればできるはずなのに,自分には未だ関係ないことのように,振る舞っている。ましてや日常生活の中で考える人は少ない。
 そんな中で,ある一定の年齢を超えた女性たちには,できるかぎり長生きをし,嫁の世話にならず,苦しまず,大往生による彼岸への道を期待する人は多くいる。
 筆者は,長年ホスピス医療をすすめるボランティア活動の責任者をつとめ,日ごろから末期癌の人や癌で家族をなくした人たちの話を聞く立場にあった。その筆者でさえ,自らの癌宣告を受け,戸惑う自分をおさえきれず,その状況を夫に話す。夫はその話にうろたえどう対処していいかわからない。そんなドタバタの見苦しいとも思える話が,包み隠さず描写されている。
 妻の癌宣告に戸惑っていた夫,死を筆者以上に怖れ,日ごろから健康に気を遣いすぎるほど気を遣っていた夫,手術入院を元気に見送った夫は,筆者の手術中に急病で入院し,妻に看取られることなく突然に彼岸へ逝ってしまう。
 「いいことは段々やってくるが,悪いことは突然にやってくる」と言っていた人がいるが,本当に運命とは全くわからない。
 私のようにいまだ死というものの恐怖感がぬぐえないものにとって,筆者とその夫が死と生の間でもがく姿を見せられると少しほっとしてくる。
 もがく姿を見せるその一方で,同じ病院内にいる病名を知らされない患者の生の姿が描写され,その患者を冷静な眼で見つめている筆者がいる。
 癌宣告そして大手術,更に夫の急死,こころの準備のないまま,たじろぐ筆者。これだけ続けばだれしもすぐには立ち上がれないのが当然だと思うのだが。
 夫の死を,看取ることができなかった筆者は,44年間という夫との生活はなんだったのかと自分を責め,夫の死が受容できず,この心理的な圧迫が術後の快復を遅らせてしまう。
 このような逆境にありながら,筆者が再起を果たす感動的なシーン−そんな母を見かねた長女は,看護婦と相談のうえ,医者の反対を押し切って母を自宅に連れ帰り,父の葬式写真のアルバムを見せ,夫の死の受容を自宅でさせ,見事に「生きよう」という気持ちを蘇らせる−と蘇った筆者は世話になった人たちへの手紙を一気に書き上げ,車椅子での一時退院から自分の足で病院に帰り,医師や看護婦たちからの温かい歓迎のシーンは,思わず涙がこみ上げてきた。
 生きようという自らのこだわりがないかぎり、いのちは細く消え入るだけなのだ。「いのちを生きる」というのは自ら生をかちとるそういうことなのだと知った。
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